なんにも変わらない
大剣の一振りで起こす衝撃波は谷底に漂っていた黒い魔力や瘴気にも近しい死臭の全てをただただアレウスたちへと押し付ける。とてもではないが呼吸などできない。事前に話し合った通り、各々の判断で谷底から一気に脱出を図る。
キングス・ファングがその様を追撃することはなく、アレウスたちが無事に谷底から出てすぐに崖上へと登ってくる。
間合いなど関係ない。キングス・ファングは大剣に纏わせている黒い魔力を再び一振りで衝撃波として打ち出し、アレウスたちはその波動を受けて仰け反るだけに留まらず、踏ん張ることさえできずに吹き飛ばされる。
全ての獣を黙らせるような、ありとあらゆる生物の生存本能に直接語り掛け、歯向かえば殺すとでも言いたげな咆哮を上げ、キングス・ファングが地面に大剣を突き立てる。切っ先より送られる魔力が地中で炸裂し、岩石が水流のごとく隆起しながらアレウスに迫る。寸前でセレナに拾い上げられ、『闇』を渡らせてもらうことで岩石に轢殺されずに済む。
想像を越えている。まず、動きが想像の倍以上に速い。あれだけの巨体でありながらキングス・ファングの動きはノックスと同等かそれ以上であり、なによりその身に蓄えている力という力が、ただただ強い。魔力も気力も筋力も、力と呼べる全てを備えているがゆえに、ただ大剣を軽く振るだけで衝撃波が起きる。これを飛刃として放ったなら、簡単に獣剣技に形を変えるだろう。
「馬鹿げている」
「群れを束ねるために王はひたすらに王を討ち取り続けてきたんだ。父上は全てのキングス・ファングを越えるキングス・ファングなんだよ」
ノックスは足が震えている。武者震いではなく、本気で怯えている。彼女の中で戦いに対する意欲が薄れているのが顔を見るだけで分かる。遁走を決め込まないで立ち向かえているのだろうが、精神的に負ければいずれは逃げそうな気配すらあった。
「あんなのに獣人たちは一人で挑んできたのか?!」
「父君には誰一人として挑まなかったのです。あまりにも……そう、あまりにも父君が強すぎるがためにです」
ノックスの傍にセレナが行って、彼女を物理的にではなく精神的に支える。
「だからこそ次代の王を決める争いは単純な王への挑戦ではなく、より群れの獣人の支持を受けている者から選び抜こうと話が進みました」
パルティータも衝撃波を受け、動揺の色を隠せてはいないが少なくともまだ戦意を喪失してはいない。
「結果的にそれがキングス・ファングには受け入れられない群れの変化だった」
アベリアはそう結論付ける。
「“観測せよ”」
キングス・ファング――狼の王の傍まで魔力の塊が飛んでいき、弾ける。弾けた魔力は粉のように狼の王に降りかかり、雪のように溶けて消える。
「本名はディヴェルティメント・ヴォルフ。『キングス・ファング』の称号を持つ獣の王。弱点は……人体における急所と呼べる部位全て」
アベリアの声は震えている。
「こんなの、当たり前だけど……でも、どうやればその急所を攻撃できるっていうの……?」
頭部や喉元、鎖骨や脇の下、心臓に内蔵、大動脈が走っている部位。いくらでも急所はあるが、あの筋骨隆々の巨体にどすればその急所の一撃を浴びせられるというのか。魔物であれば突破口を開くこともできる『観測』の魔法だが、人に用いた場合は相手のロジックから読み取れるものしか提示してくれない。
『人体における急所』というのは、要するに『弱点無し』を意味する。人間であれば誰しもが持つ急所しか弱点として提示できなかったということだ。
「獣人なら魔法が有効じゃないのか?」
「『不退の月輪』から貸し与えられた力でその弱点をカバーしてんだよ、父上は」
なんという強大な存在に挑もうとしているのか。なにかの間違いじゃないのかとアレウスはアベリアに問い掛けたのだが、その答えを早々にノックスに出されてしまった。
「寄生されていたワタシを止めるためにお前がやったのと同じだ。父上を止めるには力でぶつかり合うしかない」
セレナと手を合わせ、彼女はキングス・ファングと同様に黒い魔力を纏う。
「ぶつかり合った果てで立っていた方が勝つ。ワタシたちにとって王への挑戦とはそういうものだ」
「ですが、父君が一人に対しジブンたちは五人。力をぶつけ合う中で勝利への糸口を見つけることも可能でしょう。たとえ、誰かが犠牲になろうとも」
「たとえ、オレたちが死ぬことになっても父上を止められれば世界の脅威は去ります」
「……壮大な親子喧嘩みたいなもの?」
「茶化して言ったってどうにもならないぞ。それに、ノックスたちは別に父親と喧嘩しているわけじゃない」
アベリアがなんとか雰囲気を緩ませるために言ったことをアレウスは否定する。
「むしろこれが親子喧嘩だったらもっと酷いことになっていたんじゃないかとすら思える」
「くだらん世間話をいつまでも聞いていられるほど、我は暇ではないぞ?」
二、三分の早口でのやり取りだ。話していたのは動きを止めていたキングス・ファングの出方を窺うためでしかない。
「王は初手を挑戦者に譲る。そのために待っていたというのに、貴様たちはどいつもこいつも腑抜けているようだ。まさかパルティータまでもがそうであったとは思わなかったが」
「父君のお気に入りでしたからね」
「セレナもだろ。父上の中ではセレナかパルティータ。そのどちらかが挑んでくる日を待ち望んでいたんだろうな」
「パルティータ……カッサシオンの次に我が唯一、傍に置いた息子。我の全てを注ぎ込み、鍛え上げ、知識も付けさせたというのに、どうして力で王になろうとしなかった?」
「父上の傍に置かれていたからこそですよ」
大剣を担ぎ、今にも振るわんとするキングス・ファングがその言葉で目を見開く。
「父上という絶対の圧制は同胞を怯えさせるだけです。オレはそんな力で押さえ付ける群れの生き方が自由とは程遠いと悟ったのです」
「いらん悟りだ」
縦に振られた大剣の剣戟は黒い魔力を纏って衝撃波となる。横薙ぎに振るわれたときよりも範囲は狭いが、直撃すれば肉体の全てが圧壊する。そんな衝撃波が一回に限らず、無造作に振るわれるだけで次から次へと生み出され、さながら網の目を潜り抜けるかのようにアレウスたちは強引にこれらをかわしていく。
「ヒューマンの国を見ろ。圧制は、正しさの名の下では許される」
「だからと言って、オレたちまでそれに倣う必要はどこにもありません」
ノックスとセレナは『闇』を渡り、アレウスはアベリアと協力して衝撃波を避ける中、パルティータだけが自力で回避を続けるだけに留まらず狼の王へと接近していく。
「それに、圧制が正しいかどうかなど今、この時代においては分からないものです」
強烈な蹴撃を狼の王へと放つが、片手で止められる。
「全ては歴史が決める。未来にオレたちが生きていた頃の書物を読み込んだ者たちが正しいかどうかを精査するのです」
「くだらん」
ただの一言を吐き捨て、パルティータを狼の王が投げ飛ばす。中空で姿勢を整えた彼に衝撃波が飛ぶ。セレナがアレウスのときと同じく『闇』を渡って助けに入って、どうにか助け出す。
「見て分かったと思うが、さっきの蹴りはセレナの蹴りよりもずっとずっと強い。なのに、あんな感じだ」
「簡単に止められているようにしか見えなかった」
ノックスのようにパルティータの実力を知っているわけじゃないからこそ、あの蹴撃がセレナに匹敵するとは判断できない。
雄叫びを上げ、キングス・ファングが走る。まずはアベリアに力任せに大剣を叩き付け、炎の障壁ごと弾き飛ばし、続いて流れるような勢いでアレウスに迫る。
近付けば近付くほどに、その体の大きさに畏怖してしまう。しかし振り乱される大剣を避けなければ命がない。必死に立ち回るが、肉体差があっても狼の王は決してアレウスを見失わない。ちょこまかと走り回って隙を突いたと思っても、必ず反応して寄せ付けないように大剣を振ってくる。さすがにそこに飛び込むわけにもいかず、引き下がったアレウスに暴力的なまでの速度で放たれる剣戟が嵐のように荒れ狂う。
短剣で防ごうと思った刹那、狼の王は予想を裏切って大剣をその場に突き立て、地中で魔力を爆発させて岩石を隆起させるだけでなく、目にも止まらない速さでの足運びでアレウスに迫り切って、ただ手を振り払われただけで短剣ごと叩き飛ばされる。
全身の骨が軋み、信じられないほどの激痛に見舞われる。体内から放出される炎が直後に傷付いた肉体を癒やしにかかるが、それでも意識が飛びかけた。『超越者』でなければこんな些細な攻撃だけで死んでいたのだろう。なにせ薄らいだ意識の中で“死”を実感した。これから死にに行くのだと認識し、体が回復しても“なんで生きているんだ”という疑問が先を行く。それほどまでに死は間際にあった。
セレナが真正面からキングス・ファングへと格闘を挑み、ノックスが背後から短剣を振るう。右手でノックスの剣戟を、左手でセレナの打撃を制して、肉体をその場で回転させることで起こす風圧が二人を払い飛ばす。突き立てた大剣を引き抜き、着地に甘えたセレナに真っ先に迫り、その肉体を上下に分かつように大剣で撫でる。その剣身がまさに腹に右から触れようとした直後に生じた『闇』にセレナが逃げ込む。だがそれを確認すると狼の王はすぐさま狙いをノックスに切り替え、その場で大剣を振って縦の衝撃波を撃つ。跳躍して避けたのだが、さながら避け先を決めさせたかのように先回りすると狼の王は無造作に彼女を蹴飛ばした。
「ヌルい」
『闇』から出てきたセレナに迫り、その頭上に拳を落ちかけるがパルティータが彼女に体当たりをして拳から逃れさせ、自身は手に握り締めていた鎗で拳を受け止める。ただし、受け止めはしたが彼の両足は地面に沈む。声にならない声を発し、全身の筋肉が断裂し、骨は折れて皮膚は裂け、血が噴き出す。
それでもパルティータは拳を受け止め切り、鼻血を垂らしながらもキングス・ファングを睨む。
「やはり、我が鍛えただけのことはある」
「“癒やして”」
拳を押し退けて、命からがらその場から逃げたパルティータにアベリアの回復魔法がかけられて肉体の損傷が徐々に縫合されていく。
「“赤星”」
続いてアベリアの頭上に巨大な火球が生み出され、狼の王へと射出される。難なくそれを飛刃で砕くが、“赤星”は炸裂を前提とした魔法であるため砕けることは問題にならない。そのまま膨大な数の火球へと変化し、キングス・ファングに降り注ぐ。
爪が空を薙いだ。たったその動作で引き起こされた風圧が、まだ降り注いでいる最中の火球を弾き飛ばす。
「魔法を力だけで……? いや、黒い魔力が――『不退の月輪』の力があるから」
「その程度でも魔法と呼ぶのか……では、我のこの力も魔法と呼んで差し支えないな」
踏み締める。それだけで地面が震撼し、アレウスたちは小規模の地震にでも見舞われているかのように視界がブレる。それだけでなく、唐突に頭上からの重力に押し潰されそうになる。
「力場が……!」
アレウスがノックスとの戦いで経験した力場。そのときは黒い魔力が地面を侵食していたため、逃げやすかった。だが、狼の王は地面を踏み締めただけだ。黒い魔力が地面を伝ったようには見えなかった。それでも広範囲に及ぶ力場によって全員が悩まされている以上は、視認不可能な速度で黒い魔力が地面を伝わったと考えるしかない。
「世にも奇妙なヒューマンだ」
誰もが力場から逃れられず、むしろ逃れることに対応するだけで精一杯な中、ただ一人――キングス・ファングだけが力場の主であることを主張するように闊歩し、アレウスへと近付く。
「一体どれほどの業を背負えば、そのような身となれる? カッサシオンの眼だけならば、偶然と言い切れよう。だが、カッツェの右腕まで持っているのであれば……もはや必然か」
「カッツェの、右腕……」
やはり、アレウスの右腕がノックスのロジックを開けるようになったのは認識の変化。同時にロジックで『オーガの右腕』が書き直されたため。そしてこの右腕は右目と同じく、獣人由来であることが確定する。
「世界とは意外と矮小なものだ。ゆえに掌握しやすく、壊しやすい。そう、我の力で壊すことも難しくない」
「……世界を矮小と言い切るのは、世界を全て見ていないことを自分で白状しているようなものだぞ」
アレウスは力場を炎で跳ね除けようと試みる。少なくとも、これでノックスの力場からは逃れられた。同じように逃れられるかもしれない。
「世界は、見れば見るほどに広く、決して小さくはない」
「では、一つ問おう」
狼の王はアレウスを試すように言う。
「『掘り進める者』の異界での暮らしはどうだった?」
「どうして、それを……」
「見てきたからだ。我が、『掘り進める者』の異界を、この目で」
一言一言をハッキリと、正確に伝わるように狼の王はアレウスに告げる。
「カッサシオンが異界に堕ちたのも、ノクターンとセレナを産んだカッツェの女が異界に堕ちたのも、全ては我が『掘り進める者』のためにしたこと。いや、カッサシオンに関してだけ言えば、我が与えた試練を越えることができなかったがゆえに捧げざなければならなかったのだが」
アレウスは言葉では言い表すことのできない怒りに体を震えさせる。
「試練……? 真に子供を思うのなら、危険なことはさせないだろう」
「危険なことをさせなければ、死ぬことを学ばない。カッサシオンは腕に自信がありすぎた。死を学ばせなければ、王にはなれぬ」
狼の王がゆっくりと姿勢を低くし、力場に苦しむアレウスに顔を近付ける。
「いつぞやの大詠唱による濁流は、随分とこたえたぞ」
「大詠唱? シンギングリンの濁流なら、あれは別のヒューマンが」
「分からないか?」
過去がアレウスの脳内で駆け巡る。
「魔狼」
「魔法で『観測』しなかったのは貴様たちの落ち度だったな」
「どうして、捨てられた異界に……! あのときのリュコスが、キングス・ファングのお前だった、と!?」
正確にはリュコスではなく、キングス・ファングが『本性化』した姿だったのだろう。あのときはリスティの意見も聞いてリュコスと断定し、戦うのではなく逃げることに全力を注いで逃げ切った。
「我は異界を巡っていただけに過ぎない。新たなアーティファクトを求めて、だ。それが突然、何者かに異界ごと呼び寄せられた。その果てで会ったのが、貴様たちだ。女を喰い殺し損ねたことは忘れていない」
「魔物でもないのに人を喰うのか?!」
「我は未だ喰らってはおらん。それに、貴様こそ腐肉を喰らわなければ今日まで生きてはこなかったのではないのか?」
その言葉にアレウスは項垂れ、力場に抗う力が抜けていく。
「貴様が現れなければ、喰らうことを試そうと思う気持ちもなかっただろう。貴様のように、喰らうことで己が物とすることができるのではないかと思うことなどなかっただろう」
キングス・ファングはアレウスの頭を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「貴様を喰えば、アーティファクトを身に宿す力を手に入れることができるのか?」
「知らない……」
「貴様そのものが、アーティファクトを生み出す力を持っているのか?」
「分からない」
「その力で、どれほど得をした? 貴様はその力でどれほどの人間を不幸に落とした?」
「なにワケの分かんないこと言われて混乱してんのよ」
アレウスたちを覆い尽くすほどの範囲に渡っていた力場が一気に別の魔力で塗り返されて、掻き消える。
「そいつとは過去に因縁があった。それだけでしょ? 別にあなたがそいつのせいで色々と不幸な目に遭ったわけじゃない。むしろ、そいつのせいでそいつの身の回りにいた人たちが不幸な目に遭っているってだけ。あなたはたまたま、そこに関わる物を持ち合わせていた。それだけ」
リゾラがアレウスの頭を掴んでいる狼の王に手の平を当て、そこから放たれる魔力で弾き飛ばす。
「私がヘイロンやテッド・ミラーと因縁があるように、あなたにはそこの獣の王と因縁があった。だったらやることは一つ」
「倒して因縁を断ち切る」
「そういうこと。あの王様はあなたの力が羨ましいってだけ。あなたの力を見た瞬間から、羨ましくて羨ましくて、自分の力が衰えていくことが受け入れられなくなって、最終的に『不退の月輪』に頼った。挑戦者が現れないからなんてただの理由付け。力に溺れた王が、再び力を身に付けて、ひたすらその力に縋り付いている。とても醜悪な姿だと思わない?」
ノックスやセレナ、パルティータに呼び掛けるようにリゾラは言う。
「あなたたちの父親はこんなことを言い出して、こんなことをしでかすような人だった? もしも違うというのなら、キングス・ファングの目を覚まさせるために戦いなさい。戦って、力が全てじゃないと思わせるしかない」
リゾラは鼻で笑う。
「ま、私は力が全てだと思うことに賛成なんだけど……こんな獣の王と同じに思われるのはイヤ」
力場が消え去ったことでアレウスは怒りの衝動を抑えながら立ち上がる。
「なにを言われたってあなたはなんにも変わらない。あなたのやることはなんにも変わらない。そうでしょ?」
リゾラに言われるのは少しばかり気になるが、アレウスは肯定するように首を小さく縦に振った。




