二つの存在
*
「あり得ない」
アレウスは男の発言を即座に否定する。
「僕が二人いる? そんなこと、絶対にない。大体、その候補の絞り方には穴がある。『産まれ直し』が僕だけじゃないなら、『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』も知っている人は必ずいるし、アリスという名前を女性名だと思って嫌う人だっているはずです」
男がアレウスにした問い掛けと同じような問い掛けをしたというのなら、必ず似た返答をした者はいるはずだ。
「それは君と同一の世界から産まれ直している者が大勢いることが前提だね」
「その前提が間違っていると?」
アレウスは一瞬であれ記憶を垣間見たことがある。そのタイミングは決まって『継承者』や『超越者』と命の取り合いをしたときか、心を通わせることができたとき。あの記憶がぶつかり合った相手の産まれ直す前の記憶に関わっているとするならば、アレウスの世界と非常に酷似した世界で生きていたと考えられる者は複数人いる。
ただし、確定ではない上に確信できるものでもない。なにより不躾にそんなことを聞くものではない。産まれ直す前の記憶なんて、あってないようなものであり、おぼろげにしか憶えていないものであり、忘れたいものですらあるかもしれない。
「どこから『産まれ直し』が観測されたのかは不明だけど、少なくとも君という存在が二人いるのはほぼ間違いないと思っているよ。だって確定的なことを君はもう既に感じ取っているはずだ」
「確定的なこと、ですか?」
「『白野』と聞いて、君はどう思った?」
「……特になにも」
「君は頭の中でその言葉をどう思い浮かべた?」
「思い浮かべた……?」
この男がなにを言っているのか分からず、そのまま反芻するかのようにアレウスは言葉を返す。
「『漢字』だったんじゃないのかい? ああでも、この三文字がどういうものなのかは、僕にはさっぱり分からないんだけど」
それはまさに、雷に打たれたかのような衝撃だった。アレウスは男の言うように『シロノ』を無意識の内に『白野』と置き換えていた。これまで様々な言葉を耳にしたり言葉にするたびに単語が、語句が二重や三重の表現となってアレウスの脳に叩き込まれ続けてきていたが、それらは魔法や技だけに留まってきた。地名や都市名、そして人物名はその限りではなかった。だが、アレウスは人物名であるはずの『シロノ』、もしくは『しろの』を『白野』と独自に認識していた。
なぜそうしたのかの答えは出ている。その名が男の口から紡がれた時点で、その名が自分にとってどういうものなのかを思い出し、認識し、男が言った漢字へと置き換えた。それどころか『かんじ』ですらも『漢字』に置き換えてアレウスは認識してしまっている。
「……その名前、いや苗字……この世界だと家名か? とにかくそれは僕の……」
アレウスの、産まれ直す前の家名であり苗字である。『白野』という言葉が出た直後から刹那的に思い出した。
『白野』と呼ばれていたときの記憶が、沸々と熱湯から吹き零れる泡のように湧き上がる。その断片的な記憶は凄まじいまでの懐古の情を膨らませるだけでなく、ただ純粋な帰りたいとすら思わせる。
アレウスは死にたくて死んだわけではないが、なにかを果たせないままに死んだわけでは決してないと思っている。そこには自信があるが、なにを果たして死んだかまでは思い出せない。思い出せるのは、その前に鬱屈とした感情を抱いていたこと。神藤リゾラに恋心を抱き、同時に彼女に冷たいことを言われて落ち込んでいたこと。
信じられないことだが、鬱屈とした感情を抱いていたと自覚しているにも関わらず、自分自身は戻りたがっている。それは懐かしいからではない。
苦しいからだ。
どうして死んでからも、こんな苦しい目に遭って生きなければならないのか。こんな苦しい目に遭うくらいなら、鬱屈としていてもいつだって責任から逃げ出せる環境に身を置くことのできていたあの頃の方が絶対に良かった。自分自身が行った決め付けや、家族や他人から押し付けられたしがらみなど、この世界で生きることに比べればいつだって放棄してしまえる代物ばかりである。
いいや、これは間違いだ。そうアレウスは首を振って自らの思考を否定する。
苦しい環境からより苦しい環境に移ったせいで、以前の苦しい環境を良かったなどと誤認している。懐古の情に弄ばれて、過去を綺麗な物だと記憶が思い込ませようとしている。
死ぬ前も死んだあとも、変わらず苦しい。これが正解である。
「白野と名乗る男はどこに?」
「どこにいるんだろうね。僕には皆目見当も付かない」
「星辰の技能を持っている師匠にできないことがあるなどとは思えませんが」
横からジュリアンが刺すように言う。
「苦しい思いをさせたのなら、その苦しさを取り払う道筋を師匠は立てるべきだと思いませんか?」
「人に指し示された道筋を辿ることほど苦痛なことはない。それが自らが決めた道筋に塗り替えて初めて人間は気が楽になる」
「指し示された道筋を辿ることの方が気楽だと思う人もいますよね?」
「それはね、気楽なんかじゃない。それは怠慢と言うんだよ。思考を捨てて、従うことに飢えているだけだ。従うだけなら、責任が軽いからね。悪いことをしている自覚すら失う」
男に言われジュリアンが黙る。言い返せないのか、それとも考えさせられているのか。
「僕が『白野』という名前に執拗なまでに拘っていることは認めます。けれど、転生したという部分がよく分かりません。僕は産まれ直している。だったら転生もなにも……いいえ、僕自身が転生そのものなんじゃないんですか?」
「そう、そこなんだよ。不思議なのはまさにそこさ」
途端、男は饒舌になる。
「『産まれ直し』も僕は転生だと思っている。というか、転生って即ち産まれ直すことだと思っている。いや、やり直すという意味合いが含まれていないからただ単に『誕生』と呼んでしまってもいいかもしれない。輪廻転生とはまさにこのことだろうと僕も思っている。でも、死ぬ以前の記憶を持って産まれたのならこれは『産まれ直し』と呼ばざるを得ない。では、僕が言った転生とはなにか。それは、“死んだ当時の身なりや年齢、記憶を受け継いだ状態でこの世界に現れること”だ。どういうことかと言うと、」
男は杖で地面に図を描く。
「たとえばの話だから怒らないで聞いていてほしいんだけど。君がこの場で僕に殺されるとする。このとき、君は間違いなく死を感じ、そして死ぬ。そのときに恐らく意識は飛ぶ。実際、飛ぶのかどうかはしらないけれど、まぁ意識は一旦途切れるものとする。そして瞼を開いてみると、ここではないどこかに立っている。年齢、身なり、知識、記憶、それら全てを引き継いだ状態で全く知らない大地に立ち、全く知らない言語を話す者たちに会い、自身が知っている知識よりも低いか高い環境がその世界にはある。君に近親者はおらず、君に帰るべき故郷はなく、君を証明するような書類もなく、君が君であると証言する身よりもいない。けれど天涯孤独ではあっても、その世界における常識を知らない非常識であれど、死ぬ以前に獲得していた能力はそのままに行使できる。それさえ認められれば、その世界では認められることもあるだろう」
「それは転生というよりは転移なんじゃ」
クラリエが呟く。
「でも、この場にいるアレウリス君は死んでいるんだ。アレウリス君の死を嘆き悲しみ、憤怒に駆られながら君たちは僕を殺しにかかる。この世界では死んでいても、別の世界では死んでいない。転移であったならこの場から消えているけれど、僕の言うところの転生は死体はあるのに、別次元において死者が生者として存在してしまう事例なんだよ」
男は早口を少し抑える。
「『産まれ直し』とは死んで、別世界で赤子から。『転生』は死んで、そのままの状態で怪我一つなく別世界で死ぬ瞬間の年齢から。分かりやすく言うとスタートラインが違う。『産まれ直し』はそのまま記憶が沈んで、自覚しないままこの世界で生き抜いていくこともあるだろうけど、『転生』はまずこの世界に馴染むことを強制される。しかも知らない言語を話す輩と、まるで違う環境で。これってどっちが幸せなんだろうね。いや、不幸自慢を始めたらどっちも不幸かもね。だから、アレウリス君という存在は二人いると僕は仮定するけれど、君と『白野』は全くの別人だと思って構わない。深層心理、思考パターンはひょっとしたら似ているところがありそうだ。いや……この世界に自然的に適応していく『産まれ直し』であるのなら、その部分すらも異なっているかも」
言いたいことを言って満足したのか、男がそこで一息ついた。知識をひけらかすときの興奮度合いが常軌を逸している。
「掻い摘んで言ってしまえば、別人なんですね?」
ヴェインが問う。
「そうだとも言えるしそうだとも言えない」
「けれどほぼ別人であると言ってしまうことは可能なんですね?」
「だから、そうだとも言えるし、」
「だったらなにをそんな重たそうな顔をする必要があるんだい? ここにいるアレウスはアレウスで、ここにいないアレウスはアレウスじゃない。それで良いじゃないか」
ヴェインがクラリエやノックス、ジュリアンに言い聞かせる。
「ここにいるアレウスと、ここにいないアレウス。そのどちらをよく知っているかなんて一目瞭然だ。間違えたくないし間違えたくもない。それに、きっとここにいないアレウスはここにいるアレウスと思われることをきっと嫌う」
「へぇ、嫌う? どうして嫌うんだい? 同じ存在なんだから気に入ると思うけれど」
「俺だった嫌ですよ。もう一人の俺に出し抜かれたくはないし、もう一人の俺に名を上げられたくはないし、もう一人の俺に馬鹿にされたくはないですから」
「双子の喩え話じゃないんだけど」
「双子じゃないなら尚更、会いたくはありませんよ。俺は多分もう一人の俺を理解しようとは思いませんし、もう一人の俺だって俺のことを理解しないでしょう。何度も言いますけど、様々な点において俺がもう一人いると困ることの方が多いんですよ。それに、『転生』の仕組みがどうこうと仰っていましたが、アレウスと年齢が異なるのであれば、双子の兄弟ではなく年齢の離れた兄弟――いいえ、血縁関係ですらないのだから、赤の他人じゃないですか」
「君は…………うん、君は僕がとても苦手とするタイプの人間だ。君みたいな人間が聖職者だなんて、同業者は悲鳴を上げるほかないだろう」
「同業者の悲鳴は俺の悲鳴でもありますから、神に訴えを起こす以外にありませんよ」
「だからそのどこまでも…………いや、もういいよ。理論を理解できないのではなくて、理論を理解して尚、己自身の中にある正しさを捻じ曲げない揺るぎなさ。どう足掻いても僕に勝ち目はない」
男はヴェインに白旗を上げるような素振りとして手をヒラヒラとし、降参する。
「でも僕の言ったことは受け入れておいてほしい。この情報を握ったことで、君たちは『白野』を辿る手掛かりを得たことになる。その手掛かりはいずれ道筋となり、君たちは辿るときが来る。その時までに考えを固めておくことだ。僕の見立てでは、そう遠くない未来にそれは起こると思っている」
「根拠は?」
「星を詠んだから、告げている」
アレウスの問いに男はそう答えて、地面に掻いた図を足で払って消し去った。
「ジュリアン君はシンギングリンに寄りたいそうだから、そこまでは付き合わせてやってほしい。ただ、弟子であるなら弟子として僕の身の回りの世話を考えて長居はしないように。あまりにも帰りが遅いようなら、君の想い人を連れ去ってでも無理やり帰らせる」
「別に想ってはいません!」
男は外套のフードを被る。模様や意匠は神官や僧侶を示す者でもない。かといって冒険者がいつだって捨てられるようにと持ち歩く粗雑な物でもない。どこにも所属はしていないが、高位の魔法使いだろう。
さよならを告げることもせず、男はスタスタとアレウスたちの前から立ち去った。いや、立ち去らせてしまった。アレウスは、その背中にかける言葉を見つけることができなかったのだ。
「アレウス君、あのさ。これ、言うべきことじゃないのかもしれないけど、言わなきゃいつ言えるか分かんないし」
クラリエの視線はノックスに向く。
「兄貴が言っていた。正確には、尖兵になった兄貴が死に際に言っていたんだ。兄貴たちを追い詰めたのは終末個体のピジョンや魔物なんかじゃなく、『白野』だって」
「それと、お前に『眼』をあげたのは……『白野』と気配が似ている幼子だったからだと」
「じゃぁ……『白野』が――僕が、カッサシオンが死ぬ原因を作ったってことか?」
「そうじゃない。『白野』は君じゃないんだ。君に責任はない」
「ワタシもそう思う。よく分かんねぇことを話していたけどよ、気配が似ている幼子だったら兄貴は見捨てたはずだ。でも、そうじゃなかった。気配は似ていても別人で、だけどそこになにかの可能性を感じて、お前に『眼』を託したんだ。それで、その『眼』はもうセレナに移っているけどよ、お前が与えたいと思わなきゃアーティファクトも移んねぇもんなんじゃねぇのか? だから、ワタシはこのことをセレナやパルティータ以外の獣人に伝える気はない。多分、二人もそうすると思う」
セレナに『蛇の眼』が移ったのは偶然だ。偶然、そうなっただけだ。譲りたいという気持ちや、移したいという気持ちがあったわけじゃない。
だが、なにかしらの方法でどうにかしてあげたいとアレウスは思い、そして願った。それが形となったというのなら、ノックスの言っていることをそのままアレウスがしたことになる。
「僕であって、僕じゃない……じゃぁその僕は今、どこでなにをしているんだ……?」
カッサシオンの獣人部隊を壊滅に追い込み、彼を異界へと堕とした張本人。そう捉えると、どう考えてもアレウスとは対極に位置する側にいるに違いない。
「アリス……アリス、か」
男がああも主張したのだから、『白野』と『アリス』という単語は重要になる。この言葉を辿っていけば、或いはどこかで情報が拾えるかもしれない。ただそれをやってのけることができるのはアレウスではなく、クラリエやカプリースとなる。
調べさせていいものか、悩む。すぐに答えは出ない。
「いつまでそこで休んでいる? 宴の準備は全員でするものだ。たとえ今回の異界獣討伐の立役者であってもそこのところで贔屓はできないぞ」
思い悩むアレウスに、どういった言葉を向ければいいのか。その場にはどうにもならない雰囲気があったが、やってきたエルヴァが払拭する。
「あと、リスティを待たせるな。お前以外は報告を終えているが、お前はすぐに眠ってしまったせいでまだしていないだろ? ずっと待っているぞ、あいつは。別に特別な報酬やなにやらが出るわけでもないが、少しは想いも汲んでやれ。帝国の特例を得る前に呆れられていなくなってしまうかもしれないぞ」
いつものようにアレウスはエルヴァを睨む。
「そんな怖い顔をしなくとも、あいつはそんな尻軽じゃない。冒険者の悩み事というのはパーティ内だけで済ませるのではなく、担当者も交える。俺はそこのとこをよくは知らないが、そういうもんなんだろ?」
言って、エルヴァはアレウスに肩を組むことを強制させる。
「接地している限り、俺が聞き逃す話なんてもんは少ない。お前にどんな事実が突き付けられたかも知っている。なによりも、俺は『白野』とやらを見ている。すぐにワケも分からないまま転移させられちまったけどな。とにかく、そいつはお前とは似ても似つかない奴だった。それだけ伝えておく。それ以外のことは、まだお前に伝える義理はない」
小声でアレウスにエルヴァが知っていることを伝えてくる。
「……分かりました」
「俺は――ああいや、僕は皇女の傍付きだ。拾える情報があればお前に手紙を送ることだってできる」
「今回の異界獣討伐の件で恩は使い切ったと思っている」
「だから今度は僕がお前に恩を売る番だ。お前に情報を寄越して動けば、俺とクルスの殺し合いも近付くだろうと踏んでいる。そこのところは信頼してやっている」
「嫌な信頼の仕方だな」
「利用し、利用されの関係は上手い具合に続けていこう。その方がお互いの利益だ」
エルヴァが話し終えて、離れ際に肩を叩く。
「どうしてそう肩を叩くんだ?」
「んーいや? なんとなくだ。肩を叩いて励ましたり安心させたりする。その光景を僕は産まれ直す前にどこか憧れていた。ある意味で孤独だったからだろうな。それ以上のことはない」
そう説明し、ヴェインたちに軽い挨拶を済ませてエルヴァは連れていた軍人から報告を受けつつ、次の指示を与えながら去っていった。
「沢山のことが起こったせいで沢山の情報が集まった。けれどそれらを精査する前に、俺たちは俺たちで溜め込んだ感情を発散させなきゃならない。宴も『御霊送り』もそのためにある。今日だけは難しいことは後回しにしても神様は怒らないよ」
「……ヴェインが言うなら、そうなんだろうな」
神様など信じてはいないが、ヴェインの言うことならばそうしようとアレウスは同調する。
「アレウスさん? 本当に僕はエイラのことなんてなんとも想っていませんからね?」
「誰一人としてエイラのことを話してはいないはずなんだが、自然と口から出すのは怪しいな」
小難しい会話など知ったことではないといった調子でジュリアンが自身の主張を押し通そうとしてきたが空回りしている。その主張こそがまさに彼が彼女に抱いている感情を浮き彫りにさせるものだ。しかし、恋愛経験に深いわけでもないため茶化す程度に済ませる。反撃を受ければ、痛いところまで突かれてしまう。
「えーなになにその話? あたしも聞きたいなー」
「ワタシにも聞かせろ」
クラリエとノックスはひとまずアレウスが元気を取り戻した姿に胸を撫で下ろし、非常に興味津々な様子でジュリアンに話しかけるのだった。
*
「こちらが指定した時間通りに来てくれるなんて、さすがは『星眼』の聖女」
「聞いてくださいよ~! もう本当の本当に連れて来るの大変だったんですからぁ~!」
『星眼』の女の子が一生懸命にリゾラの袖を引っ張っている様を見て、男は失笑する。
「観念したのか、それとも聖女に興味を抱いたのか。どちらなんだろうね」
「年老いているクセして、なに若い男ぶってんの?」
「……そうか、君には僕がそう見えるのか」
「むしろそれ以外に見える要素があるの?」
リゾラは呆れるように言い、『星眼』の女の子の手を払う。
「私は私に利益のある情報にしか興味がない。聖女に関われば、テッド・ミラーやヘイロンに繋がるって、そこの女が言ったから」
「言ってませんよ~」
下手な口笛を吹く女の子を見て、リゾラが舌打ちをする。
「嘘をついて私を連れてきたってわけ? 良い度胸しているわね」
「そうでも言わないと来てくれないじゃないですかぁ」
今すぐにでも魔物を放って女の子と老人を喰い殺させても構わない。そんな風に思いつつも、衝動を抑える。
「よく殺すのを抑え込めたね。いやはや、理性は未だにしっかりとお持ちのようだ。魔物を飼い、『雷』を契約させ、『蜜眼』を奪いながらも、その器が全く壊れている様子がない。そりゃ聖女の誰もが震え上がるほどの化け物だ。それだけの力があれば、テッド・ミラーやヘイロンに限らず沢山の命を奪うことも、沢山の富を得ることも、地位すらも獲得することは難しくないだろうに」
「私はそういうのに興味がない。復讐を終わらせてからの老後のことなんて考えてないし、復讐を終わらせてから様々な手で死ぬんだとしてもそれは本望」
「……『蜜眼』を奪ったとはいえ手にした者だというから、少しはアニマート君と志が似ていると思ったのに、どうやらそうではないようだ」
ボソリと老人が呟く。
アニマート・ハルモニアにトドメを刺したのはリゾラである。『蜜眼』を奪うためには殺す以外の手立てがなかった。急がなければリブラに勘付かれてしまっていただろうし、脱出が遅れればビスターという男が怨念たちに異界へと引きずり込まれる現場に巻き込まれていた。穏便に手に入れようと目論んだが、拒まれたがゆえの最終手段だった。
「私が聖女と関わってなにか利益があるの?」
「君のロジックには読めない部分があるんじゃないかい?」
「確かにあるわね。黒く塗り潰されているところが。でも、読めない部分があるのって別に私だけじゃないみたいだし、中には文字としては羅列されているけどその肝心な文字がどこの言語か分からないって人もいるみたいだし、特別なことじゃないでしょ」
「いいや、黒塗りは特別だ。なぜならそれは『産まれ直し』の者たちに神が与えた印なのだから」
「残念だけど、私は神様を信じていないのよ。聖女とやらと組みたくないのも、神様を信仰したくなんてないから」
「黒塗りの部分は、世界に影響を与えるであろう者たちの真実が刻まれた部分」
「人の話聞いてた?」
「読み解かれてしまえば、神に不都合が生じる部分。つまり、神はどうしても『産まれ直し』を監視しておきたい。そのための塗り潰されているんだ。これは状況によって変わる。人によっては最初は言語として読みようのない文字の羅列でしかなかったのが、ある瞬間から黒く塗り潰されて全く読めなくなる」
「だから人の話を聞いていたかって言っているのよ」
こうやって無理やり自分の話を聞かせに来る人物をリゾラは心底嫌っている。産まれ直す前に言い寄ってきた同学年のスクールカーストが高めの陽キャの集団がこうやってよく武勇伝を語っていたからだ。女友達はみんなキャーキャーと騒いでいたが、リゾラにはどうにも合わなかった。
「君はリゾラベート・シンストウ。だけど、『神藤』という名に聞き覚えはあるかい? というか、君は『神藤』ではないかい?」
「……なに? 喧嘩売ってんの?」
その苗字はリゾラが産まれ直す前に使っていた。そしてこの世界ではもう名乗ることのない代物だ。
「その反応は『ある』と、そして『そうだ』と答えたと思わせてもらうよ。そして僕は今日、気掛かりがあってとある人物と接触したのさ。そこでかねてより抱えていた疑問を解くことができた。けれど、そうなるともう一つ解かなければならない事実が生じた」
「だったらなに?」
「この世界には『白野』の『産まれ直し』と『転生者』がいる。こんなこと、他の『産まれ直し』では聞いたことがない」
「その名前を、」
『白野』の名を聞いて、怒りが込み上げる。
「あんたみたいな奴が呼ぶな!」
その名を呼んでいいのは、その名の人物を知っている者だけだ。つまり、この世界ではリゾラだけ。
もう二度と会えないというのに、彼氏でも恋人でもないクセに夢で見るたびに彼氏面、恋人面をしてくる男。リゾラが目覚めるたびに一瞬でも帰りたいと思うときは大体、『白野』の夢を見ている。
「君は聖女に関わるべきだ。そうすれば『白野』への道筋も見えてくる。復讐だって果たせるだろう」
「根拠は?」
「もう一人の君が、聖女に関わっている」
「は?」
「『神藤』と名乗った人物を、僕はもう一人知っているんだよ」
老人は溜め息をつく。
「この世界には君が――転生した君がもう一人いる」




