声の正体
///
「異界が……泣いている?」
シンギングリンが異界から消え、なにもかもが朽ちた異界の中でアニマートは異変を感じ取っていた。
「異界の主が追い詰められているってことなのかもしれませんね」
であれば、この異界もその内、閉じることになるだろう。或いは捨てられた異界のように縮小化を受ける。どちらにしても、アニマートはこの異界から出るつもりはない。異界が消え去るのであれば、自身も同じように消え去る。そのように結末を決めた。こればかりは揺らがない。
だからこそ、異界側からなにか力になれることはないだろうかと思い、シンギングリンがあった場所に置換される形で現れた廃墟の数々を捜索している。魂の虜囚のほとんどはシンギングリンが異界から消滅したと同時に、ここから消えた。恐らくは階層深くに場所を移されたのだろう。しかし、魂の虜囚とならず、生きていたまま異界に閉じ込められていた者たちはきっと、シンギングリンと共に世界へと脱出したに違いない。
こんなところを歩いていたところで、なにかを発見できるとは思わないが、しかし、死ぬ間際にぐらい興味本位であちこちを見て回りたい。どうせ死ぬと決めているのだ。好きなことをしておきたい。
「……ルーファス君にもう一度だけ、会いたかったなぁ……」
もう会えないことは分かっている。しかし、どうして会えなくなったのかまでは分からない。そこはロジックを書き換えられており、全く思い出せないのだ。
そう、会えないことは分かっていてもルーファスやデルハルトが死んだかどうかすら分からない。分からないのに、もう二度と会えないことだけが分かる。ロジックの書き換えによって起こった捻じれた理解が脳内で処理されていることがひどく気持ちが悪い。しかし、この気持ち悪さをどうにかする方法はない。あるとすれば、ロジックの抵抗力によって書き換える力が弱まっていき、自然と記憶が元通りになったとき。だが、その時間がアニマートに残されていない。
「……希望の芽は、潰えていない。まだ、世界には未来がある。私たちの世代では果たせなかったけど、次の世代ではきっと……」
生まれつき、特異な体質だった。自然と神官を志すようになり、神もまたアニマートを愛してくれた。だからといって、当時は冒険者になろうとは思っていなかった。教会の中で神の言葉を代わりに説いて、懺悔を聞き、訓戒を与え、戒律をもって節制を続ける。施しを与え、奉仕の心を持って人生を全うする。それがアニマートの使命であると信じて疑わなかった。幼い頃からの教会暮らしがそうさせたのか、それとも物心が付いたときに謎の使命感に駆られたのか。結局のところ、自分がどうしてそこまで『神官』に拘ったのかまでは分からない。
ただ、人のために尽くす者であれたならそれでいい。それだけで良かった。ルーファスに出会うまでは――
「色々なことがあったなぁ……怖い思いもしたし、死んだりもしたし……ヴェラルドやナルシェと、朝まで語り合うことだって……あったけど…………案外、泣けないものみたい」
大変なこともあった。馬鹿なこともしでかした。時に笑い、時に泣き、時に叫び、時に苦汁を舐めた。冒険とは楽しいことばかりがあるわけではなかったが、教会で暮らすだけでは得られなかった経験を沢山することができた。
ずっと、ルーファスに聞けないことがあった。彼はどうして自身を冒険者にならないかと誘ってくれたのか。『聖女』であり、『魔眼』を持っていたからなのか。『神官』として優秀だったからなのか。この一度で六度の魔法が発生する能力の高さを見込んでなのか。
「私を、私として必要としてくれていたのなら……とっても、嬉しいけれど……ルーファス君のことだから、絶対にないか」
もっとやりたいこともあった。もっと見てみたいこともあった。
けれど、傍にルーファスがいないのであれば、それらはもうどうでも良くなってしまっている。謎に高かった使命感も薄れつつあって、どういうわけか胸の中は人生の終わりをとても満足している。
それでも、不満がないと言えば嘘になる。ルーファスの傍で終えられなかった。それがとてもとても、不満ではある。だがその不満はどうやったって解消できない。だから、妥協しなければならない。人生の終わりに学ぶことが妥協とは、随分な皮肉ではあるが、それもまた生き様なのであれば仕方がない。
「あなたはまだ生きています。異界から脱出するべきだったのでは?」
「シエラ……私はもう、良いんです」
「そういうものですか……もう死んでしまって、外に出ることさえ叶わない私には、生に執着しないあなたの生き方を少しばかり……ズルいと思ってしまいます」
「致し方ありません。外に出たところで、私はどこまで戦えるか分からない。だったら『聖痕』をこのまま異界で消し去ることで、次の『聖女』を生み出さないようにすることが使命だと思ってしまいましたから」
「なるほど……そうですか」
「ですが、シエラが魂を外に還したいと言うのなら、手伝いますよ?」
「いえ、構いません」
「どうして? 魂を輪廻に還さなければ、再び命を授かることもないのですよ?」
「そんなもの、私は信じていないので」
アニマートは違和感を覚え、シエラから距離を置く。
「……シエラ? 私たちはいつ出会いましたか?」
「そんなことを聞いて、なにか意味がありますか?」
「ありますよ。私たちの絆を確かめる。大切なことではありませんか?」
「これから死ぬのに?」
その一言はまるで“自分は死んでいない”ような口振りで、自身の中にあった違和感が確実なものになるのにそう時間は掛からなかった。
ただし、動き出す前よりもシエラの方が早く動き、アニマートは片腕で首を掴まれ、持ち上げられてしまう。
「な、に……を! あなた……は、一体……」
「いらないんなら、私にちょうだい?」
「だ、れ……?」
「死んでしまっている担当者のフリをすることも、ヘイロンのフリをすることも、それはそれで楽しくはあったんだけどね」
シエラはほくそ笑み、アニマートをジッと見つめる。
「ヘイロンの、フリ?」
「ロジックに寄生しているフリ。実際は『念話』。案外、騙されてくれて助かった」
片手で投げ飛ばされ、アニマートは地面を転がる。
「装うためには、その人になり切るだけの情報が必要なはず」
「ヘイロンのことならなんでも知ってる。何年、ヘイロンと一緒に娼婦をやっていたと思っているのよ。まぁ、そのヘイロンも誰かのロジックに寄生していたヘイロンの一人に過ぎないんだろうけど……でも、それだけで私には十分。あとは、担当者に扮してギルドに忍び込み、書類を読めば大体は把握できる」
『蜜眼』を発動させ、迫るシエラのフリをしている女性から魔力を吸い取ろうと試みる。
「無理だよ」
しかし、どれだけ魔力を吸っても目の前の女性は全く弱る兆しが見えない。むしろアニマートの魔力の器が吸い取った魔力量に耐え切れず悲鳴を上げ、視線を外してしまう。
「私は中に大量の魔物を飼っている。どんなに吸ったって、その魔物たちが犠牲になるだけで、私の魔力には届かない」
「あ……ぁ、あ……」
絶望にも近しい感情に記憶をくすぐられる。思い出したくない記憶が、甦りそうになる。
「来ないでください! 一体いつからシエラのフリを?!」
「半年くらい前から異界に入って、それからずっと。って言うか、それぐらいの期間がないとさすがに担当者になり切ることはできなかったし。その半年があったおかげで、あの用心深い冒険者も騙すことができた」
ただ、と女性は付け足す。
「盗み聞きがしたかったから『念話』を続けていたら切るタイミングを逃して、そのまま『即死』の魔法を受けてしまって、彼に巻き込まれて精神が一時的に輪廻に飛ばされたのは、想定外だった」
「異界と世界で、『念話』を維持……」
できないことはない。『捨てられた異界』を用いたテストでは『念話』での連絡を密にしていた。その責任者がルーファスであった上に、その本人から直接聞いたことだ。
しかし、単純に、簡単に繋げられるわけではない。幾つかの問題を処理し切ることでようやく繋げられるものだ。それを容易く、たった一人でやり遂げたとでもいうのだろうか。
「なんのために半年前から、異界なんかに!」
「そりゃ『魔眼』が欲しいから」
「……狙いは、私……だと?」
「『聖女』については一年前くらいから調べ始めたんだけど、どの情報や資料を探っても、どいつもこいつも現役でヤバい奴らばっかり。でも、『蜜眼』だけはある時期から完全に情報がなかった。でもね、その持ち主がアニマート・ハルモニアであることは知っていた。そんな簡単に消息を絶つような冒険者じゃないし、情報が途中で途切れているんなら、そこにはなにか意味があると考えた」
吸い取った魔力がアニマートの体内で暴れている。これほどまでに自身の魔力と混ざろうとしない魔力は初めてだ。
「冒険者として死んで甦り、『衰弱』状態か。もしくは、異界に呑まれたか。まさかその両方だとは思わなかったけど……あ~ぁ、おかげで物凄く面倒臭かった。異界の中で異質な存在として認識されないように試行錯誤しなきゃならないし、肝心のあなたがどこにいるのかが異界という場所ってだけで全く掴めそうになかったし……最悪な夢まで見させられたし。だからさぁ、足掻かないでさっさと私にちょうだい?」
「あなたは……自分のしようとしていることを! 自分のしたことを! 分かっているのですか?!」
「分かっていなきゃこんなところまで来ないでしょ。いいよ、そういう綺麗事は。綺麗な人生を歩んで、綺麗な思い出があって、綺麗な生き方をしてきた人の言葉で思い直せるんなら誰だって思い直せるしやり直せる。でも出来てないから、そんなの全部、綺麗事を通り越して世迷言なんだよ」
「迷っているのなら、あなたは教会に入るべきです。こんなことをしてもなんにもならない。それに、異界獣を倒すために外で皆さんが頑張っているというのに」
「異界獣については私も邪魔臭いから倒してもらいたいよ。だから冒険者に力を貸してあげていたし、余計な情報も色々と教えてあげた。それで多分だけど十分だと思っている。だったら私は私の目的を果たす」
女性は恐怖で動けないアニマートに手を伸ばす。
「さようなら、アニマート・ハルモニア。あなたのことは……知ってはいたけど、事情はちっとも知らないけど……まぁ、その“眼”は上手く使ってあげるよ」
『魔の女』。恐らく、女性を表す言葉はそれしかない。アニマートは死期を悟ったその瞬間に、そう思った。




