妖しく君は現れる
街の跡地には馬車に乗れば半日ほどで到着するらしい。
なので聖都では二日分の食料を買う。ここまでの旅路でアレウスとクラリエの靴底が擦り減ってしまったため買い直す。また、ギルドでアベリアとジュリアンは外套を預けたので聖都で羽織ることの許される外套を購入した。靴の慣らしは必要であったが急ぎではない。馬を休ませる時間中に幌から出て、軽く外を歩くだけで済ませた。なにか問題があるとすれば到着時刻だろう。『悪魔』を避けるためには可能な限り夜は出歩かないことが望ましい。しかし馬車で街の跡地に着いた頃には日が落ち切ってしまっていた。馭者には明後日の朝には迎えに来てもらいたい旨を伝えてはおいたが良い返事はされなかった。朝に跡地に着くためには深夜に馬を走らせなければならない。いくら街の跡地を聖職者によって浄化されていてもそこで起きた悲劇や惨劇は記録として永遠に残り続ける。そこに噂が加われば近寄りたくもなくなる。馭者はきっと記録という事実と噂という虚実が入り混じった跡地近辺で、それも夜には近寄りたくないのだ。そうやって考えてみると到着後、アレウスたちを下ろしてから馭者が逃げるように馬を走らせたことにも納得ができる。
「ここ、本当に街だったんですかね……? なんだか、敵国から攻撃を受けた砦跡みたいな感じなんですけど」
この街がどのように呼ばれていたのかは分からない。アベリアがギルドから受け取った地図にも街の名は記されていなかった。ただ『跡地』という文字だけだった。この点から連合にとって、この街で起こった出来事は街の名ごと抹消したいことであることが窺い知れる。年月を掛ければ、いずれ街の名を記憶している者も死に、歴史から完全に消え去るのだ。
街を守るため城塞のようにこさえられた城壁はその多くが崩れ、僅かな震動でも軽い崩落が起きそうなほどに危うい。近付くのは控えなければならないだろう。そしてもはや形すら残っていない街の門があったと思われるところを潜れば、その内部は更に酷い光景が広がっている。
燃え尽きた木々、所々が欠け落ちた家屋、あちこちに残るなにか強い衝撃によって空けられたのであろう穴という穴。廃屋に突き刺さっている矢には血濡れの布切れが残り、貴族の屋敷であろう建築物は破壊の限りが尽くされている。錆びた剣、折れた鎗、欠けた斧といった武器は未だあちらこちらに散らばり、草木は荒廃によってか完全に枯れ果てている。
そんな中で、理路整然と並んでいる石畳だけが辛うじて街であったことを証明している。
「穴の中に岩石があったんだけど、攻城戦でもやったのかな。投石機で飛ばしているようにしか見えないんだけど」
「壁外から攻撃を仕掛けたんだろうな。結果的に街を更に破壊することになったとしても、蔓延っていた骸骨兵を少しでも減らしたかったのが分かる。冒険者もなにも考えずに大量の骸骨兵に突撃はできないだろ」
クラリエは所々にある穴を覗き込んでは困惑の色を浮かべていたが、アレウスの推測を聞いて小さく「そっかぁ……」と呟いた。
「周囲に魔物の気配はないな。ギルドで言っていた通り、骸骨兵は全て祓われたように見える」
「霊的存在の気配もないよ。これなら夜に調査しても大丈夫かな」
ガラハとアベリアの報告を受けつつ、アレウスは思案する。この調査を早々に切り上げるためにはギルドにとって有益な情報を獲得すること。来て早々に調査に入れば、その分だけ街の崩壊に繋がる糸口を見つけるのが早まる。ただし、それはこちらにとって都合良く情報が発見できればのことだ。調査が難航すればアレウスたちは長時間、危険な夜での活動を行うことになる。
「午後九時までにしよう。その時間になったら諦めて、聖職者たちが過ごしている家屋に向かう。祓魔の術を使えない僕たちは彼らを拠り所にするしかないから」
この国には神官がいない。おかげで聖職者に縋ることに苛立たないし、腹も立たない。その一点だけはアレウスの思考と合う。だがこのたった一つの長所ではアレウスが見てきた連合の凄まじいまでの短所は打ち消せない。いくら神官がいなくとも、こんな国で暮らすのは嫌である。
「あと、いつもならクラリエには単独行動を頼むんだけど今回は固まって動く。『悪魔』がいるかもしれないところで一人切りにさせるのは、憑かせる隙を与えるようなものだ」
「そうだねぇ、あたしも賛成。今はみんなといるから『悪魔』に囁かれたって大丈夫だと思えるけど、一人切りのときに感じる孤独のせいで掻き乱されそうだから」
「固まって動けば魔物がいてもすぐに対処できます。僕も賛成です」
二人の賛成を受け、ガラハとアベリアも言わずもがなといった表情でアレウスを見る。
「じゃぁ、手前から一つずつ調べていこう。どの廃屋も崩れるかもしれないから気を緩めるのはなしだ」
「スティンガーは上空を頼む。これらの穴が街の骸骨兵をせん滅するために使った投石機によるものじゃない場合がある。今も尚、攻撃が続いているのならオレたちの頭上に突如として降ってくる」
妖精が自信満々に自分の胸を叩き、『任された』と表現して空高くへと飛び上がった。続いてアレウスはカンテラに火を灯し、腰に提げる。
廃屋に足を踏み入れる。普段なら侵入者を迎え入れることを拒むはずの扉は跡形もなく、そして入ったところで中にはほとんどなにもない。家具は当然のように壊れており、荒らされた形跡もある。家財は既に何者かの手によって奪い去られたあとのようだ。本棚もあるにはあるが、肝心の本と呼べるような物は見当たらず、千切れたページが散らばっているだけだ。そのページも多くの人物によって踏まれ、そして自然に晒され続けたことで劣化しており、拾い上げようとしても指先だけで紙の繊維が崩れてしまう。そして掠れ切ったインクからは文字を読むことさえままならない。
「人間が住んでいた形跡はあるか? オレにはとてもじゃないが住んでいたとは思えないが」
玄関口でガラハは中を見渡しながら言う。
「家だったなら誰かしらは住んでいたはずだ」
「ああ、だが生活の痕跡すら疑わしい」
家があるから人が住んでいた。そんな当たり前の情報さえ、これだけ家財を奪われ荒らされ尽くしていては掴み取ることさえ難しい。
「こっちは寝室だと思うんですが、天井が崩れていて入れませんね。無理になにかを動かして隙間に入ることなら僕の体格ならできますけど、やってみますか?」
「君が潰れるリスクを僕は背負えないぞ」
「ですよね、僕も言いはしましたけど頼まれてもやりませんでした」
ジュリアンは相変わらずアレウスを試す言動を行うことが多い。信用できる年上かそうじゃないかを常に探っている。日常の中なら余裕を持って答えられるが、こういった場での彼の言葉は僅かな苛立ちを与えてくる。癇癪を起こさない程度のものだが、タイミングが悪ければ冷静になり切れずに思わず叱咤の言葉をぶつけてしまいかねない。
「どこもかしこも腐食が激しいな。オレでは床板が折れてしまいそうだ」
ガラハは廃屋の入り口付近からほとんど動いていない。なかなか入ってこないとは思っていたが、確かにアレウスたちが踏み締めるたびにミシミシと音を立てるこんな腐食の激しい床板ではドワーフの彼の重量を支えることはできない。
「外の方から見てもらえるか? そっちの窓枠がはめ込まれていたんだろう穴からなら崩れた寝室を少しは見ることができるかもしれない」
「そうだな、そうしてみよう」
「なにかあればすぐに言え」
「勿論だ。離れすぎないようにする」
そう言ってガラハが外側から廃屋を調べに行く。固まって動くことを徹底しているので、廃屋内部から彼の姿が見えてから安心から息を大きく吐く。
「なにか見えるか?」
窓枠のない穴から上半身を外へと覗かせ、外から寝室を見ようとしているガラハを視界に収めつつ訊ねる。
「特に気になるものはないな。いや、もうしばらく待て。こちらでもカンテラに火を起こす」
アレウスは提げていたカンテラを手に取り、ガラハに光が届くように外へと向ける。その明かりを頼りにガラハが自身のカンテラに火を灯し、崩れている寝室を見るべく手にし、内部へと伸ばす。
「そっちからはなにか見えるか? オレの方からでは気になるところはないな」
「ジュリアン?」
アレウスに声を掛けられたジュリアンがしゃがみ込み、隙間に体を入れないまま内部を覗く。
「駄目ですね、ここからでは。見えるのは血の跡ぐらいです」
「血の痕か。そんな痕跡はこの跡地じゃどこにでもありそうだな」
ここには調べられるようなものはない。
「ガラハ、玄関口まで戻ってくれ」
そう指示を出し、アレウスたちは廃屋を出て、外で調べていたガラハと合流する。
「手当たり次第に調べるのもいいけど、決め打ちしてみたらどうかな? これだけ崩れた家じゃ得られそうなものはなんにもないし、あんまり崩れていない家を調べるのがいいかもねぇ。あとは、娼館跡も調べてみるとか」
一つ一つの廃屋を念入りに調べるのはさすがに手間だ。クラリエも相当な時間が掛かることを予期し、提案してくる。
「あたしの勘が娼館跡が怪しいって言っているんだけど」
「僕も調べるならそこだと思っている。でも、この時間帯に調べるところじゃないとも思う」
件の娼館は奴隷を働かせていた。だから、人間扱いされていたのかどうかも分からない。洗脳され調教され、人々に尽くし、傷付けられ苦しみ続け、そしてその最期は異端者狩りによって命を落とした。
恨むだろう、あらゆるものを。きっと奴隷たちの怨念は根深いものに違いない。たとえ浄化が徹底されていたとしても、まだどこかに念は残っていて踏み込んだ瞬間に呪殺される危険性がある。
「じゃ、貴族の屋敷はどう? 奴隷の売買を牛耳っていた人の屋敷があると思う」
「なんで分かる?」
「奴隷を働かせていたんなら、娼館は売買した者が管理する物件だもん。そこのお金を回収してすぐに街を出ると思う? かと言って、売上金を持ったままだと宿屋には泊まれない。お金を持っているのが丸分かりだから襲われたらひとたまりもない。だったら一旦は自分の家なりなんなりで数日を過ごすでしょ?」
「それなら屋敷を襲われたら終わりじゃないか?」
クラリエの言うことも分かるが、この街に奴隷商人の屋敷があると分かれば誰もがそこを襲撃することを考える。なにせ明確に分かりやすいくらいのお金持ちなのだ。娼館に手厚くもてなされているところを目撃されれば上客かそれ以上だと分かる。だからこそ街に屋敷を構えれば、そこに自分がいることを知らせるだけでなく、襲ってくれと言っているようなものだとアレウスは思う。
「奴隷に警備を任せて、売上金の運び出しも少しずつ奴隷にさせたらいい。自分は絶対に安全圏から出ずに、売上金を持たせた奴隷を複数の道から街の外へと向かわせる。どの奴隷が襲われるか否かを調べ、襲われなかった道を使って今度は自分自身ごとお金を運び出していたら?」
アレウスの純粋な疑問に対しアベリアが論理を展開する。聞いているだけなら論理に適っているようにも思えてしまうが、奴隷に売上金の一部を持たせるという部分で既に破綻している。
奴隷を人間扱いしていない輩がそもそも奴隷にお金を渡したりなどしない。動物にお金を渡すようなものだ。なにより、そのお金によって正気を取り戻し、何者かに助けを求めてしまうかもしれない。
従順な奴隷がいること。その大前提と更に奴隷商人が一部の奴隷への待遇を厚くしていなければ彼女の言うことは成立しないのだ。
「……まぁ、行かないよりは行った方がいいか」
だが、アベリアから感じられる熱量に負けた。
依頼内容は街に骸骨兵が蔓延り、崩壊した原因の調査であって娼館と奴隷商人について調べることではない。熱量の向き方からして履き違えている。だとしても、彼女には彼女なりの譲れない部分がある。この調査の間に奴隷商人の正体に近付けるのであれば、それは思わぬ収穫になる。
「深入りは厳禁だ。奴隷商人を調べることが街の崩壊原因に繋がるとは思えないから」
これからやることは依頼中の寄り道であることを伝えておく。なにも得るものがないとしても拘らず、本筋の依頼に意識を傾けることが最重要である。そのことはアベリアも重々承知のようで、すぐにアレウスに肯いてみせた。
石畳の道を進み、街の中にある屋敷群に辿り着く。どれもこれも人気はなく、どこかしらが崩れてはいるが先ほど調べた家屋ほどの崩壊はない。やはり貴族やその手の金持ちが住む家は基礎や造りが違うようだ。それでも窓という窓は全て割れており、外から内部を垣間見ても金目の物は全てなくなっている。骸骨兵が蔓延り、冒険者が退治を終えてから聖職者が浄化を始めるまでの僅かな期間に侵入を許したのだとしたら、断言はできないがその何者かは事前に情報を得ていそうだ。でなければ、どんな盗賊団でも骸骨兵に荒らされ回った街など薄気味悪くて近寄りがたいはずだ。奴隷商人が幅を利かせていたことも踏まえると尚のこと出しゃばれない。
そこから推理していくと、自ずと奴隷商人の屋敷にもアタリを付けられる。即ち、盗賊団ですら手を付けることを躊躇ったであろう建物だ。金の力での報復を怖れ、財を盗むことにも慎重を喫したであろうその建物は年月によって荒れてはいても、他の屋敷に比べれば小綺麗に残っていた。
「この屋敷だけ投石機で壊されていない。冒険者ですら攻撃できなかったってことか……?」
「兵器の扱いに長けていたとしても、飛ばす石の重量や投石距離の計算が必要だと思います。なにより目視での着弾確認も」
「そもそも投石機を使っているのだから冒険者のみならず軍が関係していそうだな」
小綺麗に残る屋敷を見て呟くアレウスにジュリアンとガラハも怪しさを感じざるを得ない。そんな三人を置いて、アベリアとクラリエが屋敷の扉を淡々と開ける。鍵は掛けられていないのではなく壊されておりそもそも掛けられる状態にない。骸骨兵か盗みを働いた者の手によるものかまでは分からない。しかし、壁面にはそこら中に刃物の跡が残されている。当時においても戦闘があったことは間違いない。
アレウスとガラハがカンテラで内部を照らす。歩けば床に溜まった埃が浮き上がり、外部からの空気に乗って流れていく。非常に埃っぽく、蜘蛛の巣もあちらこちらに見える。
「金目の物は見当たらないな」
「やっぱり、盗まれちゃったんだろうねぇ。でもさ、あたしたちは盗人みたいに金目の物目当てで来ているわけじゃないよ」
盗賊が欲するのは金に替えられる代物。それ以外の書物や記録といったいわゆる紙はいらない。通常なら自身の痕跡を断つためにも、その手の物も焼き払ってしまうのが手っ取り早いのだが、驚くほどにこの屋敷には本がそのまま残されている。背表紙に指先で触れ、取り出しても崩れない。開いても埃が立つが、インクも劣化しておらずそのまま読める。
「ここら辺は文学的な読み物ばかりだな。古い物はあっても、珍しい物じゃない」
入ってすぐに目に付いた本棚には当たり前だが奴隷商人に繋がりそうな書物は見当たらない。しかし、最初に入った廃屋に比べて人が住んでいた形跡が残っているこの屋敷を見るのは新鮮さがあり、退屈しない。
絨毯は一部が剥ぎ取られている。盗もうとしたが畳み切れず諦めたのだ。それに所々に血の跡や汚れが見える。盗んだところで傷みが激しいと鑑定されて高く買い取られないと思ったのだろう。屋敷を照らし出すランプはそこら中にあるが、どれもこれも割れているか砕け散っている。こういったランプは値打ち物になるのだが、壊さず持ち出すのが困難である。他人に盗まれるぐらいなら壊してしまって金にならないようにしたと見える。
「こっちはなんにもなさそう。広いけど、やっぱり一時的な休む場所って感じかな。そこまであれやこれやと持ち込んでいる感じじゃない」
屋敷に入ってからなるべく離れないようにはしているが、興味本位でクラリエが次々と部屋を調べていくのでその度にアレウスは気が気ではない。突如として潜んでいた輩に襲われたらどうするのだろうか。いや、感知の技能を働かせているのだからアレウスもいないことは分かっている。それでも、なにか精神を擦り減らすような事態が起こらないかと不安になってしまう。
一般的に言うところの恐怖感だ。魔物たちによって付与される状態異常や、絶望を前にして死を直感し、震え上がることではない。命に危険は迫らないことは分かっているが、精神的に脅かされる危険を想像して背筋を凍らせる。仕事だろうが遊びだろうが、そう体感したいものではない。
「この部屋はなにに使われていたと思う?」
異様な光景を目の当たりにしたかのように後ずさりをして、ガラハがアレウスに訊ねてくる。開かれた部屋を見てみると、どうにも言葉にすることのできない禍々しい空間があった。
「調教部屋」
アベリアが呟く。
「鉄格子に奴隷を入れて、徹底的に調教する。食事制限で飢餓による従属しなければ死ぬんだと思わせる。鞭打ちで与える痛みで肉体的苦痛を。そして、徹底的に管理し監視することで緊張の糸を切ることができない精神的摩耗を続ける。擦り減らして擦り減らして擦り減らして、もう限界というときに優しさを見せる。その優しさは、荒んで枯れ切った奴隷たちにとってさながら、死地に手を差し伸べてくれた神様のように……思える、って……言って……いた、けど」
説明していたアベリアが徐々に息を荒くし、両腕で自らを抱き締めるようにして震え出す。
「暴虐と懇篤。それを繰り返し続けることで、従属させる、の……それでも従わないなら、ひたすらの、自己否定……『捨てられたんだ』、『お前みたいな愚か者は他にいない』、『頭の悪さは随一だな』、『お前はなにもできない』。そんな、言葉を……浴びせ続けて……心、を、壊して……洗脳……し、て」
呼吸が荒すぎる。クラリエがアベリアを背中から抱き締め、耳元で「息を吸ってー……止めてー……吐いてー……もう一度、息を吸ってー」と過呼吸を起こしている彼女に適切な呼吸方法を囁き、それを自身も行うことで補助する。
「大丈夫、今のあなたを過去は傷付けられない。過去は現在には追い付かない。アベリアちゃんが乗り越えた恐怖は、もうあなたを襲わない」
ギューッとクラリエは強く強く抱き締め、その温もりによってアベリアの呼吸は落ち着きを取り戻す。しかし震えは治まらず、そのままその場に座り込んでしまった。
「力、入んない」
「あとはアレウス君に頼んでいい?」
「ああ」
座り込んだアベリアの外套のフードを脱がせ、その頭を撫でる。
「クラリエ、ありがとう」
「……過去が怖くてもね、苦しくてもね、囚われちゃ駄目だよ。あたしたちは進み続けて過去から遠ざかることができるんだから」
アベリアからの感謝を受け取りつつも気持ちの持ちようを伝えつつクラリエが調教部屋を調べるため、中に入る。さすがに一人にはさせられないとガラハも気を取り戻し、彼女に続く。
「屋敷で売上を計算して、奴隷の調教も行っていた。それって物凄く大変なことなような気がします。奴隷商人には手助けする何者かがいたんでしょう」
「……テッド・ミラーと一緒にいたのは、私たちの知らないヘイロン・カスピアーナ……」
その情報はリゾラから聞いている。そしてアレウスもロジックに寄生する存在としてヘイロンを視認したことがある。奴隷商人のテッド・ミラーをヘイロン・カスピアーナが補佐していたのなら、仕事量を半分に減らすことができる。
「…………なにか引っ掛かるな」
アレウスは髪を掻き乱す。
「テッド・ミラーがヘイロンに屋敷を管理させるか? 僕が見たヘイロンはいつ裏切っても不思議じゃないくらいの性格をしていたように思えるんだけど」
「屋敷は563番目のものだけど、複数のテッド・ミラーが代わる代わる手伝っていたのよ。ヘイロンは娼館の方。娼婦に紛れ込み、不穏分子が出ないように管理し切っていた。私もその内の一人」
まだ調べていない二階の方から声がした。その吹き抜けの木製の手すりの上に腰掛けて、割れた窓から見える夜空の星々を女は眺めている。そしてスッと視線をアレウスたちに向ける。
「こうして何度も巡り会うんなら、もう偶然じゃなく必然だろうね。そっか……私たちの曖昧な敵味方の境界線は決着するみたい。この街を調べればあなたは私のほとんどを理解すると思う。情報に辿り着ければ、だけど。でも、私――リゾラベート・シンストウを知ったそのときにあなたは私を許せるのかしら?」
妖しく瞳は猫の目のように暗闇の中で煌いて、アレウスをジッと見つめ続けていた。




