渇いた男
「不死だって?」
解読していた最中に発した自身の言葉に馬鹿らしさにすぐさま懐疑的な言葉を続ける。
「どいつもこいつも、不老やら不死やら、神やらになりたがるな……」
しかし、その生命への飽くなき探究が治療技術の発展を促している。アレウスが鞄に入れているポーションも、アベリアたちが用いる回復魔法も、それら探究がもたらしたものと考えれば、どんな時代であれ死にたくないという執着は人類の寿命を延ばす重要な要因であるのかもしれない。
「今も昔も変わらず、生に縋り付く……か。いや、僕もだけど」
死にたくないから生き続けている。だからと言って、死にたいと思ったから死ぬわけでもないのだが。
更なる解読をアレウスは試みるが、ここから先はインクの滲みやページの破損が酷い上に、辞書には載っていない文字が沢山散りばめられている。しっかりと辞書と古代の文字を照らし合わせていけば、まだ解読作業が可能なのかもしれないが、そもそもこの辞書の中から似ている文字を探し出すだけでも一苦労で、一文字二文字の整合性を見つけるだけでも軽く数十分は掛かる。懐中時計を見てみれば、解読を始めてから二時間が経過している。その間に魔物に襲われなかったのは、このラビリンスという構造上の問題で、気配を感じ取っても魔物はアレウスの元に辿り着けないと踏んでいたからだ。
だとしても、一ヶ所に留まり続けることは良くない。アレウスは牛皮の本を閉じ、本棚に戻してから傷みの少ない一冊を抜き取り、鞄に収納する。遺跡や墳墓の盗掘はこの世界的には無価値で、売り物にはならない。しかし、神官やその『神官の祝福』の起源を知る手掛かりになるのなら、資料として持ち出すことに決めた。あとで仲間やリスティに散々に言われるだろうが、承知の上だ。
気を付けるべきは、この一冊をむやみやたらと持ち運び、遺跡から盗ってきたものだと喧伝しないことだ。もしかしたらアレウスの軽率で自己中心的な行為一つで、世界中のありとあらゆる遺跡や墳墓での大盗掘が発生しかねない。だから、仲間以外には決して知られてはならない。場合によっては仲間にも話すことを渋る必要も出てくるだろう。
「好奇心はこの辺りで切り上げるか」
そう呟き、ランタンを片手に建物から出る。出てすぐに周囲を確認し、そして通路の形が変わっていないことを確かめてから来た道を引き返すようなことをしないように注意して進む。
呻き声が聞こえる。魔物のものではない。しかし、人間の発するような声とも思えない。気配としては人間なのだが、気を抜く理由にはならない。
前方の曲がり角から複数匹のガルムが現れる。これまで戦ってきたガルムよりも圧倒的に痩せこけており、放っておいても魔力が切れて動かなくなりそうなのだが明確な敵意がある以上は相手にするべきだ。そして飢餓状態にある魔物に油断してはならない。獣がそうであるように、魔物も弱肉強食。喰うか喰われるかの世界におり、腹を空かせているのなら獲物を喰らうためにたとえ喰う前に力尽きるとしても持ち得る全ての力で挑みかかってくる。痩せてはいても俊敏性は健在で、狭い通路だからこそ動きが制限され、動きを捕捉し切れるが、これがもう少し広い場所であったなら思わぬ一撃を受けていたかもしれない。
ランタンを置いて、身構える。
短剣で切り払い、首元を切り裂く。飛び掛かってくるガルムも左腕を覆う篭手を噛ませることで機動力を奪い、首に短剣を突き刺して倒す。次から次へと現れるガルムを的確に受け、避け、剣戟を浴びせて始末する。これを何度も繰り返し、やがてアレウスへと攻めかかってきた全てのガルムが倒れた。
「数は多くても弱っていた分、まだマシか」
アレウスは剣身をアベリアから貰った聖水で濡らし、布で拭い去って鞘に納める。ランタンを拾い、薄暗闇の向こうに目を凝らす。感知の技能で魔物の動きは全て追えていたが、視覚に頼れないのはやはり不安が残る。こういったときに『蛇の眼』がないのは不便だとも思うが、もはやそのアーティファクトは己の物ではないことを自覚し、今後は夜目を利かせられるようにしなければならない。
魔物でも、人間の物でもない呻き声はまだ聞こえる。ひょっとしたらガルムの鳴き声だったのではとも思ったが、その推測は外れたらしい。進めば進むほど、呻き声は強まっていく。それにしても随分と掠れている。喉が渇きに渇いて、呼吸も声帯もまともじゃない状態なのだろうか。
それとも、魔物がわざと人間のような鳴き声を発しているか。それこそヴァルゴの異界で戦った亜人のように。
「う~ん……? さすがに、かなり進んだし……そろそろ奥地か? まだ最奥には時間が掛かりそうだけど」
リスティはこのラビリンスの最奥まで掛かる時間をおよそ半日、長くても一日と言っていた。それは先人たちが同じようにクラスアップする際にラビリンスを訪れるので、ギルド側として基準が出来上がっていたからだ。アレウスがラビリンスに入ったのは午前十一時前後。正午過ぎにしなかったのは早めに昼食を摂り、体調を最善にしておくためだ。現在の時刻が午後六時。経過時間は七時間弱。ならばリスティが知るギルドの基準なら、あと五時間はさまようことになる。
ただ、その基準に最奥に到達してから外に出るまでの時間が含まれているかは不明だ。そもそも最奥に出る魔物の素材がクラスアップに必要になるとは一体どういうことなのだろうか。そしてラビリンスは最奥に到達した者をそんな容易く外に出してくれるものなのだろうか。ギルドの資料として存在していても、曖昧な部分が多すぎる。
「それに僕は最奥に辿り着いても、しばらくラビリンスからは出られないしな」
短剣を回収するまでラビリンスを出る選択肢はない。
「いや、出た方がいいのか……? 仲間と一緒に、蟻退治をすればすぐにでも……」
危うく選択の幅を狭めるところだったが、なんにしても最奥に辿り着く前に――それも魔物の素材を回収することすらできていない現状で、次のことを考えるのは余裕がありすぎる。こういった油断が死を招くのだ。ただ、ラビリンスに入ってから七時間も気を張り続けている以上、どうしても集中力にも切れ目が出始める。それが恐らく今なのだ。
掠れた呻き声はまだ聞こえる。
ラビリンスでは沢山の迷い人が命を落としている。そして、日が沈んでいるのだから心霊現象の一つや二つはあるだろう。だが、一年前と異なるとはいえ霊的存在への攻撃方法が限られているアレウスにわざわざ存在を知らせるような干渉を行ってくるのはおかしい。アレウスが霊的存在であるなら、自身を捕捉することが困難な相手には限界まで近付いてから攻撃を行うものだ。バレる方法など取らない。
「幽霊じゃないのか……?」
霊的存在の線を消す。魔物でもないのなら、やはり人間だということになる。こんなところに人間がいるとすれば、ラビリンスと知らずに遺跡探究のために迷い込んでしまった考古学者か、アレウスのようにクラスアップを目的としてやってきた冒険者。さすがに戦う術を持っていない者がこの奥地にまでは来られないだろう。
助けを呼んでいる。それも、水分も切らした状態で。つまり、かなりの極限状態にあると考えられる。だったら助けるのが人としての務めだろう。
アレウスは慎重に進みつつも、声のする方を目指す。分かれ道も声がする方を選ぶ。だが、それが決して最短距離にならない。一度目は声のする方を選んだが、逆に声は遠ざかってしまった。次の分かれ道も声に近付けるだろう通路を選んだが、やはり遠ざかった。それを数度繰り返すと、アレウスが本棚を調べた建物へと戻されていた。ここまでのマッピングは済ませてあるが、若干の徒労感が抜けない。しかしながら気を落とすことなく進み、今度は声に近付かない通路を進む。入り組んだ通路を進んでいくと、先ほどより声が近付き、感知の技能でもその存在が近くにあることが分かる。
三十分ほどさまよい続けて、最も声が近い通路に入り、その通路にあった朽ちた扉を押し退けて建物内部に入る。
ランタンで内部を照らす。すると正面に椅子に座り込んでいる人を見つけた。声を掛け、近付こうとしたが歩み出した足を意識的に無理やり止める。
果たして人なのだろうか。人であるとも言えるが、人でないとも言える。人物は椅子に座ったままほとんど動かず、掠れた呼吸と呻き声による上半身の動きだけが見える。それらが分かるのは、その人物の着ている服がとてもではないが人間が着るような衣服ではないからだ。つまり、ボロの服を着ている。いや、着ていると言えるだろうか。もはや全裸にも近しい。辛うじて局部を隠しているだけに留まっている。
そして、顎ヒゲが信じられないほどに伸びており、その先はひび割れた床にまで到達している。顎ヒゲに限らず、体毛という体毛が伸び切っており毛むくじゃらだ。肩幅が広いので、恐らくは男性。目は虚ろで、口は常に半開き。そこから零れる声こそがアレウスがずっと聞いていた掠れた呻き声の正体だ。
痩せこけて、筋肉はほぼなく、骨と皮しかない。両手両足の爪は伸びっ放しだが所々で割れて砕けて、形を維持していない。歯はすっかり黄色くなってしまっており、あまりにも歯抜けが多いのだが、歯茎が溶けているわけではなさそうだ。
「どうか、しましたか……?」
恐る恐るアレウスは訊ねる。虚ろな目がアレウスを捉えると、雑音にしか思えないほどの速度でなにかを語り、そして叫ぶ。なにを言っているかさっぱり分からない。まくし立てられても、怒られているのか怒られていないのか、それすらも判断できそうにない。
「ぁ……あ……この言語なら、分か……る、か?」
「は……い」
「そ、うか……思わず、昔の言語を……ぁ、あ……あ、ぁ」
「昔の言語?」
「…………お願いだ。私を、殺して、くれ」
「は?」
「もう、自分の手では、死ねない、のだ……自分の手で、終わらせることが、できない、ぃ」
「……これまでも、何人か冒険者が通っているはずですが、あなたはずっとここで?」
「この、椅子に座ったのは…………いつ、だ? 分から、な、い。だが、そこの扉を、開けてくれたのは……君、が、初めて、だ」
薄気味悪い掠れた呻き声がする建物を仲間と一緒にいるならともかく、一人で調べるような者はいなかったらしい。男はさながら幽鬼だ。朽ちた扉の隙間から覗いても、関わるのを避けたくなる。
「あなたは、いつからここに?」
「ぁ……あ、ああ、ぁ」
虚ろな目が建物内を泳ぐ。
「五百年」
「……は?」
「五百十余年、ほど……そこに、私が、二十歳になったときの、記念にと、記した、暦が、ある」
アレウスは虚ろな視線が向けている棚を見る。そこにはいつ頃のものかは不明だが、棚に置かれている木片を見つけた。装飾の施され方から、なにかしらの絵を収納していた額縁の一片だろうか。
そこには確かに五百十余年前の暦が刻まれていた。
「信じろと?」
「……ぁ、あ。ロジック、が」
「ロジック?」
「神官、が、仰った、のだ。ロジックさえあれば、死ななくなる、と」
男は半開きの口から涎を垂らす。掠れた声であるのに、なぜ涎が垂れるのか。不思議でしかない。
「しかし、そんなものは…………まやかし、だ、った。不死など、ない、のだ」
「不死……不死になろうとしたんですか?」
「誰、だって、死にたくはない……だろう?」
それはそうだ。アレウスは首を縦に振る。
「だから、ロジックを、書き換えて…………もらった。みんな……寿命を…………延ばした。叔父は百年、従兄弟は百二十年、甥や姪は、二百年。みんな、みんな……長寿を、求めた。私は……五百年…………」
ロジックで寿命を引き延ばす方法は確かにあるのだが、基本的に抵抗力が低かろうと高かろうと数日で寿命の記述は消えてなくなる。ロジックには、その人物の寿命を判定する力はない。生き様の終わりは、ロジックにも記すことのできない絶対的な領域なのだ。
「そんなことできるわけ」
「できたのだ、できた、の、だ。あの、神官には、できた」
男は目を見開く。
「死ななく、なった。この世で起こる、大抵の不幸を……跳ね除ける体を、手に入れた。皆……最初は、喜んだ。だが…………命が軽くなって……生きる価値が、薄く、薄く、なっていった」
エルフも、自身の長寿が原因で段々と生きることへの価値を見失う。ハイエルフ――またの名を『廃エルフ』。廃人と化したエルフは、もはや生命活動を続けることよりも世界樹の一部になることを望んだ。
「不死……不死であっても、不老ではないでしょうに」
エルフはほぼ不老に近いが、不死ではない。逆にこの人はロジックを書き換えたことで寿命が五百年も延ばされたが、五百年経つまでは不死であるが不老ではない。だからこんなにも痩せこけていて、老いている。骨と皮だけの体は老化によるものだ。
「その、通り、だ。皆、不老では、なく……老いて、老いても、死なず……動けなくなっても、死なず……食べ物を、水を、口にしなくとも、死なず……もはや、なにもかもが……ロジックに、刻まれた寿命まで……無駄、で、老いた、肉体を……動かすことさえ……ままなら、ず。こんな、ものは祝福……では、ない……呪い、だ」
男がアレウスの腕を掴む。だが反射的に振り払ってしまった。
「あの日……神官が……魔法を、見せた。初めて見るものに、皆、心を、奪われた……そんなものは、まやかしだと言う者もいたが……気付けば、この、都市から……いなくなって、いた。そう、私たちは……なにも、考えずに、そこにある……神秘を……神官の、行いを……神の御使いによるものだと、信じ……私たちは、選ばれたのだ、と……」
「その神官の名前は?」
「分から、ない。ただ、よく口にする名は、あった」
男が一度、息を強く吸い、そして吐いた。
「『白のアリス』様、と」
息を呑み、アレウスは続きを待つ。
「本人は『白のアリス』様の、御使いであると、言って……い、た。いつか、異端を、滅するため、降臨なさる、と」
「預言者……いや、予言者か……? どっちでもあるけど」
アレウスのことではない。しかし、『黒のアリス』や『異端のアリス』と呼ばれていたため、他人事として片付けるのは難しい。
「殺してくれ……もう私は、生きたく、ない。死にたい」
そのように願われても、男のロジックが書き換えられた寿命が機能しているとすれば、アレウスが心臓を貫こうとも死なない。ロジックに書かれた寿命を全うするまで、男はどんな不幸に見舞われても決して死ねない。
「僕にはどうすることもできません」
「あ……ぁ、ああああ…………あああああああっ!」
男は椅子の上で暴れ、狂乱する。
「君もか! 貴様もか! お前もか!! 誰も、誰一人も、誰一人として!! 私を、私を! 殺してはくれない、ぃいいいい!!」
「落ち着いてください」
そう言ってアレウスが男へと詰め寄る。椅子が床を打った直後、建物全体が揺れ、足元が崩れた。飛び退こうとしたアレウスを男の腕が絡み付くように掴み逃がさない。男と共に床が抜けた穴へと落ちる。
男の腕を今度は力強く振り払って、貸し与えられた力を僅かに行使することで見えてきた地面に着地する。そのすぐ近くでベシャッと血肉の弾ける音がする。そして一緒に落ちたランタンが砕け散って、中の火種が飛び散った燃料に飛び火して、僅かばかりの光源となる。見れば男は地面に叩き付けられて両手両足の爪は割れ切って、それどころか骨という骨も砕け散って、人の形をしているのが不思議なほどに、それはもうただ死体のようだった。なのに男は呼吸を続けており、上体を起こし、自身の頭部から零れ落ちた眼球を探して蠢いている。
獣人の死体から甦った『死体の雑兵』は死んでいながら生きていたが、この男は生きていながら死んでいる。
「殺せ……っ!」
鎖を引きずる音が聞こえる。
「私の、願い、を、叶えてくれない……のなら、死んで、しまえぇええ!!」
男の絶叫に呼応して、大型の魔物が地面を踏み付け、雄叫びを上げる。しかし、火は魔物の足元しか照らさず、更には魔物が足で火を消し去ってしまったためアレウスはその全容を知ることができない。
「気配だけで、この、装備で……戦うのか?!」
自問自答があまりにも後ろ向きな叫びになりつつも、自然とアレウスは戦闘態勢を取った。




