幸福は罪深いか?
泥で汚れた衣服は洗濯するとして、しかしながら夕方頃に干しても今日中には乾かず、雨が降る降らないも分からないのに外に干しっ放しにもしたくない。幸い、着ていた服は高価な物ではない。汚れが残ってしまっても鍛錬用として割り切ってしまっていい。なので、洗濯は明日に回すことにした。
「アレウスは大衆浴場を利用なさらないんでして?」
汗をタオルで拭っているとクルタニカが訊ねてくる。
「あんまり好きじゃなくて」
「どうして?」
利用しない理由は極めて単純で、男女が分けられていないから。男女で分けるくらい簡単なはずなのに、なぜかそうしない。そしてシンギングリンの大衆浴場は最近になってようやく利用できる状態になったばかりで、まだ外観が整え切れていない。
そのため、外からほぼ丸見えの状態にある。人目が気になって仕方がない。だったら街から少し離れたところにある川で沐浴する方が人目も少なく、落ち着くことができる。
ただ、大衆浴場の料金を払うくらいなら沐浴で済ませたい人はそれなりに多いため、川の流域をしっかりと見定めないとならないが。
「あんまり大勢と入浴することが好きじゃなくて」
「奇遇だな。私も湯浴みは一人静かに済ませたい性分だ」
「じゃぁアベリアにも行くなって言っているのはアレウスなんでして?」
「行くなとは言ってないけど行ってほしくはないとは思っている」
アベリアは一年ほど前からシンギングリンで話題に上がるくらいの美少女で、今は美女に向かって成長を続けている。そんな彼女の裸体を人目に晒したくない。これは冒険者として活動を始める前の借家で暮らしていたときにも思っていたことだ。
「本人が行きたがっていたら許すんでして?」
「まぁ……僕にそこのところを束縛する権利はないから」
もしも、クルタニカに誘われたと言われたんならアレウスは見送ることしかできない。そんなところで口出しして喧嘩はしたくはない上に、彼女とクルタニカとの友情にもヒビが入りかねない。こんなことでヒビが入るようなわけがないとアレウスも思ってはいるが、世の中の友情というのは些細なことで崩れ去るものなのでシコリが残りそうな部分にとやかく言うことはできない。
「なぁにがそんなに気になるんでして? わたくしはちっとも気にならないというのに」
「あなたは気にした方がいい」
カーネリアンが溜め息をつく。お酒を飲めば服を脱ぎそうになり、賭場に参加すれば服を賭けに出そうとする。目立ちたがりではなく脱ぎたがりの露出狂に片足を突っ込んでいるのではと疑いたくなるような部分を見せられて、彼女は友人としてクルタニカを心配しているのだろう。その点はアレウスでさえ不安に思っている。
いくら有名な冒険者であっても集団に襲われれば成す術もない。それが酔っているときなら尚のこと危険である。『冷獄の氷』の『継承者』であっても、自分の身をわざわざ危険に晒しに行く理由にはならない。
「自分がどのように見られているのかをちゃんと理解した方がいい」
「わたくしが目立つことのなにが悪いんでして?」
「その意見には私も賛成だ。クルタニカのその幼稚さは危うい」
アレウスに賛同し、カーネリアンが注意を促す。
「むむっ……分かりましたわ。けれど、大衆浴場を利用することはやめませんでしてよ?」
「そこは生活の一部として取り入れているならなんにも言わないよ」
不用意に素肌を晒すような――男性を誘うような素振りさえ見せなければアレウスも文句は出ない。しかし、クルタニカは性分としてやりそうなのである。なにせまだちっとも互いのことを知らないとき、クルタニカは沐浴中のアレウスに裸で迫ってきたことさえあるのだから。
「にしても、今日は良い鍛錬が積めた。刀の具合も悪くない」
「僕は死に物狂いだったけど」
五度ではなく三度で慣れた。カーネリアンのセンスがアレウスの想定を上回ったのが大きな敗因だが、そこが当たっていたとしても徐々に徐々に力の差によって詰められ、負けていただろう。
「鍛錬や手合わせでも、その死に物狂いさが足りない連中が多くてな。ちっとも経験として積めないこともある。だが、本当に死に物狂いだったわけではないだろう?」
「まぁ、本当に死に物狂いだったら制限なんて気にしていなかったからな」
真に死に物狂いの立ち回りをしていたのはエルヴァだろ。あれは新王国の王女を救出するためという前提があったからだが、あそこまで自分の体も命も捨て切れる立ち回りはアレウスでなくとも恐れおののく。
だからこそ、その目標のためになにもかもを捨て切れる強さをアレウスは手に入れたいとも思う。捨て切ると言っても、必要最小限を残して捨て切る立ち回りだ。エルヴァのそれもそうだった。
「また機会があれば手合わせをしたいところだな」
「僕は嫌だけど」
カーネリアンのはしごを外す。
「なぜだ?」
「僕は負けず嫌いだから、勝てる見込みがない鍛錬で負かされるのは好きじゃない」
これで師事している相手との鍛錬なら学びを得るための敗北も受け入れるが、カーネリアンとの手合わせは学びよりも勝利を優先しているものだった。彼女にとっては貸し与えられた力を慣らすための学びの場だったかもしれないが、付き合わされたアレウスは決してそうではない。
「カーネリアンがここまでアレウスに拘るのも珍しいんでしてよ? 相変わらず他種族に興味を湧かせるのは得意なんですわね」
「正直、クルタニカが唾を付けていなければ空に連れ去りたいくらいには気に入っている」
「怖ろしいことを言うな」
「これは怖ろしいことではなく、ガルダの求愛行動に近しいものでしてよ。ガルダは他種族でもツガイになりたいと思った異性は空に連れ去るんでしてよ」
「行動していないから単なる求愛だな。だが好意や愛情ではなく好奇心の面で表現させてもらったが」
クルタニカの説明があってもカーネリアンは顔色一つ変えることなく、動揺の一つもしていない。『求愛』と言われてアレウスはドギマギしたのだが、どうやら本当にそういった部分ではなく知的好奇心で連れ去りたいと思っているようだ。
「空に連れ去られたあと、帰ってこられるのか?」
「無いな」
「ありませんでしてよ。ガルダはそのまま飼い殺しますわ」
ガルダの怖ろしさを再認識させられただけでなく、好奇心であってもガルダに連れ去ってほしいなどと言わない方がいいことを知ることができた。
「もう日も沈む。長居してしまったな」
「クルタニカもそうだけどカーネリアンなら大歓迎だ。いつでも来ても構わない。ただいつ来ても誰かがいるわけじゃないから」
「なら貴様たちの気配がするときだけ立ち寄ることとしよう」
「カーネリアンはこのまま空に帰るんでして?」
「一旦、報告しなければならない。異界獣の討伐したことを黙ったままにはできない」
「そう……」
「二、三日でまた降りてくるつもりだが、エーデルシュタイン家の仕事が溜まっていた場合はその限りじゃない」
残念がるクルタニカにカーネリアンが希望を伝えはするものの、現実的ではないことも伝えている。
「ずっと空に閉じこもるわけではないんでして?」
「そうだな、当面はないだろう」
「なら、待ちますわ」
落ち込みようをすぐに持ち直し、クルタニカはカーネリアンに笑顔を見せる。その笑顔で彼女は一安心したのか息を零し、微笑む。
「では、また会おう」
「わたくしはカーネリアンを見送りますわ。ごめんあそばせ」
家を去る二人を見送ったのち、アレウスは干していた洗濯物を全てカゴに放り込み、それを抱えて家の中に戻る。
「クルタニカたちと戦った?」
「手合わせだよ。鍛錬みたいなものだから、喧嘩したとか攻撃されたとかじゃない」
「そう」
リビングで編み物をしていたアベリアに事情を説明し、カゴはロビーの隅に置く。
「今からガラハになにかを買えそうにないな」
酒場や屋台で食べ物を持ち帰ってもいいが、日持ちするか怪しいものをガラハにお礼の品として渡していいものかどうかアレウスは悩む。
「ガラハの分の晩御飯を作った方がいいのかな。ドワーフの里で一日を過ごすのなら、作った分が余っちゃう」
「作り置きできるものにしよう。ガラハが帰ってこないなら明日の朝食にしてしまえばいい」
「そうだね、緑栄期と違って夜も冷えてきたし、すぐに腐らないし」
そうなると今晩の料理はスープや火を通した食材になる。普段通りと言えば普段通り。むしろそれ以外の調理法は凝りすぎていてアレウスたちには実現不可能である。
「保存食も作っていかないとな」
「うん」
編み物を中断し、アベリアがアレウスを見る。
「……なんだ?」
「今日さ、一緒にお風呂に入らない?」
「いや……なんで? リスティさんが帰ってくるかもしれないのに?」
「アレウスが短剣を取りに行っているときにリスティさんが言っていたんだけど、今日は遅くなるから。今の内なら一緒に入れるよ? それに風呂釜もやっと掃除が終わって、ちゃんと使えるかチェックしないと」
「外で火を焚くなら一緒には入れないけど」
「火を焚いたあとの残り火のときに入ればいいんじゃない? 寒冷期みたいに湯冷めする心配は少ないし」
「……そんなに入りたいか?」
「入りたい。入りたくないの? 一緒に沐浴したこともあるのに」
「え、いや、僕は……入りたいけど」
「じゃ、決まりね」
アベリアらしからぬ大胆さにアレウスは折れてしまう。そこまで一緒に入る必要性も見当たらない。
「なにか心配事でもあるのか?」
「ううん、別に。ただ、暗いとアレウスの体をちゃんと見られないし」
「僕はあんまり見られたくないんだけど」
「好き同士なら、これぐらい普通だと思うし」
「そうかな」
「そうだよ」
「……まぁ、アベリアが良いって言うんなら男の僕が極端に否定するのも変だよな」
せっかくの好意であり厚意である。なによりアベリアと一緒の入浴できるのだ。こんなに嬉しいこともない。
「じゃぁ一緒に入る方向で」
「うん。あと私、みんなともお風呂入りたいな」
「みんな?」
「男の人は無しだよ」
「ああ、よかった」
とんでもないことを言い出したなと思ってしまう。
「みんなが良ければアレウスだけ特別に入っていいかもだけど」
「遠慮するよ遠慮。僕、火を焚いてくる」
そう告げてアレウスは再び家の外に出る。
「…………こんなことしていていいのかな」
他人が不幸になっている最中で、僅かばかりの幸福を享受する。怒られることなどなにもないはずなのに、ほんの僅かな罪悪感が心にある。
「別に冒険者が幸せになっちゃいけないって決まりはないけれど」
アレウスは自らの復讐のために世界を脅威に陥れる可能性を持っている。アベリアもそのことを知っている。そんな二人が、些細な幸せを拾っていていいものなのかどうか。
「いや……良いんだ、これで」
不幸や苦しみばかりを味わうことだけが生き様ではないはずだ。時には、安らぎがあっても構わない。そう自分に言い聞かせながらアレウスは薪を集めた。
*
「僕がいない間に、どうやったこれだけ散らかすことができるんですか……」
ジュリアンは部屋の有り様に辟易する。
「たった二週間ですよ?」
「二週間あればこれだけ散らかるんだよ。正確に言えば人は一日で部屋を散らかすことができる」
「どういう自慢なんですか」
「逆に考えるといいよ。自慢話にしてしまえば、それは謝るべきことじゃない」
「いや、謝るべきことだと思いますけど」
溜め息をつき、ジュリアンは散らばっている本を一つ一つ丁寧に積み上げていく。
「アレウスさんならもっとしっかりしていましたよ」
「憧れの相手と師事している相手は切り離しなさい。それに、君より先に帰ってきてから僕はずっと星を詠んでいる。身の回りのことなんて二の次でね」
「そんなに星を詠むことが大切ですか?」
「大切だよ。今現在は特に」
そう言ってから男は星の動きを捉え、冗談混じりの話をしていたときとは裏腹の真剣な表情を浮かべる。
「ねぇ、二番弟子? 君が好きな子と乳繰り合っている間に、」
「乳繰り合っていませんが?」
「おお怖い。まぁとにかく、好きな子と楽しいひと時を過ごしている間に世の中は変わってしまったよ」
「変わった? なにか分かるんですか?」
ジュリアンは本棚に散らかっていた本を片付け、積み上げられていた本が崩れないように整えてから男に訊ねる。
「まず、王国の城が一つ落ちた。王位継承権を持っている者の堅牢なお城がね」
「……え?」
「幸い生き延びてはいるみたいだけど、死ぬより辛い目に遭っている。いや、生きるより辛い目なのかな。だから、もう助けずに死なせてしまった方がいいだろう。マクシミリアンは敗走した腹違いの弟や妹は見捨てる傾向にあるし」
「そんな……」
「復讐者、エレオン・ノットは知っているかい? アレウリス君よりもずっと復讐に燃えているエルフの男なんだけど」
「いえ……知りません」
「なら、今、知っておいた方がいい。命だけは取られずに済んでいる王位継承者は彼の最愛の人を死ぬより辛い目に遭わせた拷問に同じように掛けられている。その拷問器具は今日までに一度しか使われてこなかった。要は王国ですらその拷問を嫌ったってことさ。ただ、その城を拠点としていた王族の趣味が悪かったんだろう。密かに持ち込んだ拷問器具を恐らくはコレクションとして保管していた。だから、いうなれば自業自得だろう」
「だとしても」
「許されることではないだろうね。そうさ、許されることではない。けれど、この城を落としたのは『異端審問会』。遂に王国も侵しに行ったようだ」
集団の名称を聞いて、ジュリアンは腕に抱えていた本を落とす。
「一体、誰が……」
「そこまでは詠めない。星詠みの限界だ。けれど、マクシミリアンは逆にこれを利用する。更なる国威発揚の事柄に使うだろう。そこまでは想像できる。けれど、ここから先は星辰の範囲。星のお告げを詠み間違えれば、一気に事態は悪化する」
「……僕に、なにかできることはありますか?」
「残念ながら今はない……今は、ね。むしろしなきゃならないのは僕の方だ。エルフの巫女、連合の聖女。この二人との星辰の詠み合いだ。お告げを詠み間違えた者が負ける」
男を心配そうにジュリアンが見つめる。
「そんなに不安がる必要はないよ。僕はこれまで何度だって危険な状況を詠み解いてきた。エルフの巫女の経験には劣るけれど連合の聖女に出遅れる気は全くない。『勇者』たちに音色を奏で続けてきたこの僕――アレックスの言うことを信じなさい」
そう言って男は星詠みを再開する。
「さて、アレウリス君……次に君が行くところはどうやら異界でも王国でもなく、連合のようだ。そこできっとテッド・ミラーとヘイロン・カスピアーナに関する全てが終息する。ただ、あの『魔の女』を敵に回さないようにだけはしてくれると、ありがたいんだけど」
ジュリアンには聞こえない小声で囁き、星の流れをただ見つめ続ける。




