決意は揺るぎない
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いつまでも倒れているわけにはいかない。うつ伏せのままでの瞑想により魔力をどうにか回復させたジュリアンは起き上がる。
「……静かだな」
不思議なことに、魔力切れで動けないジュリアンに対して物質と同化した冒険者たちが襲いかかってくることはなく、貴族領はジェーンとの戦いで公園が破壊され尽くされてはいるが驚くほどに静かだった。しかし、戦いで消耗し切ったジュリアンがいつものように歩いたり走ったりすることはできず、よろよろとした足取りのままエイラの邸宅へ向かうことしかできない。
楽観的にはならない。どうせどこかに隠れている。そしてジュリアンが少しでも希望を抱いた瞬間、絶望に叩き落とされる。その瞬間をジッと待っているに違いない。
期待なんてしない方がいい。するだけ無駄だ。いつだって楽観的な妄想は現実から掛け離れるのだから。
「驚いた……もう立ち上がれず、私が運ぶしかないと思っていたのに」
角を曲がったところで人の気配を感じて身構えるが、そこには女性を連れたアニマートの姿があった。
「エイラという子の母親です」
上級冒険者はこうもあっさりと、目的を達成してしまうのか。ジュリアンは力量の差がありすぎることに天を仰ぎそうになった。
「どうしたのですか? あなたに言われた通り、私は人間の善性のままに助け出したのですが」
「……父親は?」
「救い切れませんでした」
簡単に言い切られてしまう。アレウスとエイラから話を聞いて分かっていたことだ。なのに、どういうわけか気落ちしてしまっている自分がいる。
「私の夫は、もう夫とはとても呼べないほどに……怖ろしい姿に……ああ、でも……! あんな姿になっても、私のことを、ずっと呼び続けて……守ろうと……」
エイラの母親は悲しみに打ちひしがれている。長年、連れ添った相手の変わり果てた姿を見れば、この動揺は仕方がない。
ジュリアンだって、慕っていた女性の無残な姿を見たときには一ヶ月間、死ぬことしか考えられなかった。
「奥様、悲しみから乗り越えると私は信じ、連れ出しました。悲観し、人生を捨て、自ら命を絶たないように」
「……ええ、分かっています」
「あなたの手で、掴み、抱き寄せ、温めてあげなければならない子がいらっしゃると聞いています。あなたはまだ、ここで人生を終えてはいけません。まだ、やり遂げていないのですから」
「私に、できるでしょうか……全て、夫に任せて、人前にほとんど姿を見せないで……本読みに、耽っていただけのこの私に」
「子は親を選べませんが、親もまた子を選べません。しかしながら、そこに確かな親子の絆があるのなら、互いに互いを気遣う心が生まれ、育まれます。あなたは子供を逃がすために尽力し、子供はあなたを助けて欲しいと訴えた。なにを後ろめたいと思うのですか。あなたは素晴らしい人間です。そして、あなたと共に同じ道を歩くことを決意してくれた旦那様もまた、素晴らしい人間であったと、私が断言しましょう」
「ありがとうございます」
人を導くのが神官の務めと言う。ジュリアンはいつもそれらの言葉を上辺だけで並べ立てた、随分と耳心地の良い言葉ばかりだなと思っていた。
だが、時に人はそういった言葉が――たとえ上辺だけで、他人事と割り切っているから言えるような言葉の数々がたまらないほど心に沁みることがある。だからきっと信仰とは、心の救済に繋がるのであろう。
それゆえに、信仰心を利用するような『異端審問会』と呼ばれる集団が生まれてしまう。しかし、他者が拒否感を示すのは簡単だが、当事者にそれが間違った信仰心であることを説くことはとても難しい。“心”から“信”じ、“仰”いでいる。それが信仰心の本質なのだから。
「それでは、街の外を目指しましょう」
エイラの母親をアニマートが救ってくれたことで切迫感が薄れたためか、気持ちが軽くなった分だけ足取りに余裕が生まれた。これなら脱出の際に足手纏いにはならなさそうだ。
「いえ、ここからはあなたの役目です。そして、これからもあなたは様々な人に使命を託されることになるでしょう」
言っている意味が分からない。
「私は異界に留まります」
「なにを言って、」
「聖女の仕組みを知っていますか?」
「……いえ」
「聖女と呼ばれる方々には体のどこかに『聖痕』が現れます。そして、彼女たちは高い確率で『魔眼』を保有する。この私のように」
『魔眼』という分類に属する『蜜眼』と呼ばれる特殊な力。ジュリアンもそこのところは把握している。だが、それが『聖女』と関わっていることは知らなかった。
「これは『聖痕』が起こす奇跡なのか、それとも『聖痕』そのものがアーティファクトとして『魔眼』に変化するのか。そこの辺りは分かっていません。けれど、分かっている事実もあります。聖女は全国では十人以上が観測されることがありません。十一人目以降が姿を隠しているだけならば、それまでなのですが……」
「……でも『魔眼収集家』と呼ばれる最悪な人物がいると僕は聞いているんですが」
「『魔眼収集家』は聖女を殺して『魔眼』を集めているのです。聖女は一人死ぬと一人が補充される。人工的にではなく、自然的にです。『聖痕』が発現する時期と死ぬ瞬間は決して同日ではありません。しかし、聖女が死んでから極めて近しい日時に『聖痕』が現れます。そして『魔眼』の発現を確認後、『魔眼収集家』は自分の気に入った眼であるなら奪い取る。私は運良く奪い返すことができましたが、それは生きていたから。奪い取られて殺されては、どうしようもありません。ただ、『魔眼収集家』は、聖女に限らない『魔眼』の発現を知れば、それを取りにも行っているようです」
「それがなんで、異界に留まることになるんですか?」
「……ここまで言って、まだ分かりませんか? 私は世界に聖女の枠を返さない。異界ごと私が消え去れば、聖女の総数は絶対的に一人ではあれど減ると、私は確信しているんです」
「……いや、いやいやいや、もし仮にそれが事実であったとしても、アニマート・ハルモニアを異界に留まらせる選択は、」
「世界の損失、そのように仰るのでしょう?」
先回りするように言われてしまった。
「私は、未だ『衰弱』状態の中にある。ジェーンを倒せたのは、まさに偶然。異界で起こった揺らぎでしかないのです。こうしてあなたと話せているのが不思議なくらいに、私はいつまた気を狂わせて暴れ回るか分からない。そんな惨めな姿を、シンギングリンを取り戻した方々の目に留まらせるわけにはいかないのです」
言いながらアニマートはエイラの母親のうなじの近くで指を滑らし、ロジックを開く。
「この方のロジックから私に関する記述を全て削除します。私という書き換えた張本人が消滅した場合、ロジックの書き換える力が残るかどうかは分からないのですが、恐らくですが消えます。それでも自身を助けてくれたのがアニマート・ハルモニアであったという事実の判明は可能な限り遅らせることができます。あとは、あなたが他言無用で居続けること。それとも、あなたも私に関するロジックを書き換えられたいですか?」
「……その自己犠牲が、一体なにになると言うんですか?」
「次なる聖女の誕生を阻止できます。それは同時に……いいえ、あるいは『魔眼収集家』の犠牲者を減らすことに繋がるでしょう」
「メリットが少なすぎます」
「いいえ、これは確実なメリットです。なぜなら、私はもう『魔眼収集家』とは戦えない」
「たたかえ……?」
「私は甦る前――殺される前にこの世のものとは思えないおぞましい地獄を味わいました。けれど、具体的にどういったおぞましい地獄を味わったのかを全く憶えていないのです。きっと、多くの神官が手を尽くして私のロジックを書き換えてくれたからなのでしょう。ですが……こうして、『魔眼収集家』という異名を口にするたびに体中に怖気が走り、鳥肌が立ち、信じられないほどの冷や汗を掻き、うずくまってしまいたくなる。どんなトラウマも人は必ず乗り越えられると、私はいつも説きますが……こればかりは、悲しいことにどうにもなりません。また『魔眼収集家』と出会えば、間違いなく私は発狂する。発狂し、人の足を引っ張る。引っ張るどころか、新たな地獄をまた生み出してしまいかねない。だったらもう、私は異界ごと消え去ることが正しい選択であると思うのです」
戦えないのなら、冒険者を辞めればいい。彼女を慕う者は沢山いるはずだ。そういった人たちの逃げ場所として、隠居生活を送るだけで済む。
なのにこの人は、次の聖女の誕生を心から望んでいないからこそ、自らを犠牲にすることでそれを阻止しようとしている。
「本当にそれで良いんですか?」
「ええ。それに、もう時間はあまりないでしょう。この異界は先ほど夜になりました。それなのに私たちが眠らずに済んでいるのは、エルヴァージュ・セルストーの声のおかげ。信仰心を持っていても状態異常への耐性は付与できる……恐ろしい技能です。見えていないところにいる者にまで一時的な強化を行えるなんて」
「それとこれがどうして時間がないことに繋がるんですか?」
「彼の声が聞こえたのは二度。一度目は私たちには効果がなく、二度目は効果があった。なんで、私たち全員に効果のある声が届いたか。簡単な話です。彼は私たちを眠らせるわけにはいかなかった。眠らせてしまえば、取り返しのつかないことになるのでしょう。そして、今もその声は頭の中に直接響いて止まらない。どれもこれも、神を信じている私たちにはさほどの効果もないものですが……これは注意を惹き付けるための声。であるなら、既になにかを起こしていると考えるべきです」
「アレウスさんが?」
「へぇ……ルー君の弟子が、ここに」
淡々と喋っていたアニマートに若干の感情が見えた。
「……この杖を」
アニマートが自身の杖を差し出してくる。
「これを持ち帰れば、僕があなたと接触したことが知られてしまうのでは?」
「そんなに珍しい物ではありません。それに、これはあなたに託す物でもありません。これは、次なる聖女のために捧げる物。アイシャ・シーイングと会うことがあれば、渡していただけますか?」
手にした杖はズシリと重い。こんな物を軽々とその細腕で振り回していたのかと思うと驚きを隠せない。
「恐らく、こういった物が“曰く付き”……とやらになるのでしょう。私にはその杖になにかを込める力なんてものはありませんが、もしもその杖が思わぬ力を発揮することがあったときには、アニマート・ハルモニアという神に愛された者がいたことを思い出してください」
ロジックを開かれて気絶したエイラの母親を脇に体を滑り込ませるようにして支える。杖を文字通り、杖として用いればどうにか歩けそうだ。
「あの……」
「なにも言わなくて構いません。私たちの世代ではなかった。それだけのこと。ですが、アレウリス・ノールードを中心とした世代ではきっと……などと信じてしまいたくなるほどに、身も心も弱ってしまったことを実感してしまいます。それと、こちらはあなたに向けてのメモとなります」
両手が塞がれているジュリアンのために、アニマートは彼の服の内ポケットに紙切れを滑らせた。
「そちらの二つ折りのメモは特定の魔法でなければ開くことができないようになっています。外側に書き記した街の名を頼りに、その人物を頼ってください。今のあなたに足りない様々なことをお教えしてくださるはずです。あんなひたすら前ばかりを見て突き進むことしか考えられない人の元で学ぶのもあなたの性には合っているかもしれませんが、魔法の方向性としては合っていませんから」
ジュリアンは小さく会釈をして、決意の変わらないアニマートに見送られながら公園をあとにした。
「……みんな、眠っているのか?」
どうやら貴族領が静かだったのは物体と同化した冒険者たちの姿が見えないだけでないらしい。物体と同化した貴族たちはさながら野垂れ死んでいるかのように場所など関係なく眠りに落ちている。
これが、異界における絶対の法則なのだろうか。異界の主が夜と決めた。だから全ての者は等しく眠りに落ちる。だが、そんなことはアレウスから渡された手帳には書かれていなかった。ならばこの現象はリブラの異界でのみ働いている法則ということになる。
「ん……私は……」
エイラの母親が目を覚ます。
「すみません、気を失ってしまっていたみたいです」
「緊張状態から解放されたことで気が抜けてしまったんでしょう。よくあることですよ。歩けますか?」
「はい」
肩を貸していたジュリアンはエイラの母親から離れる。
「なにか、大切なことを仰ってくれていた人のことを……思い出せないのですが」
「……お気になさらず。それはきっと天啓です。あなたの内にあった、信仰心があなたの強さを引き出してくれたのでしょう」
ジュリアンは多くを語らず、そう言って誤魔化した。
貴族領を出ると、打って変わって街中は大騒ぎだった。誰も物質と同化している者はおらず、眠りこけている者たちを縄で縛って身動きを取れないようにしている。これはエルヴァの指示だ。依然として頭の中で声が響き、街の人々に命令を続けている。
どうやら夜になったことで事態は思わぬ逆転劇となっているらしい。リブラの異界の概念を絶対とする者たちは眠りに落ち、絶対としない者たち――生者はエルヴァの『指揮』によって眠らない。ほぼ無力と化した尖兵たちでは、生者が翻した反旗を止められる者はいない。
街門が見えてきたところで、足元が急に大きく震撼する。
「離れないでください」
エイラの母親に駆け寄り、体を支える。この揺れは尋常ではない。なにか――大きななにかが蠢いている。それだけではない。この異界そのものが、今にも崩れてしまいそうなほどに不安定になっている。
揺れ幅はもはや信じられないほどに大きくなり、視覚は機能しなくなり、自分自身が地面にちゃんと足を付けているのかすらも曖昧になって、一気に全てが暗転した。




