引き下がりたくはないが
正直なところ、まだ体力は温存しておきたい。アレウスは廃都市の最奥に行き、そして帰らなければならないのだ。戦闘は極力避けるべきであるし、一対多数の状況下で全力を尽くす理由もない。だからこそ倒すべき魔物は数匹までと限定し、それ以上との戦闘は避けるために逃げる。逃げることも体力を消耗することではあるが、全ての蟻の魔物と戦い切るほどの消耗とはならない。
臭いを消し忘れたのは『オーガの右腕』に頼っていたからだ。『カッツェの右腕』とアーティファクト名が変わる前から、その血液と臭いの効果は絶大で、学習し切れていないガルム程度の魔物であれば大半を退けることができた。血液でなくとも右腕の臭いで逃げ出すことさえあった。目視されない限りは魔物避けとしてこれ以上ない選択肢だった。
だが、それら全てはアレウスの推測に過ぎなかった。魔物たちは『オーガ』であることに恐怖していたわけではなく、獣人の『カッツェ』――ノックスとセレナの母親の血に畏怖していたのである。
考えてもみれば、ゴブリンやコボルトがオーガに傅く習性を持っていて目視でアレウスをオーガではないと認識するまでは避けようとするのは分かる。しかしガルムやハウンド、ワイルドキャットに至っては血の撒かれた範囲に寄り付かないのはともかくとして、初見で臭いを嗅いでおきながらも決して好戦的な姿勢を崩さないのはおかしな話だったのだ。たとえ目視でアレウスがオーガではないと認識しても、嗅覚は人間のそれを遥かに凌駕する。見た目が人間であっても、嗅覚が知らせてくる危険信号をガルムたちは無視して襲いかかってきた。
墳墓に棲息していたバウスパイダーも逃げ出さなかった。オークもまた逃げようとしなかった。魔物たちはアレウスの右腕を徹頭徹尾、オーガの物ではないと分かった上で襲ってきていたのだ。
だからこの蟻たちもまた、オーガという中位から上位の魔物の臭いではなく獣人の臭いだからこそアレウスを捕食対象として認識したのだ。それも気配はなくとも嗅覚だけで識別した。
「蟻の魔物の種類ってなんだったっけ。マーダーアントとキラーアントは知っているけど」
強烈な名前が付けられているが、ヴォーパルバニーのように死神を憑依させている魔物ほどの脅威はない。あれはほぼ最上位に属する魔物で、この蟻の軍団は下位か中位程度。原始的な見た目をしているが、社会性昆虫と呼ばれる蟻に酷似しているだけあって、数で押してくるゴブリンと捕食対象の追い込み方は似ているようだ。
観察はここまでとし、とにかく出口へと向かう。後ろから迫る蟻たちは放っておいて、前方の数匹の蟻へと切り掛かる。だがやはり固い外骨格に覆われているために短剣の刃が通らない。
厄介ではあるが、動作自体に速度はない。強靭な顎に噛まれれば肉ごと骨が断ち切られるのは見るだけで分かるが、そこまで追い詰められるほどの俊敏さはなく、むしろ鈍重。ゴブリンはちょこまかと動き回って奴らが張っている罠まで導かれることもあるが、少なくともこの蟻たちにそういった戦法を取られることはなさそうだ。左右に身を振り、足に力を込めて前方へと突撃。外骨格の隙間に短剣を突き立てた。表現しようのない鳴き声めいたものを発しつつ、蟻が暴れる。
ここで問題が起きた。アレウスの突き刺した短剣が、蟻の動きによって外骨格と外骨格の隙間が狭まって抜けなくなってしまった。拘っていると振り払われると同時に他の蟻に押し潰されかねない。仕方なく短剣を手放し、距離を置く。
荷物の端に引っ掛けていた短弓を取り出し、矢をつがえて暇なく放つ。動く前ならば隙間に命中していた矢も、鈍重であっても動いた蟻の外骨格に阻まれる。
これがニィナだったなら、とアレウスは思わずにはいられない。彼女なら動きも読んで、矢で隙間を射抜いていたはずだ。近接戦闘の技術ばかりを高めてきた弊害である。本来なら短剣術、剣術だけでなく弓術も高めておかなければならなかったが、飛刃で補えるようになってからそれを怠ってしまった。
剣で飛刃を放つことはできるが、粗製の剣に今現在のアレウスが気力を込めると十数回で壊れてしまう。こうなってくるともう一本の短剣や剣も相応の銘が刻まれた物にするべきなのだが、そんなことは事前の準備段階で考えておくべきことで今更の話だ。だからこそ、短剣を取り戻すことが急務だ。
そう思って、短剣が刺さったままの蟻を追いかけるが、それを阻むようにして蟻が正面に立ち塞がる。首の可動域がどこまでかは定かではないが、正面から真横を擦り抜けるような無茶な方法を取らなければ鈍重な動きしかない魔物をかわすことはそう難しいことではない。左から大きく迂回しつつ、しかしながら全ての蟻の攻撃を受けない距離感を保って跳躍して飛び越える。
「っ、待て!」
短剣が刺さったままの蟻はアレウスから明らかに逃げている。そして距離を詰めようと走り出しかけるが、左右からの襲撃によって引き下がるを得なくなる。
魔物を侮った気はしていない。注意に注意を重ねていたつもりだ。しかし、社会性昆虫の真似事をしている部分が抜け落ちていた。蟻の魔物は手負いの仲間を逃がすための布陣に移行している。だから左右の襲撃も、ここまで引き下がる必要はなかった。魔物にとってそれは威嚇でしかなく、アレウスを傷付ける気はなかったのだ。
逃げる蟻の先に大きな穴が見える。洞窟ではなく、巣穴に違いない。そこまで逃げられてしまえばアレウスには追い掛けることができなくなってしまう。洞窟や狭い場所をいくら得意としていても、蟻の魔物の伏魔殿になど、踏み入れる気など起きず、そして威勢よく侵入したところで返り討ちに遭うのが関の山だ。
だからここで取り返さなければならない。アレウスは貸し与えられた力を解き放ち、周囲に火を放ちながら逃げ行く蟻へと肉薄する。
ほぼ真横で口器と顎を奇妙なほどに動かし続けていた一匹の蟻が、首を縦に振りながら口を開いて唾液の塊を放ってくる。ただの蟻ならば、こんな唾液に怯える必要はない。だが、相手は魔物である。そしてアレウスの鼻でも分かるほどに強烈な激臭なのだ。
臭いの強い液体は劇薬の可能性が高い。無味無臭の劇薬もあるが、臭いとは魔物だけに留まらず人間においても安全と危険を知らせる情報源なのだ。
アレウスは大きく後退する。炎の障壁で唾液を防ぐ手も考えたが、この場で魔力を無駄に使用することを無意識的に拒んでしまった。避けた唾液の塊は地面に落ちて、広場で枯れ果てていた草花をドロドロに溶かす。
「蟻酸……か?」
毒性を持つ、らしいのだが名称以上の詳しい性質は知らない。ただし、魔物の放った唾液に関してだけで言えば極めて強い酸性であることは窺い知れる。魔物のそれは炎の障壁で防いだとしても蒸発した気体を吸い込めば毒性があったかもしれない。
「嘘だろ」
アレウスを取り囲む蟻たちは口器を激しく動かして、今にも唾液を吐き出しそうだ。炎で防ぐのは容易い、避けることも難しくない。だがそれらの手段を取ってしまうともう逃げる蟻に追い付けない。極めて足が速いわけでもないのに、走れば追い付くことは難しくないのに、手負いの仲間を守ろうとする魔物たちがアレウスに追い討ちをかけさせまいとしてくる。
蟻酸を避ける。炎で牽制する。速やかに逃げる蟻を追いかける。しかし、もうその体は巣穴に半分以上隠れてしまっている。今からではもう、間に合わない。
唇を噛み締め、苛立ちでどうにかなってしまいそうな思考を雄叫びを上げて正し、アレウスは広場を駆け抜けて出口の通路に飛び込んで貸し与えられた力の放出を止める。
「落ち着け、落ち着け……落ち着け」
あれは巣穴ではないかもしれない。蟻としての習性があるとはいえ、体の大きさからして大きな穴を掘って巣を作ろうものなら廃都市の地盤が持ちこたえられない。だとしたらあれは魔物たちにとっての通路――廃都市の別の場所に移動するための近道なのではないだろうか。ラビリンスの構造は、その機能は魔物にだって影響を及ぼしているはずだ。だから迷わせてくる機能を無視するための近道に違いない。
どうにも短絡的な結論に達してしまっているが、明らかな希望的観測が入ってしまっている。こんな結論通りなわけがない。単純にあの広場がテリトリーで、蟻たちはあの穴から地下で生活を送っていても不思議ではない。また地上に姿を現すまで待つしかないが、巣穴の中で短剣が肉体から落ちてしまっていたら取り戻すのは、全ての魔物を退治し切ってからとなる。そもそも、あの巣穴がアレウスの入れるほどの大きさで地下に掘られているかも分からないのだ。そして、広場の状況を見ようと振り返ったアレウスの視線の先には廃都市の壁が立ちはだかっていた。引き返すことをラビリンスが許してくれないらしい。
諦めてはならない。あれはアレウスの手にあるべき物だ。なんとしてでも回収する。
決意し、アレウスは剣を鞘に納め、荷物に入れていた別の短剣を取り出して腰に差す。代わりには決してならないが、短剣術を得意とするアレウスにとってまず初手で握るのは剣ではない。短剣を抜く要領で剣を抜いてしまえば自身が混乱してしまう。
「討伐対象も、魔物の素材も蟻じゃないから……苦労が増えたってことか」
呟きつつアレウスは地図に広場をマッピングし、強く印を付ける。穴のあった箇所も忘れない。次に蟻の魔物と出くわした際に穴を発見することができれば、魔物たちにとっての通路という説は机上の空論ではなくなる。そのとき、先ほどの広場との位置関係から逃げられた蟻の居場所や、穴がどことどこに繋がっているかなどの様々な推測を立てることができるようになるはずだ。
「……大丈夫、大丈夫、大丈夫」
自身に言い聞かせ、アレウスは通路を進む。
マッピングを続けながら歩き続けて一時間が経った。朽ちた大木の跡地には戻っていない。アレウスがあのとき不正解の通路に入ったと思ったそれが、実は正解だったらしい。つまり、ラビリンスは蟻の魔物が闊歩する広場に迷い人を送り込む道を正しいものとしているようだ。
所々に白骨化した死体を見かけるようになった。渇き切り、風化しているにも等しい荷物を検める。懐中時計、水筒、非常食が入っていたであろう袋、小瓶など、どれもこれも冒険者が持ち込む荷物の定番が揃っている。だが武器は見当たらない。この冒険者は魔法職だったのかもしれない。だから魔法の触媒や媒介となる杖が年月と共に朽ち果てたのではないだろうか。
「だとしたら……」
荷物を更に検め、中から丸められた羊皮紙を取り出す。巻物であったなら開かないでおくべきだが、経年劣化を考えるなら巻物も効力を失っているはずだ。巻物が引き起こす不測の事態よりも大事なことがある。
羊皮紙にはこの冒険者が記した地図が描かれている。アレウスは自身の地図と照らし合わせ、まだ未踏破の部分を見比べて書き加えていく。勿論、この地図に記された全てを信じるわけではないが、今後のマッピングの材料になることは間違いない。
「『この迷宮に挑む者たちのために』か……」
羊皮紙の経年劣化を考えると、このまま放置すればいずれは誰も読めなくなる。アレウスは持参した羊皮紙に自身が記した地図をそのまま時間を掛けて書き写し、丸めて糸で縛って、白骨化した死体の傍の鞄へと収納する。
「『蟻に注意しろ。行き止まりであってもすぐに引き返すな。クラスアップを簡単だと思うな』」
書き残されていた手記には迷宮についての様々な注意書きがあった。
「『愛する人には、こんな死の経験をさせたくはないものだ』」
手記の最後に吐露されていた内容は冒険者としてではなく、人としての気持ちが書かれていた。この冒険者は恐らく『教会の祝福』によって甦っている。だからこそ、自分が愛している人物にまでこんな死の恐怖を味わわせたくはないと思い、力尽きる前に書き残したのだろう。それがここに訪れる冒険者の心に届き、無茶をする前の歯止めになると信じて。
「このまま放置するのもどうかと思うけど、ひょっとしたら目印になっているのかもしれないしな……」
いずれは朽ちていく死体でも、朽ち果てる前までは目印の一つになる。だったら、単純な思考で埋葬するのは躊躇われる。心苦しいが放置する。
検めた荷物を全て死体が抱えている鞄に納め直し、アレウスは通路を進む。
冒険者の死体を逐一、探るわけにもいかない。だが、死体を見れば一応ながら目視で調べる。
アレウスが求めているのは廃都市に暮らしていた者の死体であり、その持ち物だ。リスティたちの支援によってシンギングリンの邸宅より回収し仮拠点に持ち運ばれたエイラの荷物の中に興味を引く物があった。今回はそれを持ち込んでいるので、墳墓にあった壁画には文字のようなものもあったのだが、読むことはできず眺めるだけでそこに描かれている内容を推理することしかできなかったが、今回は解読までいけるかもしれない。
だが、心は穏やかではない。確かな焦りが感じられる。短剣を回収するまでは研究者の真似事は少なくともできそうにはない。気持ちを整えつつ、アレウスは分かれ道で右斜め方向にある通路を選んだ。




