葛藤も戸惑いも迷いも振り払って
【『聖骸』】
冒険者が死んだ際、肉体から魂だけが剥離したのちに宿り直す骸。魂に刻まれているロジックによって『聖骸』は肉体の形を変える。逆に肉体に魂が引っ張られることも稀にあるが、それは『衰弱』状態中に解消される(記憶を辿ることで魂と自己が『聖骸』の肉体情報を上回るため)。
これらの骸は全てが聖職者だったもの。信仰に厚い者たちが、自らの肉体を死後も活用してもらいたいという願いから生まれ落ちたものであり、まさに究極の奉仕の心。その体は悪しき要素を全て排除するために死ぬ数週間前から絶食を促されるが、この絶食の試練を乗り越えなければ『聖骸』になれないわけではない。聖職者が適しているが、、心から信仰心を持ち、心から肉体を捧げる気持ちがあれば誰でも『聖骸』となる価値がある。また、肉体のどこかを損傷していても、冒険者の魂にはその情報は刻まれていないため、魂が宿れば肉体は再生される。それでも性別は分けざるを得ない。この場合、絶食の試練を受ける受けないの判定は神官に委ねられる。
悪を知らない純真無垢な少年少女の骸は最適とも言えるが、幼くして死んだ子供の肉体を捧げるほど熱心な信仰者はおらず、戦争中においてもその数は増減していない。孤児や浮浪者も願えば『聖骸』になる権利がある。これは教会が全ての善意、奉仕、信仰を拒む理由を持っていないため。
冒険者が死ねば死ぬほど『聖骸』は消費されていくことになるが、とにかく『衰弱』状態が冒険者にとってはトラウマになるほどに重たいものであるため、そう軽々と死ぬ者は少ないために数は常に一定に保たれている。
――己が体が、死後も誰かを導くものになる。それこそが聖職者の究極の願いだよ。
「彼女の魔力が地下墓地全体を覆い尽くしている……」
「このままだと魔力を感知して悪霊やアンデッドが更に奥深くの地下から出てくるかもしれませんわ」
二人の声は聞こえているようで聞こえない。
アレウスとアベリアにとって、ナルシェとの邂逅は心より望んでいたことだ。他の誰よりも、他のどんな事象よりも優先されることで、誰にも邪魔させるつもりもない。
「戦うつもりなんですか?」
「私を見て、それ以外に感じ取ることがあると思う?」
紙片が舞う。辺りを飛び交い、そして魔力が爆ぜる。
「なんだ?」
「地下が、一気に広がって……!?」
ヴェインとクルタニカが辺りを見回し、アレウスとアベリアも同じように驚く。『聖骸』が眠っている神聖な場所であっても、この空間はとてもではないが戦えるような広さを持っていなかった。だが、彼女の魔力が爆ぜた瞬間に空間が一気に間延びした。
「空間に関わる魔法は五大精霊というよりは五大属性。あんまりあなたたちには馴染みが薄いかもしれないけれど、『空』の魔法はこういう変わったものもあったりするの。『空』そのものが残りの四大属性を収めている器だからこそできることなのかもしれないけれど」
魔法によって空間が引き伸ばされ、本来の空間よりもずっとずっと広くなった。
「安心して? この空間を一気に縮小させることでなにもかもを押し潰すような滅茶苦茶なことであなたたちを死なせるつもりはない。だってあなたたちは私を終わらせるための、最初と最後の一ページでなければならないから」
更に紙片の魔力が辺りを覆う。
「悪いけど、クルタニカ……? そして、そこのとても敬虔な聖職者さん? 私を終わらせる戦いにあなたたちを巻き込む気はないから……『聖骸』を悪霊やアンデッドに奪われたりしないように全力を尽くしてもらえないかしら」
「空間を広げておいてわたくしたちを悪霊退治に回させるなんて、相変わらず良い性格をしていますわね」
「ありがとう。私も自分の性格を気に入っているの」
イヤミを綺麗にナルシェは受け流す。
「ナルシェ……私、私は」
「……アベリア? あなたの努力、あなたの生き様、あなたの望み、そしてあなたの全て。私に見せてくれるよね?」
紙片の一部が杖に張り付く。
「でないと私は未来に嘆き悲しんで消えていくだけだから」
本気でやるつもりだ。本気でナルシェはここでアレウスたちと戦う気でいる。いや、ナルシェを象った者なのかもしれないが、気配には確かな殺意があり、魔力にも一切の甘えがない。
「“観測者よ”」
ナルシェの杖から光球が放たれ、辺りを浮遊する。『灯り』の魔法と異なり、それ自体が辺りを照らす力を有しているようには見えない。
アレウスが悩みながらも短剣を抜いた刹那、ナルシェは信じられない速度でアレウスに近付くと杖を持っていない方の手の平で腹部を叩く。打撃には痛みを感じるほどのものはない。しかし、打撃のあとに魔力が送り込まれて、内臓にダメージを与えてくるだけでなく衝撃となって体が吹き飛んだ。この時間差の衝撃は受け切れるようなものではなく、壁際まで吹き飛んだところで両足で着地するのが精一杯だった。
そこに追撃が飛んでくる。ナルシェはアレウスが吹き飛んだ時点で疾走を始めており、回避に移らせる時間すら与えないとでも言いたげに、再びの掌底を打ち込んでくる。
なんとか避ける。避けることはできたが、足運びが覚束ない。だから気配を消しての離脱を試みる。
「見逃さない」
ナルシェがアレウスの退避する方向に突撃してくる。これはまずあり得ない事態だ。クラリエには劣るが気配消しの技能は発動さえすれば、まず相手はこちらを見失う。存在そのものを景色に溶け込ませるほど技能を高めてはいないにせよ、発動するタイミングは完璧であり、どんなに神経を研ぎ澄ましても一瞬は迷う。それぐらいの技能にまではなっているはずなのだ。
なのにナルシェは自身の動きの流れを崩すことなく肉薄してきている。
「見えなくても、追い続ける自身が私にはあるの」
その一言からナルシェはアレウスを見失ったことが窺える。しかしその不足分をなにかで補った。
彼女が放った光球。それが視界に入ったとき、理解に至る。
打開しなければならない。このままだと再び掌底で内臓にダメージを与えられる。一度目は耐えられたが二度目はどうか分からない。なにより、魔力を込めた掌底なのか、それとも筋力任せの打撃なのかが分からない。
魔力はアレウスも一応ながら手に入れた魔力で防ぐ。打撃は筋肉によって防ぐ。だがそのどちらもを同時に行うと、力の分散が生じる。どちらも極限にまで高めてしまえば万能の防御を手に入れられるかもしれないが、その域には当然ながら達していない。
だから、打撃と魔力。どちらの防御かを見誤ると、一撃目以上に分が悪くなる。
「“火よ”」
火柱がアレウスとナルシェの間に生じて、彼女の追撃から免れる。
「その対処は凄く適切。これで私は彼への追撃ができなくなったんだから」
アベリアの背後に紙片が回る。
「でも、自分の防御はできているのかしら? “火の玉、踊れ”」
紙片が火球に変わり、彼女に直撃する。
「なんで、私の詠唱の仕方を……」
火球が起こした火の粉を払いながらアベリアは疑問を浮かべる。その姿を見てもナルシェに動揺の色は見えない。
「魔法の炎が効かないのが分かっていたみたいな表情ですね」
「だって私の外套はいつだって彼女と一緒だったんだよ? 知らないわけがないでしょう」
即座に反撃に移ったアレウスの剣戟をナルシェは杖で捌く。
「今のは確認。本当に効かないのかどうかを調べるのは大事。もしかしたら弱点を隠すためにそう言っているだけの可能性だってあるから。まぁ、ロジックは嘘をつけないから調べる必要もないから、今のは警告かな」
杖の振り方に惑わされる。捌いているとはいえ、ナルシェは魔法を主立って用いる冒険者だ。近接戦闘には慣れていないはずだ。なのに、剣戟はどれもこれも防がれている。気配消しも散発的に行っているが、やはり彼女がアレウスを一瞬以上に見失うことがない。だから隙を突く前に対応されてしまう。
「私に生半可な魔法を使ってきたら許さないっていう警告」
この防戦を突破できない。アレウスは剣戟を中断し、大きく後退する。
「クルタニカさん! 加勢したいのは分かりますけど俺一人じゃ鎮めさせることができません」
「分かっていましてよ……分かって、いましてよ!」
ヴェインとクルタニカは『聖骸』の鉄の棺が納められている穴へと各々が駆け寄り、なにやら詠唱している。それが悪霊やアンデッドを呼び起こさないための祝詞であることは雰囲気的に分かる。
「私は……ねぇ、ナルシェ! 私は……!」
「迷っている暇はないの、アベリア」
アレウスが再びナルシェに攻め立てるが、彼女はアベリアと話すだけの余裕がある。これほどまでに仕上がった杖術には出会ったがことがない。この人のことを職業的に近接戦闘が苦手だと勝手に決めていたが、どうやらそうではない。
「全力を出して、でないと、」
ナルシェが放出する気配にアレウスの剣戟が止まる。短剣を握る手に力を込めることができても、腕が動いてくれない。
「あなたを救ってくれたこの子が死んじゃうよ?」
杖に巻き付いていた紙片が動けないアレウスの周囲を舞う。
「“水が踊る”」
紙片が水流となって押し寄せる。それそのものに攻撃力を有してはいないが、この多量の水流が足元を掬われる。
「“水を怖れよ”」
直後、アレウスの頭部を水球が包み込む。どれだけ首を振っても水は剥がれず、息ができない。だからと言って息を止め続けているわけにもいかない。どうにかして水球を剥ぎ取ろうとする。しかしナルシェを再び見ただけで、全身が強張って動けなくなる。
「“火の玉、踊れ”!!」
アレウスの頭部にアベリアの火球が飛んできて水球を一気に蒸発させる。
「そんな助け方があるとは思わなかった。信頼がなきゃできない……というか、燃えないと分かっていてやった感じだからこの子もあなたと同じで魔法の炎は通用しないのかしら」
クスクスと笑いながらナルシェはアレウスを助けたアベリアの魔法の運用方法について語る。
「うん、魔力は十分に練られている。あなたは自分自身が持っていた膨大な魔力を、ちゃんと使えるだけの知識と練度を手にしているんだね」
けれど、ナルシェは続けながらアレウスに掌底を浴びせて打ち飛ばす。
「どっちも覚悟が足りない。早く目を覚まして。それと、アレウリス? あなたが私へ攻撃を止めてしまった理由くらい分かっているんでしょ?」
「『異常震域』」
「だったら早く共振しなさい。私の放つ気配に、あなたが放つ気配をぶつけて相殺する。でないとあなたはまた私の放つ気配に怯えて動けなくなるし、私へ一太刀も浴びせることはできないわ」
「……なんで、僕たちが戦わなきゃいけないんですか」
「私はナルシェと話ができるなら、それだけでいいのに」
「甘えたことを言わないで」
アレウスとアベリアの言葉をナルシェは一蹴する。
「どれだけの言葉を積み重ねても、私にはもう未来がないの。言ったでしょ? これは甦りじゃない、って。それに復活でもない。この私は、私が持っていたアーティファクトによって形作られた存在。アベリアがずっと大切にし続けた私の外套が作り出した最後の幻影。あなたたちが見たナルシェライラ・レウコンはもうどこにもいない」
「違う、あなたはナルシェ! 私たちの知るナルシェだもん!」
「だから私は幻影なの。お願いだから、そんな子供みたいに地団太を踏まないで」
ナルシェはアベリアに言い聞かせる。
「今の私に出来ることは、この私を終わらせること。そしてあなたたちを更なる高みに登らせること。そのためなら、感情の揺れ幅に私は惑わされない」
床を滑るようにしてナルシェはアレウスに再び接近する。
「その短剣をずっと握り続けてくれていてありがとう。あなたがずっと持っていてくれたから、私は私のロジックを完結させることができる」
共振しなければ死ぬ。ナルシェの杖には紙片が張り付いて生み出された金属の刃がある。振り切られたら致命傷では済まされない。気配と気配をぶつけ合って相殺する。それは簡単なことではない。
言うなれば、相手の抱いている感情に自身の感情を合わせること。つまり、相手に殺意があるのならアレウスもまた殺意に呑まれなければならない。そしてナルシェは絶対的なまでの殺意を抱いている。
ナルシェを殺す。殺すのだ。そう自身に言い聞かせなければ、共振は不可能だ。
だが、そんなことをアレウスができるはずもない。悲痛な面持ちでナルシェを見る。動けないままのアレウスに、彼女は躊躇わずに杖を振り抜く。
「“魔炎の弓箭”」
ナルシェの杖に備わった金属の刃を火の矢が射抜く。その衝撃と熱にナルシェは脅かされ、後ろに下がる。
「アレウスは殺させない……!」
「凄いね、あなたは。どんなに葛藤があっても、この子のためにそれを放り捨てて魔法を唱えられる。この子が死なないように、躊躇いながらも通さなければならない意地を通す。なのに、アレウリス? その体たらくはなに?」
ナルシェの怒りはアレウスに向く。
「あなたは! あの子を自ら救った! 見捨てればいいのに、見捨てられないからと自ら食べ物を与えた! あなたはあのときに覚悟したはずでしょ!? 救うと決めたのなら、命を懸けてでも救うんだって!!」
その通りだ。アレウスはアベリアを救った。飢えていた物乞いの少女に食べ物を分け与えた。自分だけが助かる道だってあった。自分だけが助けてもらえるのなら、他の誰かは切り捨てたって構わなかった。
それでも、見捨てなかった。見捨てられなかった。
異界から二人の子供を救出する。それはヴェラルドとナルシェにとって――たった二人の冒険者にとって困難を極めた。ましてや異界獣のいる異界だ。最初から理解した上でやって来たのかもしれないが――想定はしていたが、想定以上の存在が現れてしまったのかもしれないが、それがどれほどに危険極まりないかをアレウスもアベリアもその身でもって体感している。ヴェインを救い出せたのだってルーファスたちの救援がなければ不可能であったし、クラリエの救出もエウカリスとアニマートがいなければどうにもならなかった。
超常の力を持たない一介の冒険者には、荷が重すぎることだった。
なのに二人はアレウスの独断を許してくれた。少女を連れ出すことを了承してくれた。それはとても難しい決断だっただろうし、そのワガママは彼らの中で葛藤を生み出したはずだ。それでも最終的に少年と少女を導くことを決めてくれた。
アレウスはそんな二人のことを心から、心の底から敬愛しているし憧れている。だから冒険者になったし、でなければ冒険者にはならなかった。
この道は、様々な葛藤に苛まれる道。簡単な道ではなく、困難を極める道。誰もが選びたがらないし、誰もがなりたがらない。
それでもアレウスは選んだ。選んだのだ。この道を歩むと決めたのだ。
「どんな魔物が立ちはだかっても」
起き上がり、共振を開始する。
「どんな人が立ちはだかっても」
殺意と殺意を重ね合わせる。
「僕はアベリアを守るために、この刃を振るうんだ!」
お互いの気配が爆ぜるような感覚。そして唐突に、アレウスに掛かっていた強い負荷めいたものが解かれた。軽くなった体をそのまま自由にさせるかのように跳躍してナルシェに切り掛かる。
「そう、それでいいの」
杖で受け止められるがアレウスの剣筋には先ほどまでの戸惑いはない。
葛藤はある。迷いもある。だが自分自身を、そして助けてくれようとしているアベリアを否定しないためにも、この刃を振るい続けるだけだ。




