その耳は
「外から突然やってきた人を見て、彼らはなんとも思わないのかい?」
「窃盗を企てているならその辺りに睨みを利かせるけど、基本的には外から誰かが来ようと興味は湧かないはずだ」
アレウスはカプリースの質問に答える。
「リオンに堕とされて、殺されて、魂の虜囚になってもまだ魔力を吸われ続けて。なのに未だにいつかは異界から出られるんだと夢見ている人はいない。僕やアベリアも手を差し伸べてくれる人が目の前に現れてもしばらくは外に出られる希望なんて抱いちゃいなかった」
「生活している人たちはみんな外で生活している人と一緒。見た目だってなにも変わらないの。もう死んでいるのに生き続けたいと足掻き続けて、いずれはリオンに食べられて、魂ごと異界の一部になってしまうから」
アベリアがそう付け足しながらキョロキョロと辺りを見回す。
「この辺りにはいないのかな?」
恐らくはアレウスと同じ人物を探している。
ヴェラルド・ルーカス。異界から救い出してくれた恩人の姿を、アレウスも自然と視線を動かしてあちこちを遠くから覗き見るように体が動いてしまう。
「この世界で重要なのは労働力。鉱石の採掘量で日銭を稼ぐ。リオンが作り出した異界の概念はアレウスから聞いた通りのようだな」
あちらこちらには鉱夫がおり、手には採掘道具。その横には鉱石の山と、鉱石と認められなかったズリの山。目利きは常に鉱石を選別し、鉱夫はトロッコを押して坑道へと消えていく。人々は忙しなく働き、休んでいるのは今日の稼ぎを終えた者や働き詰めで力尽き、死んだように眠っている者。そして、働き口がないために吹き溜まりのように集落の隅でうずくまり、今日という日々が過ぎ去るのを待っている者。
働きを終えた者は酒盛りをし、その周辺を乞食がうろつく。女子供が多く、誰もが一度は目を向けはするが決してなにかを恵むことはない。
道端で人が倒れている。痩せ衰えているところを見ると飢え死にしたのだろう。それでも足を止める者は少ない。もし足を止めている者がいれば、それは死体漁りだろう。そうして命だけでなくなにもかもを奪われた死体処理を生業としている者が乱雑に手押し車に乗せて運び出している。あれもまたやりたくはない仕事ではあるが、日銭を稼ぐためにやらなければならない仕事なのだろう。
死が軽いわけではないが、重いわけでもない。恐らく世界よりは軽い。あちらこちらで誰かが死に、誰かが死体を漁り、誰かがそれを運ぶ。特に目立つのは死体運びの仕事に就いているのは女子供が多いところだ。『性欲』という概念をアレウスたちが消し去ったがゆえに、性別による被害は失われたが、性別による仕事の差異は生じてしまった。そしてこれはアレウスよりもずっと幼い男の子たちにも言えることだ。
奴隷商人が手を叩き、客を寄せている。仕入れた奴隷の品評会が開かれている。手足は縄で結び付けられ、口元には布切れが当てられ、客に向かって暴れ出してもすぐに制圧できるようになにも着せられていない。そこには男女差も大人も子供も関係ない。武骨で気骨のある男や少年に買い手が付き、怯え竦んでいる男や子供は安く買い叩かれ、女子供に至っては売れ残る。歪みに歪み切った観念がそこには広がっており、長く見続けることさえ苦行にすら思える。
「あっちは私が調べる」
なのにトラウマを抱えているアベリアがアレウスへ自らが調査すると言い出す。
「異界でどうして奴隷を見つけて、売ることができるのか。ここは異界で世界とは違う。どうやって仕入れているのか、どうやってここまで連れてくるのか。世界とは完全に隔絶されているはずだから、私が踏み込んでも危ない橋を渡ることにはならないはず」
「……少しでも外と関わりがあるような様子があったら全力で逃げろ」
「うん」
「なら任せる。でも、一応は」
「僕の“目”を付けさせてもらうよ」
カプリースの手元に集まった少量の魔力によって練られた水が眼球と化し、それが薄透明になるとアベリアが聖水を用いて空になった小瓶の中へと滑り込んだ。
「本当は全員にこうして監視を付けておきたいところだけど、アーティファクトを使ったあとだと魔力切れが怖い。必要な相手に限らせてもらう。この場合は勿論、彼女だ」
「ありがとう、カプリース」
礼を言ってアベリアは自らの手で新調した外套のフードを被り、ゆっくりと奴隷商人のいるところへと歩を進めていく。
「俺は全体を見て回ります。集落の構造を知れば、自ずとやるべきことが分かるはずですから」
「オレは魔物や採掘について聞き出そう。ついでにカプリースの護衛も兼ねさせてもらう」
「ついでであっても助かるよ。今日に限ってだけ言えば、君たち以上に疲れているのだから」
イヤミにも聞こえはするものの、カプリースの性格を知ってさえいればこの程度で苛立ってはいられない。ガラハも分かっているようで、なにも言わずに彼と共に歩き出す。
「アレウスさんはどうしますか?」
「僕は……人を探して、あとは死体を捨てている場所を調べる」
「それは一番、心労が溜まりそうですが」
「気にしないでくれ。調べたくて調べるんだ」
「そうですか。なにかあれば俺を呼んでください。すぐに飛んでいきますから」
エレスィはゆっくりと気配を消していく。クラリエや『影踏』ほどのものではなく、アレウスの視界から消え去るほどの技能ではないが相応の冒険者でなければ気付けはしないだろう。そして素早くアレウスの傍から去った。
「……死体を捨てている場所には、僕の体が再生した秘密が眠っている」
『異端審問会』によって破壊された肉体の回復がどうして成ったのか。その秘密はまさに、異界に堕とされてから肉体が再生して動けるようになるまで過ごした死体の山にあるはずだ。
死肉を喰らって、自らの肉体とした。言い切るだけなら簡単だが、アレウスのロジックのどこにもそんな特異体質は書かれていないのだ。もしも書かれているとすればそれは、文字を覚えたアベリアですら読むことのできなかった黒塗りのテキストの部分だ。
誰にも読めないテキスト。それは『産まれ直し』だけが持つ特別なもの、と考えている。ただ、ヴェラルド以外からしっかりとその話を聞いたことはない。まだまだ予測の域を出ておらず、確証がない。
「ヴェラルドの読めないロジック……一体、なんだったんだろうな」
あの男が自分自身が『産まれ直し』だと発言したのは本当に別れる間際。それも死の間際とも取れる別れの瞬間だ。
産まれた意味を探せと言われた。けれどアレウスは未だ、自分自身が産まれた理由も、この世界に産まれ直した意味も分からないままだ。それよりもずっとずっと、復讐心が先行している。
それもこれも、復讐を志せばいずれ世界の秘密に辿り着くと思っていたからだ。なのに『異端審問会』のぼんやりとした目標は見えてきたが、自らが堕とされた理由には未だ辿り着けていない。
実力を付けても、真実にはまだ手が届かない。
暗躍する『異端審問会』の構成員を捕らえ、自害させずに白状させる。しかしただの足切り要員は幾らでもいて、彼らは命を平気で捨てさせる。だったら、構成員の中でも幹部――『異端審問会』を実質、牛耳っている存在を捕まえる以外にない。
下っ端の人間の命が散ることにはなんとも思わないクセに、自分の命を散らすことには抵抗を感じるような、そんなクズ人間を捕まえることができたならば、世界を揺るがすような秘密が明るみになるかもしれない。
「……いや、どうして僕は『異端審問会』と世界の秘密が繋がっているように考えているんだ?」
方程式として間違っている。世界がアレウスを産まれ直させた理由と『異端審問会』の活動は別物だ。
ただ、『異端審問会』に異端者としてアレウスは異界に堕とされた。奴らの信仰が『神』であるのか、はたまた別の『存在』であるのかは定かではないが、そういった信仰集団に異端者として扱われている。それが、このような間違った方程式を作り上げる原因となっている。
「あのとき、どうしてシェスは僕を異端者として堕とした……?」
シェス・ジュグリーズ――正確にはジュグリーズ家だと思われていたエルフ。その身に若者のシェスと老いたシェスの精神を宿しているその者がアレウスを裁き、異界に堕とした。
結局、堂々巡りだ。どれだけ思考を巡らせ別角度から物事を考えようとしても『どうして自分は異端者として異界に堕とされたのか』という部分に行き着いてしまう。そこが排除されるだけで、視界が開けるがごとく遮られているあらゆる物が思考から排除されそうなのに。
アレウスはゆっくりと集落を回る。異界で労働し日銭を稼ぐ。リオンの異界の魂の虜囚が行うのは働くこと。生存者も魂の虜囚と同様に働かなければなにも手に入れることはできない。
こんなところでお金を稼ぐことは無意味に等しいのだが、そのように概念が成っているために誰もそれを不思議には思わない。外の世界で使われていた硬貨や紙幣は集落内で回り続けて次第に使い物にならなくなり、どうやら掘った鉱石の価値で物々交換が主流になりつつあるようだ。アレウスがいた頃はまだ辛うじて硬貨も紙幣も使われていた。なら、当時にはいなかった両替屋がいるのかもしれない。場合によっては彼らを見つければ有益な情報が得られる。ハゥフルの小国で知ったが、彼らは金貸しにも等しい上に、人を見る。横柄、不信、不義理。それらに該当する人物との両替は拒める立ち位置であり、そういった人物でないことを調べるために世間話をすることだってある。だから意外と情勢や街に詳しい。だからこの集落でも両替屋を見つけるのは目的として間違っていない。
死体運びをする人物を気配を消しつつ付かず離れずで追う。手を貸すことはできない。どんなに辛そうでも、どんなに悲しそうでも、今にも崩れてしまいそうな精神の中で、一筋の光明を求めているのだとしてもだ。
死体を運んでいる女は生存者ではなく魂の虜囚だ。手を差し伸べても、世界へは救い出せない。エウカリスのときのように、輪廻へ還すことしかできない。そしてそれを望まれても達成できる自信はない。
死体の山が見えてくる。あそこに捨てられた死体はやがてリオンが魔力を吸い尽くすと自然と数を減らしていく。アレウスやカッサシオンのように生きていても、いずれ死ぬと分かっていれば行き着く先は同じである。ただ集落の位置が変わったことで死体の山の位置も変わったのではないかという不安がある。リオンが異界を構築しているため、ここが確かに以前、アレウスが過ごした異界であってもその形容までもがあの頃と同じではない。
もしも違ったならば、探すところが増える。あまり手間取ってもいられない。自身の秘密を探り切る前にリオンを引きずり出す作戦に移行することさえあるだろう。
残念ながら、四日という日数制限はどうにもならない。そして四日ギリギリにリオンへの挑発を始めても色々と手遅れになる。
死体運びの女が死体の山から離れた。アレウスは気配を消したまま女と擦れ違い、悪臭漂うその山を一瞥する。腐臭、死臭、それら全てを包み込み、ありとあらゆる邪気や病魔の元凶が漂っていそうな空気にむせ返りそうになるが堪える。
こんな死体の山で、アレウスは死肉を喰らった。そうだ、確かにそうだった。生き残るために食べた。その行為が人道上、認められないのだとしても、生きたいがゆえに喰らった。カッサシオンはその行為を死ぬ瞬間に容認してくれた。それほどの極限状態にあったがゆえに、種族の差を越えて彼にはアレウスという少年には生き抜いてほしいという情が湧いたのだろう。
もしくは、少年に妹たちを重ねたか。
「この場所に、ロジックを書き換えるような大きな魔法陣は……ないか」
ならばアレウスのロジックに干渉する方法は巻物だけだ。偶然、死体の中にその手の巻物があったのだろうか。しかし、巻物があったとしても書き換える内容が不明だ。そして、常人離れした魔力でなければロジックに干渉し続けることは不可能でいずれは元のテキストに戻る。
「……『オーガの右腕』は『カッツェの右腕』で、『蛇の眼』はカッサシオンの眼……だったら、この左耳の元になったエルフ……そうだ、エルフの死体を食べた…………僕は未だにこの『エルフの左耳』が誰由来なのか、知らないままだ」
しかもエルフとなにか対話をした記憶もなければ、食したときの記憶もない。あるのは『エルフの左耳』というアーティファクトがあるのだからきっとエルフを食べたのだという確証もない予想だけ。
「思い出せ……思い出せ」
自身に言い聞かせる。この景色を見て、当時のことを思い出せないのならそれはきっとトラウマ以上に精神が、気が触れたからだ。自分自身を守るために当時の記憶に脳が鍵を掛けている。それでアレウスは発狂せずに済んでいる。
けれど、その発狂するとしか思えない景色の中に手掛かりがあるのなら、思い出さないままではいられない。ただどんなに願っても、どんなに言い聞かせても、記憶の海は答えてはくれない。
『なんだ、死に物狂いで幽世を生き、現世に逃げ出した人の子よ。どうして再びこの幽世を訪れた?』
左耳にだけ響く声に、アレウスは顔を上げる。
『どうにも泣き喚き続けるから左耳をくれてやったと言うのに、幽世での暮らしに耐え切れずに現世に導かれるなど、我の慧眼もアテにはならぬと嘆いてばかりいたが、よもや舞い戻ってくるとは思わなかったぞ』
「このエルフの左耳の持ち主か?」
『エルフ?』
頭の中で嘲笑に等しき笑い声が響く。
『そうかそうか、人の子には我がエルフに見えていたのか。ふははははは、なるほどな。エルフの死体を前にして寄越してやったせいで認知の歪みが生じておるようだ』
「……いやでも、この左耳は」
何度かエルフの『森の声』を通じた言葉を聞き取っていたはずだ。
『我の耳がエルフ如きが使う伝達魔法の網など聞き分けられないわけもない。エルフとの接触でその耳が機能し始めたのは間違いないではあろうがな』
「姿を現せ」
「既に見せておるぞ?」
死体の山の頂上に男が腰掛け、こちらを見据えている。
「久しいな、人の子よ」
「……知らない、憶えていない」
「であろうな。そうであるように我の耳がさせている。ロジックには干渉できないが、くれてやった左耳がアーティファクトとして格納されているのなら、そこに刻まれているテキストで人の子のロジックに干渉することはできる」
男はアレウスを捉えたまま動かない。
「しかしながら、我は既に死人。魂の虜囚。くれてやった左耳を返してくれなどとねだりたいわけでもない。ただ、問うている。お主という人の子を救った者を二人、幽世に縛り付けておきながらなにゆえ舞い戻ったのか、と」
「……あのときの雪辱を果たすため。あのときに誓った、復讐を果たすため」
「つまらん答えだ。もっと笑える答えを返せんのか。やはり人の子はどいつもこいつもつまらん者たちだ。お主を見ているとそんな者どもと群れていたときのことを思い出す。そして、反吐が出る」
一跳びで男はアレウスの元へと降りる。
「オエラリヌ・ミリアスフィールド。我と群れていた人の子が戯れに寄越した名ではあるが、思いのほか気に入っておってな。幽世でも使わせてもらっている」
「オエラリヌ……?」
名乗られても記憶にはない。
「『勇者』、『賢者』、『奏者』、『阿修羅』、『戦人』。お主にはどれに見えている?」
「…………え?」
「答えられん、か。まぁ、そうであろうな。我の名は我が群れた人の子たちの間で使われていたものだ。誰の記憶にも刻まれんからな」
その眼には見覚えがあった。この異界での記憶から呼び覚まされたわけではない。つい最近に見たことがある。
ヴィヴィアンと同じ眼をしている。爬虫類独特の、縦に細長い瞳だった。




