答えが見えない
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「くだらない」
リゾラは静かにそう吐き捨てる。獣人の姫君を二つの空間に断絶させる。そして互いに干渉できない状態で戦い、勝利し、大人しくしてもらう。アレウスの作戦は自身からしてみれば、心の底からくだらないとしか言いようがない。
互いに干渉できなくさせたのならあとは殺せばいい。容赦なく殺してしまえばいい。
「裏切られたんじゃないの?」
巻物を用いてロジックを書き換えられ、なんの疑いもなく二人に付いて行き、危うく死にかけるだけでなくアベリアも巻き込んで『継承者』と『超越者』の力さえも奪われそうになった。
そこまでされたならリゾラなら容赦なく殺す。ヘイロンに操られているから本人の意思と関係なく裏切ってしまった、などという話になったとしても容赦なく殺す。自身の『呪い』そのものを抑えられなくなって暴れてしまったと弁明されても容赦なく殺す。
だってそれが一番、後腐れがない。殺しておけば反撃されることもなく、殺しておけば再び暴れることもない。殺しておけば、と後悔することだってないのだ。
「……なにを見させられているんだか」
結界の維持に意識を集中し、魔力を使い続けなければならないのは事実だが、この状態でリゾラは全く動けないわけではない。正直なところ、維持しつつも二人に加勢することぐらいは容易である。
しかしながら、突出した力は見せてしまえばあとで絶対にややこしいことになる。ある程度は伏せておかなければ、いざというときの奥の手にはなり得ない。もしかしたら獣人の姫君に同調してこの二人が突如としてリゾラに襲いかからないとも限らないのだ。
そんなことがあってもリゾラは多分、この二人を殺せる。アベリアにはいつか必ず酷い目に遭わせてやるとは決めているものの、未だその時期ではない。アレウスだって、気に入っている冒険者ではあるが同時に危険な存在である。変に勘繰られてしまえば自身の経歴を調べられ、場合によっては敵対する――いや、いつかは絶対に敵対するのだろうがやはりこれも時期ではない。
だからこそ、襲いかかられるようなことがあればその時期が早まったのだと判断して即座に始末する。それぐらいのことは常々に頭の片隅で考えている。
自身の歩く道は復讐の道だ。常々に誰にも理解されない道だ。だからこそ、関わった者との関係性は最終的にはまっさらに――真っ白にしてしまうのが理想だろう。
「あなたみたいな人生が送れていたなら、どれほどよかったか」
恨み節を獣人の姫君と戦うアベリアの背中にぶつけるが、その言葉が彼女やアレウスに届くことはない。自身の魔力で呟きは全て掻き消している。独白が彼らの耳に入ってしまえば協力関係を疑われる。殺す時期が早まる云々ではなく、今はとにかくそれは避けなければならない。
なぜなら、復讐する優先順位はリゾラの中で決まっているからだ。一番はテッド・ミラー、二番目がヘイロン・カスピアーナ。アベリアは三番目――ではなく、ずっとずっと後ろの方に置いている。なぜなら、テッド・ミラーの元から逃げ出すことを計画したのはアベリアではなくリゾラ自身であるから。むしろ逃走計画に巻き込んでしまった。それもこれもアベリアがかわいそうでかわいそうで仕方がなかったからなのだが、身から出た錆であることに違いはない。だからこそ、この逆恨みの感情を考慮して“復讐”ではなく“酷い目に遭わせる”で済まそうと思っているのだ。でなければこんな風に接触して、上辺だけの言葉を並べてどうにかこうにか信じてもらおうなどとは考えない。そしてアベリアの謝罪の言葉になんとなく“仕方がなかった”などとは思わなかっただろう。
「なんであれ、私の思い通りに事が進めばいいわ」
過程はどうだっていい。問題は結果だ。結果が全てと言いたくはないが、この状況においては結果が物を言う。二人がリゾラの思う通りの成果を出してくれなければ元も子もないのだから。
「……成果が出ないんだとしても時間を稼いでくれたらいいわ。時間さえ稼いでくれれば、あとはなんとかしてあげるから」
『深淵』の魔法は恐らく世界の重力を捻じ曲げて引き起こされる。いわば重力の渦。巻き込まれた人間や物体を拉ぎ折り、グチャグチャにあらゆる方向から押し潰す。魔法のあとに残るのは肉塊のみ。
この魔法はリゾラとしては『空』に属する魔法だと思っている。しかし、一般的には『闇』と呼ばれる魔法に分類されるはずだ。精霊魔法は自身の得意とするところではないのであまり多くを分析することはできないのだが、これが思った以上に厄介だった。
発生直後を自分の両手で包み、ただただ自身の魔力で押し潰して消し去った。当たり前のように、簡単にやったかのようにリゾラは扮したが決して代償を支払っていないわけではない。なにせ発生こそ止めはしたものの、『闇』の魔法はそのままリゾラの魔力を侵食し捻り潰しにかかってきたのだ。それに伴い、体内に溜め込んでいた数百の魔物の魔力を犠牲にした。
とはいえ、ヴォーパルバニーと繋げていた魔力を辿って、体内の魔力を掻き乱されたときに比べればまだマシだ。あちらは魔物の魔力を盾にしても、それらを避けて純粋にリゾラの魔力だけを叩いてきた。『闇』の魔法は盾にした魔物の魔力で対処し切れた――が、消耗したことに違いはない。
だから、もしもどうにもならないのだとしても時間だけは稼げるだけ稼いでほしい。数百の魔物の魔力の代わりに自身の魔力を奥底から引っ張り出して補填する時間が欲しいから。そのこと自体は難しくないが、体内の魔物の魔力とのパワーバランスを見誤るようなことがあれば途端に飼い殺している魔物たちがリゾラを体内から喰い破ってくる。同時に契約させた『悪魔』も反旗を翻すだろう。最近は『魔眼』もそこに加わっている。
全ては『服従の紋章』を反転させているから成り立たせている。属性を持つ魔力の反転の応用だと思っているが、勤めていた娼館が襲撃に遭った際に一体、なにを原因として反転したのかは定かではない。
「……まぁ、考えたって仕方がないか」
才能の一部と考えてしまっていいだろう。現状、反転が解除されることもない。それどころか魔力の反転は自身の魔法に有利に働く。不利な属性で有利な属性を抑え込むことさえできてしまうのだから。
「あなたたちも部活みたいなことやってないで、私みたいに目的のためだけに全てを捧げればいいのに」
呆れた風に言いつつも、その声音にはどこかリゾラの孤独感や寂しさのようなものが込められていた。
「それにしても」
リゾラはアレウスの右腕に視線を集中させる。
「あの右腕……本当に魔物由来なのかしら?」
*
信じていた者に裏切られる。その実感がまだ湧いてこないのはまだロジックが元通りになっていないからか。それともノックスとセレナがやったことを裏切りとアレウスが認識していないからか。
いいや、そのどちらでもない。巻物によって書き換えられた事実を思い出し、理解しているのだからロジックは正常に戻りつつあるはずだ。
実際のところ、アレウスは口先だけでノックスもセレナも信じていなかったのだ。
信じていない者に裏切られた。これは信じている者に裏切られるよりも精神的に感じるものが少ない。ああやっぱりな、と思う程度で心には響かない。さすがに『原初の劫火』を奪われていれば思うところがあったのだろうか。
物事に好転するような話などない。上手い具合に誘われて、上手い具合に乗せられて、上手い具合に弄ばれた。それが獣人の群れに訪れたアレウスに訪れた顛末だ。しかし、獣人から要請があったからといってそれに応じたのは自らの意思だ。だからこそ尻拭いはしなければならない。
群れの王を決めるだとか、カッサシオンの眼を持っているからとか、獣人の姫君は王に興味がないだとか、そういった群れの中で知り得たありとあらゆることは全て頭の外へと捨て置いていい。
どうでもいい。心の底からどうでもいい。アレウスは己がもたらした尻拭いを果たすためだけに短剣を振るうだけだ。
ノックスの剣戟には躊躇いがない。戸惑いもない。全てに殺意がしっかりと乗っている。そんな相手に迷いの込められた剣戟を浴びせたところで通用するわけがない。
どうでもいいのだが、迷いがあるかと言えばある。どういうわけかノックスを直視できない。目線を合わせることを意識的に拒んでしまっている。それでも剣戟の軌跡を追えるのはノックスがまだ本気を出していないからか、それとも自身が思っていた彼女の実力とはこんなものだったのかと思わされているのか。
「“芥の骨より出でよ”!」
ノックスが血と泥を短剣に塗り、アレウスに向かって投擲する。
「“地を奔れ、蛇骨”」
骨の短剣は大蛇と化してアレウスに大きく口を広げる。
貸し与えられた力を解放する。全身に熱が巡り、手に握る短剣へと力は渡り、火を噴出する。炎という炎を撒き散らし、正面から大蛇を切り裂く。手応えはない。しかし、これは誘導である。ノックスの真の狙いはその先にある。
「獣剣技、」
両手の爪に気力を溜め込んでいる。黒い魔力が混じって、以前に見たときよりもより凶悪に見える。
「“削爪”!!」
十字に爪を掻いて放たれる飛刃。ただの飛刃ではなく、そこには“相手の力を削ぐ力”が込められている。これはランページを仕留める際にノックスが見せた時点で分析を終えている。受けようとすれば貸し与えられた力を削り取られる。
だから避けることが最適である――が、避けられないようにノックスはもう回り込んでいる。この俊敏性は獣人であっても考えられない。己が放った剣技に追い付き追い抜く様は気味の悪い速度という表現以外にない。
だから跳躍する。“削爪”は空中に向けて放たれてはいないのだ。跳躍してしまえば、追ってくるのはノックスだけになる。
案の定、ノックスは跳躍したアレウスを追いかけてくる。
「獣剣技、」
だからこそ既にアレウスは構えに入っている。
「“上天の牙”」
振り下ろして放つ狼の上顎を模した気力の刃をノックスが受ける。そもそも空中なのだから避けようがない。これがセレナであれば恐らく、『闇』を渡って避けられている。
しかし、獣剣技を浴びてもノックスは痛みに苦悶の表情を見せることなく、それどころか勢いづいて尚もアレウスへと突っ込んでくる。全身から血を噴き出しながらも迫る姿はまさに“獣”。驚き、対処が遅れて彼女の爪に胸部を切り裂かれる。
炎を噴出しながらアレウスは着地し、切り裂かれた胸部を炎で焼いて止血する。ノックスもまた全身の傷を黒い魔力を癒着させるようにして治癒する。
「……こんな形で戦いたくはなかったよ」
苛立ちを吐露しつつ、すぐさまノックスの接近に備えて身構える。
「では、どんな形で戦いたかったんだ?」
「戦いたくなかった」
「嘘をつけ。お前は戦いたかったはずだ、このワタシと」
「いいや」
「ワタシと戦い、ワタシを越える。お前は自分の成長のためにワタシを踏み台にしようとした」
「そうじゃない」
「強者に憧れるがゆえにその強者を目指し、いつかは乗り越えようと夢見る。それが叶う瞬間は、いつだって強者を踏みにじり、弱者から成り上がる」
「……それは」
「なにを恥ずかしがることがある? ワタシとお前に種族以外の違いなど、どこにある? 強者を這いつくばらせることに喜びを感じ、弱者を虐げることで悦に浸る。その感覚は強者になればなるほどに強くなる。より強い強者を貶めることに喜びを、更に弱者を虐げることに興奮を覚える。お前はそういう戦場の気風に染まっている」
そうではない。
ノックスが黒い魔力で短剣を引き寄せて掴み、同時にアレウスへと最接近して剣戟を放つ。防ぎ、弾き、反撃し、防がれ、避けられる。攻防の繰り返し、一進一退の戦いの中で貸し与えられた力と『不退の月輪』が持つ黒い魔力が激突し、互いに互いを拒んで押し退けられる。
「確かに君を目標とした。君と同じぐらい強くなりたいと思った。でも、君と戦って勝ちたいと願ったことは一度も、」
言い淀む。
本当に一度もなかっただろうか?
研鑽を積み続けていた中で、己を奮い立たせてきたのは過去の憧憬。加えていつかは越えたいと願った存在があったからではないか?
その疑念が、アレウスの刃に更なる迷いを生む。ノックスはここぞとばかりに怒涛の勢いで剣戟を振るい続け、アレウスを押していく。
「その右腕がお前にある限り、お前も結局、獣の本能を抑え切れない」
『オーガの右腕』のことを言っているのだろう。この右腕が魔物由来の物であるから、アレウスはそこから伝わる力に徐々に呼応し始めているのではないかと投げかけられた。そんなものは呼応ではなく蝕まれているだけで、当人としての喜びは一つもない。
「獣剣技、」
ノックスが跳躍する。
「狼頭の牙・上段!」
黒い魔力と混ぜ合わされて放たれる狼の上顎を模した気力の刃が斜め上空から降ってくる。すぐさま炎の障壁を作り出し、一気にアレウスは後退する。
そこに回り込まれている。やはり剣技を撃ってから彼女は移動している。『闇』を渡っているような速度ではないが、放った剣技が炸裂する前にアレウスに迫れるほどには速い。気配を感知できても、この速度では反射神経に任せての防衛に移るほかない。
「ノックス!」
「一々、ワタシの名前を口にするな。その声はとても耳障りだ」
「お前はどうして同胞を犠牲にする?! どうして同胞を犠牲にして、『死体の雑兵』を望む!? キングス・ファングが命じたからか?!」
「同胞がワタシたちを犠牲にしたからだよ」
冷たい言葉を言い放ち、アレウスはノックスに弾き飛ばされる。そして弾き飛ばされた先で彼女の放った剣技が頭上に落ちる。
「『呪い』そのものだからと忌避し、拒み、そして差別した。そんな同胞をどうしてワタシが大切に思うことができる?」
全身を切り刻まれ、更に黒い魔力がそうさせているのかアレウスの肉体に強い負荷が掛かる。まるで自分自身にだけ掛かる重力が強まったかのようだ。傷口は自身を中心にして渦巻く炎で止血できるが、この重力は跳ね除けられない。
「ワタシたちはただ、産まれた環境で産まれた種族で、産まれたままに生きたいだけだった。そうさせてくれなかったのは同胞たちではないか」
動けないアレウスにノックスが飛刃を放ち、追い打ちをかけてくる。避けられるものではないため炎の障壁で防ぐが、アベリアのそれに比べて防衛能力は低いためどれだけの量の飛刃を防げるかは分からない。
「自分たちの中にある力を使っても怯えるばかりで、誰も褒めもしない。誰も目を掛けてくれない。ワタシたちには孤独しかない」
「『呪い』は、制御できているのか?」
「できていなければワタシはワタシの首を刎ねている。ワタシは馬鹿で、それほど強くもないが、妹のためなら努力を惜しまない。その妹も、血の滲む努力の果てに『呪い』を自らの物とした」
「『呪い』に操られているのでは?」
炎の障壁が弾ける。
「お前は、本当に耳障りな声をしている。お前の声音で問い掛けられたら、全てを曝け出したくなってしまう。だがワタシはその声にもう、耳を貸す必要もない」
黒い魔力が短剣に込められる。
「死ね!!」
その振り下ろしをアレウスは短剣で防ぐ。
接近してくれて逆に良かった。体への負荷は凄まじいが、両腕は動かせる。特に右腕はこの重みの中でも自由自在だ。だから接近によるただの剣戟なら――黒い魔力を込められていようとも貸し与えられた力を行使すれば、こうして防ぐことができる。
「なんとも忌々しい話だ」
ノックスがアレウスを見つつ、呟く。
一瞬の隙があった。だから炎を爆ぜさせ、自身に纏わり付いている黒い魔力を全て吹き飛ばす。肉体に掛かっていた負荷が解けて、次の剣戟を間一髪のところで回避する。しかし、これはノックスに異変があったためだ。先ほどと同じように振り下ろしていたなら、少なくとも回避していても体のどこかを裂かれていた。
「どうして今になって、ワタシを苦しめるのか」
「苦しめる?」
「問い掛けには答えない」
ノックスは心を閉ざすことを宣言し、その宣言通りに怒涛の剣戟を再開してくる。この段階はまだ凌げる。問題は剣技を放つときだ。回り込まれれば、剣技とノックスの両方で避け先を限定させられてしまう。足運びによっては、剣技の方へと偏らされてしまう。受けても傷口は全て焼いて止血できる。貸し与えられた力を行使している最中はそれだけで傷口が塞がってくれる。ただし、ノックスの剣技を浴びてから長く数えて三十秒間は思うように炎を噴き出させることができなくなり、肉体への負荷が増す。このときアレウスは炎の障壁を作ることでしか攻撃を防ぐ手立てがない。
一回目だからノックスが油断して接近してくれた。二回目は接近せずに飛刃でひたすらに切り刻んでくるだろう。
「僕は問い掛けを続ける。たとえ答えてくれないとしても!」
左右に体を揺らし、ノックスの剣戟にブレを生じさせる。続いて前後に揺れて距離感を鈍らせる。そこから足運びで剣戟を避けて、彼女に詰め寄る。
「ノックス! 僕は君とこんな殺し合いをしたくはない!」
「だがもう始めている」
強く短剣を振るわれ、拒絶される。あまりにも強烈で防いでも力を押し殺し切れずに後退したくもないのに後退せざるを得なかった。それこそ踏ん張ったまま後方に滑るように。
「ワタシとお前は殺し合いをしている」
「戦っているだけで、殺し合うわけじゃない!」
「だがお前はワタシを殺さなければならない」
「そうじゃない! 君が剣を振るいさえしなければ、僕も剣を振るわない!」
「そんな言葉、誰が信用できる?」
「信じてもらうことしかできない」
「お前がワタシを裏切って、お前はワタシに裏切られているクセに?」
言葉が重い。
そう、アレウスはノックスに裏切られている。だから言葉で約束させても、きっとノックスはまた裏切る。隙を突いて首を掻き切ってくるだろう。
そもそもなんでノックスはアレウスを裏切ったのか。彼女の秘密をカーネリアンに喋ったこと。まず最初に約束を破ったのは確かにアレウスだが、秘密の暴露一つで命を狙われるほどの強い裏切りの感情を抱かれなければならないのだろうか。
いや、ノックスにとってその秘密は口外してほしくはなかったことなのだ。それを安易に、カーネリアンが『産まれ直し』だからと話してしまった。その場にいた三人は『産まれ直し』という共通点があるのだから分かり合えると思ってしまった。それがきっと間違いだったのだ。
「悪かったと思っている」
「悪気がある奴はそんな風には謝らない」
だが、ここの裏切り裏切られの部分を是正しても根本的な解決にはならない。謝罪して、謝罪を受け入れてもらって、納得してもらってもそれで終わり。ノックスは戦いを継続する。
戦いたくない。
ふと無意識の感情がフッと湧いて出る。
戦いたいと思っていたはずだ。いつかきっとノックスと剣を交えてどちらが上に立つのかを決めるときがくる。そのように思っていた。そして今、そのときが訪れた。なのに、戦いたくない。
感情が二律背反する。頭の中がグチャグチャになっていく。
「僕は、」
アレウスはノックスの剣戟を受け止め切り、言いにくそうに言葉を並べる。
「君を傷付けたくない……」
「だからなんだ?」
ノックスは距離を取って、姿勢を低く取る。
「ワタシたちが戦っている事実は変わらない」
「君は、君の中にいるなにかに操られているんだ!」
「これはワタシの意思だ! ワタシが決めたことだ! ワタシが、っ……!」
技を今にも放たんとしていたノックスが急に頭を抱えて呻く。
「ぁああああ! あああぁあああ! ああああああ!! うるさい、うるさい!! うるさい!! 頭の中で叫ぶな!!」
リゾラのおかげで結界内だけで留まっているが、黒い魔力が乱れて辺りへと意味もなく放出される。その黒い魔力に触れないようにアレウスは乱れの薄い箇所へ逃げ込む。
「ワタシは『呪い』! ワタシは獣人! ワタシは……! ノクターン・ファング!」
叫び散らし、黒い魔力が爆ぜる。
「ワタシから、ワタシを奪うな!!」
爆ぜた黒い魔力が収束し、彼女が身に纏う法衣となる。
「全ては有象無象。過ぎた話で、終わった話」
髪の毛に隠れていた獣の耳がピンッと張って、八重歯が鋭い牙へと変貌する。
「ワタシを声音で惑わせる者はいらない」
爪も太く鋭く、姿勢はどこか前傾に。満ち満ちた黒い魔力が露出している肌に線を引き、化粧のように模様を描く。
「ワタシの前から消えていなくなれ!!」
「その言葉が君の本心ではないことを祈るしかない」
一瞬でもノックスに心の乱れがあった。アレウスには全く分からないことを叫んでいた。ならば、まだこの戦いを望んでいないという線を消さずに済む。
ただ、ここから先は『不退の月輪』の隆盛と、付随する彼女の『本性化』が合わさった力を相手にしなければならない。
「殺したくないと思ったって、殺す気でいかなきゃ僕が死ぬ……」
ここから先は運が絡む。力は抜けない。だから本気を出さなければならない。本気と本気のぶつかり合い、意地と維持の張り合いの先に待つことの大半はどちらかの死である。
だからこそ、全力を出した先でノックスが死なないことを願うことしかできない。
「僕はこんなにも君を救いたいのに」
救いたいクセに全力で殺しに行く。言動が一致していない。
まだアレウスは至れていない。
どうしてノックスに死んでほしくないのか。どうして、救いたいと思ってしまうのか。
自分の中で抱く結末が見えないままに、アレウスは炎の熱を更に高めて突撃する。




