怨念
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――揺れる、揺れる。秤が、揺れる。
火傷と凍傷を負いつつ、地面に受け身も取れないまま激突したアレウスだったが、薄れゆく意識はリブラの言葉によって取り戻される。
――零れ落ちる……ああ、零れ落ちていく。均衡ではない、均等ではない、平等ではない、中立でも、平均でも、平衡でもない。釣り合わない、釣り合わない。
さながら独り言のように呟き続けるリブラの秤から白い輝きが取り除かれていく。
――命が、溢れている。不平等が、不平が、死が、不幸が、足りない。生と死を平等にしなければ。
白い輝きが秤から消えていくと共に、周囲のゴブリンが煙のように掻き消え、ゴーレムの核は弾け飛んで体を構成していた物質は瓦礫と化して崩れていく。
――どれだけ命を取り除いても、死が、不幸が、未だに軽い。命が、重すぎる。
リブラを構成する魔力が崩壊を始める。
――均衡が、崩れていく。我が力が、平等に、世界を支配しなければならないというのに。
「黒が『負』で白が『正』だったのか……」
『負』の秤を壊したことで『正』の秤が重い状態になっている。これを平衡にするためには『正』を取り除かなければならない。死ではなく命。命の価値が重すぎ、死の価値が軽い。命の価値に重みを与えるか、或いは命の量を減らす。よってリブラは自らが異界から呼び寄せた魔物たちをシンギングリンから消し去っているのだ。
「リブラ自身は法則の外でも、魔物は法則の中だ」
だからリブラは魔物を消している。それどころか己自身が宿している魔力量すらも減らし始めている。傍観者であっても己が法則が絶対である証明のためだけに、自らの命すら削る。
異界獣特有の価値観だろうか。それともリブラが持つ独特の価値観か。なんにせよ、魔物たちの戦力が削れている。そしてアレウスとガラハの攻撃に対するリブラの平等の反撃も起こっていない。
「“癒やして”」
アベリアの回復魔法がアレウスに掛けられ、火傷と凍傷だけではなく全身の痛みが薄れていく。しかし、立ち上がろうとした際に起こる強烈な疲労感には抗えず、足に力を込められない。
「ちょっと……もう、駄目だな」
ガラハが来て奮起こそできたが、体力的にはあの時点で限界だった。そこから無理やり体を動かして秤を壊しにかかったのだから、起き上がれなくて当然だ。そこに回復魔法による疲労感まで加われば、もはやアレウスにはどうすることもできない。
――目覚めよ、最後の猟犬。
金属音を立てながらリブラが崩壊し、亀裂が入って穴が空く。しかしその穴から目視できないほどの速度で飛び出した禍々しい気配を抱えた光の玉が、倒れていたビスターの肉体に沈み込んだ。
操り人形のように手足をぎこちなく動かしながらビスターが起き上がり、非常に奇怪な姿勢を取ったまま金属の刃を握る。
「ガラハ!!」
アレウスの叫びに呼応して爆炎の中からガラハが飛び出し、ビスターの奇妙な姿勢からの剣戟を三日月斧で防ぐ。
「シンギングリンのギルドの長が首魁だったとはな……!」
「首魁はリブラでしてよ」
「だが、シンギングリンを異界に堕とす判断を取ったのはギルドの長なのだろう? ゲートを通ってすぐに担当者たちに手っ取り早く説明してくれと言ったら、そう答えたぞ」
クルタニカの主張をガラハは一言で黙らせる。
一年前のエルフの暴動の際、不死人がビスターの首を取った。その瞬間を恐らくだがシエラに限らず多くの担当者が目撃していたのだ。そしてそのときにギルド長が“自ら死にに行くこと”を選択したことも察した。だから担当者はガラハに隠さず事実を語った。自身が異界に堕とされ、いつ死ぬとも分からない中で生き続けていた苦しみを晴らすように。
まさに復讐だ。自身がどれほどその人物に恩恵を受けて生かされていたとしても、たった一つの信頼喪失の出来事が、秘匿すべき事実すらも恨みの形となって現れる。軽率な行動が、短絡的な判断が、自己中心的な想定が、多くの人の心を遠ざからせる。
復讐を誓う者として、アレウスはその心情を理解する。だが同時に、自身の言動を今一度、省みなければならない。
ビスターとガラハが打ち合って、互いに間合いを測る。だが、三日月斧と接触すれば妖精の粉が爆発する。それはガラハにとっての推進力であり、振り抜く力を後押しする。爆発も頑強なドワーフであれば軽傷に留まりそうだが、ヒューマンであれば致命的な重傷になり得る。しかし、爆発の威力を調整しているのはあくまでもスティンガーだ。爆発の威力がリブラの鎖を断ち切ったときよりも弱いのは、手心が加えられているから。スティンガーはガラハよりも決断ができていない。一応ながらに世話になったヒューマンを自身の鱗粉で吹き飛ばしていいものかと悩んでいるのだ。
だが、二人の戦いは唐突に結末を迎える。
ビスターの金属の刃はガラハにではなく自身の胸に突き立てられた。さながら操られることに反発しているかのように、不自然なほどに一瞬の出来事で、貫いたビスター自身も噴き出す血を眺めて、動けないでいる。
――最後の最後で、抗うか。
「…………私は、負けたのだ。もうそれを、覆したところで……事実は、変わらない」
ビスターは血を吐きながら言う。
「私だけが、恩恵を授かり、何度も甦る……など、それは、平等では……ない」
――人間としての良心ではなく、我が植え付けた『平等』が歯向かうか……。
その場に倒れ、血溜まりができていく。
――やはり、この世界に『平等』を根付かせることは不可能か。
リブラという天秤を形作っていた魔力が急速に消失し、その金属の肉体はガラガラと音を立てて崩れ、倒れる。
――観測は終わりとしよう、人間たち。我の負けだ……いいや、根負けしただけか。我の住んでいない世界はこんなにも“醜い”のだと、思い知らされた。
ビスターの手から落ちた金属の刃が形を変えて、丁寧な意匠が整えられた穢れのない『剣』となり、柄には天秤が彫られている。
――今は一度、この世界から我が命を落とすとしよう。
辺り一帯を包み込んでいた重苦しい支配の力が解けていく。
「これが……私の罪滅ぼし……」
『良い話のように死んで、己自身は輪廻に還ろうと申すか?』
血溜まりに倒れ伏し、動けないビスターの背後に異界の“穴”が生じる。
『身勝手に人の命を巻き込み、異界から世界を統一しようなどと野心を立て、それが頓挫したから潔く死を選び、輪廻で罪を洗い流して再び生まれ落ちると申すか?』
凄まじい数の屍の腕がビスターの肉体を捉える。ようやく起き上がったアレウスですら、見上げた顔を思わず伏せる。
「一体どうした?」
ガラハには全く感じ取れていないようで、アレウスの様子を見るために駆け寄ってくる。
あり得ないほどの禍根、そして怨念。それらが渦を巻き、連鎖して、たった一人――ビスター・カデンツァの全身を掴み上げ、異界へと引きずり込もうとする。
「待て、私は!!」
『そうやってお主は人々のために待ったか? 待っておらぬじゃろう?』
屍の腕を束ねている亡者の怨念が人の姿を形作る。
「副神官、様?」
アベリアの呟きを聞きはするが、やはりアレウスは顔を上げられない。これほどの怨嗟を体感したのは生まれて初めてだ。霊的なものをこれまで見ることさえ叶わなかったのだが、エルフの森で『勇者の血』を分け与えられてからその感覚に目覚めた。だから普段から魔の叡智に触れて、こういった気配に慣れ親しんでいるアベリアやクルタニカに比べて、耐性がない。
『これは罰などではない。お主を輪廻に逃がしてなるものかと、ただただ心を醜く闇に染め上げた者たちによる、当然の復讐じゃ』
「幼い頃の私を救ってくれたのは、あなただ」
『じゃからワシが共に地の底へ堕ちると言っておる。幼き頃のお主に、道を示してしまった者の最期の務めじゃ。お主の最期の道もワシが導く』
人間の悲鳴とは思えない、心からの叫びが木霊する。ビスターは大量の屍の腕に包まれて、異界へと堕ちていった。
『魂に価値があるとするならば、これで怨念も鎮まるじゃろう。本当に、魂に価値があるのであれば、じゃがな……』
副神官を形作っていた怨念が綻び、ズズズズッと地を這うような音を立てて屍の腕と共に“穴”へと消え去った。
「異界は地獄……なんて言っていたこともあったけど、本当に地獄なんじゃないかと、思わされた」
体の震えが未だ取れないまま、アレウスは恐怖を声にして発する。
「後味の悪い話でしてよ……」
「でも、全ての始まりはギルド長の狂気からだから……当然の帰結、なんじゃ?」
「あの方たちにとっては当然の帰結でも、部外者のように扱われたわたくしたちにとっては、味気なく、苦々しく、鬱憤を晴らす先すらも失って、どうしたものかとただただ思うことしかできませんわ。だから、わたくしたちにとっては後味が悪いんでしてよ」
「……それは、そうだけど」
「苦々しい後味だとしても、飲み下せばいい。苦味なんて喉を通れば忘れる。僕たちは苦味に目を閉じず、取り戻したものに目を向けなきゃならない。取り戻せなかったものも含めて」
震えが止まり、アレウスは蒼褪めたまま語り、起き上がった。




