愚かなる重力
♭
私は、なにをしているのだろう。
「皇女が一人となった絶好の機会であったというのに、殺せんとは! 異端ではないことを証明すると息巻いていたお主の言葉を信じた私が愚かだった!」
私はアイシャに会って、一緒に逃げ出したいだけなのに。
「バートハミドでは上手く立ち回り、ガムリンを暗殺したことを評価し、更なる功績のためにと邁進するその気風を感じ受け、使ってやったというのに! すぐさま『異端審問会』の本部へと連れ戻し、実験体にしてやってもよいのだぞ!? 新たなる研究のための母体――孕み袋にしてやってもよいのだぞ?!」
帝国の皇女様を殺そうとしているなんて、一体、なにをしているのだろう。
「再びの奇襲の隙を窺ってももう暗殺は不可能だ! 顔を見られていないことが唯一の幸運だが、矢は材質が製造場所で異なる! 調べられれば足がつく! お主がやったことが知られることも時間の問題である」
私は、帝国育ちの冒険者なのに。
父母の農場経営を少しでも手助けするために魔物を退治し、小銭稼ぎをしたかっただけなのに。
「元はと言えば! “穴”に堕とした冒険者に成り代わらせたところから間違いだった! こうなると分かっていれば! 素直にスパイとして潜り込ませ続けておけばよかった!」
……そうだ、私は成り代わった。
だから、帝国育ちの冒険者ですらない。
そして、手助けしたい父母すらこの世には存在しない。
「お主のロジックをひとたび、あの異端者どもが触れればお主がやった全てが白日の下に晒され、お主の経歴の全てが暴かれる! 王国の『転写』技術から産まれたお主が捕まれば! 帝国に王国を攻める絶対的口実を与えることになる! もはやお主を暗殺者として派遣することすらできはしない!」
私は、なにをしているのだろう。
「こんな凡人をアーティファクトが選ぶとは! 神が滅ぼした一族はよほどに性が悪い! やはり神に背きし者たちは根絶やしにせねばならない!」
骸骨のように痩せこけた男はただひたすらに、感情的に私を叱りながら退散する準備を終える。
「来い、ニィナリィ・テイルズワース!」
「リオンはどうするというの?」
「私たちが関わる筋合いはない。リオンを現世に誘き出したというのなら、その責任は帝国とその異端者どもにつけさせるべきである。『人狩り』にも満たない冒険者如きが、一兵卒の軍人どもが束になったところでリオンには敵わん」
私は、友と呼べる人が戦っているのに、その場所に肩を並べて立つことすらできない。
「いずれにせよお主の命も幾ばくもない。アーティファクトが馴染まずに死ぬか、もし馴染んだところで長生きはできはせんのだ。お主には、そのアーティファクトを抱えられるほどの器ではないのだから」
私は、
本当になにを、
しているのだろう。
*
リオンが動けば地面は揺れ、跳ね回れば地面は砕け、爪を振るえば地面は抉れる。異界獣の動き一つでその場の状況が目まぐるしく変わる。そのため、足運びや回避は常々に上手くいかない。頭で事前に考えている回避のための道筋がリオンによって断たれることが多々ある。ただし、避け方を一つ間違えれば即死するような場面はリオンが道筋を断つ動きではなく殺すための爪の一振りや丸呑みにするが如き速度で噛み付いてこようとした瞬間だけだ。それ以外では多少、足がもたついても異界獣に屠られることはない。
火天の牙は気力を溜めに溜めて放つ技で、連続では放てない。だから飛刃に炎を乗せることはできても脚を引き裂いたほどの威力は出ない。だからアレウスが牽制として放っていることをリオンはものの数分で理解し、もはや飛刃の一つ一つに対して回避しようとしなくなった。そのため気にするのは常に上空で魔法を唱え続けているアベリアだ。彼女の『赤星』から始まった火球の数々は時間差で次々とリオンへと降り注ぎ続けている。異界獣としては避けたいのだろうが、時間差がある上に火球の落下速度が微妙に緩慢であることから、数十発は避けられても、それ以降の数十発は喰らわざるを得ない。そんな状況をリオンに押し付けている。
アレウスではなくアベリアが注意を惹き付けているのは状況として良くはない。だからアレウスがリオンにとってその命を取られるほどに危険な存在であると認識させたい。いや、させなければならない。
『継承者』の力を解放している間は魔力が無限大にもあるように見えるが、有限でありいずれは限界が来る。その瞬間、アベリアは対抗手段を失うどころか宙に浮遊することすらできなくなり、リオンに狩られてしまう。そうなる前に足元へ注意を惹き付けたい。
アベリアならば魔力切れを起こす前に撤退する。そのように考えることもできる。だが、リオンが易々と引き下がらせるだろうか。いや、そんなことはさせない。攻撃の手が鈍り始め、やがて自身に落ちる火球が消えた頃――アベリアが後退の意思を示したその刹那に、この異界獣は地面を蹴って跳躍し、アベリアを引き裂く。
だから耐えている。耐えれば殺せると分かっているから。この攻撃は永遠には続かないと知っているから。
「お前はもう少しこっちを見た方がいい」
呟き、気力を溜める。
「“火天の牙”!!」
二回目の炎熱の飛刃。『超越者』の力を乗せた切り上げの一撃をリオンは右前脚に浴びて、炎に焼かれながらその肉が引き裂かれる。岩石の皮膚片はさながらつぶての如く辺りへと弾け飛び、その一打を受けて複数の冒険者や軍人が昏倒したり、腕や足が千切れる者さえいる。
だが、彼らに構ってはいられない。助けられるなら助けている。自分自身の命を守るので精一杯だ。それはアベリアも同じで、彼女は自分自身を守るためにしか炎の障壁を作らない。魔力を回す余裕がない。詠唱する暇がない。
二度の火天の牙を受けたことで、リオンの動きに変化が起こる。今までアベリアばかりを注視していたが、ようやっとアレウスへの注視も再開し始めた。それでも脅威度は未だアベリアが上回っている。
リオンはアレウスを踏み潰そうとする。最初は火球を避ける合間であったが、徐々にそれではアレウスが殺せないと分かったのか、段々と狙って踏み潰そうとしてくるようになった。これでアベリアの負担が少しでも減ればいいのだが、今のところその傾向は見られない。
とにもかくにも、巨躯もそうだが岩石のように固い皮膚を持っているのが厄介だ。光が弱点であったのは間違いないのだが、太陽光に弱いわけではないらしい。異界で行ったときのような強烈な発光で目を眩ませるのがやはり必要となってくる。
だが、どうやってリオンの正面に立てばいいのか。そもそも顔面にまで近付くことができるのか。なにより異界では通用したが、この世界に誘き出したことで光へ耐性を得ていた場合、目を眩まそうとして失敗すればそれはそのまま死を意味する。
足は止めずに、飛刃を放つこともやめない。常に頭を動かして、回避と攻撃を続けてはいるが厳しい。
「いいや、厳しいことは最初から分かっていた」
分かっていたことを現状を把握するために思考するのは無駄に脳を疲れさせる。アレウスは可能な限り、目の前の現実を見て、できることだけを考えるよう努める。
それでも、杞憂や懸念が拭えない。普段から思考で戦いに行く人間が思考せずに戦いに行くのはよっぽどの怒りを発露させたとき以外にない。
リオンに対しては怒りがある。しかし、いわゆる復讐から来る怒りに任せるだけでは討てないと理解しているからこそ、理性が感情を抑制する。怒りに身を任せるなと命令し、制限をかける。
その指令は正しいが、正しさのせいで獣のようにはなれない。
異界獣がアベリアに向かって咆哮を上げる。音波による強烈な攻撃は彼女の三半規管を侵し、浮遊しつつもその飛行に危うくなる。回避行動に移れないだろうと踏んでリオンが跳躍し、彼女を仕留めに掛かる。させまいとアレウスも跳躍しながら炎の飛刃を放つが、リオンは無視する。岩石にも似た皮膚が裂傷を遮り、零れたつぶてが全てアレウスへと降りかかる。
「まだ……まだ!」
アベリアはリオンの爪撃を間一髪で避けながら火の矢を放つ。だが、異界獣は中空で回転し、更なる追撃にかかる。
「存外、隙だらけなものなのだな」
リオンの頭上――それこそ頭骨の頂点を貫かんとする凄まじいまでの落下速度で、天より一筋の光の如くカーネリアンが剣を突き立てた。その衝撃は見て分かるほどで、アベリアに迫っていたリオンは強制的に地面まで突き落とされた。
「しかし、硬すぎる。エキナシアと共鳴する刀であったなら……いや、それでもまだ怪しいか」
刺さってはいるがリオンの皮膚を貫き、筋肉も断ちはしたが骨まで貫いてはいない。カーネリアンは感触と、自らに返ってくる反動でそれを理解し、そしてその硬さによってその手に握っていた刀は砕け散った。
「これでもドワーフの里で鍛造している相応の刀のはずだ」
すぐさま羽ばたき、カーネリアンがアベリアの手を掴んで滑空しながら地面に着地する。その間にリオンは頭部に起こった衝撃を振り払うべく首を激しく左右に振って立て直していた。
「すまないが回復魔法をかけてくれないか? 辛うじて左腕で掴めこそしたが、今ので刀どころか私の両腕から肩までの骨が砕けた」
「“癒やしを、一つ分”」
アベリアの炎がカーネリアンの両腕を包み、砕けた骨を繋ぎ、筋肉を結び、皮膚を縫合する。
「……『超越者』の力を使うまでは、力は反発しないようだな」
「分かっていると思いますが、わたくしの貸し与えた力を使ってはいけませんわ。エキナシアとその刀がないと、あなたにはまだ制御できませんでしてよ」
続いてクルタニカも降りてくる。
「異界からリオンを誘き出したことに驚きを隠せませんわ。ピスケスの異界ではまだ助けられるだけの下賤の輩だったというのに、今ではわたくしたちにとっての支柱でしてよ。あなたに目を付けたわたくしの審美眼は間違ってはいなかったということですわ」
「今、それを話している余地があるか?」
呆れるようにカーネリアンが溜め息をつき、自身の両腕の具合を確かめてから腰に提げていた鞘から新たな刀を抜く。
「さて、次の刀は折れなければいいが」
「折れるような使い方をしているのはカーネリアンでしてよ」
「ガルダは『悪魔の心臓』を打ち込んだ刀以外での戦い方を知らないのでな」
「だったら今、学びなさい」
慌ただしく話をして、二人が空へと飛翔する。
「危ないときは私たちが攪乱を担う」
「退避も難しそうならわたくしたちが務めますわ」
言い残し、二人はリオンの頭上を飛び回って注意を惹き付ける。頭骨に至るのではないかと思うほどの攻撃を受けたことでカーネリアンへの脅威度が一気に増し、異界獣は攻撃を中断したアレウスとアベリアではなく二人を強かに狙い始める。
「どうだ、アベリア?」
「……うん、戻ってきた」
自身の炎で三半規管に受けた損傷を治し切って、アベリアは確かな足取りを取り戻す。
「でも、二人に任せたらリオンが更に暴れることになっちゃう」
カーネリアンとクルタニカに任せれば、確かに安全に攪乱はできる。どれだけリオンが強大な異界獣であって、その背中には翼はない。跳躍ですら届かないほどの高さまで逃げ切ることでほとんどの攻撃は無視できるからだ。しかしその分、リオンは上空を狙うかのような動きを更に強めるため、より激しく暴れ回ることに繋がる。それは更に大地を踏み鳴らし、後脚が持つ破壊の脚力が地面を容赦なく抉り飛ばす。土煙は噴煙のごとく立ち昇り、生じる石つぶては周囲に飛散し、尖兵たる魔物たちは土煙に隠れてアレウスたちのみならずこの場にいる人間という人間に奇襲をかけてくる。それが結果的に場を悪くしかねない。
「ガラハ! ヴェイン! どこにいる?!」
どうにもできないときは仲間を頼る。エレスィやカプリースでも構わないが二人がこの場に戻ってくるタイミングが分からない。リオンの近くには二人の気配はなかった。そうなると二人は尖兵を倒すために奮戦していると考えられる。だから合流の確実性は二人の方が高い。
「ここにいるぞ!」
三日月斧を激しく振るい、魔物を十数匹を一度に切り払い、更には妖精の粉が追い打ちをかけるように爆発を起こす。
「途中まではオレが注意を惹き付ける役を担っていたが、リオンが辺り一帯に興味を持ち始めてからオレを狙わなくなってしまってな」
斧刃に付着した血をスティンガーが起こした魔法の水が流し、再び妖精の粉が刃に充填される。
「ヴェインは僧侶部隊となにやら策を練っているらしい。それで? またオレがリオンの注意を惹き付ければいいのか?」
「できることならやってもらいたいが、一人では担い切れないだろう?」
「そうだな。担っていたときも、できることなら別の人に代わってもらいたいと思い、足が竦みそうになっていたのを聖歌隊の唄声でなんとか奮い立たせていた」
聖歌隊による一時強化があるのなら、エルヴァによる『指揮』の一時強化もあるはずだ。アベリアには聖歌隊の唄による強化は入っているかもしれないが、神を信仰していないアレウスには『指揮』しか効果がない。エルヴァに余裕があるなら『指揮』を掛け直してもらいたい。
『“アレウリス・ノールードとその志に連なる者に命じる”』
『接続』の魔法によってアレウスの脳内にリスティの声が響く。
「そうだった、『指揮』を使えるのはエルヴァだけじゃない」
『“己が使命を果たすため、攻勢を開始せよ”!』
リスティの『指揮』によって、アレウスは体の奥底から気力が回復だけでなく、気分の高揚も感じる。
「エルヴァが技能を出さないのは冒険者部隊を率いて、そっちを直接指揮しているからだろう」
担当者のリスティによる『指揮』は『接続』の魔法でアレウスのパーティにのみ掛けられた一時強化だ。そのため、他の冒険者や軍人に彼女の出身がバレることもない。
「これなら僕と一緒にリオンの前に立てるか?」
「神を少し怪しんでいるオレにもほんの僅かだが高揚感がある。讃美歌も続いているのなら……なによりアレウスとなら恐怖も消し去れる」
「決まりだな。アベリアは空にいる二人と合流してくれ」
「うん」
炎の翼を広げてアベリアが飛翔したのを見届けてから、なにも言わずにアレウスとガラハが走り出して土煙の中へと飛び込んでいく。目の前に石のつぶてが飛んでこようとも、突如として魔物が襲撃してこようとも、それら全てを二人の力で薙ぎ払っていく。
「オレたちが見ているのは雑兵ではない」
そう言い切って、ガラハが土煙を三日月斧で切り払う。微かに見えたリオンの後脚を攻撃――するのではなく、左に避ける。こんな激しく動き回る部分を切りにはいけない。確かに腱を切断できれば大きく動きを削げるが、岩石の皮膚はあまりにも強固だ。ならば狙うは腹部、もしくは横から狙いにいける胴体。なにより巨躯であることで胴体という目標には攻撃を当てやすい。
「オレの飛刃とお前の飛刃を同じ箇所に可能な限り当てていく」
「確かにいつかは有効打になるかもしれないが、果てしないな」
なによりアレウスとガラハの両方とも飛刃を放つことこそできるが狙った箇所に遠距離から当てる技能は持っていない。
「だがそれ以外にリオンを削る方法はない」
「だな」
ガラハがまず十字の飛刃を放ち、アレウスが続けて炎の飛刃を放つ。どちらも胴体を狙ってはいるが当たった箇所は異なる。失敗こそしたがなにも言わずに同じことを何度も繰り返していく。
リオンが煩わしいとばかりに左前脚でアレウスたちを薙ぎ払いにかかる。もう少し距離を見誤っていれば持って行かれていた。やはり脅威度が下がっているからといって余裕があるわけではない。
――神よ、世界に与えられし理に歯向かうことを、
「……なんだ?」
複数人――それも数十人単位の声が重なって響き渡り、アレウスは思わず呟きを落とす。
――神よ、世界が背負うべき重しを悪用することを、
リオンが動きを止め、天を仰ぐ。
――我らのような愚か者どもが犯す罪を、お赦しください。
自由自在に跳ね回っていたはずのリオンが両前脚を下ろし、両後脚か脚力が失われていく。
――愚かなる重力
唸り、雄叫び、咆哮を上げる。両後脚にそれぞれ光が結んだ鎖が一つずつ、そしてその逆の先端には巨大な光の錘が転がる。
「まさか、異界獣にだけ重力を集中させたのか?」
「重力の利用はノックスさんやセレナさんの力場から。錘は俺自身の酸素供給の魔法から。そして異界獣の自由を束縛するほどの魔力は神官の聖歌隊からそれぞれ着想を得たんだ。俺一人じゃ異界獣を留めることは不可能だけど、数を揃えれば負担は軽減されていつかは異界獣に届く。あとは、俺の考案した魔法の理論を僧侶と神官の方々が理解してくれるかどうかだったけど、さすがは敬虔なる信徒だよ。誰一人として分からないと言う人はいなかった」
ヴェインがアレウスの元へと駆け付ける。
「いわば、数十、数百人で起こす大詠唱さ。そして神官がいてくれるおかげで祓魔の力も混じって、リオンが放つ『異常震域』の効果もほぼ機能しなくなる。これで異界獣の暴れ方も素直なものになって、大地に起こす被害は減少するはずさ」
「とんでもない逸材だな」
簡単そうに言いつつ複雑なことをやったことをなんとなく理解したガラハが驚嘆する。
「臆病者は空想好きなんだよ。これがこうなったらいいな、あれがこうなればいいなと考える。それが自分自身の持つ魔力で可能なのかどうかを考えて、試行錯誤する。魔法の誕生はいつだってそういう空想の発展だと俺は思っているよ」
鉄棍棒が地面を打つ。
「指示をくれ、アレウス。僕も君を苦しめ続けたこの異界獣を討ちたいと、心の底から思っているんだ」




