これは自分の覚悟
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「本当になさるおつもりなのですか?」
「ここまで来て、今更引き返すわけにもいかないだろう」
「クールクースはウリル王子に一任していたのではないのですか?」
「愚弟――とは言い難いな。仮にもクールクースを捕らえたのだ。そこは評価しなければならない」
「ですが、処刑するために王都へ移送するまでの間の全てもウリル王子に任せたはずです」
「だから救援に行くのは間違っていると?」
「少なくとも殿下が少数精鋭で出向く理由ではありません。反乱軍にクールクースの奪還を許すのであれば、ウリル王子はそれまでの男であったというだけのこと。王位継承権を破棄させる絶好の機会なのではないですか?」
「……なんだ? 貴殿は私が、継承権争いで敗北する可能性があると考えているのか?」
王国騎士は男の言葉に小さな悲鳴を上げる。
「も、申し訳ありません! そのようなことを言いたいわけではなく!」
「ウリルが失態を演じようと演じまいと、私は必ず王位に就く。愚弟や愚昧に私の地盤を揺らがせるだけの力はない。ゆえに、好きなようにやらせている。それが、私の失態を招くような大きなうねりになると……そのように言いたいと?」
「いいえ! 私はただ! 王子の身を案じたのです! 王子が戦場に出て命を落とせば、」
「言い訳は飽いた。そして、それもまた私への侮辱だ。私が戦場に出て命を落とす――そのようなことがあると思う貴殿の思考は甚だしく不快だ」
「どうかお鎮めくださいませ。この場において一人でも兵力を削ぐのは戦術的にも考えられないことです」
別の王国騎士が男の怒りを鎮めに掛かる。
「……良い。貴殿に免じてこの場で切り捨てずにおこう。ただし、王都に戻った折には支度を済ませて城を去ることだ」
男は王国騎士への最終通告を手短に済ませる。
「貴殿が庇い立てした際、そこの騎士を守るように割り込んでいたなら共に切り捨てていたところだ。その自己犠牲は飽いている。だから、しっかりと安全圏で私に進言する頭の良さに感じ入るものがあった。仲間を守り、地位も守る。ずる賢くなければこの世は生きられない」
男は騎乗している馬の腹を足で軽く叩き、走らせる。
庇った王国騎士が震え上がり、足が竦み、崩れ落ちる。
「私の失言ですまないことをさせてしまった」
庇われた王国騎士が感謝の意を示す。
「真正面に立ったわけでもないというのに横から止めに入っただけで、これほどに死の恐怖に陥ったのは初めてだ」
「もはやこの世に未練はない。ウリル王子の救援に私は命を賭そう。でなければ、王都に戻ったところで私の居場所はない」
お前は同じようになるな。そのように止めに入った王宮騎士に用心するよう告げる。
「それにしても反乱軍も運が悪い。ウリル王子だけなら奪還できると踏んだのだろうが、あの方は全てを覆す」
「たった一人で戦争を勝敗を決する御方だ。あの御方がいる限り、王国は常に正しいのだ」
*
人があっさりと死ぬところを見てしまった。人が人を殺す様も見た。なのにアレウスの心にザワつかない。ノックスやリスティに弱いところを見せられないと男ながらに思っているのもあるが、慣れてしまった部分の方が大きい。
「エレオンはこの潜入経路を知ったから途中離脱なんじゃ」
「普段から悪臭を放つことに悪びれていない男がこんなことを気にしませんよ」
鼻の詰まった声でアレウスが零す愚痴を同じく鼻の詰まった声でリスティが諭す。
「短剣や剣はなんとか携帯したままでも問題ないですが、鎗ばかりは背負ったままでは通れそうにありませんね」
下水路はこの中で一番背の高いエルヴァがギリギリ立ったまま歩ける程度の高さしかなく、幅も人が擦れ違えるほどに広くはない。こうなると長物の鎗は斜めに背負っても穂先が下水路の天井に触れて切っ先が削れてしまう。縦や斜めではなく横向きにして運ばなければならないため、リスティが布と縄で束ねて引きずっている。このまま引きずり続けると汚水に浸かるが、さほども気にしていない。
「なんで入り口で待機したままなんだ? 我慢できないぞ」
ノックスは獣人なので特に鼻が利く。あまり長く下水周りには居続けたくないために不満を零しているが、その不満は当たり前のものだ。アレウスだって思っていることで、むしろエルヴァとリスティの慣れが怖ろしい。鼻が曲がりそうなほどの悪臭なのだが、表情を変えることもなく吐き気を催すことさえない。気合いでどうこうなるものではないはずなので、二人はこういった悪臭の中での活動経験があるのだ。
「鼻を塞いでも感じる汚臭に慣れるためと、機を待っている」
「機だと?」
「砦の兵士たちは侵入を未然に防ぐために監視の目を強めている。この状況では下水路を通っても見つかるだろうな。だから、混乱に乗じなければならない」
アレウスはリスティの指示でノックスが結んだ縄を短剣で断ち切る。草地にある木に結び付けた縄は残ったままで崖からぶら下がっていて隠しようはないのだが、ネズミ返しの上の砦柵に結ばれているよりはまだ目立たない。しかし、それでも侵入の形跡は残すことになる。
「混乱とはこの場合、なにを指すか分かりますか?」
「櫓の上の死体が発見されるのを待つのか」
答えに早々に行き着いたノックスにエルヴァは「勘が良いな」と褒める。しかし、そんな当たり前の褒め言葉にもなにか裏があるのではと彼女は勘繰り、次に罵られることを危惧して身構えている。
「褒めたときぐらいは素直に受け取ってもらいたいもんだ」
愚痴ってから、エルヴァは続ける。
「エレオンがあれほど綺麗に兵士を殺せるとは思わなかったが、死体は死体だ。当たり前だがいずれは発見されて騒ぎになる。そのときに重要なのは、内部への侵入を警戒だけでなく外部からの攻撃への警戒もあるのだと意識させることだ」
「二つに限らず三つ、四つと意識させる数を増やせば増やすほど脳への負荷が強まります。私もですけど、単純に複数のことを同時進行させるのって難しいんです。集中力を等しく二分割できる人はそれほど多くありません」
「兵士を二つの群れに分けたらどうなるんだ?」
「集中力という面では変わりませんが、班を二つに分けると今度は責任が重くなります。当たり前ですが重責は負いたがらないので、班を二つに分けつつも内部と外部の両方に警戒するようになります。要は意識の分散です」
小声で話している中で、二人の話す駆け引きについてはノックスだけでなくアレウスも小さく唸る。
「発見と同時に侵入する。騒ぎに乗じなければ下水路も早々と捜索されかねない」
こんな外側にある下水の出口にわざわざ降りてきて中へ入る兵士はいないのではないかとアレウスは思うのだが、エルヴァはあらゆる可能性を考慮しているだけだ。いわゆるアレウスが魔物との駆け引きで行う予測、予想。無いとは思うが有り得ること前提で立ち回る。集中力は分散してしまうが、死への不安は遠ざけやすく、心には僅かばかりの余裕が生じる。そのように捉えると納得できてくる。
エルヴァは足音を気にしている。アレウスたちも同じように聞き耳を立て、そして兵士たちのやり取りにも気を配る。
騒ぎが起こる。恐らくだが異変に気付いた。櫓の上の兵士に大声で声を掛けているのが分かる。足音は騒々しくなり、この機に乗じてエルヴァが下水路に入り、それに続く。
とても言葉では言い表せないほどの悪臭に気分を害する。食べ残しや汚物の流れる水路には人体に害を成すガスも発生している。長居はできない上に呼吸も最小限に済ませなければならない。迅速にエルヴァは下水路を進む。地図が頭の中に入っているかのように迷いがない。
「便所から大勢で出るのもなにかと問題だ。食堂のゴミ捨て場から上がる」
「固形物ではなく液体状――スープや飲み物を残した際に下水へ流しますよね? この砦にはそのための穴が食堂にあります。時間的には正午を大きく回っていますから、食堂にいる兵士の数は最小限。私たちが最初に接敵する調理番を無力化します」
「無力化できないなら殺せ」
「冒険者のアレウスさんたちにそこまで求めるのは酷です」
「酷だろうとなんだろうと、呼ばれたら俺たちはここで死ぬんだ。無力化できなかったからと素直に諦められたら困るんだよ。死にたくねぇなら殺せ。殺せそうになくったって絶対に殺せ」
過激なことを言われて妙な切迫感に囚われかけるが、ノックスがアレウスに「心配するな」と言われて我に返る。彼女はアレウスができないなら自身がやるつもりでいる。しかし、業を背負わせてはいけない。やらなければならないのなら、アレウスも覚悟を決めるべきだ。
その覚悟を決めてここに来たのだ。殺す覚悟がなければジョージのところには行っていない。
エルヴァが立ち止まり、上を指さす。頭上から光が差している。一人ずつなら登れそうだが、この縦穴の周りには触っただけで不快感が脳に直接伝わってくるようなヌメりと粘着性の発酵物が付着している。こんなところに全身を張り付けて登るのは、色々な意味で拒否反応が出てしまう。
長物を巻いていた縄の一端をリスティはエルヴァに渡す。鎗は横から縦の穴へと立てかけられ、素早く引っ張り上げる事前の準備を終える。
「登れるのか?」
「ここで手間取るわけにもいかないからな。それにそろそろ、」
エルヴァが話している最中にノックスは外部からの魔力を感知する。彼女の顔を見てアレウスも状況を察する。
エレオンがわざと呪術ではなく魔法を行使した。
「“落上”」
その一言でエルヴァとリスティが真上へと、跳躍ではなく地面がバネ仕掛けのように二人を跳ね上げた。エルヴァが手にしていた縄が穴の外で結ばれ、下水路に残されたアレウスたちはその縄を頼りに一気に登り切る。
リスティの剣先が調理番の喉元を捉えて離さず、エルヴァは残りの調理番を次から次へと切り捨てていた。ノックスが縄を手繰り、鎗を下水路から引っ張り上げる。
調理場の外――食堂の兵士と目が合う。兵士とすぐさま戦えるのはアレウスしかいない。エルヴァに頼ってはならない。自ら、選んでこの道を進んでいる。
調理場から飛び出し、短剣を抜いて兵士の首を狙う。悲鳴を上げかけるが、背後に回って手の平で塞いでこれを阻止する。首筋に剣先を当てて、すぐにでも殺せるのだと意思表示する。
「牢獄はどこだ?」
聞けるときに聞くべきだ。
「右の通路か、それとも左の通路か? どちらが近い?」
兵士は抵抗するべく腰に提げている剣の柄を握ろうとするが、ノックスが一気に迫ってその手を掴む。
「指を差す以外の行動を取るな」
切っ先は皮膚を裂き、兵士の首筋に一筋の血が流れ出す。
兵士が右の通路を指さす。アレウスは離れ、ノックスも兵士の手を離す。しかしそれでも叫ぼうとしたためノックスの回し蹴りが首を折る。
「殺せと言ったはずだ」
エルヴァが調理場から出てきてアレウスに怒気を込めて言う。
「尋問せずとも牢獄の場所は分かっている。お前の今の行動は自分自身が殺人を行わないための時間稼ぎだ。どうやらお前に付いてきただけのレイエムの方が覚悟はできているらしい」
獣人のノックスはヒューマンを少なくとも殺した経験がある。それに比べてアレウスは『悪魔』に囁かれたヒューマンの子供を殺したことぐらいしか――
そうではない。
唐突にアレウスは理解する。ヴァルゴの異界で亜人を殺したときから据わったはずの覚悟。それがこの場で揺らぎ、ノックスと自分は違うんだと言い聞かせようとした刹那、波濤の如くアレウスの脳を記憶が駆け巡った。
アレウスはもっと人を殺している。なにかと理由を付けて、人ではないから殺したんだと思い込み続けてきた。
ラブラ・ド・ライトも、キングス・ファングもガルダと獣人という種族は違っても、同じ人間だった。リブラの異界でも、無機物と結合していたとはいえ多くのヒューマンを――異界獣の尖兵と化した者を、ギルド長を殺したではないか。
それら全てから目を背けていたとでもいうのか、自分は。
顔に手を当て、理解によって起きる混乱と心臓の拍動に危うく気が狂いかけるが、右の通路から姿を現した兵士に誰よりも早く近付いて短剣を振り抜くことで冷静さを取り戻す。
「……上出来と言っておこう。ただ、肝心なところでそれをやるなとだけ言っておく」
短剣で切り殺したつもりだったが無意識に急所を避けて切ってしまった。続けざまに頭部に篭手付きでの裏拳を入れたことで兵士は気を失い倒れた。
殺し切れなかったことをエルヴァは責めてはこなかった。
肝心なところ――敵に囲まれても尚、この甘さを抱えるなということだろう。殺さなければならない場面で殺し切れないことがあれば、アレウスだけでなく他の三人の死に直結する。
「あのときから……ずっと、僕は……」
魔物に限らず、殺さなければ被害が拡大するのなら人も殺すと、決めたはずなのに。それがエウカリスからクラリエを守るよう託されたときの約束だったはずだ。彼女は亜人を殺せなかったアレウスを見放さずに鍛錬までしてくれたというのに。
「止まると死にます。急ぎましょう」
リスティが布を解き、エルヴァに鎗を投げて渡し、自身も鎗を背負う。
「その前に、これを」
手にした護符をそれぞれに投げ付ける。中に込められていた魔力が解放されて全員が水の球に包まれ、装備や体に付着したあらゆる汚れを取り払ってから形を崩し、床に流れて行った。
「こちらは“理解ある者からの餞別”です。これで臭いの心配はありません」
水の魔法を込めた護符。巻物ではない耐性装備のための護符でこれだけの水量を起こせるとなると、それはもうハゥフルしかいない。ハゥフルの女王か、カプリースか。その名を口にしないのは盗み聞きでの情報を漏洩させないためだ。
「そんなもんがあるなら下水路に入る前に言っておけよ。せめて俺ぐらいには」
「エルヴァだけに伝えていたら、もっと下水路で待機させていたでしょう? さっさとあなたが動いてくれるように黙っていたんです。アリスさんたちが苦しいだけですからね」
「そうかよ」
二人は布と鼻の詰め物を取って腰の袋に入れる。アレウスたちも二人に倣う。
「アリス」
どんどんと進む二人を追うために急ぐアレウスをノックスが呼び止める。
「ワタシはお前が人を殺すことのできない葛藤に悩まされているのが分かる。でも、その葛藤でお前が死ぬのは許さない。そして、その葛藤で死にかけると言うのなら、ワタシはお前を死なせないためにより多く人を殺す。ワタシにとって、有象無象の人間よりもずっとお前の方が大切なんだからな」
ああ、そうだ。
狂気の飲まれてはならない。正気を維持するのだ。でなければ妙な気概を周囲に与えてしまう。
己がやらなければならないことを他者に任せられる立場にはない。アレウスのためにとノックスが無茶をすれば、必ずそれは綻びとなって危機を生む。
この場をギリギリのところで乗り切っても、アレウスはまたどこかでこの状況に陥る。そのときは彼女以外も傍にいる。そこでも同じようなことになれば、それこそパーティの破綻と崩壊を招く。
忘れてはならない。殺したいから殺すのではない。殺さなければならないから殺すのだ。この手はもう真っ赤な血の色にとうの昔に染まっている。今更、聖人のように振る舞っても両手の血は洗い流せない。刻まれたロジックに、嘘は通用しない。
「僕だってレイエムを喪いたくない。僕は僕のために、君の気持ちを汲んで……躊躇わないと誓おう」
「……そっか」
なんとも言い難い、複雑な表情をノックスはしていたがその感情を読み取っている暇はない。アレウスとノックスは通路の奥に突き進んでいく二人を見失わないように全速力であとを追いかけた。




