現状
*
「ロクな食事を与えず、着替えもさせず、体を拭うことさえ許さず、常に両手両足を錘付きの鎖で拘束し、ここ最近は大も小も垂れ流させたままで、衛生面ではもうとてもではありませんが新王国の王女らしさなど消え失せています」
牢獄への階段を下りながらウリル・マルグは報告を受ける。
「いつ感染症に罹ってもおかしくないはずで、今日明日にでも死んでしまいそうなほど衰弱しているのは確かなはずなのですが」
階段を下り切ったところで男は鼻を摘まんで臭いを堪える。
「むしろ根負けしているのは我々や、同じく牢獄に放り込んでいる者たちの方で……どうにも、様子がおかしいとしか」
「地位も名誉も捨て去れば奴もただの女だ。糞尿まみれなど恥辱の極み以外の何物でもないだろう?」
「だからその拷問を耐えている状況でありまして!」
ウリルに思わず声を荒げた衛兵は口を押さえて、声量を下げる。
「申し訳ありません……!」
苛立ちから来たものだと判断し、ウリルはとやかく言うことはしない。
「王女をそこらの男どもにくれてやってもよかったんだが、仮にも『天使が憑いている』と噂される女だ。誰も抱きたがらない。かといって、性欲で動く連中を外から入れれば風紀が乱れるだけでなく、俺の統治に異を唱える者さえ現れかねない。だからこその人間扱いしない方向で追い詰めてみたんだが……参ったな」
「精神的拷問ではなく肉体的拷問に切り替えてはどうでしょうか? それこそ指の一本でも切り落とせば、」
「天の使いの指を切り落とせるか?」
問い掛けに衛兵は黙り込む。
「一番の方法は信仰心を捨てさせることだ。『天の使いに見初められた女』でなくなれば、あとはどうとでもなるんだが……なぁ?」
ウリルは鉄格子を荒々しく掴み、中にいる人物を怯えさせようとしたが無反応で返されてしまう。
「お前さんを捕まえたまでは俺の最高の手柄だった。だが、お前さんを捕まえたあとは俺にとっちゃ最悪の時間だよ。どうしてそこまでされて折れない? どうしてここまで辱めを受けて、挫けない? それとも初手を間違えたか? お前さんをそこらの男どもに抱かせ続けていれば、その信じられないほどに高潔な精神を砕くことができたのか?」
問い掛けに女――クールクースは答えない。
「いいや、お前さんはたとえ男に穢されたところで挫けやしないだろうな。信じられないが、お手上げだよ。俺には荷が重すぎる。重すぎる上に、どうやらお前さんを旗印にしている連中が俺の元へとジリジリと攻めてきている」
「あら? お義兄さんの入れ知恵だったのでは? 私たちを一網打尽にするという策略だったのに、どうして攻められそうになって焦りを感じていらっしゃるのでして?」
「……その口調はなんだ?」
「失礼。汚れにまみれた中で上品に話してみれば、それは相当に相手を苛立たせることができると思っただけ。そして、顔を見て分かったわ。精一杯の強がりと受け取れるだけの余裕が、あなたには残っていない」
「品位を損なわない根性には感服するしかないが、余裕はなくとも役目は果たさなければならないんでね。俺はさっさとお前さんを引き渡し、その首が飛ぶ瞬間を待ち侘びている。ああ、その未来に行き着くためなら今、この瞬間の懊悩など耐え忍べる」
「私の首を落とせるの?」
「王都では国王こそが全てだ。そこに神が介在する余地などない。無論、民草にはお前さんが神を捨てたと喧伝させてもらう」
「ふふ、なるほど……新王国があなたの兵とぶつかって、私が救い出されるか否か。局所的ではあれ、国を揺るがす大事が始まるのね」
「残念だが、お前さんが助け出される未来はない。そんなロクでもない希望にすがり始めている辺り、お前さんも参っているな? そのすまし顔が絶望に染まるのも時間の問題さ」
ウリルはもう一度、鉄格子を強く両手で揺らしてから踵を返した。
去り行く者を見送って、その靴音が階段を叩き、地上に至るまで聞き届けたのちクールクースは詰まっていた息を吐く。
「とても人には見せられない最悪な姿……たまらないくらい死にたい」
こんな姿はどこの誰にも見せられるものではない上に、見せ物にされたくもない。そんな思いをクールクースは抱く。
「アンジェラ……は、やっぱり来なさそうね」
呟きつつ乱れた髪を首を揺らして顔から払う。そして左眼をゆっくりと開く。
「……この眼に頼らなきゃならないかしら。けれど、聖女に捕捉されるとそれはそれで面倒で……特に、『魔眼収集家』にだけは気付かれたくない……」
暗い牢獄で左眼だけが蛍光の輝きを淡く放ち、クールクースの周辺を照らす。
「………………エルヴァージュ・セルストー」
弱気になったところでクールクースは小さく言葉を吐露する。そして「また言ってしまった」と後悔する。
「寝ても覚めても、あなたの名前を唱え続けてる……私を殺そうとしている、復讐心に満ちたあなたの名前を……」
ああ、と嘆く。
「私はあのとき、二人の手を引くべきだった……起死回生の道具に、感情を抱かないようにしようとしても無理だった。だってあなたは、あんなにも勇ましくマーナガルムに立ち向かい、私を、守ってくれたんだから……」
恋をするのは簡単で単純だ。些細な男らしさでコロリと落ちた。特に男に守られる生き方をしてこなかったクールクースには特効だった。
「冒険者になって私に嫌がらせをして、帝国軍人になって更に私の嫌がらせをしたクセに、なんで連合の収容施設から脱走してからはちっとも嫌がらせをしてこないのよ。あなたの足取り、全然、掴めなくて……それが、とっても、嫌なのに……拗らせてるなぁ……無視されるより、嫌われている方が嬉しい……だなんて」
*
「エレオン・ノットはギルドで王都の依頼があって、その時に見た」
「看守の仕事でもあったのか?」
「ありましたよ」
新王国の拠点に来て二日が経った。『産まれ直し』が判明したのち、エルヴァは体調を崩していたがそれも次の日には元通りになった。だが、教練における捨て身の戦い方はほんの少し、なりを潜めた。リスティが介抱ついでに注意をしたのならアレウスにとってありがたいことこの上ない。あんないつ死んでもおかしくない立ち回りをするエルヴァを補佐するような戦い方は学んでいない。恐らく、アレウスとエルヴァは少数精鋭で動くことになる。そこにノックスとリスティも加わって、あとはカルヒェッテ姉弟がそこに追随するものと考えている。だからこそ、足並みを揃えられなければアレウスの命が危うい。
それはさておき――さておくこともできないのだが、目下のところのアレウスの気掛かりは二日もリスティはエルヴァに付きっ切りだったことだ。男女の関係にでもなっていないだろうか。エルヴァは王女しか見ていないとしてもリスティがどうかまでは分からない。
「こいつはいらない心配をしているぞ」
アレウスの表情から読み解ける者があったらしくエルヴァが素早く茶化してくる。これは自身の油断が原因だ。この男を前にして不要なことを思考してはいけなかった。だから続く辱めは甘んじて受ける覚悟をする。
「お前が俺と致していないかを気にしている」
「はぁ…………アリスさん? エルヴァとの親交は長くからの付き合いですが、神に誓って男女の契りを交わすことはありませんよ」
「そこまで言うか?」
「容姿云々ではなく性格と心情が生理的に受け付けません。こういう生き急いでいる感じが出ているのと、あとは高潔な女性にしか興味が湧かない男とどうこうなることなんてあり得ないんですよ」
「どいつもこいつも高潔な女が好みというのを俺の癖みたいに言いやがる」
「違うんですか? 少なくともエルヴァは高慢な女性を屈服させたいという欲望ではなく、高潔な女性を力ずくで穢したいという性的欲求を感じています」
「俺の性欲はそこまで分かりやすく出ているとでも言うのか?」
「分かりやすくはありませんが、女性を見るときに品定めするような目を向けていたのは今も昔も変わっていませんよ」
女性にしか分からない視線なのだろう。エルヴァはここまで言われるとなにも言い返せないらしい。
「まぁ、初見や馴染み関係なく会うたびにまず視線を胸に落とすアリスさんもエルヴァと大して変わりないと私は思っていますけど」
思わぬ火種が飛んできてアレウスは狼狽える。ノックスが「へー」と生返事をしつつ不快感に向けてきているが無視する。
「お前はお前で年下好きという危うい癖があるけどな。好奇心旺盛で知的欲求が高い年下に手取り足取り教えるのが好きらしい。それこそ夜の営みについてもな」
「なっ!? それはバラさなくてもいいじゃないですか!」
「人の性癖をバラしておいて自分だけバラされないと思うな。特に俺がいる場で自分だけが安全圏にいられると思うなよ」
反撃を受けてリスティが顔を真っ赤にして、降参とばかりに項垂れた。
「俺のせいで話が逸れたな。お前が気にしているエレオン・ノットだが王都の牢獄に捕まっていた男だ。俺たちは報酬で大金を得られることもあってすぐに引き受けた。気丈な連中じゃなければ耐えられないような環境だったな」
「人体実験でもしていたんですか?」
「よく分かったな」
冗談を言ったつもりが芯に当ててしまったらしい。
「だが王国だけを責めることはできねぇよ。囚人を用いた人体実験は帝国もやっていることだ。動物実験を終えたあとの新薬、肉体の神秘を解き明かすための反応実験、気が触れた連中の脳を探ることでの思考回復実験。あとは拷問と治療の繰り返しや、洗脳実験なんかもあるが、こんなのは王国帝国に限らず全国で行われていると考えていい。魔法で大概のことは済ませられるが、それではいざ魔法を使えなくなったときの対処が不可能になる。犠牲がなければ医術と科学の進歩はない。囚人たちは国民の健康な生活にとって必要な犠牲となる。ただ、連合の収容施設は冒険者の言葉を用いるならレベルが違ったな。あそこは礎やら犠牲やらではなく、ただ単に人を殺している。毒と分かっている薬を飲ませたり、必要量以上の血抜きを行ったり、解剖じゃなく解体をしていやがった。それどころか収容された者を処刑と称して金持ちの道楽にすらしてしまっている。あそこばかりは白日の下に晒すべきだ。たとえあそこで奇跡的な治療薬が開発されようと、そんなもんは世界的に認められていいもんじゃねぇからな」
真っ当じゃない人が真っ当なことを言い出すと、それはそれで狂気に飲まれているのではないかと疑いたくなる。
「俺は理性を残して狂えるんだよ。本当の狂気に手なんか伸ばしたくもねぇよ」
また顔に出ていたらしい。
「そこでエレオン・ノットと会って話をしたことまでは知っているけど」
「他愛のない会話だ。あいつはエルフの中でも異端児だ。まず血統の名前を捨てているから俺たちには明かさない。次にエルフの特徴である長い耳もヒューマンの耳ほどまで切り落としている。続いてエルフなら風体を気にするところが、逆にそれを拒むかのように衣服や体臭を気にしない。ダークエルフのように『呪い』を浴びていないのに『呪い』を抱えている。それは余所から集めた物ではなく、奴自身の中から発露される怨念だ。絶対的な恨み、自身の内より響き渡る怨嗟の声、それらを魔力に合わせることのできる化け物だ。ただ、その怨念を向けるべき対象は連合に強く、王国に深い。帝国にはこれっぽっちも興味はないようだったな」
「握っている筒――『銃』と呼ばれる物は連合から配給された物だったそうで、王国が管理していたんですが脱獄と同時に取り戻したそうです。なので元は連合寄りのエルフの森で暮らしていたのだと思いますが……」
リスティは真っ赤な顔から上手く表情を立て直すことができたらしい。
「私たちへ敵対心を抱いてはいないようだったので、そこまで警戒はしなくてもいいと思います。ただ、体臭関係は大問題なので衛生面も踏まえて徹底するように伝えました。彼は乗り気ではありませんでしたが、エルミュイーダさんに見つかって、渋々の了承でした。レイエムさんも彼女に見つかる前に私の方でしっかりと整えさせることができたので一安心しました。目を付けられると厄介です。まぁ、カルヒェッテ姉弟に見つかることはさほど困りません。あちらは元帝国軍人ですから、種族に対する偏見は薄いので。王国騎士に見つかるとそうもいかなくなります」
「王国騎士……」
「正確には騎士候補生と騎士見習いと正規騎士と王国騎士。聖殿騎士は教会所属だから滅多なことでは戦場には駆り出されないな」
「冒険者のランクによる呼び名みたいなものです。アリスさんが『中堅』に等しい力量であるなら、正規騎士と王国騎士の中間でしょうか」
「単純な技量による分け方じゃねぇから冒険者みてぇに実力がねぇ奴が一番偉いところにいる。あんまり騎士連中には期待するな」
元王国所属であることを考えるなら騎士について詳しいのは当然であるが、詳しすぎるのではないだろうか。とはいえ、エルヴァどころかリスティですら王国での生活について多くを語ってはくれないので、推測することしかできず、そしてその推測も情報不足で的を射ない。
王女との交流があったというのだから、騎士であった。そのようにも思えてくるが、リスティは十五歳で騎士を目指していた。つまり、そのときに王女とは出会っているが騎士として出会っていないのだ。そして王女もその当時は新王国の王女ではない。ならば一体どこで三人は巡り合ったというのだろうか。
「もう少し僕に詳細を教えてくれてもいいんじゃないですか? これじゃ情報不足で、救出しようにも王女の外見すら曖昧なままです」
伝え聞く内容は『天使が憑いている』という噂だけ。軍にも入らず、帝国でしか活動していないアレウスには王女の容姿など耳に入らない上に目にも入らない。
「……凛とした蒼い瞳。薄く染めた赤髪。線は細いのに身のこなしもしっかりとしていて、鎗を回す筋力を携える。口調は大人しく乱暴な言い回しはほとんどしない。どんなときにも冷静さを失わないが、思考が乱れると顔に出やすい。割と負けず嫌いで売られた喧嘩は買う。身綺麗で、所作の一つ一つにも気を遣っている。胸はそれなりに、腰回りは細く、尻も小さい」
「うわぁ」
「なんだ?」
「いえ、胸や腰回りはまだ無視できますけど、お尻まで見ていたんだなと思いまして」
「悪いか?」
「悪くはありませんが」
『そこまで見ていて、異性として意識していないと言うのはどうなのか?』。リスティはそう言いたいのだろうが言わないでいる。言ってしまえばまたエルヴァの拗れた話を聞かされることになるからだ。
「男はどいつもこいつも女と見れば、胸や腰付きを見やがって」
「仕方がありませんよ、レイエムさん。男とはそういうものなんです」
妙なところで結束を強められてもアレウスとエルヴァは置き去りにされるだけでなんの得もない。特に呆れ返った風に溜め息をつくリスティには普段なら絶対に抱かないはずの苛立ちを感じた。エルヴァが傍にいることと、真実の性格を隠すことにもはや拘らなくなったのだろう。逆に言ってしまえば、これまでアレウスが形成していたリスティという女性像にはヒビが入り始めている。心にあるそれが形が変わるだけに留まって、砕けないことを静かに祈る。
「言っておくが、こいつは元々こんな性格だぞ。お前が描く理想的な担当者を演じようとしたのは、あるときからお前を落と、っ!」
またも心を読まれてしまったが、言葉を最後まで聞く前にリスティの鉄拳がエルヴァの眉間を打った。その痛烈な一撃によって、彼は仰向けに倒れた。
「体調がまた不調になったらどうするんですか!?」
さすがのアレウスも同情してしまい、大きな声が出てしまった。
「私の体調が悪くなるところでしたので。それにこんなの怪我の一つにもなりませんよ」
それにしては鈍い音がしていた。そしてアレウスはリスティの蛮行に恐怖を感じた。
「くだらねぇこと言っていられるのは今の内だけだな」
仰向けに倒れたままエルヴァがボヤいた。
「数日中に俺たちは王女救出のために出撃する。それも救い出すことが目的だから人員は惜しまず、その命すら惜しまない。ああだこうだ言っていられた今日を懐かしみ、未来に絶望する。エレオン・ノットが敵か味方か探ったところでどうこうすることもできない。あの手の男は場の雰囲気で敵にも味方にもなる。有利なら味方、不利なら敵。その程度でいい。奴は生き残るためなら平気で裏切る。それは奴にも譲れない部分があって、この戦いを死地にすることができない事情があるからだ。俺たちとなんにも変わらねぇよ。要は成就したい大願がこの先の戦場にあるかないかの違いだ」
「もしかして死ぬ気じゃないですよね、エルヴァ?」
「死ぬ気じゃねぇと、あの女には会えねぇよ」
軽い舌打ちをしてからエルヴァはジッと空を見つめ続ける。
「偵察はなにをやっているんだろうな。予定じゃ今朝中には帰ってきているはずだろ」
「率いているのはリッチモンド様ですよ? 万が一のこともありません」
「どうだかな……マーガレットみたいに裏切るかもしれねぇぞ」
「……エレオンよりも先に裏切った人が?」
「マーガレットはクールクースがスチュワード・ワナギルカンをくだし、ゼルペスを制圧したことを見届けてすぐに離反した。その後、北を目指したがそこには既に王国軍が待ち構えていた。そのゼルペス北部の制圧に時間を費やしたせいでクールクースは想定以下の北進しかできなかったんだ。逆に言えば、王国はそこで反乱軍の勢いを削げたことで連鎖的に続く反乱を阻止することができた。恐らくその王国軍が早々に待機できていたのはマーガレットの告げ口によるものだろうと結論付けられたんだ」
「帝国にいたのにお前はそこまで知り尽くしていたのか?」
「獣人の群れみてぇに閉鎖的だと調べようがないし、国単位での戦争だと何十年も経たないと検証できないが、局所的な争いは別だ。特にヒューマンなんざどこでも争っているから全ては隠し切れねぇよ。短期間で終わってさえいれば、数年も経てば誰でも調査できて検証できるようになるもんだ」
「そこまで調べているのに、心に秘めた女のことは?」
「心の底から殺したいと思っている」
お手上げだと言わんばかりにノックスは肩を竦めてみせた。誘導尋問めいたことをしてもエルヴァは頑固で聡いので引っ掛かるわけがない。
「なら今回はマーガレット様が敵に回っているかもしれないんですね」
「義兄のリッチモンドも出てくる上に、見知った間柄の連中だって否応なしに目に留まる。俺ならわざわざこの戦場を選ばねぇよ。なんの旨味もねぇんだからな。ただ、俺だったら選ばないだけでマーガレットという騎士はどうだか知らねぇが……出てきては、ほしくねぇな」
珍しくエルヴァにしては後ろ向きな言葉を最後に乗せた。




