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――お前は冒険者になるべきだ。異界を知っては、もう平凡な日常には戻れない。常に魔物の恐怖に怯え、退治できない自身をなじり、そして力が無いことに激しく苦しみもがく。恐怖に立ち向かえ、自分をけしかけ、力があることを奴らに見せ付け、人々を守ることを喜びとしろ。
「こんにちは……それともこんばんは?」
不意に声を掛けられ、ヴェラルドは振り向いた。
「こんばんは、ではないのかい?」
「ヤダな、お兄さん。今はまだ夕方だよ。だから僕も迷ってしまったんだ」
「この暗さで、夕方……これがまだ、夕方?」
「ところでお兄さん? 良い鎧を身に着けているよね。その剣も、鞄もどれも価値が高そうだ。お姉さんも良い服を着ている。剥ぎ取れば、きっと高値で売れるんだろうね」
少年はそんな風に言いながら、奇妙な笑みを浮かべる。まだ成人には達していないようには見える。その笑みの裏側に、幼さが垣間見えた。だが言っていることは物騒なことこの上ない。
気付けば、肌を焼くような視線が辺り一帯から向けられていることに気付く。そしてジリジリと距離を少しずつ詰められている。
ここでは労働力によって鉱石を掘り起こすことを酔っ払った男から聞き出している。しかし、鉱石以上にヴェラルドとナルシェが異界探索のためにと用意した装備の数々の方が価値は上らしい。
「でも、どこから来たのか分からない人から大切な衣服を剥ぐのは危険だから、やめておこうか。中に火薬でもあったらたまったものじゃないよ。それにその剣……振り回されちゃ、僕たちは死んでしまう」
周りに聞こえるぐらいの大きな声を発し、それを聞いた周囲の男たちは一斉に「それもそうか」と、或いはそれに似たような言葉を口にしながら散って行く。
「だけど僕は盗りに行く」
気を許し掛けた刹那に少年は割って入って来た。油断させておいてからの奇襲戦法は確かにヴェラルドの度肝を抜いたのだが、それから間もなくして少年は両手を拘束され、地面に打ち付けられる。
「やり過ぎ」
ナルシェが呟く。
「冒険者が子供相手に舐められては困るからな」
起き上がろうとする少年の上に腰掛け、少々強引ながら立てなくさせる。
「一人でどうにかなる相手だと思ったか?」
バタバタと暴れてはいるが返事が無い。どうやら重さに耐えられずに息が苦しくなっているようだ。ヴェラルドはナルシェが持って来た縄で少年の両手足を縛ってから、立ち上がる。
「はぁ、はぁ……なんなんだよ……クソ」
「物盗りがしたいなら、さり気なくで良かっただろ。どうして面と向かって盗りに来た?」
言葉は返って来ない。これはかなりの捻くれた性格の持ち主らしい。
「ナルシェ、開けろ」
「本人が言いたがらないなら、こっちが無理やりにでも調べるしかないってわけね」
少年にナルシェは近付き、人差し指を宙で躍らせる。
「“開……っ!?」
ナルシェの人差し指が強い力によって阻まれたかのように少年とは逆方向に弾かれる。
「どうした?」
「開けようとしたら抵抗された。信じられないけど、私じゃ開けられない……いえ、どんな神官でも、開けられないかも知れない」
人差し指に来た衝撃を腕ごと逸らしたものの、目の前で起こった珍事に目を丸くせざるを得ないらしい。
「神官の祝福は受けているのか?」
「産まれた時に、誰だって受けているはずよ。そもそもロジックはどんな生命にも秘められているもので、神官の祝福はそれを私たちの言語で解読出来るようにするためのものだし、読めないならまだしも、開けないこと自体があり得ないのよ」
ロジックについてはヴェラルドよりも神官であるナルシェの方がよく知っている。彼女が開けられないと言うのならば、この少年の中を読むことは出来ないらしい。
「なんだよ、ロジックって?」
「普段はお前自身の中に収納されている文字の羅列だ。神官なら開けられる。開けて文字の羅列は文章となり、お前の人生を語るものとなる」
「読むのに掛かる時間は生き様によって決まる。それはフレーバーテキストと言って、あなた自身が語らなくても私たちが読めばあなたのこれまでの人生を読むことが出来る。どこで産まれ、どこで育ち、どこで異界に堕ちて、それからどう過ごして来たのか。それだけじゃない。あなたが持っている技能も、あなた自身に秘められているあらゆる能力値も知ることが出来る」
「……それなら、前にも一度されたことがある」
「あるの? 一体、いつ?」
「今、暦の上では何年?」
訊ねて来たことに対してヴェラルドは「――年だよ」と答える。先ほどまで敵意しか見られなかったが、両手足を拘束されたとなったなら観念するしかないといった具合なのだろう。その清々しいほどの諦めの良さはある意味で見習わなければならないところがあるかも知れないと思うほどだ。
「じゃぁ、五年前……そう、五年前だ」
「「五年前?」」
「お姉さんと似たような服を纏った男たちが突然、家にやって来て僕たちを捕まえたんだ。母さんと父さんは死刑が決まった。なんでそうなったかは知らない。裁判に掛けられても、一切の弁論の余地も無く、死ぬことが決まったんだ。それで、僕も本当は両親と一緒に死刑にされるはずだったんだ。なのに、『開けられない』とか『これでは書き換えられない』とか、そんなことを言って……僕は“穴”に堕とされた。堕ちたら、ここに居た」
事前に調べた通りに少年が物事を語るため、二人は一瞬、「嘘なのでは」と疑い、なにかよけいな一言を口にしてボロを出さないだろうかと待ってみたが、どうやらそこで少年の言いたいことは切れたらしい。つまり、もっと知りたいならもっと話し掛けて来いという意思表示でもある。
「堕ちてからどうやって生きて来た?」
「最初に奴隷商人に拾われた。それで男だから労働力になるってことで買われて、それからずっと鉱石掘りだ。鉱石さえ掘れば、鉱石を一つでも手にすれば一日は凌げる。でも、一つも手に入らなかったら、一日の食事は無しで水しか飲めない。ここじゃお金になるのは鉱石しかないから、誰も入っていない洞窟に行って一攫千金を狙おうとする人も居るには居るけど……帰って来ないことだってある」
「ちょっと待って……奴隷商人が居るの?」
異界にすら、人権を無視した輩が居るとなれば神官のナルシェも声を上げてしまう。
「定期的に、五年前の僕ぐらいの子を連れて来て労働力として取り合う。多分、そっちの方が儲けが良い。堕ちて来た人間を騙して捕らえるのは、そう難しくないことだし。それがここの日常。僕は慣れるのに……ええと、一週間? 二週間……? もしかしたら三週間かも知れないし、一ヶ月掛かったかも知れない。正直、五年も経っていると聞いても僕はイマイチ、ピンと来てはいない」
外の世界から隔絶された異界であるために少年は月日といった類を頭から投げ出してしまっていたらしい。
「言っておくけど、僕が堕ちた時はもっと酷かった。女性に権利は無かったし……至る所で……その……見たくない光景を、見てしまったし……」
「それがどうして今は沈静化しているのかしら」
「……書き換えた」
ボソリと少年が呟いたため、ナルシェは「え?」と訊き返す。
「書き換えたんだ。その……ロジック、だっけ? 文章を眺めて、『性欲』の部分を消した」
「いえ……待って。そんなのはすぐに信じられないわ」
ナルシェは辺りを見回し、丁度、遂さっき酔っ払っていた男が今は眠っているのでその男を指差す。
「あの男のロジックを開いてみて。ただ、妙な動きはしない方が良いわ。私たちはあなたが思っているほど油断してはいないから」
少年の足の縄を解き、立ち上がらせ、ナルシェは男の元へと共に歩く。ヴェラルドはすぐ後ろで少年を観察し、僅かでも彼女の身になにか危機が降り掛かるようなことがあれば応戦できる体勢を見せる。
両手の縄を解き、ナルシェは「やってみて」と言う。少年が肯き、右の手の平が宙を滑る。閉じていた本を手で開くような、そんな仕草で男の中から文字の数々が溢れ、それらが整列して文章を構築して行く。
「どうなんだ?」
「そうね、隣に居る私でも読める。これも信じられないことだけど、この子は神官でもないのにロジックを開けられる能力を持っている。そして、神官では開けられないロジックも持っている」
ナルシェは少年に「閉じて」と言い、言われた通りに彼は手の平を滑らせて、整列していた文章は散り散りになって文字となり、男の中へと収められて行く。
「けれど、全ての男たち全員のロジックを開いて、一人ずつ書き換えて行ったの?」
「違う。僕はこれがなんなのかをさっき聞かされて初めて知ったし、今みたいに人に向けて使ったのも初めてだ」
「じゃぁ一体どうして、ここの男たちから『性欲』は消えている?」
「空気に触れたら、開いたんだ。さっきみたいに沢山の文字が溢れて文章になった。やってみてと言われても……もう、出来ないみたいだけど」
「そんなことが出来るのか?」
ヴェラルドはナルシェに問う。これまでロジックを開く場面を数え切れないほどに見て来たが、人や動物といった生命以外に開いたところは一度だって見ていない。
「神官が数百人集まれば、異界限定でなら、可能かも知れない。でも、外の世界じゃ無理よ。大きさに差があり過ぎるから、出来るわけがない。異界は界層構造になっては居るけれど、外の世界の広さに比べたら小さすぎる。だから出来た……のかも知れない」
「ナルシェでも出来る、と?」
「いいえ、出来ないわ」
「なら、言っていることは嘘か?」
「とてもそうとは思えない。この子は見て来た惨状を知っていて、そして今はマシと言った。つまり、どこかで必ず“概念”が書き換えられた。異界の住人から『性欲』が消えたことで、女性への乱暴は消失し、女性は女性でまた別の扱いを受けるようになった。でも、この子は“概念”を今すぐに開けられない」
「たった一度の奇跡だとでも言うのか? 俺たちは知っているはずだ、奇跡なんてものはありはしないと。確かに身を守るために書き換えるのは必要だっただろう。男の中には、女性ではなく年端も行かない少年を狙う者も居る。そんな目に遭わされないために、そいつの中にあった生きたいという思いが一回限りで結実したのか?」
全て問い掛けになってしまって申し訳ないと思いつつも、ヴェラルドにとっては神官の領域になる話は聞かされれば分かるが、自分から「そういうことか」と察することは出来ない。これが戦士の領域、それこそ前衛として戦うための知識であったなら、ナルシェだけに負担を掛けることもなかった。
「それも、考えられるとしたら考えられるけど……もっと現実的に考えるなら」
ナルシェは辺りを見回す。
「この子と同じように、ロジックを開けられる何者かが居る。二人の能力がほぼ同時に使われて、“概念”が開かれた。願いはどちらも、酷い目には遭いたくないという代物。そこまで感情が一致してようやく、複数の意思を介在して開かれたロジックは書き換えることが出来る。私とこの子が協力して“概念”を開いても、書き換えるまではきっと至らないわね。それよりも、そんなことで魔力を消耗するのは得策でも無いし、試さないけど」
「神官でもないのにロジックを開く能力を持つ者がもう一人か、それとも数十人単位で、というところか」
「数十人単位じゃ意思が介在し過ぎて書き換える部分が合致しないわ。だから、一人よ。つまり、二人で異界一個分の“概念”を開けてしまう。物凄い魔力の素養ね。魔法使いに留まらず、魔導士、屍霊術士、神官に僧侶……魔力に関わるあらゆる職に就けるだけの才能がある」
「ただ、性格が捻じ曲がっている」
「捻くれた魔法職は決まって、自身の才能を悪いことに使おうとするから、この子には向いていないわね」
「だったら前衛だな」
ヴェラルドは少年の胸倉を掴み、引き寄せる。強い眼差しで、その曇ってしまっている少年の瞳を見つめる。
「ここから出たいか?」
「……出たい」
「異界でも外の世界でも一緒だ。力無き者は死んでしまう。お前も見て来たはずだ」
「……はい」
「だったら、お前は冒険者になるべきだ。異界を知っては、もう平凡な日常には戻れない。常に魔物の恐怖に怯え、退治できない自身をなじり、そして力が無いことに激しく苦しみもがく。恐怖に立ち向かえ、自分をけしかけ、力があることを奴らに見せ付け、人々を守ることを喜びとしろ。出来そうか?」
胸倉から手を離し、少年はその場でよろめくも、バランスを取って地面を踏み締める。
「出来るかどうかは、分からないけど……出来るなら、そうしたい」
「そうか、ならその答えで充分だ。残りの感情はあとからやって来る」
ヴェラルドもまたそうであったのだから。
「俺はヴェラルド。彼女はナルシェ。ここを出たら、もっとちゃんとした自己紹介をしよう」
「僕……は、アレウリス・ノールード……こっちの、世界では」
「こっちの世界?」
少年は首を横にブンブンと振る。
「なんでもない」
思うところはあったが、少年――アレウリスは強情なところも持ち合わせている。ここから追及したところで、話す気にはならないだろう。
「界層は、五層。ここを基点とするなら、出口までは最低でも四回は登ることになるわ」
「だが、すぐに出発するわけにも行かない。相応の支度を整えてからだ。ついでにここで生き残るためにどれだけ苦労したのかも聞いてやろう。魔物をどうやって追い払っているのかも気になる」