全力逃走
♭
「現世に異界獣を誘き出し、討伐する。それが悲願であるのなら、それが復讐であるのなら……さて、どうしたものか」
オエラリヌは朽ち果てて転がっている大木の上で呟く。
「……いいや、人の子の決断に死人がどうこう言うものでもないな。しかしながら、試練ではあるぞ? 人の子だけではない。人の子の生き方に魅せられた者にとっても試練である」
笑みを零す。
「だが、いらん心配ではあるかもしれんな。なぜなら、試練とは越えるためにあるもの。越えられん試練など試練ではなく無理難題と言う。はてさて、人の子たちにとってこれは試練か、はたまた……ふっ、いいものだな。眺めるに値する戦いを間近で見ることができるのは」
背伸びをし、朽ち果てた大木の上から降り、呼吸を整える。
「少しばかり手伝ってやろう。この界層で全滅されては面白さなど欠片もないのでな」
半身を後ろに引き、気合いと気迫と気力を込め、右足が地面を強く踏み締める。
「我が踏鳴。まさに雷鳴の如くなり。控えろ、程度の知れた雑魚どもよ」
オエラリヌの放った地面への震動は界層全体にまで行き渡る。
*
「わ、わた、私は、助かるんでしょうか?」
『竜の眼』を持つ少女は出発直前にアレウスへと訊ねる。昨日の内に聞きたいことを全て聞き出しておきたかったが、それよりもリオンを誘い出しながら異界からの脱出の作戦を詰めるのに時間を取った。身の上話など助けてからでもいい。身の上話を聞いて助けられなかったなら、きっと後悔し続ける。
だから助けるまでは他人。それを貫き通したい。
「助かるかもしれないし助からないかもしれない。かなり無茶苦茶なことを言っているけど、僕たちはこれからかなり無茶苦茶なことをする。君がそれに付いて来られるとは思えないから、僕たちは精一杯サポートすることになる。その結果、誰かが死ぬかもしれないし死なないかもしれない。だから助かるかどうかはまだ言い切れない。君の努力次第であり、僕たちの努力次第でもある」
「え…………っと?」
「……?」
アレウスは首を傾げる少女に対し、同じように首を傾げる。
「君は僕の言っていることが分かるかい?」
違和感の正体を探るべく訊ねる。
「な、な、なんとなく、は」
「僕たちが昨日の間に話していることで分からなかったことは?」
「幾つかはあったんですけど、でも、必要最低限の言っていることは、分かった、ので」
話し方に拙さはない。流暢でもある。なのにアレウスの言っていることが恐らく六割ぐらいしか伝わっていない。
「今から文字を書く。読めるかどうか答えてほしい」
地面の砂を指で滑らし、かなり大きな文字を描く。
「あの、その……私、文字は、分からなくて」
識字ができていない。そんな段階から彼女は異界に堕ちていたというのか。それではアベリアと同じではないか。
いや、アベリアよりも酷い。アベリアは当時、文字の読み書きこそ怪しかったが話している内容は理解できていた。
「言語の習得が半端な状態なのか……」
産まれてから数多くの言葉、会話、コミュニケーションを通じて人は言語を習得する。たとえ文字が読めなくとも基本的に会話に支障をきたすレベルには至らない。
この子の場合は異界に堕ちてから魂の虜囚が行っている会話を盗み聞く程度でしか言葉と関わってこなかったと思われる。だから中途半端に話し言葉は習得していても、会話量を増やして前後の内容を複雑化させると途端に分からなくなってしまうのだ。
「す、すみません」
「そんなことで謝らなくていい。学びたいと思うなら異界を出ることに全力を尽くしてほしい」
「分かりました」
「多くは求めない。僕たちは君に『行け』や『行って』と言う。『走れ』や『止まれ』とも言うだろう。時には君を担ぎ上げて走ることだってある。拒まず、受け入れてほしい」
「『行け』、『行って』、『走れ』、『止まれ』」
「あと『静かに』や『黙れ』とかかな」
「それなら分かります」
「言葉の意味も?」
「はい」
「なら、それ以上は求めない」
子供に複雑なことを命令したり指示することもない。ましてや『竜の眼』こそあれ、ほぼ無力と言っていいほどの女の子に戦えとはとてもではないが言えない。そして、戦う術を教え込む時間もない。
「アレウス、朝食は?」
「ここで食べていたら乞食が集まってくる。ただでさえ辺りから視線を感じているんだ。まずは集落を出てからだ」
「一夜にして安全な場所がある意味で危険な場所になるとはね。でも、一日休んだおかげで僕の魔力も回復した。昨日みたいにアーティファクトを最大限に撃ち出すことさえしなければどうとでもなる。僕はアベリアのように膨大な魔力を有してはいないから節約に努めさせてもらうよ。ああでも、だからって見捨てる選択は取らない。そんな場面に遭遇したら魔力を全て吐き出すつもりだよ」
カプリースもアベリアと同じ『継承者』のはずだ。特徴としては巨大な魔力の器と莫大な魔力量を持ち合わせている。なのにアベリアよりも魔力量が少ないと言う。
「……カプリース?」
「念のためだよ、念のため。とはいえ、そっちに魔力を割きすぎた感は否めない。僕はあれだけ啖呵を切った割に、異界へ堕ちるあの瞬間までナメていた」
莫大な魔力の大部分を別のところに回している。そのように推理してカプリースを問い詰めるつもりだったが、すぐさま白状した。その念のためが果たして機能するのかどうかは措いておく。ともかく彼の魔力量はアーティファクトを展開するだけでギリギリになる状態と捉えていればいい。正直、それだけでも圧倒的な魔力を有している点に違いはない。
「陣形はどうする?」
ガラハが三日月斧の握りを確かめ、背負い直してから言う。
「中央に女の子を。彼女を守るようにして進む。戦うよりも戦いながらの逃走だ。隊列や陣形を気にしすぎると逆に乱れる。だから、女の子を守るようにして団子状。正面はガラハに最初は走ってもらうけど、時と場合によって入れ替わる。アベリアも、やれるな?」
「うん。魔力は昨日からずっと温存してる。『原初の劫火』も使っていいなら、私も前を走れる」
脱出後のことを考えるとアベリアにも魔力を温存しておいてもらいたい。そうなると『原初の劫火』という切り札を切ったとしても長時間、彼女を戦わせてはならない。彼女が『原初の劫火』を使った瞬間に入れ替わることは意識するべきだ。
「俺も『衣』を使わせてもらいますよ。総力戦前の前哨戦ではありますけど、リュコスで死にかけたことを反省し、生存における迷いは全て断ち切ります」
「よし、じゃぁ行こう。まずは上の界層に渡る穴を見つけて、その近くで朝食を取る」
「スティンガー」
ガラハの呼びかけで妖精が懐から飛び出し、宙を踊る。落ちる鱗粉の一つ一つが淡い輝きとなり、おおよそ妖精の意思とは思えない速度で彼方までの道標の如く、地面で仄かに明滅する。
『灯らなかった大灯台』。帰還補助のガラハとスティンガーによるアーティファクトだ。ただし、その力は完全に使われているわけではなく最小限にして極めて一部。彼方への道標こそ作りはしたが、明滅する光の数は片手で数えられる程度。本来ならばここに更にガラハが悲劇の日に見た大灯台の情景が浮かび上がる。
方角さえ分かればそれでいい。だからこその最小限だ。道標の先に界層を渡り、昇る穴がある。光はスティンガーの、ガラハに生き残ってもらいたいという切なる願いで、生き延びるための道標なのだから。
集落を出てからしばらくは慎重だった。しかし、周囲にあるはずの魔物の気配が薄弱であったため段々と大胆な進行となり、アーティファクトが指し示した方角にあった坑道なのか洞穴なのか判然としないところにはすんなりと入り込めた。アベリアが『灯り』の魔法を唱えてようやく誰が掘ったわけでもなく自然とできた洞穴であると判断ができ、しかしながらそこにも魔物の気配はなかったために極めて早期に空気を吐き出している“穴”を発見する。
まずは胸を撫で下ろし、食事を摂る。保存食として今の時期にはあまり向いていないペミカンは昨日の内に使い切ったため、いつものように干し肉やドライフルーツで空腹を満たす。今回はカプリースが持ち込んだ魚の干物とエレスィが引っ張り出した柑橘系のフルーツを蜂蜜に漬け込んだ物もあったため、比較的豪勢ではあった。女の子は特に蜂蜜漬けのフルーツに喜びを得ていた。それこそ食事中に涙を流すほどであった。
「これぐらいの食事で涙を流すなんて、今までどうやって生きてきたんだい?」
「泥水を啜って、廃棄された食事を手掴みで食べて……空になったお皿に付いていた食べ残しを舐めて」
「分かる。それが当たり前だったから」
アベリアだけが共感しているが、周囲は引き気味である。。
「聞いた僕が悪かった。アレウスもそうだったのかい?」
あまりにも悲しい話が飛び出てきたためにカプリースが中断するように求め、話を振ってくる。
「知っていると思うけど僕は、」
「その部分から先は?」
死肉を喰っていたなどと言ったら女の子が本気で怯えかねないために制されてしまった。
「仕事をさせてもらえるまでは料理屋なのかどうかも分からないけど、その手の屋台から食材を盗み喰いしていた。調理されていた物を盗るとバレやすいから、切れ端とか食べ残しだったかな」
「だったかな、と軽い感じで言える神経が俺には分からないですよ」
そんな当時どうやって喰い繋いでいたかの話もそこそこに、食事と休憩を済ませて荷物を纏め直す。女の子が怯えていたのでアベリアが手を繋ぎ一緒に飛び込んだのを見届けてから、各自が続く。
界層を渡ってすぐに魔物の気配を探る。どんな場所にいるかよりも最重要だ。恐らく第四界層。ここからは昨日、アレウスたちが来た場所となる。マッピングはほぼ済ませているため道には迷わないが“穴”の位置が不確定。第三界層から第四界層に渡った際の“穴”は無いものと考えるべきだ。だからガラハがアーティファクトを再び使用する。最小限にして最低限ではあるが、顔色は先ほどよりも確実に悪い。嫌な記憶を思い出して用いるのがアーティファクトである以上、常に過去の記憶と向き合い続けなければならない。それでもガラハは泣き言を一つも言わない。その姿勢を見て思うところがあったのかこの界層でカプリースの飄々とした態度が消えた。魔物への対応が早くなり、おかげで奇襲を受けることはほとんどなく、エレスィの先行もあって逆に奇襲をかけることができるようになった。どうしても倒さなければならない魔物への対処となるが、これだけで全体の負担が減った。
「リュコスの気配がどこにもないな」
最も警戒しなければならない魔物の気配も、そして姿もない。とはいえ、壁を突き破って現れるまでアレウスたちはその存在を認識できていなかったのだから、今回もまたアレウスたちが動ける範囲の外で潜んでいると考えるべきだ。
「あれが出たときには全速力……でも、子供の足の速さでは限界が」
「私が重量軽減の魔法を掛けるから」
エレスィが危惧するもアベリアが打開策をすぐさま口にする。誰が見ても彼女は女の子に過去の自分自身を重ねている。どうやっても、なんとしてでも助け出したい。そういう気持ちが焦りに繋がらないとも限らない。だからこそより一層の冷静さがアレウスには求められる。
関門形式の第四界層は魔物の数こそ少なくなってはいたが、それでも広間には必ず魔物が待ち構えていた。それもオークの数が極端に増えている。オーガの姿が見えないのだけは幸いといったところだろう。
「ゴブリンみたいな小物が中型の魔物に淘汰されたんだろうな。リュコスが暴れ回ったことであのずる賢い小鬼どもは縄張りにできないと思って逃げ出しただけとも思えるが」
「その点、オークはゴブリンより知性は乏しいのでまだ居座っているわけですか」
ガラハとエレスィが広間を見て、壁伝いの移動を開始する。
「頭は悪くともリュコスが縄張りにしているならさすがのオークも逃げ出してもおかしくない。僕からしてみれば不穏だね」
「その不穏に立ち向かうしかない状況も更に悪い」
「だが、オークまで犠牲にしてリュコスが再び暴れることをリオンが許すかどうか。まぁきっと許さない。僕たちが魔物を討伐していることは異界獣も勘付いている。警戒状態だから、単に強い魔物を並べているだけとも受け取れる」
「リオンが魔物に命じたところで、そんな素直に魔物が縄張りを変えられるか?」
「さっきガラハが言っていたように淘汰はできる。界層ごとの魔物の数を自ら調整することで、オークが自然と縄張りとして活動しやすい状況を作り出す。河川に人間が住み着き、文明を築くのと同じだよ。オークが棲息できる環境にするだけさ」
とはいえ、これは逆にチャンスでもある。オークをどれだけ並べられてもゴブリンやコボルトほどに勘は良くなく、ガルムやハウンドたちのように足の速さもしつこさもない。鼻が利くが、視力は悪い。臭いだけで辿られてもその贅肉はアレウスたちが通路に滑り込めば邪魔となり、入ってこようものなら容易く迎え撃つことができる。
「走れ」
だからアレウスはオークに気取られても女の子へ走ることを命じる。言われるがままに女の子が走り続けて通路で待っているエレスィたちの元へと到着したならアベリアを走らせつつ、アレウスが最後尾でオークの進行と攻撃に合わせて飛びすさりながら通路に入る。極端な個体以外は無視する。中型の魔物と何度も戦ってなどいられない。ゴブリンやガルムと散々に比較こそしたが、匹単位での危険性は圧倒的にオークが勝る。冒険者でなければ数で制圧されるか、個の強さで蹂躙されるかの違いであり、その存在が決して脅威なわけではない。
空気を吐き出す“穴”を見つけ、急いで飛び込む。その先で既にガラハが三度目のアーティファクトの展開を始めようとしていたが慌てて止めて、マッピングした地図を見せる。
第三界層は右回りの渦巻状の構造だった。だから上の昇る“穴”の位置も未確定ながらも推理できる。地図上においてアレウスたちのいる場所が渦巻き構造の中心であるなら、その最も遠い渦の端。だが、その端に行っても見つからないようであればガラハのアーティファクトに頼る。その方針を示して、アレウスは広間での分かれ道においては左回りを意識するように伝えた。
ここにもリュコスの姿が見えない。やはり不穏なのだが、そんなことは集落を出てからずっとなので、もはや気にしていられないものになりつつある。基本の動きはエレスィが斥候、ガラハが偵察、カプリースとアベリアが女の子を守り、アレウスが殿で魔物を捌きつつ通路に駆け込む。広間ではこれを繰り返した。途中でアレウスの役割をガラハが務めたり、エレスィの役割をアレウスがやったりと些細な変化はあったが、とにかく速度重視であったために柔軟にパーティ内で足りていない役割を担う空気が出来上がっており、全員の実力が足りていることで立ち位置の入れ替えについての不安は微塵もなかった。
進めば進むほどに女の子に疲労の色が見え始めた。元々、栄養が足りていない環境下で生きてきたのだ。走れと言われても限界は早々に訪れる。ましてやアレウスたちと違って無力な彼女には魔物と遭遇するたびに言いようのない恐怖が全身を強張らせ、そのたびに寿命が縮まる思いをしている。神経を擦り減らし、それでも走れと言われるから走り、止まれと言われれば止まる。これの繰り返しをアレウスたちは難なくこなせても子供には耐えられない。
「休憩を取る」
第二界層へ渡るための“穴”を発見して、アレウスは告げる。女の子は息も絶え絶えで、その場に座り込み、そして仰向けに倒れてしまった。強行軍になってしまったが、一応の安全地帯だ。魔物が押し寄せるようなら“穴”に飛び込むだけで逃げ切れる。だからこそ休憩は“穴”の前で取る。これはヴェラルドの手記においても書かれており、徹底されていたことだ。
女の子に水を与え、アレウスたちも水分補給を行う。ドライフルーツを噛み締め、小瓶に入れた塩を僅かに手の平に出して舐める。汗をタオルで拭い、魔物を牽制し、防御のために振っていた剣には刃こぼれが見られたため砥石で磨き直す。ただ、磨いたところで気持ち的にマシになる程度で刃こぼれを直せるわけではない。
「次が第二界層――アレウスさんたちの経験と異界の界層構造が変わっていないなら、第二界層ですね」
アレウスとアベリアが堕ちていた頃の集落は第五界層にあった。そこから上に二界渡って、第三界層という見立てであるため、この“穴”を通れば第二界層だと思っている。思っているだけで確証はない。
「四日貰った割に二日で退散できるとはありがたい話だ」
カプリースはエレスィから貰った柑橘の蜂蜜漬けを口に放り込みながら言った。
「堕ちた界層が良かった。あとは君たちの用事が早々に終わったのも大きい。ただ、お守りをさせられることになるとまでは予想が付かなかった」
「終わってない。終わってないんだ」
アレウスは呟く。
「僕がこれから終わらせなきゃならない」
「…………そうか、死ぬなよ」
表情から察したらしく彼はそれ以上聞くことはなく、それ以上を求めることもなかった。
「どう? 動ける?」
「大丈夫、です」
女の子は水分補給を終えてからはアベリアに渡された布で汗を一生懸命に拭い、息を整えている。
「運動を怠り続けてしまって、体力が」
「その年齢で怠る怠らないの話をしだしてはキリがない。今ある全力で走ってもらいたい」
「は、はい」
女の子には厳しく聞こえたかもしれないがガラハなりに優しい気遣いである。ただ、伝え方の問題で怯えられているのが欠点だ。
それから一時間弱をその場で過ごした。
「覚悟は決めたか?」
全員が荷物を纏め終え、女の子の体力も一応の回復が見えたところでアレウスが訊ねる。女の子を除く全員が視線で同意しているのが分かる。
だからアレウスも返事をせずに“穴”へと飛び込んだ。
一瞬の暗転、一瞬の重力の消失。そして見えてきた地面に着地し、通路ではなく巨大な空間に立っていることを認識する。空洞と呼ぶにはあまりにも広く、もはや洞窟の体を成していない。全員が無事に“穴”から吐き出されているところを確認し、一度だけ深呼吸をする。
空間が、地面が、視界が、なにもかもが震動を始める。
「最終感知エリア」
ボソリとアベリアが呟いた直後、磨き上げられた鉱石のように鋭い剛爪が地面から突き出し、抉り、『掘り進める者』が自らが掘削した穴よりこちらを覗き見る。
異界の主、この巣を束ねる者。その姿形は獣の王とも呼ぶべき獅子を模し、体中にこびり付いた岩石を身を震わせて辺り一帯に撒き散らしたのち、キングス・ファングやリュコスよりも巨大な体躯の喉奥より迸る咆哮が一帯に駆け抜ける。
「走れ!!」
女の子に限らず全員へ指示を出す。もはや隊列や陣形など関係ない。ここからはなにも考えずにひたすら走る。走って走って走り続ける以外に生き残る術はない。
「“軽やか、一つ分”!」
早々にアベリアが女の子に重量軽減の魔法を掛け、彼女の全力疾走に力を貸す。それでもまだ子供の足ではアレウスたちには追い付けない。
「お前は明るさが苦手だったよな?」
そう言って、アレウスは女の子を掴んでガラハたちの方へと投げ飛ばしてから貸し与えられた力を着火させる。その身に炎を宿して起こす一瞬の閃光によってリオンは目を眩ませ、咆哮を上げながらも足を止めた。足元の爆発によって跳躍力を得て、ガラハから女の子を抱き上げ、降ろす。その間にリオンの視界は晴れたらしく、怒涛の疾走が開始される。リュコスよりは遅くとも荒々しく、地面を掘り進めるがごとく抉り、突き進んでくる。
「“水流よ”」
カプリースが放つ水流を真正面に浴びながらリオンは構わず突進を続けている。
「完全に無視されるほどの水圧でも水量でもないんだぞ!?」
アーティファクトほどではないがカプリースの起こした水流は人間、そして中型の魔物であれば間違いなく足を取られ、更には流されるほどの魔力がある。だがリオンのような超大型ともなると、顔や前脚を狙ってもバランスの一切を崩さない。だとしても多少なりとも効果があると彼も期待していたようで、異界獣の反応に驚きを隠せていない。
「変に攻撃をしないで走り続けてくれ」
そう言ってアレウスはリオンの注意を惹き付ける。女の子やカプリースに狙いを定められてはならない。殺気を放ち、気配を消すこともせず、リオンにとっての脅威であると認識させようと努める。
だが、異界獣は意に介すことなく雄叫びを上げ、その空間の震動によって天上から大量の岩石が降り注ぐ。エレスィが女の子を抱え込み、岩石を避ける。ガラハも妖精に導かれて対応する。カプリースとアベリアは炎と水の盾で対処し、アレウスは落ちてくる岩石を見切って避ける。
剛爪が頭上より振りかざされる。視線を切ったのは一瞬だ。その一瞬の内にリオンはアレウスを狩る構えを取っている。
十字の飛刃がリオンの顔面に命中し、そして妖精の粉が爆弾のように炸裂する。軌道が逸れたことで剛爪を避けるが、先ほどまでアレウスが立っていた地面は大きく抉り飛ばされ、弾けるように飛び出すつぶてが体に打ち付けられる。
「“癒やして”」
アベリアの魔法により、つぶてで損傷した内臓や筋肉などの数々の傷が縫合されていく。この程度の疲労感は無視できる。しかし、リオンに真正面から戦う余地も手立てもアレウスの手元にはない。
逃げながら戦う。戦うといっても攻撃をいなすことだけを考える。ひたすらに、ただひたすらに走り続ける。追い立てるリオンの存在感は凄まじく、後ろを見るなと言われても見てしまう。アレウスだけでなく全員がリオンとの距離を常々に意識せざるを得ない。それも気配で感知すればいいだけのことだというのに、視力に頼ってしまう。
「“穴”!」
数度の攻防戦を経て、エレスィが希望を乗せた声を単発的に放つ。彼は迷わず飛び込む――ことはせずに『青衣』を纏って剣を抜き、殿を奔り続けるアレウスを援護するように横一文字の青い飛刃を繰り出す。剛爪で飛刃を弾くが、青い飛刃は弾かれたところですぐさまリオンへと軌道を修正し直し、再び襲いかかる。
「空気が吐き出されている! 上に昇る“穴”だ」
エレスィの横でガラハが確認を取る。
「先に行ってアーティファクトを使う」
言い残し、彼がスティンガーと共に“穴”へ飛び込んだ。
青い飛刃を厄介そうに爪で払い飛ばし、更には尻尾まで使って雑に打ち飛ばし、それでも襲いくる飛刃に苛立ったらしく大口を開けて噛み付き、牙で粉砕する。口の中で生じる魔力の爆発など気にすることもせず、それどころか牙のどこにも欠けは見られない。
「いい時間稼ぎだ」
カプリースが言って、エレスィと彼が抱えている女の子ごと“穴”へと送り込む。
「間に合わせろ、アレウス!」
アレウスの後方に水の障壁を張られる。突っ込むリオンだったが、さすがに一度で突破はできずに跳ね返された。ただしその一度で水の障壁は崩れ去った。そしてすぐさま駆け出し、もうアレウスの真後ろに迫っている。
「構わず突っ込め!!」
アベリアが炎の障壁を展開しかけていたがアレウスの叫びを聞いてカプリースと共に“穴”へ入る。剛爪が振りかざされる。そして振り下ろされるその直後、アレウスは体を“穴”へと滑り込ませる。
「間一髪か」
「喋っている暇はない」
カプリースはアレウスが無事であることに安堵していたが、すぐに空間の震動が生じる。
「この子はもう走れそうにない」
エレスィは抱えている女の子の様子を見て、アレウスたちよりも遠くの位置で伝えてくる。それを聞いている間にアレウスたちも走り出す。
「俺やガラハさんに抱えます! 今はガラハさんの手が空かないので、俺がなんとしてでも守ります」
妖精の鱗粉によって作り出された道標。集落から出発したときよりも道標の数は多いが、それでも抑えている。この状況でもガラハは焦りを制御できている。そしてアーティファクトによって生み出された道標はこのまま行けば、まず間違いなく世界への出口へと繋がる。
走り出しておおよそ三十秒後、再び地面を抉ってリオンが自らの異界を掘り進み、現れる。相変わらず、姿を現した直後は目を離すことができない。動きも止まりかける。単純な状態異常の麻痺ではなく、精神的に生きることを諦めそうになる。
圧倒的に敵わない相手。一振りで死ぬ。そんな巨体の獅子を前にしても生き残るんだと強く言い張れる勇ましさがあるというのなら、それはただの蛮勇だ。ここで求められる勇ましさは、戦わず逃げ続ける方向で全力を賭して生きるのだと駆け抜けられる勇気だ。
「さすがに二度目はないよな」
もう一度、着火時の閃光で目を眩ませることを考えたがリオンにそれが通用する気がしない。失敗したら死ぬのが目に見えている。だから無駄なことはせずに走る。
一度目の攻撃はアベリアの炎の障壁で、二度目の攻撃はカプリースの水の障壁で守ってもらう。だが、この障壁による阻害をリオンはこれで三度学んだことになる。
だから四度目の炎の障壁をリオンは単純に突進で破壊しようとはせずに両前脚の剛爪で容易く切り裂いて突破してくる。その動作にはそのままアレウスへの攻撃も含まれていたものの、障壁で視界が取れていなかったようでなんとか爪の餌食にならずに済んだ。
「ガラハさん……!」
「分かった」
エレスィから女の子を預り、ガラハが抱え上げる。『青衣』を剣に灯し、彼が飛刃をリオンに放つ。しかしその青の飛刃をリオンは理解しており、牙で噛み砕いて早々に処理してしまう。
「ただの飛刃じゃなく『衣』を乗せた一撃なんだぞ……!」
敬語を忘れてエレスィが苛立ちを見せる。その苛立ちは焦りの象徴で、それにすぐに気付いたカプリースが今にもリオンへと突貫しようとする彼の首根っこを掴んで阻む。
「行かせろ!」
「頭を冷やせ。エルフだろうとなんだろうと無理なものは無理だ。その逆襲は世界に出るまで取っておいてくれ」
諭され、エレスィが『青衣』を解いて剣を鞘に納める。
「そんなことを話している場合じゃないんだぞ!」
その輪を乱すようにアレウスが叫ぶ。
ギリギリだ。常にギリギリを走り続けている。なんで自分が、どうして僕が、そのように言葉を並べ立てながら必死に走っている。気が触れる一歩手前とも取れる形相で、尚且つ全く余裕のない渾身の叫びは二人に届いたようで止めていた足を動かし直す。
「見えてきたぞ!」
アレウスが求めていた言葉が遠くにいるガラハから聞こえた。
あと少し、もう少しでこの逃走を終えられる。
「通す通さないの理屈は俺が決める。ゴチャゴチャ頭の中で命じてきたって応じる気はないぜ?」
走り続けていたガラハの真横に、誰の感知の技能にも引っ掛からずに男が立ち、言葉を零す。
「世界を見てこいよ、リオン。お前の巣を荒らした連中のリーダーは俺がしっかりと始末をつける。それで良いだろう?」
女の子を抱えているガラハを通し、エレスィとカプリースを通し、アベリアを横目に見送る。
「よくあそこまで育ったもんだ」
男が剣を抜く。
「まぁ当然か、俺たちが助けたんだからな」
迫るアレウスに男が刃を振るう。だからアレウスも剣を抜いて受け止める。
「強く育ってなくちゃ困るんだよなぁ!!」
その顔は、その姿は、その身なりは、昔となんにも変わらない。変わっているとすればその傍にナルシェがいないことぐらいだ。
「ヴェラルド!!」
「アレウス!!」
剣戟を数度交わし、後ずさったアレウスの後ろにリオンが立っている。だがリオンはアレウスに牙も爪も振るうことなく完全に無視して四人が通り抜けた“穴”へと前脚の爪を突き刺し、無理やり抉じ開けにかかる。
「会いたかったなんて言わせねぇ! この異界に戻ってきたんならお前がやりたいことがなんなのか分かっているからなぁ! だから! こんな異界獣の尖兵に成り果てたこの俺を! ヴェラルド・ルーカスの!! その生き様を!! 終わらせてみせろ!!」




