♭-4 甘い囁き
生きているから生きている。そんな考え方をしている時点で生きたいって気持ちが伝わってくる。
人は簡単に死ぬ生き物だから。生きている以上は生きたいという気持ちが強くあるってこと。
あなたは否定的だったけど、だったらなんで生きていたいと思ったの?
私と一緒にいたかったから?
多分、私も同じように思っていたはず。
これでなんで、一緒にいないんだろうね?
なんで一緒に戦えていないんだろうね……?
♭
「エルヴァにも届いた?」
「召集令状のことか? 成績の上から順に送り付けられているんだろうな、どうせ」
そうなると養成所に残るのは落第ギリギリの成績を残している候補生ばかりになるのだが、そこについて正規騎士は思うところがないのだろうか。それとも、そうやって思うことすらもできないほどに選択権が与えられていないのだろうか。
「それで……どうする?」
「拒否できる立場じゃないだろ。断れば投獄、逃げ出せば重罪で最悪の場合は死刑。極端が過ぎるけど、俺たちには選択肢がないんだよ」
決める立場にあるのは今回の派兵を束ねる騎士団にしかない。
「だよね……」
なにやらリスティは落ち込み気味だ。
「なにが不安なんだ?」
「だって一ヶ月前の実戦訓練で私、足手纏いだったから」
「お前がいなきゃどうにもできていなかった。マーナガルムとの戦闘は誰一人として欠けていたら全員が死んでいたんだ」
「ええ、私もエルヴァの意見に賛成」
リスティの隣の席にクルスが座る。
「あなたの対応はなに一つとして間違っていなかったし、遅れてもいなかった。強いて言うなら、あなたの刺突があまりにも綺麗に決まったせいで油断してしまったところだけ。それも別に、あなたが弱いからそうなったわけじゃない」
「そう言ってもらえると嬉しいです……クルスさんのところにも届きましたか?」
「あなたたちに届いていて私に届いていないなんてこと、あると思う?」
クルスの問い掛けにリスティは小さく首を横に振った。
「これは大きな足掛かりになるわ。生き残れば間違いなく騎士の仲間入りよ。正規騎士として認められて、騎士団に入団することさえ夢じゃない」
「正規騎士として認められるために必要な二年や三年分を省略できるのは分かるんですけど」
「全てのメリットの頭に『生き残れば』が付くからな。リスティの言いたいことも分かる。でも、絶好の機会をものにすることも才能の一つだ。それに、ウダウダ言っていたって、さっきも言ったように俺たちには召集に応じる以外の選択肢はない。なら俺たちが考えるべきは戦場でどのように立ち回って生存してゼルペスに帰還するかだ」
戦場となる場所については隠されている。知ったところでどうにもできない候補生には伝える気がないのだろう。召集令状にも、派兵に応じよとは記述してあってもそれ以外の情報は一切なかった。誰が候補生混じりの集団を纏めるのか、その一切は不明のままだがさすがに出兵のときには判明することだからそこに頭は使わなくていい。
武器は騎士団より支給、大切な品以外の持ち込みは一切禁止。出兵前夜には催し事を行われる予定で、今日はマーガレットとその兄による面談が行われている。
召集令状を受け取った者は訓練の途中で騎士に呼び出されて、数十分後に帰ってくる。誰もがどんなことを聞かれたのか、どのような話をしたのかを訊ねるのだが面談を受けた者で口を割った者はいない。恐らくだが、情報を漏らせばやはり投獄やそれに近いなにかをされる。そのような恐怖で騎士候補生を制御する気なのだ。
練度の低い者たち、士気の低い者たち、統率者と絆が築かれていない者たちをどうやって戦場で戦わせるには恐怖による支配が手っ取り早いのだ。だが、そういった抑圧的な行為は期間が長引けば長引くほどに統率者への恨みに変質し、反逆を招く。このことから騎士団は短期間で戦いを終わらせる気なのだとエルヴァは推測している。もしくは、後方支援にだけ使う気ならば最前線からは遠くなる。しかしそこは戦場であるため、気を緩ませれば敵の急襲で一気に崩れ去る脆さがある。敵前逃亡が重罪や死罪であるのと同様に、最前線に立つ者と等しい恐怖を植え付けさせておくことで反抗心を削ぎ、逃亡を防ぎたいという意図があるのかもしれない。
「エルヴァージュ・セルストー」
「はい」
「リッチモンド様及びマーガレット様がお呼びだ。付いて来い」
リスティとクルスに軽く目配せをしてからエルヴァは木剣をその場に放って、呼び出してきた騎士のあとを付いて行く。
養成所を出て一分も掛からないところに設営された小屋に通され、騎士は彼を中に入れると扉を閉じた。
「呼ばれて参りました、エルヴァージュ・セルストーにございます」
縦長のテーブルにマーガレットと、その兄であるリッチモンドが腰掛けている。しかし、マーガレットの前に椅子はなく、あくまでもエルヴァが座って対面するのはリッチモンドという形だ。四方に正規騎士が立ち、手には鎗を握っている。エルヴァが怪しい動きを見せれば即座に押さえ込みに走るつもりだ。
「座って楽にしてくれ。肩を張るのも疲れるだろう?」
そのように言われたが、エルヴァは格式高い拝礼を行ってから椅子に腰掛ける。気は抜かず、肩を張ることもやめない。
「君を含めたあと二人が座学と実技のどちらでも優秀であると……マーナガルムの一件でも、誰一人として欠けずに生き残ったとメグから聞かされている。すまないが、君にも勿論だがあとに続く二人にも同程度の期待感を私――いや、俺は寄せてしまっていてね。こうして顔を合わせるだけで分かるよ。君は、才能云々に縛られない感覚的な面での強さを持っていると」
「ありがたい限りです」
「どうだい? マーナガルムは君にとって強敵だったか?」
「間違いなく強敵でした。クールクース及びリスティーナとの共闘がなければ、俺――僕は死んでいたことでしょう」
「それはそうだろう。メグからの報告、そして書類を見ても君たちの力量を合わせてみてもマーナガルムには決して届かなかったと思う。だが、なぜ君は戦えた? なぜ君はクールクース・マルハウルドを守らなければと、その身を盾にすることができた? 奇跡的に急所から外れてはいたが、その行いで君は死んでいたかもしれないというのに」
リッチモンドは報告書といった書類を一切見ることなく、エルヴァをジッと捉えて離さない。
「マーガレット様が『動き続けなければ死ぬだけだ』と仰っておりましたので、実行に移しただけです。まさにその窮地を呼び寄せてしまったのも、マーナガルムをリスティーナが素晴らしき刺突によって突き飛ばし、気を抜いて動きを止めた瞬間でもありましたので」
「なるほど、我が義妹の言葉は届いているようだ。いやなに、死者も出ているようだったのでメグの教え方が厳しすぎるせいなのではとこちらも勘繰ってしまっていた」
「厳しくはありますが上の者には逆らえない以上、前年通りのやり方をしなければならないことは察することができました」
言おうか言うまいか悩んだが、やはり言うことにエルヴァは決める。
「しかしながら、死者が出る前に止めることはできないものなのかと、無礼を承知の上で言わせていただきたく思います」
リッチモンドがマーガレットを見る。
「エルヴァージュの言う通り、私の高望みによる見立てのせいで候補生を死なせてしまっているのは事実です」
「メグとて人の子だ。止めねばならんという気持ちは大前提にあっただろう。それでも止められなかったのは、俺の教育やスチュワード様の考え方のせいだ。メグに全責任を負わせるのは簡単だが、そうやって下の者をトカゲの尻尾のように切り捨て続けるわけにもいかん。トカゲの尻尾も、容易く生え変わるものではないからね」
両肘をつき、両手を組んでリッチモンドが上半身の体重をテーブルへと預けることでエルヴァとの距離が縮み、強い重圧感を与えてくる。
「俺も実戦訓練に問題があることは認めよう。その上で、君の憤りについても謝罪を求めるのであればそうしたい」
「……いえ、僕が死んだわけでもないことに謝罪を求める気はありません。リスティーナやクールクースが死んでいたなら、謝られた程度で黙るつもりもありませんでしたし」
その返事にリッチモンドが苦笑する。
「なるほど、目上の者にも物怖じをしないか。メグの言った通り、そういった気風が君の強みになっている。どんな者にも決して譲ることのない心は戦場において頼りになる。相対する敵に目上もなにもないというのに、名乗りを上げるまで攻撃しないような行き過ぎた礼儀を戦場でも通用すると思っている者は少なからずいてね……君は大丈夫そうだ」
「名乗るまで、ですか?」
「ああ。騎士同士ではよくある礼儀だ。王国内での反乱や争いの際にもよく見られる。しかしこれらは全て王国内での礼儀でしかない。今、俺が君に問うている戦場とはどういったところだ?」
「国家という境界を越えた場所、でしょうか……?」
「その通りだ。となれば、王国で通じる礼儀が他国では通じるわけがない。だから俺はいつも言うのだ。戦場では礼儀を捨てろ、と。強敵と相対することになっても、名乗ることに執着せずに戦え、と。卑怯と呼ばれようと、その一手が強敵を討つ一手になるのならそれは英雄的行為として認められる。ただし、毒を川に流したり伝染病にかかった者の死体を敵地に投げ込んだりといった非人道的行為は思い付いたってしてはいけない。それは卑怯な振る舞いではなく、卑劣で下劣な振る舞いと言うんだ」
「悪評が広まってしまうと王国の立場が弱くなってしまうからですか?」
「そう。戦場にはなにも戦う者たちばかりがいるわけではない。言うなれば、戦いを見ている目撃者が多数存在している。その者たちにとっては殺し合いなど悪行以外のなにものでもないのだが、そこに毒や流行り病を用いるような真似を加えれば、彼らはその国の旗印を未来永劫忘れることはなく、悪行は子々孫々に語られ続ける」
「気を付けます」
「はははっ、君は思い付いても実行しないだろう? 理性を働かせられる側の人間だ。俺が怖ろしいのは、これを聞いても尚、押し通そうとする者。候補生の中にも何人かいるようで、召集令状を出しておいてなんだが、彼らは戦場に赴く途中で別のところへ向かわせる予定だ」
「そんなこと僕に話していいんですか?」
「外で暴露するようなことがあればどうなるかも君は知っている。知っていてわざわざ聞いてくる辺りが、とても理性的だ」
四方に立つ騎士の睨みが強くなったように感じ、エルヴァは緩んでいた背筋をピンッと立て直す。
「義兄上、そろそろ」
「ああ、本題に移ろう。エルヴァージュ・セルストー、君には俺が統率する騎士団と共に戦場へ赴いてもらう。騎士団などと聞こえはいいが、他国との争いとなればただの軍隊でしかないけれど」
「断る権利は僕にありません」
「その通りだ。これは既に決定している。どこに配属になるかは戦場へ赴く馬車の中で伝えることとなる。兵站所や後方支援となることを祈れ」
「それを決めるのもリッチモンド様なのでは?」
「俺の意見も少しばかりは聞いてもらえるが、この部分は軍師による采配が大きい。エドワードは俺と同郷だが、これまでも忖度してくれたことはないんだ、すまないね」
「いえ、希望することができないことも希望が通らないことも、全て想定はしておりました」
リッチモンドがマーガレットからペンダントを二つ受け取り、書類と合わせてテーブルに置いて前に手で少しだけ滑らせてエルヴァへと送る。
「これは?」
「ドッグタグ――識別鉦だ。君の名前の頭文字と生年月日、そしてこちらで振り分けた番号が刻まれている。戦場で死んだ場合は一つを報告用に、もう一つを遺体に残して判別できるようにする。王国ではペンダント状にするのがしきたりでね。形で出身国が分かる上に開閉式のチャームには遺言や大切な者から受け取った品の切れ端を入れられる。使わずに済むに越したことはないが、俺もそれと同じ物を首に掛けて戦場に出るのだよ」
入れるような物などない上に、遺言など考えたこともない。しかし、死んだ際に身元不明にならずに済むのはありがたい話だ。
「戦場では時に、一時的な停戦が起きる。要は休憩時間だ。人間は休みながらでないと人も殺せないのさ……と、怖いことを言いたいが戦場においても休息が起こるのは士気の低下を防ぐため。こっちもこっちで、向こうも向こうで反乱を一番に気にしているんだ」
「なんでそんな話を……」
「休息のとき、少しでも動けるようなら君にも遺体からドッグタグを回収してもらいたい。これは君だけでなく、全ての者に義務付けている。敵味方は関係ない。見つけたなら識別鉦を探れ。どんな形であれ、戦場に出た者の帰りを誰かは必ず待っている。気が狂って死体損壊を始める馬鹿共を見つけたときには、容赦なく切っていい。その者たちとはどのような話をしたところで考えは交わらない。殺せないなら義務違反で拘束し、国に送り返す」
リッチモンドが背もたれに重心を移動させ、テーブルについていた肘を離してエルヴァとの距離が開く。
「重たい話はこれぐらいにしよう」
四方の騎士がその言葉を合図にして小屋から出て行く。
「エルヴァージュ・セルストー」
マーガレットが声を掛けてくる。
「君には戦場に赴く前に性を知る権利がある。可能な限り性別、種族、容姿、体型の者を用意する。この書類に明記した上で、口頭でも幾つか訊ねる」
「せい……せい……せ、い?」
言っていることが分からないためエルヴァは同じ単語を何度も呟くことしかできない。
「童貞を捨てる権利があると言っている」
「なにをっ!?」
直接的な表現にエルヴァは驚き、重心を思い切り下げたために背もたれでも支え切れずに椅子ごとひっくり返ってしまう。
「貴殿は卑怯な振る舞いはしても卑劣な行いを思い付いても理性で抑え込める人間だが、自身の命を軽く見積もっているせいか根無し草がごとき思考回路をしていると私は分析している。マーナガルムがクールクースを狙った際に体で止めに行ったのも衝動的ではあったが、彼女が死ぬよりも自身が死ぬべきだと判断したからだと推測が立つ。だからこそ貴殿にはこの権利を与えなければならない」
「それがどうして童貞を捨てることと関係するんですか!?」
「どれほどの説得を試みても死に場所と決めた途端に特攻を仕掛ける者があとを絶たない。戦場では徐々に正気を失っていく。帰るべき場所を持たない者ほど自殺的な突撃を敢行する傾向にある。たまに家の名誉のために突撃してしまう者もいるが」
「だからそれでどうして」
「俺が騎士見習いだったとき、小さくとも内乱があってな。騎士団に所属すらしていないのに戦地に赴くこととなった。俺もそのとき、この権利を与えられた。君にどういった結果を及ぼすかは定かではないが、結果的に俺はその経験があったから生き残れた。生きて帰ってもう一度、あの気持ち良さを知りたい……とな」
リッチモンドに赤裸々に語られたところでエルヴァの動揺は治まらない。
「操を立てている者でもいるのか?」
「いいえ」
「では、気になる者が?」
「いいえ」
一瞬、クルスの顔が思い浮かんだが即答する。思い浮かんだだけで非常に不愉快だった。そんな感情を持って接してはいないのだ。ただ、越えようと思ってエルヴァは彼女を意識しているだけなのだから
「故郷に好きな人を置いてきたか?」
「いいえ」
「ならばなぜ、この話に乗らない?」
「不思議で仕方がないみたいな顔をして言わないでいただきたい」
しかし本当にマーガレットはエルヴァの応答が理解不能と言わんばかりに悩んだ表情を浮かべている。
「彼は普段からクールクースとリスティーナの二人と行動を共にしているとメグは言っていたね? もしかすると彼はその二人を独り占めにしたいという願望があるのかもしれないな」
「ありません」
「絶対にないと言い切れるのかな?」
「絶対とは言いませんが、ないと言い切れます」
「ほぅら、絶対でないなら少しばかり邪な願望があるじゃないか」
先ほどまで、このリッチモンドという騎士に感じていた好印象が崩壊していく。
「君より前に面談を受けた者も、共に養成所を過ごした異性と関係を持ちたいと強く願っていたが……すまないが、そういった願望は聞き入れられない。性を知る権利とは恋人同士になる権利ではない。そこには恋心や愛情といったものは挟めない。くだらないことを言うが、快楽のみを脳に学ばせる」
「学んで意欲が向上するとでも?」
「分かりやすいくらいに男は意欲的になる。それとも君は、体感したくないと? 体感しないままに死にたいと? まぁ強制ではないが、戦場に出てからでは遅いぞ。帝国がどうかは知らないが、王国では奴隷制度を持ち合わせてはいても戦場に奴隷を連行し性欲の捌け口にすることは禁じられている。これは過去に王国がその方式を取って痛い目を見たからだ。最前線より少し離れたところで敵から二日ほど攻撃されなくなったからと気を抜いて、連行していた奴隷を騎士たちが掻き集めて乱痴気騒ぎを起こしている最中に襲撃に遭い、そこに軍師と騎士団長もいたせいで指揮系統が全滅したという馬鹿げた話がある。馬鹿げているのに記録として残っているのが悲しいところだが」
「私たちは誰にでもこの権利を与えているわけではない。貴殿は与えなければ死にやすいと判断した上で話している。性を知って逆に死にやすくなるような連中には与えない」
「なにもかもが騎士を中心に決められていることですけど、そこに相手の人権ってありますか? 明日死ぬかもしれない奴だから抱いてくれ、って僕だったら嫌ですけど」
「だから大金を注ぎ込んでいる」
「金で人権は買えるとでも?」
「少なくとも、今の統治ではそうだ。奴隷が良い例だ。君だって見て見ぬふりをしている奴隷に人権があるように思えるか?」
「…………それ、は…………なにも、言い返せませんが」
追い詰められている気がしたエルヴァに一つの思い付きが走る。
「では、近しき者にたとえて言いましょう。もしも僕がマーガレット様を抱きたいと希望したならば、リッチモンド様はお認めにならないでしょう? ゆえに、たとえ騎士に大金を積まれたからといって身内の者を売るような人はいらっしゃらないのではないかと」
リッチモンドは頭を上に向け、天井を見る。どうやら事の重大性に気付いてもらえたようでエルヴァは胸を撫で下ろす。
「それが君の希望か。メグに似た女性ではなく、メグを所望するのだな?」
頭を戻し、一切の怒りもない冷静な顔付きでエルヴァに問うてくる。
「たとえばの話であって、」
「メグよ、どうだ? 俺は別に構わないが」
「私も彼であれば構いません。スチュワード様より払われる大金の一部が私の懐を潤わせる点だけが気掛かりですが」
「これを決めたのは他でもないあの方だ。金をくすねているのではなく、要望に応えた結果に得るのであればスチュワード様も分かってくださる」
話が良くない方向に流れているため、断ち切らなければならない。
「僕は、身内が売られるのは心苦しいという話をしたかっただけです」
「メグは立派な女性だ。彼女が拒まないのであれば俺はその決断を否定しない。それに、義兄が義妹の男事情に口出しするものではない。俺もメグに女性との交友関係であれこれ言われたりはしないからな。これがロクでもない男に引っ掛かっているのならまだしも、これに至っては本人が了承し俺も構わないと判断した。それともまさか冗談や、つまらないたとえ話ごときのために、メグの名前を出したわけではあるまいな? そうでないなら、メグの容姿に不満があるとでも?」
状況を打開するための逆転の一手。そのように思えた自らの発言をエルヴァは激しく恨む。このように威圧されては、その通りですとは言えない。言えば逆にリッチモンドの逆鱗に触れてしまいそうだ。
不満などない。むしろこんな話があっていいのかと思うほどだ。しかし、妄想したことなど現実になってはならないのだ。
「なにも、文句は、ありません」
「やはりメグの所感は大体当たっていたな。エルヴァージュ・セルストーは高潔な女性に惹かれる兆しあり。よもや本人がそれに気付いていないとは」
「義兄上のため、此度の戦いに大義がなくとも価値あるものとするため全てを尽くしましょう」
マーガレットはリッチモンドにそう告げてから頬を引き攣らせているエルヴァを見る。
「私が貴殿の初めての女となる。しかし、心せよ。初めての女は特別な女となる。行為を終えれば好きや嫌いを超越し貴殿の思想や価値観を固着させる“おまじない”だ。それも死に至るまで残り続ける」
凄まじく怖ろしいことを言われているような気がしてエルヴァは後ずさりする。
「出立前夜は貴殿が望むがままに。私が最高の快楽を与えてみせよう」
「例として挙げたのがメグでなければ君はまだ逃れられた。君は喧嘩を売るべき相手を間違えた。俺もメグも残念ながら売られた喧嘩は買う主義なのだから。話は以上だ。退室したまえ」
「は、い」
エルヴァは格式高い拝礼を行い、小屋をあとのする。養成所の扉を開く前にその真横の壁に額を当てて重心を預ける。
「分かんね~……あの義兄妹のことが分かんね~……なに考えてんのか全然分かんねぇ~」
次に壁に背を預けながらズルズルと座り込む形で完全に腑抜けた。
「俺に本当に戦場で生き残る価値なんてあんのか……?」
ボソボソと愚痴を零し続けた。
♭
戦場に赴く前夜。リッチモンドが集めた騎士候補生向けの決起会が開かれ、王国が果たすべき役割や今回の派兵がもたらさなければならない目標などが語られたあとは各自が明日への不安を胸にしつつも、飲めや歌えやの大騒ぎとなる。
「あんまり楽しめていないのかしら?」
クルスが隣に来る。
「こういうのは好きじゃないからな」
「お酒は?」
「少しだけ」
法を無視して飲んでいいと言われたが、一口だけ飲んで満足した。大人たちは麦酒を当たり前のように飲んでいるが、エルヴァの舌にはどうにも苦味が強くて好みではなかった。
「明日には出立して、その数日後には戦いの真っ只中……この中のどれだけの人数が死んで、どれだけの人数が生き残るんだろうな」
騎士候補生たちの絆を高める意味合いでも開かれている催し事なのだが、こんなところで友情を育んでしまえば死んだときに大きな後悔となる。この死にやすい世の中では人間関係は希薄な方が、後腐れがなくて済む。
「……死なないでね」
「断言できねぇし自信もねぇよ。リスティも酒に酔ってなんとか不安を誤魔化しているんだろうけど、ありゃ明日には二日酔いとやらになって物凄く気分を沈めるぞ」
とはいえ、酔っ払っている彼女にこれ以上飲むなと言うのも憚られる。さすがに酔いが回りすぎてどこぞの男と消え去ってしまいそうなら止めなければならないだろうが、彼女のことだからギリギリのところで理性を保てるだろうとエルヴァは踏んでいる。
「じゃぁこれだけは約束して。私やリスティ、エルヴァが死ぬようなことがあったら……ドッグタグを、ちゃんと持ち帰ろう」
「だから同じところに配属されるかも分かんないのにそんな約束は……いや、しておくか」
クルスの瞳には不安の色があり、なによりもエルヴァの否定的な言葉ではなく肯定的な言葉を待っている。その顔を見てしまえば、どんなに真逆のことを考えていても察しなければならないものがある。
「約束だ。俺たちは生き残る。もしそれができないなら、生き残った誰かがドッグタグを持ち帰る」
「うん」
「ま、なんとかなるだろ。なんとかならないときは騎士なんか辞めちまって冒険者になってみようぜ」
「それもありかも。戦争なんて行きたくて行くものじゃないから……騎士だったら、国を守る戦いだけに駆り出されるだけだと思っていたのに」
「見通しが甘かったな」
「そうだね」
死ぬかもしれないから悔いが残らないように話せること話しておこうなどと考えていないだろうか。エルヴァはやけに素直なクルスに一抹の不安を覚えるが、少量の酒で酔ってしまっているだけだと思うことにした。
「エルヴァージュ・セルストー。マーガレット様がお呼びだ」
騎士に呼び掛けられる。
「前夜に呼び出しって……あなた、なにをしたの?」
「まるでいつも悪いことをしているみたいに言うな」
「だって呼び出しって絶対に怒られるやつ。しかも前夜なのに」
「……なぁ、クルス? お前って面談のときに変な提案をされたか?」
「ううん、なんで? リスティもなにも言っていなかったけど、あなたはされたの?」
人を選んで提案するというのはどうやら本当のことだったらしい。今宵だけ素直さが見えるクルスがこうも素早く嘘などつけないはずだ。そしてリスティがあれほど酔っ払っていても騎士が声を掛けず、どこかに連れて行く素振りもないのも一つの証明となる。
「『俺以外の騎士だったなら、君は無礼者扱いだろう。出立までに礼儀を学べ』とリッチモンド様に言われてな」
「あー……」
かなり無茶な嘘を言ったのだが、クルスは驚くほど素直に信じた。
「おい、俺はそんなに素行不良か?」
「いや、だって……うん。あなたは型破りだから」
「言葉を選んだ私は偉いみたいな顔して言うんじゃねぇよ」
「呼ばれているんだから早く行ってきたら? 応じなかったら明日、馬車から放り出されるかも」
「ああ、そうするよ」
話せば話すほど待たせることになる。それはきっと心象としては良くない。エルヴァはクルスと別れて騎士の元に行き、マーガレットのいる場所を教えてもらって一人で街を歩く。
不思議と勝手にコソコソと歩いてしまうのはやましいことをしている気持ちがあるからだろうか。しかしながら、夜の街にちらほらと見覚えのある騎士候補生の姿が見える。そして男連中は決まって女性に導かれるままに歩き、貸し切りになっているのであろう宿屋へと消えていく。
エルヴァだけに特殊な提案をされたわけではないようだ。特別扱いされたかったわけではなく、奇特な提案が自分だけにされていなかったんだという妙な安堵感があった。
「来たか」
宿屋ではなく、この誰のものとも知れない小さな家屋の前でマーガレットが待っていた。
「家を一つ貸し切りにした。宿ではバレてしまうのでな」
マーガレットは騎士の鎧や正規騎士の衣服ではなく、街娘がよくする流行りの格好をしている。普段はあまり見ることのないスカート姿と女性らしさの象徴たる綺麗で肩まで伸びる茶髪を見て、エルヴァは生唾を飲み込んだ。
「なにを緊張することがある? さっさと来い」
言われるがままに家屋へ入る。
「決起会は皆、楽しめているか?」
「不安混じりでよくは分かりませんが、それを吹き飛ばすように大騒ぎしています」
「ならばいい。大半が後方支援になることを願っているだろうが、後方だろうと前方だろうと生死の境に立つことには変わらん。確かに後方は前方よりも安全だ。かと言って、死が遠いだけで死なない場所ではないのだからな。貴殿は酒を飲んだか?」
「少しだけ」
「ならばもっと飲ませてやろう」
来い、と言われてエルヴァはテーブルにあるガラス瓶に入った麦酒を見る。
「僕はあまり、口に合わな、い!?」
マーガレットが麦酒を口に含み、エルヴァと唇を重ねる。そのまま強引に麦酒を自身の喉奥に流し込まれた。
「もう少し酔わねば緊張もほぐれんぞ? 飲ませすぎて役に立たなくなるのも困りものだがな」
ぐわんっと視界が回りそうになる。屋内を満たす甘い香りが思考を奪う。
「男は抱いた女の数や容姿を語り、女は抱いた男の経歴と職業を語る。名を上げればそれが自慢となる。名を上げよ、エルヴァージュ。私が他の女と語らうとき、貴殿の自慢話をさせてみせよ」
夜は更ける。
甘く蕩ける快楽と共に。




