余暇
「なんの話をしていたの?」
「ヴェイナードはすぐに信じるなって話をしていた。それだけで分かるか?」
「……ロジック」
「あんまりロジックを誰彼構わず開けるのは嫌だけど仕方が無い。身の潔白を証明してもらうためにも、そして危険から身を守るためにも隙が出来た時……休憩を挟むタイミングが良いか。『栞』が無い限りは意識を失うわけだから、自然な感じが望ましい」
「どっちが開ける?」
「余裕がある方だ。これは先に決めていたら、タイミングを逸しかねない。あとは……あくまでもロジックを開く余裕があったらの話だ。魔物退治で一杯一杯なら、僕たちにそんな余裕は無いからな」
「うん」
「……アベリアもあんまりロジックを開けようとしないな。どうしてだ?」
「アレウスと同じだと思う。人の生き様を盗み見るのは、あんまり……だから、開くならアレウスのロジックか、あとはどうしても開けなきゃならない時だけが良い」
別にロジックについて語り合ったことはないのだが――お互いに開ける練習や、開けたあとのテキストの書き換えがどの程度、通用するのかなどはしたが、どのようにこの能力を行使するかをアレウスはアベリアに制限を掛けたことはないし、自身も彼女になにかを言われたことはない。それでもこの能力を必要最低限に留めたいと思うのは、一種のモラルがそうさせているのかも知れない。
「私も一つ訊いて良い?」
「いくらでも訊いて良いに決まっているだろ」
「アレウスって、魔の素養は皆無でしょ? なんでロジックを開けるの?」
「それは……なんでだろうな」
魔の素養が無いということは、魔力を用いたあらゆることが出来ないことを指す。ロジックを開ける際に魔力を消費するのであれば、魔力が無いアレウスには開けることさえ困難なはずなのだ。
素養が無くとも、ロジックを開けられるだけの魔力が水に喩えるならば一滴程度、残っているのだろうか。しかし、それならばリスティが羊皮紙に写し出された能力値を見て気付くはずだ。
“無い”のに“使える”。これは大きな疑問である。
「当分は謎のままで良いんじゃないか? 使えるに越したことはない。オーガの時と、あとリュコスの時は互いに開けなきゃどうしようもなかった」
「あと、分かり合っていないと駄目だった」
「ああ」
『栞』を使うと、使用者も意識が残る。つまり、感情という雑念が混じる。それを理解し、互いの求めるテキストを書き綴らなければ本領は発揮されない。あの男の手帳に書かれていたことだ。
「私は、分かり合えていることが嬉しい」
フードを被ったままなのに、その奥に見える瞳はキラキラと輝いていて、アレウスは息を飲む。またやられてしまった。警戒心、ではないが緊張感、でもないのだがアレウスがほんの少し、素を見せたところアベリアは見逃さない。そしてそのまま彼女のペースに持って行かれてしまう。
「どうしたの?」
「なんでも、無い」
「なんでも無い顔してないけど」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
アベリアは顔を近付けて来て、アレウスの表情を楽しげに眺めている。そのような弄ばれ方をされると、よけいに自身の顔が赤くなって行くのを感じた。
「そうやって簡単に顔を近付けて来るなよ」
「アレウス以外にはしないから」
彼女の基準はいつもアレウスである。しかし、考えてみればアレウスもまたほぼほぼの基準をアベリアに置いている。アベリアが出来ないと言えば出来ないだろうと思うし、自身が無理だと言えば彼女も無理だと判断する。そんな相互理解の果てにある一心同体に至っていると、一々、彼女に隙を見せたことによる心の動揺すらも手に取るように分かられているのではと思ってしまい、それらを誤魔化すように彼女よりも先に大通りを歩き出す。
「私、変なこと言った?」
「言っていないけどダンジョン探索は三人だから、あんまり蚊帳の外にはするなよ?」
信じられない奴は信じないの精神では行くが、最初から信じていないからと疎外感を与えてしまったら、信じるに足る様々な情報すらシャットアウトされてしまう。信じたいと言い切れるまで、表面上は仲良くするべきだろう。ルーファスと話した時と同じ調子が望ましい。ただし、敵視していたり挑戦的な顔付きだけはしないように注意したい。
「二人切りでも良いって言いたいけど、それだと約束を果たせないから我慢する」
「我慢云々じゃない。これは果たすためにはやらなければならないことなんだ。心を開き切り、互いの胸中にあるものを吐き出して、受け入れられるか否か。でなきゃ僕たちは老いてもずっと、約束を果たせないままになってしまう」
二人で異界獣を倒し、異界を壊すのは夢のまた夢である。そんなことは奇跡でも起きない限りは成立しない。そしてアレウスたちは奇跡など無いと知っている。手を差し伸べて来た二人の冒険者が呆気無く、二人の前から居なくなったことも忘れていない。
「リオンが生きていて、あの二人が死んだんなら……リオンの異界の虜囚になっているのか?」
あの巣とも言うべき異界は消した。あの場合、あそこで二人が死んでいたとするならば、その魂はリオンを追って、リオンが新たに掘り進め始めた新たな異界に定着するのだろうか。巣を無くしても、リオンという存在が無くならなかったからこそ起こる疑問である。
仮に二人が死んでいて、虜囚になっているのだとしても、アレウスはきっと助け出すという選択はしないだろう。死者を外に出すことは出来ない。だから、やるならば囚われ続けているその魂を解放するためにリオンを倒すことになる。
だが、その結論に至るまでの過程は果てしなく遠い。が、歩けばいつかはその遠いものも近くなって来る。そう信じて生きるしかないのだ。
アベリアと借家に帰り、探索の準備を始める。鋼線は魔物相手では使えない。武器を落としたり投げるというような、両手ががら空きになるようなことだけは避けなければならない。そして、あんな手品の真似事のようなことは人種でしか通用しないだろう。油断させるには丁度良いのかも知れないが、リスクが高過ぎる。リスクとは低ければ低いほど良い。危険を冒してまで、自身の手癖を披露しては冒険者としても失格だ。
「『盗歩』……か」
まだルーファスの指導を受けてはいないのだが、自分なりにどうすれば相手の間を抜くことが出来るのか。それを庭で自分なりに再現しようとしてみるが、どうにも上手くは行っていないように感じる。間を盗られたと感じる相手が居ないのだから成功しているのか失敗しているのかすら分からない。だが、やっておいて損は無いのではないだろうかとも思う。けれど、続けている内に変な癖が出来てしまったら、それはそれで問題になりそうだったので中断することにした。代わりに短剣を用いた足運びや腕の振り方の練習を始める。何事も繰り返しが大事である。
自分なりに仕上げた短剣術を仕上げたレベルで維持し続けることも大切なことだ。それよりも上を目指すのであれば、もっと練習を積み重ねなければならない。
この日はアベリアは読書、アレウスは庭での鍛錬で一日が終わった。次の日、食料難から逃れた二人の朝食は簡単な料理ばかりではあるが、倹約や節約のための貧しさからは少しだけ遠ざかった物となった。大地の恵み以上にニィナに感謝しつつ、二人は腹を満たして、街に出かける。装備を新調するにはまだお金に余裕が無いので、矢だけ購入し、森に入る。場合によっては魔物と遭遇するため、狩猟はそれこそ狩人の冒険者か、それと同等の技能を習得している猟師によって行われる。
この森は冒険者となるためのテストのために入ったところで、深く入り過ぎないことを前提としての狩りである。
運良く、鹿を狩ることが出来た。森から降ろすまではアベリアの魔法による重量軽減を掛けてもらい、血抜きから捌くのに至るまでは借家近くに住んでいる猟師にお願いした。タダではなく、鹿肉と毛皮の一部を譲るという交渉が成立してこその関係性である。狩りと称して短弓の練習のために兎を追い掛けていた頃から、この猟師には世話になっている。なので顔見知りではあるものの、対等な関係を維持するために交渉は常に行う。ルーファスが言うところの『ギブアンドテイク』である。
夕方頃にまた訪れて、解体してもらった鹿肉と毛皮を交渉時の配分通りに分けて受け取り、お礼を言って借家に帰った。
「魔物が居なければ、平和なのかな……」
アレウスが鹿肉のスープを作っている最中にアベリアはポツリと呟く。
「どうだろう、仮初の平和なんじゃないか?」
「でも、平和ならそれで良いかも」
一理あるなとアレウスは思う。国同士の争い事や村や街での些細な揉め事。それらは特段、自分自身に降り掛からないだろうと勝手に決め付けてはいるが、いつどこで誰にその災厄が襲い掛かっているかは定かではないのだ。
こうしてアレウスが鹿肉のスープを作っている最中にも、どこかで誰かが死んでいる。その中で感じる平穏を、それを平和と呼ぶのはいかがなものか。それはきっと仮初に過ぎない。だが、アベリアの言うように誰かの不幸がなければ平和は成立しない。
「明日は我が身とでも思わなきゃ、不幸が突然やって来ても対処し切れないからな」
国同士の争い――戦争は休戦状態にあると言う。しかし最前線ではそんな物はまやかしに過ぎない。いつ再開されるとも知れない戦争に、常々に備えていなければならないのだ。冒険者は戦争には関わらない。国際上、タブーとされている。冒険者は教会の祝福がある限りは不死の兵士である。そんな者たちが戦争に加担すれば、国家はすぐに揺らぎ、崩れ、形を無くす。だからギルド側が全ての冒険者を感知出来るように担当者を用意する。そうであっても、リスティから聞いた通りの異端審問会なるものが存在するのであれば、ギルドから追放された冒険者がなにかしら国家レベルの悪事を働いている可能性は拭えない。
しかし、それらに目を瞑る。六年前、アレウスたちが堕ちた。恐らく、そんなことがあっても世界は、国は、街は、村はなにも変わりはしなかっただろう。
「異界や魔物が存在しなければこうやって狩りをして、作物育てて、のんびりと過ごしていたのかどうかは分からないな。どちらにせよ、こんな世界じゃなければ僕はお前と出会えていないわけだし、こうして鹿肉を煮込んでもいないだろうし」
異界に堕ちたからこそアベリアに会えて、こうして共に暮らしている。皮肉な話だが、その過去が無ければアレウスはこうして冒険者にはなれてはいないし、自身が憶えている過去の世界について思い返すことだってなかっただろう。
「会えて良かった」
心底、嬉しそうにアベリアは言う。彼女の場合は、状況がかなり深刻であったために言葉通りには受け取り辛い。どちらに転んでいても、奴隷か異界に堕ちて物乞いか。そんな選択肢しかなかったのだから、不幸が過ぎる。
「拾える命には限りがある」
あそこでパンを渡さなければ、アベリアの命を拾うことは出来ていなかった。
「……そう言っていたね」
「だから、自分で拾える命だけはちゃんと拾うようにする」
「私も、そうする」
神官の外套の袖をギュッと握り締め、アベリアは答えた。
鹿肉のスープは久し振りの成功だった。臭み取りに香草を加えてアクを取るのも怠らず、しっかりと煮込んだおかげで柔らかく、アベリアも驚くほどの速度で完食していた。
夜になって睡魔がやって来るのを待っていると、それよりも先にアベリアが布団に潜り込んで来た。奴隷だった頃を思い出し、孤独感に苛まれて一人で寝付けないことがあるらしい。彼女が最も嫌う行為に発展しかねない状況下に自らを置きに来るのはアレウスとしては理解出来ないことだ。それだけ信用してもらっているということなのだろうが、自身は男である。いつ、そんな気になってしまうかどうか分からない。ただでさえ綺麗な顔立ちをしているのだ。何度も自身の前で着替えているところを見ている。正直なところ、見ていないところなどないくらいには彼女の肢体を見て来ている。それでも男としての欲望が湧き上がって来ないのは異界での弊害である。しかし、いくら『性欲』の無い異界で過ごしていたとはいえ、いずれそれは戻って来るだろう。その時、傷付けずに済むかどうかの自信がアレウスにはない。
とは言え、そんなことは結局、その時になってから考えてしまえば良いのだ。
素直にアベリアに腕を貸し、そして彼女の温もりを感じてアレウスもまた孤独を癒しつつ、眠りに落ちた




