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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第10章 -その手が遠い-】
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汚らしい安全策

【-呪い-】

 冒険者の職業では呪術師が用いる特殊な力。魔法に分類はされるものの、使い方から呪術、呪法、呪いとも呼ばれる。使用するのは魔力で間違いないのだが、魔法とは使用方法が異なるために呪力などと表現されることがあり、呼び方に様々な形態が存在する。

 魔法には分類されるものの、魔法と異なるとされるのは力の方向性によるもの。魔法は自分自身の体内から発露される力を精霊の力を借りることで変化させ、詠唱によって形作るが呪術は精霊の力を借りるのではなく周囲、或いは体内より発露される怨嗟や怨念の感情を原料とする。精霊との掛け合いで高まる魔法と異なり、怨嗟と怨念に共感してマイナスなイメージを高めることで威力や効果が高まるとされる。また魔法よりも呪術は圧倒的に消費する魔力量が少なく(そもそも消費の概念があるかも不明)、呪いを与えられることで魔の叡智を奪われたダークエルフなどが習得するケースがほとんど。次に習得可能性が高いのは獣人で、ヒューマンは三番目に位置する。


 呪術はデメリットが少ないと思われがちだが、負の感情に身を置かなければならないため精神力が強くなければ扱い切れず、怨念に呑まれれば心を病んでしまう。


 魔法は杖、もしくはそれの代替物(究極的に言えば『指の動き』でも代用可)で発動位置を指定するが、呪術はもっぱら刃物などで突き立てた位置を発動範囲として指定することが多い。これは精霊の補正が掛からないせいで、そのため呪術は掛ける相手が見えていないと発動が困難となる。

 魔法と呪術は紙一重の部分があり、怨恨の情が宿ればその魔法は呪いになると判定されることもある。


 クラリエは短刀を突き立てた位置で直線、円形を使い分け言霊で特定の行動を阻害する呪術。もっとも呪術としてスマートな形式。使い慣れているため、柔軟な対応ができる上に重ねがけが可能。ただし、本人が対象に怯えや怖れ、力量差を感じると効果は薄く、効果時間も縮まる。


 ノックスは『不退の月輪』より与えられた『呪い』で指定した範囲に怨念の重量を与え、短剣に血を与えて召喚を行う。また、ノックスに限っては広義の呪いとは掛け離れた力を持っているため『呪い』と表現される。彼女本人も呪いのことを『呪い』と固有名称で呼ぶことがあるが、使い分けするだけの思考力がないため総称としている場合が多い(アレウスもその場の状況で固有名称としてか総称として呼ぶか判断できていない)。


 エレオンは自身と周囲の怨念を銃弾に固め、『銃』で対象を撃ち抜くことで呪術を押し付ける。


 これはエレオンが特別優秀で呪術に適性があるわけではなく、元々の呪術の使い方が指向性で一方向への射出であったため、『銃』という武器と相性が偶然にも相性が良かったため。銃弾として固め始めたのは『銃』を入手してから。


――「呪えば呪うほど、自分自身も呪われていく。そしていつか呪いに喰われるんだ。怨念を利用し続けて無事で済むわけがないだろう?」――


「お前さんたちは帝国と王国が衝突するように仕向けたのが連合ってところまで掴んでいたりするかい?」

 馬を駆るエレオンが訊ねてくる。通常なら風を切る音で上手く聞き取れないところをエルヴァの『接続』の魔法を用いることで鮮明に聞き取ることができた。

「国境での争いは小規模ながらにあったんだが、そんなもんは小競り合いだ。侵略戦争でもなんでもない。だが、一年前からエルフの暴走を機に始まった二国間の大規模な衝突は完全に全国を巻き込む形になった。ほぼ停戦、休戦にあったそれがたった一発の矢が端を発したなんて、普通なら考えられない。だってそうだろ? そんなもんはこれまでだって不幸ながらに起こっていたことだ。それがどうして一年前、ただの一発の矢が二国間の戦争にまで発展したのか。そこには連合の思惑が混じっているのさ」

「潜入工作か」

「さすがは姫さんのお気に入りだ」

「潜入?」

 こういったことには疎いノックスが呟く。


「件の戦争の原因となった国境にいた奴らはどいつもこいつも一本の矢が全ての始まりだったと言う。だが、ちょっとそこから離れたところで聞いてみりゃ、話はもっと大きなことになっている。王国が火矢を放った、だから帝国は投石機で抵抗した。帝国が矢の雨を降らしてきた、だから王国は騎馬隊を突撃させた。『帝国がしたから』、『王国がやったから』。言葉の始まりは絶対にそうだった」

「連合が帝国と王国の内部に工作員を忍び込ませ、一本の矢によって始まった小競り合いを大きな歪みへと変えていったとでも言いたいのか?」

「そうだ。工作員はあくまで所属が連合であることを伏せて活動したんじゃないかと俺は思っているんだよ。自国が被害を受けた、だから対抗する。自国の誇りを傷付けられた、だから相手の言葉は信用できない。連合は心理的不和を引き起こさせ、このままでは帝国が滅ぼされる、このままでは王国が侵略されるという被害妄想を成立させた。そこから工作員は両国の国民に紛れて、戦争を煽ったり、侵略される不安を吹聴するだけだ。元を辿れば真実は一発の矢。だが、話は膨らみに膨らみ、帝国と王国の中枢に至ってしまった。真実の中に嘘があり、嘘の中に真実がある。現場を見ていなければ分からず、現場の人間から話を聞いても自身の元に届けられた報告とは大きくかけ離れている。統治者ってのは、大きな事態と小さな事態のどちらへの対処を取るべきかと迫られたら大きな事態への対処を選ぶものさ」

「騒ぎを大きくしたいわけではないが、自国民が傷付けられ領土を脅かされたというのに小さな対処を選べば国家への不信感が高まる」

「結局のところ、統治者にとって一番厄介なのは国を支える民草なのさ」

 アレウスは戦争の始まった一年間を知らない。だから、エレオンとエルヴァの話を静かに聞くことしかできない。しかし、アレウスよりももっと早くに連合の収容施設に入っていたエルヴァは彼の話に付いて行くことができている。恐らく、戦争や紛争といった部分での知識量の差が出ている。冒険者と軍人の差だろうか。だからといって軍人になりたいとは思わないが、知識は欲しい。魔物との戦いで自身を有利にするのは圧倒的な知識量だと分かっているからこそ、知らないことへの強い知的好奇心が湧き起こる。それがどんなに凄惨な内容であっても知らないよりも知っておきたい欲が勝る。とはいえ、戦争について調べるのは道徳的に間違っている。知りたいことであっても、抑えるべきだ。


「お前さんたちの収容施設での暮らしはどうだったんだい?」

「僕は『不死人』の一人に目を付けられていたから無茶なことはされなかったな」

「『不死人』がお前さんを玩具のようにして遊んでいたって? はっはっは、だったらお前さんは今、ここにいるわけがないじゃないか」

「玩具扱いを受けていたんだろうけど、そのおかげで他の危うい実験には使われなかったんだよ。連合にとって、僕は喉から手が出るほどの逸材だったみたいだけど」

 『超越者』であるアレウスをなんとしても手元に置きたがっていた。洗脳実験を行われそうだったが、それを女の『不死人』が抑止していた。だから奴らはアレウスのロジックを開く方法を見つけ出すこともできず、スクロールで書き写した内容を流し見ることでしかアレウリス・ノールードという人物を知る方法がなかった。

「労働はさせられていたんだろう?」

「そりゃよく分からない道具を作らされたりしていたけど、やっぱり『不死人』が目を付けているってだけで誰も手出しなんてできなかったみたいだ」

「運が良いのか悪いのか、どっちにしたって生き残っているんだから運が良いって話だ。それで、姫さんのお気に入りはどうだったんだい?」

「俺はしばらく洗脳実験を受けていた。どうにかして俺から帝国の情報を聞き出し、更に手駒に加えることで内部を調べる諜報員にでもさせたかったんだろう」

「耐え切ったと?」

「あんなものは冒険者の『衰弱』を経験していれば耐えられる」

「おかしいな、俺の聞いた話じゃ耐えられても廃人か狂人、耐え切れなかったら廃人とどっちに転んだって正常な人間ではいられないと聞いていたんだがね」

「新王国に身を置いておきながらよくもまぁ連合の情報に詳しいものだな。ああ、それはそうか。お前は連合側にいて、俺たちを攻撃してきたんだからな」

 これはエルヴァからのエレオンへの挑発とも受け取れるが、実際には腹の内を探るための発言だ。こう言われたら彼は自身に掛けられている疑惑を晴らすために、どうして連合に(くみ)していたかを語らざるを得なくなる。

「いつもなら笑って誤魔化すところだが、悲しいことにここには俺を庇ってくれる連中は一人もいないんでね、参った参った。いやはや、でも案外あいつらも頭が悪いもんだ。国境を警備する一人が俺に入れ替わっても、気付きゃしないんだからな。それぐらい部下を人間扱いしていなかったんだろう。俺が潜んでいる間も奴らは機械的に警備をするだけでコミュニケーションの一つすらなかったからな。ああ、国境に潜んでいたのは情報収集のため。あとは姫さんに頼まれたんだよ。収容施設からもしエルヴァが逃げ出した場合、一番に通るだろう国境はあの場所だ、と。そしたら本当に来やがったもんだから、言われた通り追い返そうとしたら追い返せなくて、連合の奴らにゃ滅茶苦茶に怪しまれたもんだから全員を殺して姿を消し、新王国へ逃げ帰った。以前にも言ったが、国境を見張っていたのは収容施設の事実を暴き、それを足掛かりに連合を攻める口実を作りたがっていた姫さんのためだ」


 アレウスたちは別動隊として動いている。リッチモンドを総指揮を執り、カルヒェッテ姉弟が戦場での指揮を執る。正面からの攻防は彼らに任せる形になるが、それもこれも別動隊がいることを気取らせないためだ。

 だから無茶な突撃を行わなければならない。注目させ、意識させ、目を逸らすことすらできないような苛烈な突撃を行って、奇襲や潜入があるとは思わせないようにする。


 ただし、捨て身で突撃ばかりを繰り返せば攻められている側は意図を汲もうとし始める。『どうして攻める側がこんなにも苛烈なのか?』と考えるようなことがあれば答えは必ず『別動隊が王女の奪還を狙っている』と行き着く。そうなるともはや見向きもされなくなる。


 それで状況が悪化するわけではない。気取らせてからの戦略や戦術もあるらしい。軍略など考えたこともないアレウスにしてみれば本当にそんなものがあるのかどうかすら疑っているわけだが、エルヴァやエレオン、果てにはリスティすらもその疑問を口に出さないのだから、素人の疑りは無意味だ。誰も真意を語ってくれない辺りに一抹の不安はあるものの、そのような不安さえも素人だから抱くもので彼らは自身に与えられた任務を遂行さえすればありとあらゆる状況は好転すると信じている。なにより自分さえいれば全てが良くなるという自信さえ感じられる。強烈なまでの自己評価の高さにアレウスは眩暈すら覚える。自分の命に価値はないと言い切ったエルヴァでっても、自分の力を否定することはしないらしい。


「俺はお前さんたちも知っている通り、エルフの生まれでね。いや、エルフである誇りはとうの昔に捨て去ってしまったんだが、この身に流れる血ばかりは否定しようがないもんだから先に言っておいた方が同情の一つでもしてもらうっていう魂胆さ」

 自ら狙いを口にする辺り、同情を本気で求めてはいない。普段から用いている軽々しい口調から来る自らへの皮肉めいたものに聞こえる。

「森にいた頃は世の中のことなんざどうでも良かったんだが、森を捨ててからはそうも言っていられなくてね。あれやこれやとやっている内に、俺も収容施設の仲間入りをしたのさ」

「僕たちと時期は違うんだろう?」

「当然の当然、当たり前の当たり前。俺が収容施設にいたのは王国に投獄されるより以前さ。いやね、それより以前――エルフで言うところの以前ってのはざっと数十年や数百年単位なわけだが、俺の記憶が間違いなければおおよそで言わせてもらえば六十三年前は人生のまさに絶頂期だった。そこが俺の人生を決定付けることにもなったのさ」

 馬を駆る速度が落ちる。更に急に迂回するように馬の行く先を手綱で操作する。どうやら王国の斥候や偵察を気にしているようだ。ならば、もう既に王女が捕縛されている拠点は間近なようだ。

「絶頂期?」

「そう首を傾げるもんでもないだろう、リスティの嬢ちゃんよ。誰にだって、無限の感覚はあっただろう? この時間が永遠に続くような、それでいて永劫に続いても全く苦にすら思わないような一瞬、もしくは数日間、長ければ数年間。俺は六十三年前にあった。その六十三年前の絶頂期が、未だ頭から離れて消えてくれないわけさ。要は昔を懐かしむんじゃなく、昔に帰りたい。あの頃に戻ってやり直したいんではなく、あの頃に戻って全く同じ日々をもう一度過ごしたい。ああ、言われずとも分かっている。虚しさの極みってもんよ。過ぎ去った期間を、どれほどに羨んでも、どれほど望んでも、もう帰ってきやしないのに、六十三年前をもう一度と俺は願って願って願って、狂い続けている」

 エレオンの口調から軽々しさが薄れていく。

「今でこそ連合がなにもかも好き勝手にやり始めているように思えるかもしれないが、昔から生きている俺から言わせてみれば帝国も王国も、その他の小国どもも好き勝手にやっていることに変わりない。道徳だかなんだか知らねぇが、ちょっとでも自分の国を小綺麗に思わせたいがゆえに方針転換を始めていやがるが……俺はやった連合と王国の仕打ちを忘れちゃいない。反目しているようで、帝国を貶めるがために二国間でおぞましい実験や開発をしていた事実は消えやしない」

「『呪い』が出ているぞ」

「……ふはは、獣人の嬢ちゃんには丸分かりか。いやはや、その鋭敏な感覚には困ったものだ。ああそうだ、俺の『呪い』の発端はそこが始まりだ。六十三年前が絶頂期であるのなら、おおよそ六十年前といった具合か」

 徐々に軽口を叩いていたエレオンの言葉に静けさが宿り始める。

「さて、俺の昔話もここまでさ。いやはや、もっと時間があったなら話したいところだったんだが、そうもいかないのが世の中ってもんさ」

 馬が足を止める。アレウスはエルヴァの馬から、ノックスはリスティの馬から先に降りて辺りの気配を探る。敵意を感じる存在がいないことを未だ騎乗したままの三人に手で合図を送る。三人が降り、斥候部隊が事前に調べ、少なくともしばらくは隠せるであろうと思われる地点に馬を連れ、その手綱を木々に結び付けた。

「私たちが戻らなきゃ、この子たちの手綱は(ほど)けなくて死んでしまう」

「王国のお偉いさんは(うま)畜生(ちくしょう)にまで容赦がないみたいな言い草じゃないか。さすがに乗り手のいない馬は殺さないもんだろ。違うのか?」


「さぁな。俺の知る騎士は馬を逃がすのを優先していたが」

 三人は無意識の緊張状態で、緩和のために馬に関しての話題を出して口を動かしている。気付いてコントロールしているのはエルヴァだけだ。

「アリスとレイエム。お前たちの感知はアテにさせてもらう。俺の接地している人物に限定した感知は魔力を介する。気配消しも習得しているお前たちよりもずっと気付かれやすいからな」

「ワタシは感知できても、それが敵か味方かまでは分かんねぇぞ?」

「敵意があるかないかで判断しろ。獣人のお前には簡単なはずだ」

「確かにな。でも、あんまり無茶な感知の仕方をすると気取られそうだ。なにせこの周囲一帯には獣人の臭いが残っているんだからな」

 「なにを今更」とエレオンが呟く。

「ウリル・マルグは獣人のミーディアムさ。獣人の嬢ちゃんみたいなのをミディアムビーストと呼ぶんだが、奴は古くに使われていたワン・サード――三分の一しか獣人の血が入っていないという理由だけで、そう呼ぶように固執しているそうだ。案外、そこが劣等感なのかもしれない。逆上させるならそこをつついてみるのが丁度いい」

 穏便に物事を進ませたいのに怒らせてどうするのか。これが正面衝突する場であれば激怒の感情を抱かせるのも一つの手だが、あくまでも潜入と奇襲を前提として動くなら、とにかく相手にこちらへの無用な感情を抱かせないのが重要だ。それともエレオンは怒らせて注意を惹き付ける役目を自ら務めると言ってくれているのだろうか。

「獣人絡みか」

「悪いな」

 謝らせたいわけではなかったが、呟きをノックスに聞かれてしまった。連続して獣人と戦わなければならないことに嘆いただけで獣人への不快な感情ではない。


 エルヴァを先頭に、アレウスとノックスが続き、その後ろにリスティ、最後尾をエレオンが務める。真後ろを取られないことを考えた陣形に見えるが、感知さえすれば急襲は凌げる。エレオンも銃だけが取柄(とりえ)ではないはずだ。


 森林を進む。腰の辺りまで伸びている草を掻き分けていたが、アレウスでも拠点が見える位置まで近付くと全員が屈み、慎重な前進が続いた。姿は草で隠せているだろうが、ガサガサという雑音は聞かれてしまうだろう。草の一部が揺れ、倒れているだけで違和感は大きく、すぐにでも見つかる。

 そう、見つかるのは時間の問題なのだ。だからこの進軍の意味は見つかるまでにどれくらい拠点に近付けるかにある。近付けるだけ近付き、見つかった瞬間に急襲する。見つからないのが一番だが、『影踏』やクラリエではなく一人ではなく五人で動いている以上、その一番は無い。


「支援できる地点に移動する。上手くやれよ」

 エレオンが離脱する。この離脱は作戦の内だ。彼の『銃』による攻撃は魔法のように遠距離でこそ真価を発揮する。どれくらいの距離まで射撃できるのかは一切不明で、あの『銃』が狙撃に適した形であるのかすらもアレウスには理解できていないが、その射撃を受けたことのある側での感想なら恐怖の二文字で表すことができる。やはり手の出しようのない距離から攻撃を受けるのは怖ろしいものなのだ。


「それにしても、どうやって登るんだ?」

 拠点と呼ぶには大きすぎないだろうか。そんな急ごしらえの物ではなく、要塞ほどではないにせよこれは砦と呼ばれるものだ。砦柵も頑丈で、砦の門も固く閉じられている。櫓には常に兵士が立っていて目を光らせている。それでもアレウスたちが見つからずに済んでいるのはバレないように進んでいるからではなく、単純な立地の問題にある。

 アレウスたちの前方に広がっているのは砦までの道のりではなく、崖である。恐らくは地割れで出来たもので底も見えてはいるが、降りて登らなければならない。手間が掛かる上に、降りることはできても登るには砦から設置されているネズミ返しを突破しなければならない。ただでさえ難しい登攀(とうはん)であるのに、人間がこのささくれ立ったネズミ返しを突破するのは不可能だ。そういった不可能性から櫓の兵士たちはアレウスたちがいる方面を見ない――ほぼ見ないだけで警備の一環として全体を索敵することは教え込まれているため時折、彼らはこちらに体ごと視線を向ける。ただし、やはり襲撃される方向ではないと思い込んでいるためか、その索敵は粗い。草に隠れているアレウスたちにすら気付けていないのだ。こうなると櫓に立っている兵士は獣人ではない。獣人の目なら、違和感を見抜けないわけがない。ならばウリル・マルグと呼ばれる者が率いる獣人は前線に配備されていると考えられる。


 悩みの種であった獣人への対処が最小限で済ますことができる。これだけでノックスの表情に幾分か余裕ができた。


「櫓の兵士についてはエレオンがどうにかするはずだ。あとは登る方法だが」

「崖を登るのではなくネズミ返しの端に縄を結ぶことができれば、あとはその縄を登るだけで攻略できます。ただ、鉤爪はそこまで優秀ではないですし、音も立ててしまいますから得策ではない」

 リスティは崖の底を眺める。

「この一方だけの崖に甘えて索敵意識も甘いとなると、この方面には秘密の抜け穴もないのでしょう。どうしますか、エルヴァ?」

「崖を降りて登る。だからこの方角からは難攻。だったら飛び越えるだけでどうとでもなりそうだ」

「この距離を飛び越える……? 言っていて頭がおかしいと思ったりしませんか?」

「可能だろ、そこの二人なら」

 エルヴァはアレウスとノックスを見る。


 『不退の月輪』はこれよりも深い崖の底にあった。キングス・ファングの群れにおける死生観で使われている崖で、ノックスとセレナは難なく降りて、難なく登っていた。エルヴァにその情報はないはずだが、獣人の持ち前の身体能力の高さを買っているのだろう。ではなぜアレウスまで見てくるのか。

「ここで貸し与えられた力を使えと?」

 そのように言っているようにしか聞こえず、小声でアレウスは問う。ノックスにとっては跳躍が訳なくとも、アレウスは貸し与えられた力を行使しなければとてもじゃないが飛び越えられない。

「俺が指図したらその獣人は従わないだろ。ただでさえ名前で呼ぶことどころか偽名で呼ぶことにすら嫌悪を示してくるんだからな」

 それは印象が悪いからだ。セレナのために働きかけてくれた人物ではあるが、ここではアレウスを教練と称して痛め付けた相手。そこの部分でノックスは未だにエルヴァを許していない。

「お前が言い聞かせろ。縄を持ってネズミ返しまで跳躍して、砦柵に結び付ければ俺たちはそれを辿る」

「レイエムに危険は?」

 言っても彼女はキングス・ファングの娘である。今でこそ追放という形式を取られているが、ヒューマンのせいで死んだとなったらパルティータとセレナが全力で報復に来る。

「言っただろ、櫓の兵士はエレオンが処理する」

 あの男を単純に信じるのは難しいが、エルヴァがそこまで言うのなら引き受けるべきだ。

「ワタシが跳べばいいのか?」

「ああ、頼む」

 そこにアレウスは一つ付け加える。

「君が見つかりでもしたら、貸し与えられた力を行使する」

「……分かった」

 見つかったら間違いなく乱戦になる。飛び越えたノックスだけが孤立無援になってしまえば必ず命を落とす。そうさせないようにするためには、アレウスも貸し与えられた力を使って彼女の元へと辿り着いて救援に行くことが求められる。


 リスティが彼女の体に縄を結びつける。縄を手にするより自由が利き、なにより縄を落とす不安がない。ノックスはやや助走を付けられるように後ろに下がり、そこから最小の動きで、最小の音を立てるだけで草地を駆け抜け、ネズミ返しへと跳んだ。


 四隅の櫓の内、二隅の櫓の兵士がこちらを向く。最小の音とはいえ、気付かないわけがない。刹那、兵士の眉間をエレオンの銃弾が貫いた。兵士は座るように崩れ、眠るように櫓の上で絶命する。続けざまにもう一方の櫓に立つ兵士も眉間を貫かれてやはり眠るように座り込み、死亡する。声の一つも上げることがなく、発砲音すら聞こえなかったことから残った二隅の兵士は未だに無反応だ。まさか兵士が櫓の上で音も無く死んでいるとは思わない。思うとすれば、索敵を怠って眠りこけていることへの不満だ。その不満が高まれば、残った櫓の兵士は砦内の兵士に声を掛け、櫓を見に行くように指示を出すはずだ。そこでようやく死んでいることが発覚する。


 それまでに与えられた猶予で、どこまで忍び込めるか。ノックスは砦柵に縄を結び終え、合図を送ってくる。リスティがもう一方の縄の端を木に結び終えたのを見てエルヴァが先陣を切って、この縄の中央付近まで跳躍して踏み抜いてから両手両足で縄を抱え込み、自身が起こした揺れなど物ともせず辿っていき、ノックスの元へ到着する。リスティは最初から両手両足で抱えてゆっくりと進み、アレウスは二回、縄を踏み抜く跳躍でネズミ返しの上に着地した。


「お前は冒険者よりも軽業師に向いているな」

「馬鹿なこと言っていないで、先を急ぎましょう」

 妙な評価をしてくるエルヴァに文句の一つでも言いたかったがリスティが急かす。

「ここからは事前に入手した地図の通りに進みます」

 言いながら彼女は鼻に詰め物をし、更に鼻と口を布で覆う。

「皆さんも早く支度を進めてください」

「なんで鼻と口を?」

「拠点と呼ぶには大きすぎるここは砦として機能しています。立地上、背面に地割れで出来た崖がありますが右前方より水を引き、更には井戸も内部にあるようです。ここまで言えば分かりますよね?」

 なんの用意もしていないだろうアレウスとノックスに詰め物と布を渡してくる。エルヴァはというと、既にリスティと同じように布で鼻と口を覆っている。


「下水を処理するために掘られた穴から侵入する。糞尿まみれになる覚悟をしておけ。清潔な水で洗えるようになるまで手で顔を擦らないようにしろ。汗さえ拭うな。肌は意外と弱い。特に顔周りは注意しろ。目に汚物が入れば炎症を起こし最悪、失明する」

 アレウスとノックスはそれぞれ顔を見合わせる。

「綺麗に潜入できるとでも思ったか? 『影踏』ほどの技能があればそれもできなくはないが、俺たちにはそれがない。だったら(きたな)らしい方法を取るまでだ。それが安全策なら尚更、な」

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