会いたいだけだった
これは憧憬である。いつかに夢見た目標である。世界が空の下にあるのなら、いつか必ず再会すると信じながら死んでいった女が、死んでも尚、抱き続けている再会の念である。
もはやいつに出会ったのかまでは憶えていない。死んだ身に宿る魂など所詮は紛い物。本物が固く記憶に刻み込んだことすらも思い出し切ることさえできやしない。
女は王になれない。女が王になるなど、あってはならない。獣人の世界では男児が王を目指せるというのに、女はその所有物になることしか選べない。ハーレムの先には干渉できる力関係があるのかもしれないが、群れに強い力を示すことはできない。
だとしても、王を目指すことが認められていないわけではない。女はキングス・ファングに問い掛け、「強ければ全てが覆る」と許可を貰った。
挑戦とは相互の許可があってこそ成立する。どちらかが一方的に挑戦だと押し付けても、向こう側がそれを認めていないのであればそれはただの一人相撲である。了承され、許可を得て、第三者の立会人もまたその場にいることでようやく『挑戦』というものは可能となる。だから女は真っ先に王に確認を取り、そして確約をしてもらった。女であっても、王に勝つことができれば群れの王に立つことはできる、と。
しかし、王はきっとそんなことはできないと思っていたのだろう。自身の力の前に、女が屈服する未来を見ていたからこそ約束とした。
現にその王はとかく強かった。体術で敵う者無し、搦め手で攻めようにもただ純粋な力の前には全てが無力と化す。これまで何人もが挑み、何人もが敗れていった。そんな王に女が勝てるところはどこにもなかった。
唯一、女が備えていたのはその妖しい魅力によって異性を翻弄する術である。しかし、そんな搦め手は王には通じない。王は既にハーレムを築いているのだから、挑戦者が与える魅了などに興味を抱くわけもない。逆にこの魅了の力は群れにおいて不和を呼び込むこともあり、女が群れに溶け込めない原因でもあった。
それでも女は力のために精進を尽くした。ありとあらゆることに挑み、ありとあらゆる戦いに身を投じた。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、そして冒険者。ガルダやハゥフルとは戦うことはできなかったものの、それら全ての戦いは死闘と呼ぶに相応しいものだった。特に冒険者との戦いは群れで猛威を振るっていた歴戦の猛者たちをも凌駕し、幾度も死の淵をさまよい歩いた。そうして生き残っても、それだけ努力して得た力でも、キングス・ファングには遠く及ばない。
もはや力だけではどうにもならない。体得したどれもが、王の首に届くには程遠い。
そうやって全てを諦めかけた。
女に手を差し伸べたのはエルフだった。過酷な環境での鍛錬を続けたはいいが、食糧難となり野垂れ死にそうになっていた女にエルフは食事を与えてくれただけでなく、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。おかげで野垂れ死に掛けた女は衰弱し切っていた体力と精神力を取り戻すに至った。
よもやエルフが獣人に魅了でもされたのか。最初は己自身が備えている力がそうさせているのではと思っていたのだが、ならばエルフは本能の赴くままに女を性の捌け口として襲っていたはずだ。そうしないということは、エルフに女の魅了は効いていないということだ。やはり魔の叡智に触れている者ほど、強い精神力を持つらしい。
とはいえ、獣人にとってエルフは憎き敵のようなもの。群れでは散々に言われ続けてきたことで、エルフもまた獣人のことを良くは思っていないことを学んでいた。だからなのかエルフは決して隙を見せはしなかったし、隙を見せるようなときには気配を消してどこかへと姿を消してしまった。その気配の消し方、痕跡の消し方は獣人の女であっても追い掛けるのは困難を極め、見つけ出せたとしてもエルフはもう既に隙が生じるような所用を済ませてしまっているあとだった。
女はエルフに殺気を放たないように注意を払った。自身が危険な獣人だと判断されれば、別れ際に殺されるかもしれない。そうなってしまっては、女は王に挑む前に命を失うことになる。王になることが目標であったが王に挑み、王の手によって殺されることも女にとってはある意味で一つの目標であった。
でなければ、王に挑むなどとは考えることもなかった。自身は破滅へと転がり落ちて行く岩である。挑戦と自身に言い聞かせて、慣習から逃げ出そうとしているだけに過ぎない。どうにか早く、止めてくれ。どうにか早く、死なせてくれ。そのように願い続けていたというのに、どういうわけか運良く助かってしまう。
だったら、やはり己自身から破滅に向かっていくしかない。
エルフに殺されるかもしれない。だからといって、体力が回復するまで鍛錬を怠っていた自分自身を許せるわけもなく、女はエルフに殺されることも覚悟の上で鍛錬の再開を決めた。
不思議なことにエルフは決して女を殺そうとはせず、またすぐにいなくなることもなかった。さすがに見張られながらの鍛錬には耐えられないものがあったため女はどうして立ち去らないのかと問い掛けた。
「エルフが獣人を憎み、獣人がエルフを憎む。この対立構造を根底から覆す方法が一つだけある。表面上は互いに嫌っていても、裏では互いを認め合い、争いを起こそうなどと思わないことだ」
女はエルフの屁理屈にも似た言葉をバカバカしいと一蹴したが、そのあとになって寝付けずに夜空を見上げていたとき、あながちその考え方も間違いではないのではないか。そのように思ってしまうようになった。
女はエルフに王を目指していると打ち明けた。鼻で笑われ、失笑もされるだろう。もしそのような対応を取ったのなら、女は改めてエルフとは相容れないのだと見切りをつけようとした。
エルフは笑わず、「王を目指すのなら尚更、無視はできない。弱いままでは困る、強くなってもらわなければ」
この日からエルフによる特訓が始まった。獣人の女は魔の叡智に僅かばかりしか触れることはできなかったが、次第と魔力を目で見る方法を掴んだ。それでも実践に応用できるような魔力量を確保することは難しく、補佐的な使い方しかできないとエルフに判断された。気配を消す技能についても熟知し、意識せずとも無意識に景色に溶け込まれようが発見できるところまで感覚を研ぎ澄ませるようになった。
エルフによる特訓の最終として、一つの技を授けられた。
自身の魔力を用いることで幻を形成し、その僅かな魔力が質量を持つことで幻であっても攻撃が相手を襲う。また、幻を置くことによって危険極まりない状況下からの脱出と立て直しを図ることもできる。幻影と実体による翻弄。その翻弄に加え、女は自身が体得していた独特の足運びにエルフが癖で行っていた足運びを織り交ぜることで、誰一人として真似することのできない――未だ真似する術がない自分自身だけの足運びへと昇華させた。
女は問う。この幻を置く技はなんと呼ぶのか、と。
エルフは答える。「空蝉の術」だと。
獣人とエルフの奇妙な関係は、その日が最後となった。女が気付いたときにはエルフの姿はなかった。女はその日も、次の日も、その次の日も日が暮れるまでエルフを探し続けたが、見つけることはできなかった。
悲しみで胸が張り裂けそうになり、二日ばかりを泣き喚きながら過ごした。
その後、唐突に腑に落ちたのだ。これが、恋だったのかと。なんとむごい感情なのだ、と。こんなものを抱くのが同胞ではなくエルフに向けてなど、決して、決して成就することのない恋に、未来永劫死ぬまで苦しみ続けなければならないのか、と。
或いは、それが一つの覚悟となったのかもしれない。王になるとは孤独に打ち勝つこと。王になれるのはただ一人。よって、どのような感情を抱いたところで孤独であり、どのような日々を重ねたところでその果てには孤独が待っている。
孤独を知るには丁度良かった。
この日々がなければ、女は王になったとしても孤独に耐え切れずに悲鳴を上げていただろう。
獣人の女は、それから数日後に王に挑み、王を討つ。自身に備わった魅了などという搦め手ではなく、エルフより教わった様々な搦め手によって、その手で王の座を掴み取ったのである。
エルフとの日々が決して無駄ではなかった。しかしながらあのエルフの居場所を女は知らない。そして、考えれば考えるほどに女はエルフの森に手を出せなくなっていった。なぜなら、自身が恋心を抱いているエルフが悲しむかもしれないと、無駄に思ってしまったからだ。
だが――
女王が死ぬその瞬間まで抱き続けた思い出も、遠い昔から続いている反響音でしかない。
しかし、どうしてその残響が今も尚、胸に残り続けるのか。
簡単な話だ。
自身のほんの僅かな魔力で織り成す妙技を、『空蝉』を知るエルフが敵として立っているからだ。
くだらない。
王になって以後、考えないようにしていたではないか。そんなことを物憂げに考えたところでどうにもならないと。
どれほどの挑戦者を爪で屠っただろうか。どれほどの争いを繰り返しただろうか。
あるとき、女は気付けば倒れ、空を眺めていた。ああこれが死なのか、と理解した。
壮絶な日々だった。壮絶で凄絶で、常に争いが絶えなかった。エルフの森への侵略計画を白紙にしたことが、逆に群れの反感を買ってしまったのやもしれない。
だが、数十年と君臨していたわけではない。そう、たった五年後のことである。
女王として君臨した年数は、前王の半分にも満たなかった。
くだらない。
なんとくだらない生き様であろうか。なんと無様なことであろうか。
反吐が出る。
友情も努力も協力も、誰かのための大義も、なにかのための全力も、なにもかも。
己にない物を、美徳のようにして語る者たちに、腹が立つ。
それどころか残響でしかなかった感情まで呼び起こされてしまった。それも、厄付きのエルフごときに。
であるならば、全てにケリをつけなければならない。一切合切を屠り、厄付きのエルフにトドメを刺す前に己自身が抱いている残響にもトドメを刺すのだ。
死んでも尚、こびり付いている恋心など、もはやいらない。いらないのだから、終止符を打たなければならない。
チュルヴォに注視していたクラリエだったが、一体どのようにして接近されたのか分からず、棒立ちのままに鹿の女王の爪撃を浴びる。鎖帷子を貫通することはなかったが、相応の打撃が肉体を駆け巡った。
手を抜かれた。弄ぶように鹿の女王はクラリエを撫でてきたのだ。そして、その撫でるような一撃は鎖帷子を着込んでいなければ間違いなくクラリエの上半身から血飛沫が上がるほどに強烈だった。本気の一撃を貰っていたなら、もう既にクラリエの命はなく、『教会の祝福』として固定したシンギングリンの地下墓地で目覚めていたに違いない。
追撃とばかりにティーガーがクラリエに差し迫るが、ガラハがギリギリのところで合間に入ってこれを制する。無造作に放たれる打撃の数々をガラハは全て読み取っているかのように捌き切り、むしろ反撃とばかりに切り出した斧刃が虎の王の上半身を切り裂く。しかし固い筋肉に守られている虎の王にとってそれは掠り傷に過ぎず、スティンガーの目晦ましが行われなければ次に繰り出された蹴撃でガラハは彼方まで打ち飛ばされていただろう。
「“盾よ、”」
「させん」
チュルヴォの幻影がヴェインの間際に迫り、詠唱を阻む。鉄棍を失ったヴェインは対抗する手段を持っておらず、回避に徹して逃げることに集中する。しかし、それでも幻影の足運びはチュルヴォのそれと同等で、どれだけ逃げようと試みてもそれを嘲笑うかのように逃げれば逃げるほどに逃げる方向へと先回りされる。
幻影を止めるならば本体を叩く以外にない。クラリエは魔法の短刀を作り出し、それらに『白衣』の魔力を灯してその全てを時間差も交えながらチュルヴォへ投擲する。
鹿の女王は咆哮を上げ、短刀に込められた白い魔力は黒い魔力の波濤によって消し飛ぶ。しかしヴェインが詠唱を短縮して行った『加速』の魔法によって一部の短刀が再加速し、チュルヴォの片腕に突き刺さる。それらを何事もなかったかのように引き抜いて、鹿の女王は黒い魔力を宿し直してクラリエへと投げ返す。
それを更にクラリエが『白衣』で塗り返し、軌道は反転して再びチュルヴォに向かう。
「子供の遊びではないぞ?」
ヴェインに集中していた幻影が消えてチュルヴォの真横に置かれ、幻影が短刀の全てを弾く。弾くたびに魔力の爆発が起きるのだが、その爆風に呑まれながらも悠々とチュルヴォは歩いてくる。
「そのまま相手にできるかい?」
ヴェインはガラハへと問い掛けるが、彼はティーガーとの戦闘に集中していて返事ができない。しかしその背中を見て、ヴェインは任せられると判断してチュルヴォの方へ向き直る。
「正直、なにをやっても俺たちじゃ凌ぎ切れないのが現実だ」
「分かってるよ。でも、ガラハがティーガーを仕留められたら」
「女王にも隙が生じるかもしれないけど」
幻影と合わせてチュルヴォが迫る。会話による勝利への糸口を探ることさえ許さない。そう言っているかのように、幻影がヴェインを、本体がクラリエを追い詰めていく。
ヴェインに攻勢の手段がないのが致命的である。詠唱を阻まれるのなら、詠唱そのものを餌として幻影を釣ることは難しいことではないが、そうしたところで叩ける武器がない。だからといってクラリエが魔法の短刀を彼に寄越しても、慣れない武器での立ち回りは逆に大きな隙を生み出す原因となる。これが短刀ではなく剣であったなら、僧侶の前に戦士として活動をしていたヴェインも上手く立ち回れるのだが、そんな都合良く武器が転がっているわけではない。
「いや……」
ふと思い、後ろを見る。チュルヴォの気配が後方に回ったことせいでもあるが、そのおかげで獣人とランページの戦いの最中を見ることができた。獣人は爪や牙を武器としている者もいるが、その限りではない。つまり、虎の王と鹿の女王を引き連れて獣人の前線まで下がれば、ヴェインは鉄棍の代わりになる武器を拾うことができる。
しかし、それでは本末転倒だ。多大な被害を獣人たちに出させないためにクラリエたちは突出している。別にしたくてしているわけではないが、以前の王たちがランページの群れから突出して攻撃を仕掛けてきたのだから、それに対応せざるを得なかった。現在、獣人たちはパルティータを主軸とし、更にその指示を第一として動いている。そのおかげでランページとの戦いも均衡を保てている。
そこにクラリエたちが混じれば、恐らくだが均衡は悪い方に崩れる。
そもそも、チュルヴォを引き連れたくはない。気付け薬で魅了を解除することはできたが、彼女の魅了は何度でも掛けられる種類の魅了である。つまり、目を覚ました獣人たちは再び鹿の女王によって同士討ちを始めてしまう。
だからなのだろう。ヴェインは視線でクラリエやガラハに合図は送ってくるが、声を出して下がれという指示はしてこない。
「我を持て余しているな?」
『本性化』を果たして尚、チュルヴォは人語を介する。
「我を男の前に立たせれば、分かるだろう?」
クラリエは自身の幻影を置いて、寸前のところで鹿の女王の血の爪刃を避ける。雨水で妨害されても、その刃は質量として強く残り、放たれた刃はどこまでもどこまでも飛んでいき、少しずつ勢いを失って消える。
ただ、なにもできないわけではない。チュルヴォは油断しているのか、本体でヴェインを殺しには来ない。あくまで幻影で彼を制している。どういうわけかクラリエという武器を持っている側からまず仕留めようという強い意思がある。
「“癒やしよ、”」
「させんと言った!」
ティーガーと戦っていたガラハが乱打を凌ぎつつも、少しずつ負傷しているのを見てヴェインは回復魔法を掛けようとするが、幻影と本体の両方が反応して阻みに行く。それを見てクラリエはチュルヴォの背後から一気に『白衣』を伸ばして叩き込む。
本体と思っていたはずのチュルヴォが掻き消える。ならばヴェインに付かず離れずの距離を取っていたのが本体か。そう思った見てみたが、彼の眼前でチュルヴォが消える。
どちらも幻影。本体はどこにもいない。
「気配を消せるのは、お主だけに限らんぞ?」
寒気が走る。瞬間、幻影を置いてクラリエはその場からの脱出を図ろうとする。
「遅い」
しかし幻影に惑わされることなく、チュルヴォは気配を消したクラリエに爪の軌道を的確にズラす。
「“疾走させよ”」
幻影に付き纏われていないヴェインが詠唱し、逃げるクラリエを風の力で加速させ後押しする。それでも鹿の女王は軌道修正を行って、クラリエの左足をその爪で捉えた。
声にならない声。クラリエは痛みを全身で伝えるように地面で激しくのたうち回る。『白衣』を最大限の防御に当てたというのに、チュルヴォの爪は彼女の左足のふくらはぎを大きく抉った。
「足りん」
チュルヴォはクラリエが垂れ流す血を自身の手元に引き寄せながら歩いてくる。
「足りんよ、厄付きのエルフ。お主は我の知るエルフに、全く足りん」
ヴェインの回復魔法は勿論、チュルヴォの幻影が阻んでいる。
「だから、お主は我には勝てん」
爪を振りかざしたチュルヴォに、ティーガーが吹っ飛んでくる。その巨体を受け止めるわけにもいかず、鹿の女王が飛び退いた。虎の王は倒れて動けなくなったクラリエの間際に落ちて、激しく地面に体を打ち付けながら転がっていく。
「なんだ……?」
「オレを、ただ一人で止められると思うな」
満身創痍。それでもティーガーをスティンガーと共に跳ね除けたガラハはチュルヴォを睨む。
「……あり得ん。ティーガーにお主は敵ってはいなかった。この短時間で成長したようにも見えん。なのになぜ……?」
疑念を抱くチュルヴォにガラハが突撃する。独特の足運びを行い、更に幻影を置き直して鹿の女王は翻弄しようとするが、ガラハは決して惑わされることなく幻影ではなく確実に本体へと斧を振るう。
「一体どうして……」
呟きながらもチュルヴォは視界に妖精を捉える。続いて自身の足元に、まるでガラハを導くように光を放つ鱗粉が振り撒かれていることに気付く。
「っ! またもや、この妖精か!!」
視線はガラハの背後に行き、そのまま上に向く。チュルヴォが今まで見たことのない景色――『大灯台』がそこにはあった。
「幻覚、か……?!」
分からないままにチュルヴォは踊るように下がっていくが、ガラハは足元にある光を順番通りに踏み抜いて、最短距離で詰め切ってくる。爪を振って光を乱す。雨水を用いて光を掻き消す。足で払い飛ばす。ありとあらゆる方法を取ってみるが、それでも下がるチュルヴォに突き放されなることはない。なぜなら、ガラハとスティンガーにとって、その全ての動作が予め決められたものであるから。その動作も踏まえた上でガラハはスティンガーが撒いた鱗粉の光を順番を間違えることなく踏み抜いている。
行き先を見失いかけたガラハにとっての帰るべき場所を指し示す道標。妖精が彼のためを思って、彼と共に起こすアーティファクト。それは戦闘において、勝利へと導く光となる。だから、ガラハはティーガーを跳ね除けることができた。だからチュルヴォの幻影に惑わされず、本体を追いかけ、追い詰めることができている。
「“癒やしよ、一方より集まりたまえ”」
クラリエにヴェインの回復魔法が掛けられる。抉られたふくらはぎの骨、神経、肉、筋肉、血管、皮膚。ありとあらゆるものが縫合されて、彼女の足は治されていく。
起き上がるクラリエに対し、逆にヴェインが膝を折った。
「魔力が、もう限界だ」
詠唱を阻まれても、魔力は唱えた分だけ消耗する。加えてクラリエへ掛ける魔法はどれも魔力量を多めに割り当てなければならない。もう彼には唱えられるだけの魔力が残っていない。
『白衣』もまた、限界を迎え始めている。燃焼量は制御できているが、維持ができない。未だ『焦熱状態』へと至れないために、燃焼の勢いは一定の段階で弱まっていく。これは『緑衣』でも同様に見られるものだ。
即ち、ガラハが倒れれば終わる。その前にせめて一矢報いたい。クラリエは疲労感と、回復したとて未だ機能としての回復が終わっていない足を震えさせながら立ち上がり、荒れていた呼吸を必死に整える。
どちらかに一つ。チュルヴォを抑えればティーガーに殺され、ティーガーを抑えればチュルヴォに殺される。同じ死の未来であっても、どちらを選ぶか。
そんなものは決まっている。
纏っていた『白衣』を全て自身の短刀へと集める。
ティーガーが起き上がった。もうすぐ、クラリエの命を刈り取りに来る。分かっている。分かっているが、クラリエはそちらを向きはしない。
ガラハが追い立てるチュルヴォが幻影を置いて、逃げに徹する。今まではガラハへ反撃をするための足運びだったが、完全に逃げ切ることへと切り替えた。とにかく付き纏ってくるガラハと距離さえ取れれば、自身の優位な状態を作り出し、返り討ちにすることができる。鹿の女王からはその確かな自信が見えた。
が、チュルヴォとティーガーはなにかを察知したかのように視線が同じ方角――カーネリアンとシュランゲが戦っている方角へと向いた。
思考が加速する。どうすれば、この一瞬を完全な隙へと変えることができるのか。クラリエは限りを尽くし、答えに至る。
「デストラ」
チュルヴォがクラリエの言葉を耳にし目を見開き、ゆっくりと視線はこちらに向く。その“ゆっくり”とした動きこそが、待ち望んだ“隙”である。
ガラハの斧が振るわれる。『白衣』を込めた最大限の短刀も投擲される。チュルヴォはそのどちらにも対応できない。
真横を突風が駆け抜けたのかとクラリエが思うほどの速度でティーガーが疾駆し、チュルヴォの身代わりとなってガラハの斧を、そしてクラリエの短刀を受ける。巻き起こるのは妖精の鱗粉による爆発と、『白衣』を込めた短刀による魔力の爆発。そのどちらもがこれまでの比ではないほどに強く炸裂した。
傍にいたクラリエを殺すのではなく、チュルヴォを守るためにティーガーは動いたのだ。
「あ……あぁ」
黒煙を雨が打ち、払う。爆発の中心でティーガーは倒れ、チュルヴォは立ち尽くしている。
「なぜに、我を……?」
どうやらチュルヴォが命じてティーガーに守らせたわけではないらしい。
ティーガーの『本性化』が解けていく。
「次の王の身代わりになるのは当然のこと」
「……我は、お主に誇れるほどの王ではない。お主よりも、長く王の座にも就けず……死んだ」
「だが、貴様は我が認めた次の王だ。我を負かした次なるキングス・ファングだ。確かに長く居座ることも大事だ。しかし、期間ではない。なにを成したか、だ」
首にヒビが入り、ティーガーの体が陶器のように割れ、崩れていく。
「我は、なにも成してはおらんよ」
「それはないな。もしもそうなら、こうして獣人が未だ生き残ってはいまい」
もはやティーガーが死に直すのは確定している。しかし、同時にチュルヴォがほぼ無傷で生き残ってしまった。全てを出し切った三人では、チュルヴォを止めることはできないだろう。
「……厄付きのエルフ」
「な、に……?」
「デストラ……を、知っているのか?」
「デストラ・ナーツェは私の叔父さん。『空蝉の術』を使えるエルフは叔父さんだけ」
エルフは暗殺者や間諜には向いていない。魔力の扱いが上手くとも、『空蝉の術』とは本質的に合わない。そして『空蝉の術』は高位に属するもので、誰でも会得できるものではない。
だから、その名をチュルヴォに投げかけるのは賭けであったが、勝ちの目があると信じてクラリエは発したのだ。
「ナーツェ……そうか、ナーツェ、か。デストラ・ナーツェ…………今も、生きているのか?」
「……もう死んだ」
「どのような、最期だった?」
「エルフの未来のために、全てを尽くして死んだ。姪の私が誇りに思うほどの素晴らしい生き様だった。誉れ高きエルフの、悲しき非業の死では、あったけれど」
「ふ……ふふっ、そうか。誉れ高き、生き様だった、か」
チュルヴォは爪を構える。間近にいたガラハが身構えた。
その爪でチュルヴォは自身の下腹部を貫いた。鹿の女王の体にヒビが入り、ティーガーと同じようにその身が砕け始める。
「ならば、我がこのような死に恥を晒しては、ならんな」
それに、と続ける。
「あの蛇の王の生気が弾けた。どうやらガルダが勝ったようだな。ここからでは、なにも見えはせんが」
「……あなたは、『不退の月輪』によって甦った。なら、私たちを殺してから死んでもいいはず」
「王にはできんよ、そんなことは。ああしかし、変に甦ったせいで晩節を汚してしまった。これから死に直すが……我は、会えるだろうか」
「全ての魂は輪廻に還る。次に生まれ落ちるそのときが来るまで、探し続ければきっと叔父さんはきっとあなたの傍に現れるはず。自ら関わった人を無視し続けるような、そんな性格じゃない……から」
意識が混濁する。ヴェインはまだ倒れていないが、ガラハは身構えこそしたが、そのまま気絶してしまったらしい。
「……短刀を打ち直すでもなんでもよい。我の遺骨を媒介とせよ。すれば、『空蝉の術』を手助けくらいは、してやろう」
ティーガーが崩れ去り、チュルヴォも砂のように崩れる。
「……会いたいよ、我は。あぁ……あぁ……ただ、会いたい。会って、抱き締めてほしい。そうだ、そう、だ……それだけだった。我が……死ぬ間際に、最期まで、思った、こと、は……それ、だけ」
黒い魔力が消し飛んで、ティーガーとチュルヴォを成していた物は全てが砂へと変わり、雨水に濡れて地面に溶けていく。クラリエは必死に歩いて、残された遺骨――チュルヴォの骨と爪を一つ、手に取る。
「叔父さんも罪な人……でも、あなたたちの力は私の武器の中で、一つになるから」
クラリエの意識はそこで飛んだ。
【魅了】
状態異常の一種であるが、少なくとも四通りある。
一つ目は人が備えている美貌による魅了。綺麗な女性、見目麗しい女性、容姿の整った男性などの立ち居振る舞いによって異性が惑う。しかしここには魔力的、或いは状態異常と呼ぶべき症状はなく、一般的な“魅力に惹き付けられた状態”を指す。
二つ目はカリスマ性を持つ者が人を惹き付ける魅了。容姿に囚われず、人としての器量に惚れ、その人の傍にいたいという気持ち。一般的な“一緒に仕事をすることを有意義に感じる状態”を指す。
三つ目は同性異性を問わず、対象を惑わす魅了。これには魔力的な働きかけが存在し、上記の二つとは異なって、“一緒にいることを好意的に思う状態”になる。よって、魅了した者へ罵りや攻撃的な行動を取れば、それを不快に感じ、魅了した者を守ろうとする意思が強く働く。神官や僧侶による状態異常解除の魔法によって目を覚ませるが、単純に外部からの強い物理的な攻撃によっても目覚めることがある。ただし精神の奥深くまで浸透している魅了を解くのは年単位を要する。
四つ目は異性を本能的に惹き付ける魅了。魅了された者は本能として存在する性欲に抗えず、その者と種を残したいと強く思う状態となる。このとき、魅了された対象が複数である場合、魅了した者を獲得するための争いが起こる。
チュルヴォの魅了は四つ目に該当し、複数の獣人が魅了状態となったために、チュルヴォにたった一人の存在として選ばれたいという思いが、魅了された獣人間における不和を引き起こし、仲間同士での殺し合いにまで発展した。優秀な雌に対し、優秀な雄であることを見せるため、他の雄が自身よりも格下であることを示すための争いであるため、チュルヴォがなにも言わずとも勝手に自滅していく。基本的に外部からの攻撃で目を覚ましやすいが、何度も魅了されやすい。
特にこの魅了は獣人やヒューマンには致命的に強く、ドワーフにも悪影響を与える。僧侶や、既に心に決めた異性を持つ者でなければ跳ね除けるのは難しい。しかし、同性への効果は薄い。
――女一人の奪い合いで国の一つ二つが滅ぶ。妖艶とは、本人の意思とは裏腹に罪深さを孕む。




