クラスアップのために
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「シンギングリンの浄化作業が進んで、ともかく水源が利用できるようになったそうです。一部の元冒険者が居住を少しずつ移しているようですが、リスティさんはそこのところをどうお考えでしょうか?」
「この拠点を放棄することは難しいでしょう。既にここに根差している方々もいらっしゃいます。魔物との遭遇が少ないとはいえ、いつなにが起こるか分からない状況は依然として続いています。拠点周辺の壁が完成するまでは予断を許しません」
「その意見には賛成です。この場をすぐに離れることは責任の放棄でしかありません。ですので、極端に拠点を守ってくれる冒険者、そして元冒険者の数が減らないように待遇を良くするのはどうでしょう?」
「いえ、無闇に待遇を良くすれば増長を生み出してしまいます。私たちがするべきことは冒険者たちだけの待遇を良くするのではなくこの拠点全体の居心地を良くすることです。依頼の報酬を良くするよりも生活の質を改善することを優先します」
「なるほど、お金ではなく情で動かすんですね?」
「元より冒険者の皆さんは報酬で動くような輩ではありません。賊に落ちた者たちはその性質が冒険者になる前からあっただけのこと。ここで働いてくれている多くの方々はしっかりと矜持を残していらっしゃいます。とはいえ、彼らが努力したことが形として実っていることが分かるようにしなければ」
「成功体験は自信の糧。一年前に失われた彼らの誇りを取り戻させるためですね?」
「はい。私は担当者なので、冒険者の方々への感謝の仕方は心得ているつもりです。ですが、」
「拠点に暮らす人々の感情までは手が回らない?」
「ええ……運営方針は常々に相談しながら決めてはいるのですが、どうにもこうにも中途半端になりがちです」
「奥様方に掛け合ってみましょう。エイラ様もお力を貸してくださることでしょう」
「ですが、成り上がりとはいえ貴族が関わるのはどうかと」
「人々に少しでも癒やしを与えたい。その気持ちに階級で差などないと思います」
「教会関係者みたいなことを言うんですね」
「聖職者の許嫁ですから」
「分かりました。では、その方向で話を進めてみましょう」
「……ところで、ヴェインは今どこに?」
「彼はシンギングリンの浄化作業に出ています。それが一昨日のことでしたので、今日中にはお戻りになられるかと。やはり、気掛かりですか?」
「許嫁ですから。リスティさんもアレウスさんのことになると気になって仕方がないでしょう?」
「な、にを仰っているか分かりませんが」
「女の勘を外したことはないんですよ」
「私のことはいいんです」
「仕事上の話は終わったんですから、女同士で恋の話をしませんか? 特にリスティさんはそちらの方が悩み事が多そうに見えますから」
「……あまり多くを語る気はないのですが、あなたの気が済むのなら」
「ええ。単に私が聞きたいだけですので。それで? 彼はどこでなにを?」
「ラビリンスで特定の魔物から獲得できる素材を探しているはずです」
「……魔物から素材が?」
「下位の魔物から取れる素材なんてほとんど無いのですが、オークやオーガなどの身に付けている物だったり角は一応の売り物になったりします。今回はクラスアップに必要な素材集めですね」
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「参ったな……」
見たことがある印を見て、アレウスは溜め息をつく。
「さっきのところを曲がっちゃ駄目だったのか? それとも、もっと前か? いや、そもそも壁に沿って歩いていて、元の場所に戻ることなんてあるのか?」
疑問が言葉となって溢れ出す。
「普通、こういった複雑な構造だったら片方の壁に沿って進めば出口に必ず着く……んだけど、ラビリンスではそうもいかないか」
少し歩く元気がなくなってしまった。なのでアレウスはその場に荷物を下ろし、座り込む。しばしの休息して、再び歩くための活力を得なければならない。
ノックスの冒険者登録や『教会の祝福』を受けさせるか否かといった相談事のあと、クラスアップの話を持ち出された。特定の魔物から採取できる素材を用いることでロジックに記される能力値の限界を引き伸ばすことができるらしい。基本的に冒険者は特定のレベルになれば、このクラスアップを通じて更なる強さを手に入れるのだ。
しかしアレウスの場合は経験とレベルが見合っていない。『原初の劫火』の『超越者』になったときに飛躍的なレベルアップが起こったが、それでもまだ経験に対してレベルが足りていない。それらは全てクラスアップを行っていないからではないかとリスティは考えたからこそアレウスにこのラビリンスでの探索を提案してきた。聞けばアベリアは一年の間にこのクラスアップを済ませているらしい。そしてヴェインはまだだがガラハもクラスアップを終えている。
クラスアップの条件は職業だけでなく、種族によっても異なる。特定の魔物を討伐、特定の魔物の素材の収集、特定の素材を用いて武器の作成など様々だ。『猟兵』であるアレウスに求められる条件はラビリンスの探索及び、そこに生息する特定魔物の討伐、そして素材の収集となる。これだけ聞けばかなり『猟兵』という職業のクラスアップは困難なのだが、初期の段階で複合職扱いの『猟兵』に分類されているアレウスがおかしいだけで、これが戦士や僧侶であればどれか一つに条件が絞られる。そして、アベリアもアレウスの捜索を続けている最中にクラスアップの話を持ち出され、複合職の『術士』としてかなり無茶な条件を提案されたと聞いている。彼女が捜索を一旦措いて、クラスアップを優先したのは能力値の幅を広げることで捜索能力を向上させることができるのではと思ったためで、その結果が『赤星』、『原初の劫火』を用いている間の浮遊能力の獲得に繋がった。
「あんまり時間をかけたくもないけど、そう思ったってどうにもならないだろうな」
クラスアップの試練は原則として一人で行う。ラビリンスに入る前まで一緒だったが、入ったのはアレウスだけ。アベリアたちはラビリンスの入り口で野営をして待機しているはずだ。彼女たちを待たせているのなら、試練はさっさと終わらせたい。そう意気込んで飛び込んだまではいいが、その元気も既に二時間が経過して既に失われている。
感知の技能、マッピング、そのどちらも習得しているからこその油断だった。アレウスは水筒の水を飲んでから、自身が描いた地図を眺めて首を傾げる。迷宮――ラビリンスの地図を正確に記しているはずなのに、どういうわけか目印を付けた地点に戻ってしまっている。迷路には攻略法があるが、ラビリンスではその右の壁に沿って進み続ける攻略が通用しないようだ。
このラビリンスを築き上げたのは古代の人々。つまりここは旧時代の遺跡であると同時に廃棄された過去の都市である。『勇者顕現計画』の建築物よりも更に古い。いずれかの過去の時代に人々が放棄したことで自然と魔物が住み着き、気付けば廃都市はラビリンスと呼ばれるほどになった。
都市をアレウスは知らないが、人間が住む街には通常であれば大通りや荷馬車が通れるだけの大きな通路があるものだ。しかしこの廃都市にはそれがない。人と人がすれ違える僅かな通路――この幅なら正面に三、四人立たれればもう通り抜けるのは難しい。
見渡す限り、壁、壁、壁。たまに壁ではなく建物の入り口だったであろう扉があるが、それらは全て朽ちていて、当然ながら建物内部も酷い有様である。明かりがないため無闇に中に入ろうものなら闇に潜む魔物たちに一斉に襲いかかられる可能性もある。見かけた魔物は主にガルムを中心とした獣型。恐らくだが獣型の魔物はどんな環境であっても住み着きやすい性質を持っている。次点でゴブリンやコボルトといった知性を持つ魔物。逆にスライムのような無機質な魔物は本当の本当に住み着ける要素がないような場所でなければ棲息しない。
しかし、そんな獣型の魔物よりも更に環境を選ばないのが昆虫や虫型に分類される魔物だろう。墳墓に潜んでいたバウスパイダーが良い例だ。あそこは入り口近くこそ他の魔物がいたが、内部には獣型ですら寄り付かなかった。
だからガルムのような魔物を目撃しているが、このラビリンスには間違いなく虫の魔物も潜んでいる。だから余計に建物の中には入れない。
レンガ造りの壁はどれもこれもが壊れかけてはいるが未だ壁としての機能を有している。曲がり角、十字路に限らずありとあらゆる分かれ道がある。それこそ建物の中を通る道だったり右斜め、左斜め、正面、右、左のように道筋が六本もあって混乱したほどだ。
「ここを左に曲がるか……? いや、出来れば右の壁に沿って歩き続けていたんだからそっち方面のマッピングは済ましてしまいたいけど」
礼儀正しくラビリンスで迷う理由もない。そう思って壁を登ろうと試みたのだが、ただのレンガ造りの壁のはずが足が滑ってまともに登れなかった。それこそ掴めるはずのところを掴めず、足をかけられるところに足をかけられなかった。さながら摩擦がないかのようだ。なのにこうして手で触れるだけならしっかりとしたレンガの質感がある。
これは間違いなく廃都市そのものが、来る者を迷わせるようになっている。それがなんらかの魔法陣で引き起こされた魔法なのか、ここに棲息している魔物が及ぼしている範囲の能力なのか、ただ単にアレウスが方向音痴なだけなのか。色々と理由は考えられるが、まだ答えは出せない。
壁に遮られて太陽の位置を正確に把握するのは難しく、方位磁針はどういうわけか役に立たない。人というのは目印や地形から方向を割り出す。太陽もその一つで、東から西へ沈むという常識によって北と南を把握する。普段から建物がどの方角に建っているかどうかなどの基準も不可欠だ。それらが全く分からない場所に放り出されると、相当の知識を持ち合わせていないと途端に方角を体感できなくなる。
「……まともじゃいられないな、普通なら」
またも経験が活きる。狭い場所での活動に慣れていて、洞窟での活動も生活の一部としてきた。そんな過去があるから、廃都市で迷っていても首を傾げるだけで済む。感情が不安定にならない。出られないかもと絶望し、錯乱しない。
どんなに迷っても、どんなに同じ場所に戻ることになっても、なんとかなるだろうという安易に考える。普段は神経が細いのだが、こういった場所では神経が図太くなる。自身が得意とする地形であるがゆえの心の余裕なのだろうか。
だが、油断はしない。気楽に廃都市を歩き回ることと、魔物との戦闘でまで気を抜くのは違う。メリハリは付けなければならない。気配感知を途切れさせないで行うことと、可能な限り気配消しの技能も並行して行い続ける。この狭さだ。あっと言う間に魔物に囲まれることはないだろうが、狭さのせいで一匹ずつ相手にすることになる。場合によっては袋小路に追い詰められて、数の暴力で圧殺される。
「戦いは最小限にして、逃げる方向は地図で把握。あとは……最奥にどうやって行くか、か」
廃都市には幾つも看板がある。ただしどれも案の定、朽ち果てていてほぼ役に立たない。しかし看板があるということは、そこは人が迷いやすい場所だったためだ。逆に迷いにくい場所にはわざわざ看板を用意する必要がない。たとえばこの場所にアレウスが戻ってきてしまったことを知ることができたのは、朽ちた大木――もはやその痕跡しかないのだが、とにかく大木が生えていたであろう跡があったためだ。ここに住んでいた古代の人々は大木を目印として、次の場所を目指していたと考えられる。
「ラビリンスの最奥には、ミノタウロス……定番、か?」
なにやら産まれ直す前の記憶に残る知識が邪魔をする。しかし、その記憶が言動の全てを支配するわけではないのですぐに片隅へと追いやることができた。
立ち上がり、広げていた荷物を纏める。持ってきた物がどれくらい残っているかは逐一確認しなければならない。たった一人なのだから管理するのは自分自身だ。これを怠れば死期が早まる。
「行こうか」
いつも通り、独り言を呟きつつ、アレウスは荷物を背負って書きかけの地図を片手に歩き出す。




