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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第10章 -その手が遠い-】
487/705

召喚

---


 なんでもない日常こそが、最高の幸せである、と。そのように窓の向こう側に見える景色を眺めて思ったことはいつの頃だったか。


 母は言う。『あなたは特別な存在なのだ』と。

 父は言う。『母さんが言うのならそうなのだ』と。


 くだらない価値観を押し付けられる。ありもしない才能が、さながらあるかのように、あって欲しいと願われて、無茶苦茶な教育が、さもごく普通の家庭では当たり前であるかのように続いた。

 幼稚園に通う前から勉強漬け。外で遊ぶことのほとんどを禁じられ、遊ぶ代わりに習い事に行かされた。陸上、プール、ピアノ、習字、吹奏楽、合唱、剣道、空手、その他諸々の習い事と呼ばれることのほとんどに時間を取られ、ロクな遊びという遊びをすることはなかった。

 それだけの習い事をしていたわけではない。一定の期間ごとに習い事を切り替えられるのだ。それぐらい裕福な家庭だったと言われればそうだったのだろうが、やりたくてやっていたわけではない。

 やらなければ母が怒鳴るのだ。やらなければ父が無視するのだ。『私に悲しい思いをさせないで』と、『お前はなんのために産まれてきたんだ』と。

 父と母が、子供である俺に強制してくる。強いてくる。これが普通の家庭であるのだと、これが世間一般的に言うところの英才教育なのだと。

 習い事は期間ごとに分けられていたが、大成することがないと判断された習い事はそのまま辞めることができたが、プールとピアノと吹奏楽と剣道だけは辞めたくても辞めることができなかった。なぜなのだろうと考えて書斎を漁ったことがあったが、どうやら父は水泳の県大会でタッチの差で負けて、全国大会の切符を逃したらしい。その内に母のことも調べると、吹奏楽は全国大会の前に風邪で寝込んでしまい、夢の舞台に立てないままに引退した。

 両親の挫折を、子供の夢にされた。父と母は外で揃って言う。『ウチの息子は私たちの夢なんです』と。


 バカバカしい。

 勝手に夢にしやがったのはお前たちの方だ。他の夢を持ちたかったのに、その夢までの切符や導線のなにからなにまで潰してきたのはお前たちの方だ。物作りへの興味も、歴史の偉人への興味も、科学への興味も、一切合切の全てを奪ったのはお前たちの方だ。


 ひたすらに、ひたすらに体を動かし続ける毎日。それでいて勉強で手を抜くことさえ許されない。ナメた点数を取るとその日は夕食抜きとなり、次の日の朝まで外に放り出される。裕福な家庭で、それなりの家であったから庭は広く、外からは誰もそんな虐待が行われているなどと思える状況にはなかった。


 気付けば両親の道具になっていた。言われたままに生き、言われたままにする。ひたすらにご機嫌取りをすることだけを考えて、やりたいことも面白いことも放り出して、ひたすらに勉学と運動。そのどちらでも好成績を残すための道具と化した。怖ろしいことに感情は乗ってこないのだ。突然、ガス欠になるだろうと思っていた自分は案外、頑丈にできていて――いや、頑丈にはできていないからこそなにも考えないことにしたのだろう。


 言うことを聞いてさえいれば怒鳴られない、泣かれない、叩かれない、傷付けられない、見捨てられない。


 間違ったこと――自分ではこれっぽっちも間違ったこととすら思えない些細なことで機嫌を悪くしたなら平気で土下座をし、家中を掃除して回り、床に落とされた夕食を食べろと言われたら食べた。

 熱を出そうが、腹をくだそうが、倒れそうになるその瞬間まで医者に診られることはなく、勉強をした。運動はさすがに控えさせられたが、日進月歩という言葉を強く信じているのかそれともただの馬鹿なのか、一日でも空けばブランクになり、そこから一気に失調すると信じて疑わなかった両親は不調であるにも拘わらず俺に休みを与えてくれることはなかった。体調不良で動く方が大きなブランクになりかねないのだが、コーチも俺にだけは強くなにかを言うことはなかった。熱が引けば、普通に、いや普通ではない量のコーチングを行うクセに、両親に苦しめられている俺を助けようという気はなかった。それほどまでにお金が欲しかったのか。それはそうか、コーチはお金に困りやすい。世の中には大量に、大勢のコーチがいる。その中で掴んだ仕事を手放せるほど馬鹿ではないのだ。


 じゃぁ俺が馬鹿なのか。歯向かわずに言いなりになっている俺が馬鹿なのか。部屋に飾られるトロフィーが増え、賞状が増え、それを眺めていると段々と自分自身とはなんなのか、分からなくなりそうになった。


 父は言う。『ウチの息子はなんにでもなれるくらいの天才なんです』と。

 母は言う。『そんな難しいことなんてさせていないんですよ。自然と学ぶようになったんです』と。


 なんだこいつらは。

 なんなんだこいつらは。


 子供の頃からの勉強漬け、習い事漬け。当然ながら友達はおらず、世間に疎く、進学校に通うようになってもまともな友人関係を築けることはなく、高学歴と呼ばれる大学への合格通知を貰っても『ウチの息子なら当然』と言って喜ぶこともなく、これからも両親の良い道具でいてくれと言わんばかりに、親戚や取引先のお偉いさんへの付き添いに連れ回される。


 なんのための全国大会で優勝させられたのか。なんのために、吹奏楽のコンクールで全国大会の舞台に立ったのか。

 夢を叶えてやったというのに両親は俺を自由にすることはなく、それ以上を求めてくる。しかし、それが当たり前の家族だというのなら、当たり前の家庭だというのならきっとそうなのだろうと俺は考えることをやめていたので、信じて疑わなかった。


 一人暮らしを許してくれることもなかった。恋愛もさせてはくれなかった。好きな人ができたところで声を掛けることは許されず、向こうも声を掛けてくることはなかったために進展もなく、ただただ無意味な青春だった。


 将来の結婚相手は決まっているらしい。自分と同等の能力を持った女性であること。そこだけを、ただその一点だけを両親は語り合っていた。


 そんな女性が、世の中のどこにいるというのだろうか。優秀な女性は同時に優秀なパートナーがいるものではないのか。いや、優秀じゃなくとも自身と同い年ぐらいの女性はそれなりの恋愛経験を持っていて、それなりの人生経験があって、それなりの充実した人生を送っているのではないのか。たとえ独り身であっても、その孤独にそれなりの満足感があって、虚しいと思いながらも彼氏を作りたいと願い、結婚願望は薄っすらながらにあるものではないのか。


 こんな欠陥だらけの男に、一体誰がなびくのか。恋愛をしたいとは思わないなどと言えばただの強がりだ。恋をしたかったし、女性と習い事や部活動に関係したこと以外の話だってもっとしたかったし、外で遊び回りたい気持ちさえただらならぬほどにあった。


 両親は言う。『お前はそのままでいいのだと』。


 そのままとは一体なんだ。このまま道具で居続けろというのか。俺はペットではない。両親に付随する超高級アクセサリーでもない。『私が産んだ』、『俺が育てた』。なんだその言葉は。

 産まれたくて産まれたわけじゃない。育てられたくて育てられたわけじゃない。お前たちが、そうなるようになにもかもを奪っただけだろう。


 やりたいことを奪い、やりたくないことで大成させ、気が済んだあとは自分たちのイメージアップのための道具として連れ歩く。


 まぁそれでも構わなかった。俺の人生はそういう風にできているのだと考えれば、まぁいつかは納得するのだろうと、思っていた。


 あの光景を見るまでは――


 ああ、ああ、ああ、あーあ、あーあ、あああああああ。


 頭がおかしくなりそうだった。俺が子供の頃に一、二を争い合った男は家庭を築いていて、吹奏楽部で共にコンクールを目指した女の子は子供を抱えて歩いている。聞けばもう八歳になると言う。


 俺は優秀だから孤独なのだ。孤独だから優秀なのだと思っていた。だが、あの男の子は俺にとってはライバルで、間違いなく優秀で、きっと孤独な人生を送っているのだろうと。

 あの女の子は音楽――吹奏楽一本でただひたすらに人生を歩み続けると心に誓って、その道で有名な存在になっているのにパートナーを見つけて子供を産み、育てている。


 俺は優秀だ。なにもかもが突出している。誰よりも努力して、誰よりも後悔のない人生を歩んでいるはずだ。

 いや、はずだった。


 思い返す。日々を、思い返す。


 ああ、ああ、ああ、あぁあああああ。


 俺の日常は非日常だった。非日常が日常だった。

 あんなものは日常じゃない。間違えば叩かれ、傷付けられ、外に放り出されたあんな日々が日常なワケがないじゃないか。


 なら俺はなんだ? 俺は、一体なんなんだ?


 やりたいこともやらせてもらえず、ただやれと言われたことをやって、

 大成できないからとやることを禁じられ、

 趣味をやろうにも勉学に身が入らないからと処分され、

 俺は俺でなくなった。


 自分が決めた道ならまだいい。

 自分で決めることのできた道を歩んでいるのならまだいい。

 そこには自信と誇りがあるのだから。

 俺はこれでいいのだと評価できるのだから。

 多少の嫉妬を抱こうとも、俺自身を貫いているのだと言い切れるのだから。


 それでも妬み、嫉むのならそれは己の努力不足がもたらす劣等感だ。


 俺のは違う。


 やりたいこともやらずに、やりたくないことをやって、

 努力も評価してもらえずに、

 自我を消し去って、ただの道具のように振る舞う自分の人生で感じる嫉妬は、


 断じて劣等感からではない。


 一体どこに誇りが持てると言うのだ。

 一体どうすれば自分を認められるというのか。

 一体どのようにすれば、この胸の中の虚しさを閉じることができるというのか。


 一体、なぜ俺が人の幸せを妬み、人の不幸を祈らなければならないのか。

 違うだろ。人が幸せなら共に喜び、充足した人生を羨みながらも、これまで生きてきたことを褒め称える。


 そういうものだろ、人生というものは!


 気が狂った。狂ってしまった。


 そうして、我に返ったときには手は両親の血に染まっていた。


 両親の血を浴びた俺は、倒れ伏している二人を眺めて思ったのだ。


 俺は人間じゃなかったんだ。

 いや、正確には産まれたときには辛うじて人間だった。


 俺は化け物だった。

 いや、辛うじて人間だったところを化け物にされた。


 ならば両親は? 両親は辛うじて人間だったのに化け物になってしまったのか?


 いいや、違う。

 俺は自らの喉に包丁の切っ先を突き立てて思う。


 お前たちは人の皮を被った、化け物だったに違いないのだと。


 その化け物を、化け物となってしまった俺が殺して、そして俺自身も死ぬことでこの世から化け物が消える。


 もう誰も俺に指図するな、命令するな。


 俺の生き方は、俺の物なのだから。


 死に様すらも、俺の物なのだから。


 それでいいじゃないか――



「この世で争い合うことほど無駄なことはない。話が通じるのであれば、言葉だけで物事は全て解決できるはずだ」

 ウリルたち跳ね回り、問い掛けてくる。

「そう、俺たちは分かり合うことができる」

 一斉に輪を狭めるように全方位から突撃してくる。

「どの口が言ってんだよ!」

 ノックスが短剣で次から次へと跳ね除け、アレウスはその逆側のウリルたちの爪撃を打ち飛ばす。

「戦って戦って、その先で得られるものにどれほどの価値がある? 俺にはこれっぽっちも響くものがない」

 頭上――空けられた天井の穴からさながら今、降ってきたかのようにウリルが急襲する。その『首刈り』を凌ぎ、その腕を掴んで投げ飛ばす。

「傷付けることでしか言葉を交わすことしかできない畜生どもと同じ生き方をしたいわけじゃないだろうに」

 柔らかな着地後、すぐに攻撃に転じてくる。アレウスは爪撃を捌き続けるが他のウリルが横槍を入れてくるため一人に集中することはできない。

「殺し、殺され、殺し合い。なにを得て、なにを失い、なにを求める? くだらない価値観だと思わないか? 殺し合わなければ分かり合うことすらできない人間性など」

「だから、どの口が言ってんだよ!」

 苛立つノックスが骨の短剣を自らの血で濡らす。

「“芥より甦れ、蛇骨”」

 床に突き立てた短剣から召喚された大蛇がノックスとアレウスを守るようにとぐろを巻いた。ウリルたちは爪撃で大蛇を切り裂くも、鱗は一片も崩れない。

「やれないことはないだろうが、全員を相手にするのは骨が折れるぞ。気を抜いたら死んでしまう」

「多数を相手取るのは正しい戦い方じゃないだろうな」

「なら、『合剣』で行くか?」

「それだとリスティさんすら巻き込む」

 貸し与えられた力を用いた『合剣』ならば突破口も開けるだろうが、用いないままの『合剣』は全員を巻き込むだけの破壊力がない。だからといって、キングス・ファングに向けて放った一撃ほどの威力も求めていない。


 とぐろを巻いた蛇は徐々に土へと還り始める。


「正直、これといった打開策は思い浮かばないんだけど」

 呟きつつ、大蛇が崩れていくのに合わせてアレウスは身構える。

「君と連携さえ取れれば全く問題ないと思う」

「強気だな」

「強気もなにも、相手はキングス・ファングですらないんだぞ?」

「はっ、それもそうか」

 ノックスもまた身構える。

「んじゃ、ま、その場のノリでどうにかできるか」

 大蛇が崩れ切ったタイミングでノックスが疾走し、ウリルたちに飛び掛かる。短剣と体術を組み合わせ、時には爪撃も仕掛けることでウリルを寄せ付けず、また奇襲に転じられても獣人特有の本能での反射神経でかわし、翻弄する。

 その中にアレウスも飛び込み、混沌を極める戦いの中で一人、また一人と短剣で爪を打ち払い、篭手の裏拳で昏倒させていく。

 控えめに言って、相手にならない。キングス・ファングの足元にも及ばないどころかリブラの尖兵のどれにも劣っている。ウリル・マルグがどれほどの強者かは知らないが、幾度の強者との戦闘を乗り切ったアレウスには脅威となる攻撃は一つもない。それはノックスも同じで、いつもの調子で駆け回り、ウリルたちを掻き乱し、調子を狂わせたところで畳みかけるように短剣を振り乱す彼女に誰一人として爪も剣も届かない。

「ノクターン・ファングはキングス・ファングからまともな戦闘技術を受けることはなかったと聞いているが」

 ウリルが呟く。その言葉には焦りが見える。

「そして、お前は一体なんなんだ?」

 呟いているウリルとアレウスの目が合う。邪魔者ではなく、異物を見るような目でそこには驚きと戸惑いがある。

「獣人の俺が、ヒューマンごときに及ばないとは思いもしなかった。どこの手練れだ? お前もエルヴァのような傭兵なのか?」

 質問には答えない。思考をそちらに向ければ途端にこのウリルは隙を突いてくる。立ち回りが他のウリルよりも慎重で、圧倒的に異なる。


 やはり、本物か。


 またも無駄なことを考えてしまう。質問には答えないように意識を向けることはできるが、本物か偽物かの思考は勝手に行われてしまう。それで大きな隙ができるわけではないのだが、どこかに本物のウリルがいて『首刈り』を狙ってくるのではないかという不安がよぎる。

 どちらにせよ、それが踏み込みの甘さに現れているのか、この冷静なウリルをどうしてもあと一歩のところで切り崩せない。他のウリルはノックスが仕留め、アレウスが昏倒して徐々に数を減らせているというのに。


「王国の蛮行を見て、どうしてあなたはまだ王国の騎士でいられるというのですか?!」

「蛮行と言うのならクールクースのそれは蛮行ではないとでも? あの基地に残されたほとんどの仲間を、同胞を魔力の爆発で消し飛ばした行いが王国よりも小綺麗な行いだというつもりか?」

 馬上鎗を巧みに操るマーガレットにリスティは迷いなく剣で突きかかりに行くが、間合いの差が絶対的な優位性を作り出しており、どうしても刺突は成功しない。

「リッチモンド様に示しがつかないとは思わないのですか?!」

「義兄上には失望した。あの蛮行を見て、クールクースを止めなかった。なんという無様な姿か」

「クールクースはワナギルカンの血族ですよ!?」

「しかし、それはクールクースが勝手に言っているだけではないのか?」

 たまらずリスティも鎗を携え、対抗するがマーガレットの鎗術は彼女のそれを上回っている。リスティは冒険者としての資質を持っている。しかし、担当者として過ごしてきた期間が――ブランクがマーガレットとの間に絶望的なまでの力量の差を生み出している。


「よそ見ができるとは、相当にナメられているようだ。やれやれ、最近の若者はどいつもこいつもそんな感じか」

 冷静なウリルがアレウスに爪での連撃を繰り出す。やはり、攻撃に一体感がない。そして攻撃にアレンジが加わる。他のウリルは考えもなしに襲いかかってくる上に攻撃には単調さがあった。このウリルにそれはない。


 もしもウリルでないのだとしても、この場にいるデコイの中で一番の強者であることに変わりはない。


 次第にアレウスも調子を上げていく。対等な相手と戦うのではなく、強者に挑みかかるという感覚を呼び覚まし、どんなに有利な状況であっても不意の突撃は仕掛けずに様子を見る。


「これで最後!」

 後ろでノックスが他のウリルを倒す。その背後にアレウスの横をすり抜けた冷静なウリルが迫るが、ノックスは分かっていたかのように横っ飛びで避けて、『呪い』が引き起こす重圧でウリルを床に叩き付ける。その間にアレウスが接近し、重圧を跳ね除けたところに短剣での刺突を試みる。立ち上がって間もなかったが、ウリルは左へと転がり避けて、ノックスの追撃もまたそこからの跳躍で凌ぐ。

 昏倒していたウリルが起き上がったのでアレウスは仕方なく短剣でその首を切り裂き、殺す。彼女と誓っている。迷ってはいけない。守るべき者を守るために殺す。この場は昏倒や気絶させるだけでは止められない。


「我らを愛せし精霊よ」

 また一人起き上がり、呟く。

「今、ここに我が身を糧とし、世界を乱す者たちに天罰を!」

 ウリルの体が弾ける。

「“ウンディーネ”!!」

 頭部だけになっても続けられた詠唱が終わると、その頭部もまた弾けた。


 床全体が湿り気を帯び、空気中の水分という水分が魔力と結合して水となり、床を、足首を、足を満たしていく。


「お前は知っているかどうかしらねぇが、召喚魔法だ」

「見たことはないが、読んだことぐらいはある。いや、見たこともあるな。君の“蛇骨”で」

「ありゃ呪術で呼び出す代物だが、これは精霊へ投げかけて行う代物だ」

「詳しいな」

「専門分野ではないが、呪術で扱うことがある以上、知識として取り入れるのは当然だろ。理解はできてねぇけどな」

 アレウスが魔法の書を読んで理屈は分かっても、それを形とすることができないのと同じだろう。ノックスは自分自身が扱う『呪い』に近しい召喚魔法について独自に調べ上げたが、習得まで至らなかったということだ。


「これもあなたの入れ知恵ですか?」

「入れ知恵? いや、こんなことを教え込むわけがないだろう?」

 足元が水で満たされていてもリスティとマーガレットの戦いは苛烈なままで変わらない。しかしそれも、水かさが増していくに連れてそれどころではない状況へと変わっていく。


「アリスさん! 『ウンディーネ』は水の精霊です! 恐らくはそれに近しい形で現れ出でると思います!」

「水の精霊に問い掛けはしたが、水の精霊そのものが現れるわけではないってことか」

 廃都市のラビリンスで見たサラマンダーもどきは魔物だったが、今回は精霊がウリルのデコイという糧を、魔力を受け取ったために同等の力をこの場に顕現させるのだ。その場合、召喚魔法と呼ばれるのだから水の精霊を模した魔力で構成された生命体が発生する。


 さながら、魔物のごとく――


 既に水は胸の辺りまで達している。

「ふっ、自らが抱え込む兵士以外は信用していないか……ウリル・マルグ」

 マーガレットは馬上鎗を持ち続けることに限界を感じ、手放す。

「このまま私を溺れ死なせたところで事態が好転しないとなぜ分からない」

「一時休戦しましょう、マーガレット様」

「……断る。私は()()、クールクース側には立てんからな。しかし、状況が状況だ。殺し合っていては溺れ死ぬ。死なないためには動き続けなければならない。死ぬための戦いを私はしたくはないのでな」

 鎧をさっさと脱ぎ捨てて身軽になるとマーガレットは泳いで壁の出っ張りに片手を掛ける。


「この場にエルフがいないのは正解だな」

 クラリエの名は出さないままに呟く。エルフのほとんどは泳げないため、クラリエがここにいたら彼女を溺れさせないようにしつつ戦わなければならなかった。ノックスにもクラリエと同等の心配をしてみたが、幸いにも彼女は泳げるようだ。

「泳ぎながら戦わなきゃならねぇのか?」

「そうだろうな」

 そして、水の精霊はアレウスの貸し与えられた力にとって相性が悪い。着火させても、鎮火させられてしまう。


 足はもう底をつかない。泳ぎながら、或いは壁の出っ張りを駆使して泳ぎを継続させることを強いられる。


 渦巻いて、渦巻いて、渦巻いて。

 水底から現れるのは眉目秀麗な、あまりにも整った顔立ちを持つ女性。髪の毛は水で、体もまた透き通るほどに綺麗な水で、瞼を開いた眼球だけはやけに人間味を帯びている。人間における心臓の部位に脈打つのはスライムが持ち合わせているような『核』。そして両足はそのままこの場を満たしている水面と同化している。


「俺の首を取りたければ、そこのウンディーネを倒してみせることだ。まぁ、無理だろうがね。ただの傭兵もどきたちが水の精霊が与えた生命を上回れるわけがない」

 冷静なウリルの声がする。ただし姿は見えない。


「……あぁ、気楽になった」

 殺す気持ちを抱き続けるのには限界がある。

「要は魔物退治だろ? こっちの方が僕には合っている」

 気負っていたものを一時的に捨てて、アレウスは冒険者としての本業に取り掛かる。

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