異界 シンギングリン
-そこは寄り添う者すべてにとっての希望の地だと、誰かが言った。
なにもないこんなところのどこに希望があるんだと、俺は言った-
光に近付けば近付くほど、それは魔法による発光ではないことが分かり、照らし出された景色はいつかのシンギングリンそのままだった。一年前に見た街並みに、思うものがあってアレウスはうつむく。
守れなかった景色だ。正確には、守ることさえできなかった景色である。アレウスたちが戻ってきたときにはもうなにもかもが手遅れだった。
「あれほど、冒険者の矜持だなんだと言いながら……なんにもできなかった」
自分自身とその決意がどれほどちっぽけであるかを思い知らされた。
だから、街に入ることができない。懐かしさに胸を打たれているクセに、足は動いてくれない。
それでも、エイラの救出のためならば、とアレウスは街門をくぐり抜けた。
夜であるため見慣れた道は静まり返ってはいるが、あちらこちらの建物からは薄明かりが見える。それが遠くから見えた光の正体だろうか。それにしては近付いたときに感じる光の強さは弱い。であれば、あのときに見えた光の正体がここのどこかにはあるということだ。
光の正体をすぐにでも確かめに行きたいが、エイラがそこにいるわけでは決してない。そしてこのシンギングリンにいるかどうかも定かではない。
「みんなと合流してからの方がいいかもしれない」
無暗に詮索すると魂の虜囚に見つかってしまう。別に見つかっても構わないが、アレウスは対話能力が極めて低いので相手を煽るようにして状況を打開するときぐらいしか情報を引き出せない。ここでそれをやれば、牢屋にでも放り込まれてしまうだろう。
「お兄さん、ここでなにをしているの?」
艶のある声がした方に、全身を強張らせながらアレウスは向く。
「一人なら、私と遊ばない?」
服装、あるいはその容姿からしてその手の仕事を生業にしている女性だ。関わらない方がいいが、どうにも女性特有の匂いに頭がクラクラする。
「なんにも難しいことを考える必要はないの。あなたは男で私は女。お金さえ出してくれれば、一夜限りでもあなたに最高の体験をさせてあげるわ」
「いや、いいです」
「つれないわね。ちょっとぐらい良いじゃない? それとも、私とまぐわうのがそんなに嫌?」
「それは……それは」
「ほぅら、もう胸を見ているじゃない? 溜まっているんじゃない? 私がちゃんと、全部発散させてあげる」
断り方を知らないどころか、頭のどこかで彼女の甘美なる声に喜びを感じてしまっている。胸を見ているというのも間違っていない。なんなら顔を見る前に思い切り見てしまった。それぐらいには薄着で、更に胸をはだけさせている。
「大丈夫ですので」
「なにが大丈夫? ほぅら、こんなにして……期待しているんじゃない? 後払いでもいいなら、今すぐこの場で」
「あなたはそこで一体なにをしているの?」
また別の女性の声がする。
「声を掛けるなとは言わないけれど、その子はまだ成人していないわ。金銭のやり取りがあったなら、罰を受けるのはあなたの方よ?」
牽制され、アレウスを魅了していた女性はスッと身を引いた。
「御免なさい。まさかまだ成人していないなんて思っていなかったわ。神様の罰を受けたくはないから、大人になってから私に会いに来て?」
そう言って女性がアレウスに名刺を渡し、暗がりへと逃げるように走り去っていった。
「……僕、もう成人しているんだけどな」
「知っているわ。でもあの状況を打開するにはそう言うしかないでしょう?」
名残り惜しく、アレウスは呟いてしまったことに対し女性が呆れたように諭してくる。
「あなたは一体なにをしているの……? これはさっきの女性に問い掛けたことでもあり、あなたに向けてでもあるの。アレウス君」
「…………シエラ……さん?」
「なに? 一年で……いや、私には一年経っているのかすら分かんないんだけど一年経っているのよね? とにかく、それぐらいの年月でリスティの先輩担当者の私のことを忘れてしまったわけではないでしょう?」
しかし、アレウスが見たシエラの最期は自身と『不死人』に逃げるよう警告を出して倒れた姿だ。
「私は助からなかったけど、あなたは助かったのよね?」
訊ねられ、アレウスは縦に首を振る。
「魂の虜囚になって、ここに辿り着くまで色んなところをさまよい歩いていたわけじゃないのね?」
「はい」
「だったら良かった……」
一安心したようにシエラは険しい表情を緩めた。
「それと、成人していたなら私が邪魔しちゃ悪かったかしら?」
「いえ! いえ……そんなことはないです!」
「強く言う辺りに後悔の念が詰まっていそうな気がするのよね。でも、あなたってそんな女性にすぐ引っ掛かる子だったかしら……それとも、一年経って色々知ってしまって遊び歩いているのか」
「遊んでいたことなんてありませんよ」
「遊んでいないからこそ、火遊びに興味があるってことね」
上手いことを言われ、なにも言い返せないアレウスを見てシエラが溜め息をついた。
「あなたが成人していることはその内、分かることだろうし次は止めようがないからなんとかして自衛しなさい」
「……はい」
「それと、ここを『異界』だと気付いているのは私や一部の冒険者ぐらいだから、あんまり声高にそういうことを言わないようにして」
「……気付いていない?」
「そうよ。シンギングリンの八割がリブラによって異界へと引きずり込まれたことにほとんどの人が気付いていない。でも大半は魂の虜囚化しているわ。虜囚になって尚、気付いていないのよ。巻き込まれた時点でリブラは魂を回収しているから、ほぼ即死だったせいかしら」
「じゃぁなんでシエラさんは気付いているんですか?」
「私はあなたたちに警告を出したあとに死んでいたからよ。リブラが宣言した声までは聞こえていたけど、そのあとの事象が生じるときには死んでいた。だから目を覚ました直後、シンギングリンの景色が目の前に広がっていればここは世界じゃなく異界だって気付けたのよ。冒険者とあと街の人の何人かも私と同じ感じね。死んでから呑み込まれたから、ここが異界だと分かっている。でも、それをどれだけ訴えてみたところで、大多数はそのことに気付いていないんだから……どうにもならないことなのよ」
その言い方だと、シエラの死ぬ瞬間というのはかなりギリギリだったということになる。もう少し彼女が生き足掻いていたら、シエラもまた異界であることに気付かないままここで生活していたことになる。
「それからは日が昇って、日が沈むの繰り返すたびに手帳に印を付けて、今日で一年とちょっとぐらいってところかしら。だから、多分だけど一年経っているのよね?」
「そうです。シンギングリンが異界に消失してから、一年が経っています」
事実確認に対し、しっかりとした返事をする。残酷かどうかは分からない。彼女にとってはもう世界の年月なんて知ったところでどうにもならないことだから。知っても知らなくてもどうでもいい事柄で、それでも知りたがっているようだったので答えた。
「どれぐらいの人が助かった? リスティは無事?」
「僕の仲間は外に出ていたので、無事……なはずです。リスティさんとも会いました。クルタニカさんも無事です」
「そう……良かった。リスティが無事なら……私はそれで、満足」
シエラはじんわりと涙を零す。堪え切れないものがあったらしい。
「アレウス君……死にたくないし、死んだとしても生き続けたいって思うのは変なことじゃないって……私は死ぬ瞬間までずっと思ってた。死にたくない、死にたくない、生きたい、まだ生きていたい……って。でも、いざ死んだあとにまだ生きていいですよ、ってなると……死んでいるのに生きているのは、あまりにも業が深すぎるの。もうあのときに終わったはずの人生を、なんでまだ私は歩いているんだろうって……凄まじい虚無感よ。生きがいはなく、やりがいもない。だって全てが無駄だって分かっているんだもの」
魂の虜囚となってしまった以上、異界獣が搾取するまでは永遠に生かされ続ける。もう死んでいると気付いた上で生きるのは彼女の言うように凄まじいほどの虚無感に違いない。
そして、異界獣に魔力を吸い尽くされない限り、魂の虜囚は死のうとしても死ねないのだ。自ら死のうとしても、自らを殺す手段に出ても、次に目を覚ましたときには再び同じ景色を見ている。
そうやって何度も何度も異界で死んでは生き返り、死んでは生き返り、憔悴して頭をおかしくした魂の虜囚をアレウスはリオンの異界で何人も見てきた。
「私が願うのは、異界からの解放。死んでいるのなら、もう解放されたい……」
「リブラを倒せば、この異界も消えます」
「……さっきのは私の願望で、叶うことのない奇跡なのよ。無理は言わないわ。リブラ討伐は諦めて、さっさと異界から脱出して」
「このままで良いと言うんですか?」
「良いわけない! でも、アレウス君には荷が重すぎるの。だって、リブラは……ギルド長を従えているから」
一年前、リブラは契約がどうのと言葉を垂れ流していた。その契約をしていた人物がギルド長だとシエラは伝えてきている。
「リブラを倒す前に、ギルド長を倒さなきゃならない。一人でも、何人でも……あの人の狂気には、敵わない」
「……教えてください」
アレウスはうつむくシエラに問う。
「一年前、ギルドで一体なにがあったんですか? ギルド長は、どうして『不死人』に自分から首を差し出すようなことをしたんですか?!」
そう強く訴える。
だがシエラが答えることはなく、自身の髪をいじりながら感情を必死に押し殺すかのように深呼吸を繰り返す。
「ギルド長は『異端審問会』への反撃のときが来たと……遂に時代が自分たちに傾いたと言っていたわ。でも、まさかそれが打ち砕かれたからってこんなことをするなんて思っていなかった。こんな……シンギングリンを巻き込むような大罪を、犯すなんて」
首を横に振りながら、シエラは続ける。
「あの人にとって世界なんてどうでも良かった。あの人が守りたいものなんて最初からなかった。あの人が考えていたのは、どんなことをして『異端審問会』に一泡吹かせてやれるかってことだけ。そのためなら、平気で街一つぐらい犠牲にする……そういうこと、だったのよ。私が知っているのは、それぐらい。それ以上のことは、分からない」
シエラの声は徐々にか細くなっていく。
「今日は、もう遅いわ、アレウス君。どこか休めるところで休んだ方がいいわ」
「……明日になったらまたなにか教えてくれますか?」
「私から教えられることなんて、一年前までのことぐらいで……あなたにとっては、もう古い知識ばっかりよ。リブラの異界のことは忘れて、過去を捨てて、未来に向かって進んで。あなたにはその価値がある。だから、私たちのことは放っておいた方がいい」
シエラは別れの言葉も切り出さず、アレウスから離れて行った。




