二本角
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馬車に乗って半日の道のりは長くもあり短くもあった。馭者が「本当に行くんですか?」と何度も何度もアレウスに訊ねるだけでなく肯いてもすぐには乗せてはくれず、交渉の結果、帰りの馬車は出さないという形で話がまとまった。馭者はシンギングリン近くでアレウスが帰ってくるまで野宿することを拒んだのだ。降りた地点はシンギングリンの近郊では確かにあるのだが、ここから徒歩で行っても一日以上は要す。そしてそれは単純にシンギングリンを真っ直ぐ目指せばの話となる。
現在のシンギングリンについて調べるのは後回しであり、与えられた仕事は森林と石切り場、水源、金属鉱石の地点をマッピングするところにある。
「一年前と変わっていないなら、そこまで難しい話でもないけどな……」
森林や石切り場、坑道も水源もそう容易く地図上から消滅するものではない。その証拠にリスティから渡された地図にはシンギングリンが当時に利用していたそれらの情報が名称として記されている。それでもリスティたちが資材確保に動かなかったのは魔物や盗賊のねぐらになっていないかの確証が持てなかったためだ。
「リスクを払拭できても、無くなっていたら大変だし」
隣でアベリアが呟く。
地図上から消え去ることなどほとんどないが、もしかすると木々は伐採され切り、地殻変動によって石切り場や坑道が使えず、水源は水質が悪くなっているかもしれない。動植物だって死に絶えて、どこにも生息していないかもしれない。一年でそんなことはまずあり得ないが、ひょっとしたらがあるのなら行くべきではない。
その不安を取り除くのが仕事となる。アレウスが魔物を退治し安全を確保するだけでなく資源がまだ残っていることを確認すれば、その後は安定して供給ラインを築くことができる。馭者があれほどシンギングリン近郊での待機を嫌ったのだ。それがこの付近の村や街の常識となっているのなら余所から取りに来る者もいない。
「アベリアはリスティのところで待っていてくれてよかったのに」
「なんで? 私たちはいつだって一緒でしょ?」
もはや別行動を取ることが異常とばかりの言い分だった。
「僕がいない間、他に頼る人もいたんじゃ、」
「いない。私にはアレウスしかいない。なんでそんなこと言うの?」
「いや……だって」
「もう離れたくないから。一年前みたいに、言うことだけを聞くのはやめたから。アレウスと一緒になるためだったら、なんだって言うから……なんだって、言うから」
成長の仕方は悪い方向には行っていないが、以前よりも物言いが強くなってしまった。
それはそうだ。成長すれば誰もが一人で考え、一人で決断するようになる。そこに感情も加われば、言うことを利き続ける人はいない。むしろ、アベリアは年月を経ても、いつまでも従順であり続けてくれるだろうと考えていたアレウスの方が異常なのだ。隷属的、従属的な判断能力の欠如から脱却したのなら、彼女はようやっと奴隷としてさらわれた頃の苦しみから立ち直ったと言える。
「特に女の子と仲良くしていたら、言うから」
「なんで? こんな時代になにを言っているんだ?」
「こんな時代だからこそ、でしょ?」
深いことを言ったつもりなのかもしれないが、アレウスにはその深さが分からない。分かったのは今後、アレウスが女性と話していた場合、アベリアが横から言うようになるということだけだ。さすがに空気ぐらいは読んでくれるとは思うが、出会う女性全員に言葉で噛み付きに行かないか不安で仕方がない。そんなことをされればアレウスはアベリア以外の女性とは話すことができなくなる。束縛は強くても構わないが、またクラリエとパーティを組むことになった際、どうなるかが分からない。それどころかクルタニカやリスティはセーフなのかすら分からない。
「言っておくけど、私にはアレウスしかいないんだから……ね?」
念押しをされる。この言葉の真意は鈍感なアレウスでも分かるが、状況が状況で場が場である。もっと落ち着いてから彼女とは話し合いの場を設けたい。
「今はそれどころじゃない」
つまり、後回しにする。はぐらかしたいのではないし、誤魔化したいわけでもない。この話をするべき時ではないだけだ。
「アベリアの言いたいことも僕の言いたいことも多分、一緒だから。一息つけるような時に、ちゃんと言い合おう」
「約束だよ?」
「ああ」
約束してしまった。もう逃げ切れない。追い付かれる。だからこそ、判然としない返事はしなかった。
「魔物の気配が強いな」
「まだどこにも見えないけど」
切り替えて、アレウスはアベリアに伝える。
「見えないんなら隠れているか、まだ魔物から見える位置に僕たちがいないだけだ」
感知の技能は女の『不死人』との夢の中で戦い続けた経験から、以前よりも範囲が広がっている。その中で取るべき気配、取らなくていい気配の取捨選択もできるようになった。アレウスの知っているシンギングリンの街半分ぐらいが有効範囲だろうか。だが、アレウスが感知できるのなら魔物側も気付いていないわけがない。全ての感知においては魔物側が圧倒的に強い。だから村や町を襲う“波”も、魔物側が人間の気配が強く感知する場所を把握してから起こる代物だ。この“波”の気配を人間側は動き出してからしか気付けず、どうしても後手に回る。
「こんな広いところは襲ってこないでしょ?」
「僕たちが調べる場所に潜んでいるのはもう確定したな」
待ち伏せを憂慮する。しかし、危険があるから近付かないという選択肢はない。
森林に近付けば近付くほど魔物の気配が濃くなる。
「ガルムが数十匹、ゴブリンも同じくらい……オークかオーガぐらいも何匹かいる気がする」
「焼き払った方が良くない?」
もはや生息地になってしまっている場所を木材確保の場所にするのは骨が折れる。そういった意味でのアベリアの進言だった。
「逃げられても困るし、ここを放置しても困るし、結局は全部を片付けるのが一番だと思う。焼き払わない方向で、だけど」
放置すれば別の場所で資材を採集している最中に襲ってくる。追い払えば徒党を組まれる。倒し切ることが望ましい。
「僕が森に入って、まず注意を惹く。アベリアの魔力が彼らにとっては一番だろうけど、飢えているなら僕にも反応するはず」
アベリアの極上の魔力を求めているのは分かり切っている。それでもアレウスが住処に侵入すれば魔物側も動くはずだ。
「分かったけど、危ないと思ったらすぐに私も行くから」
「ああ」
腰に差していた短剣を抜き、構えながらアレウスは森へと入る。
威嚇の雄叫びがあちらこちらから聞こえる。同時にそれは魔物たちが仲間へ侵入者が現れたことを知らせる声でもある。アレウスを中心にして魔物の気配は一気に収束していく。
ある地点までアレウスが足を踏み入れると、まずガルムが草むらから飛び出してきた。
「っ! 知っている大きさじゃないな」
右を向いて捉えたガルムはアレウスの知っている大きさを優に超えている。ハウンドでもまだ大きい。記憶にあるワイルドキャットと同等だ。その大きさのガルムが次から次へとアレウスの前へと姿を現す。
魔法の炎は控えなければならない。アベリアが考えた焼き払う判断はまだ早い。
「始めようか……」
命の取り合いは唐突に始まる。ガルムから先制を取られたくはないためアレウスから先に動く。これだけの数に短剣一本で飛び込む人間をガルムは不思議がる様子もなく、剣戟を右に左にと避けながら周囲の仲間に向かって鳴き声を発している。
剣戟の速度は抑えた。結果、ガルムの動きは緩慢で単調である。つまり、この魔物はアレウスを侮っている。たった一人で森に迷い込み、必死に戦う素振りを見せている人間程度にしか思っていない。無論、そう思わせるためにアレウスは剣戟を弱いものにした。
油断は全ての生物において、悪い方向へ生死を分かつ。
緩やかに振っていた剣戟を加速させる。悠々と避けようとしてたガルムの首を裂き、その先の骨を断とうとするも思いのほか太く、抵抗されたこともあって仕留め損ねる。
「やっぱり、首は切れないか」
『オーガの右腕』による筋力ボーナスをもってしても骨を断つまで至れない。貸し与えられた力を行使せずともできると踏んでいたのだが、どうやら想像していた以上に肉体が衰えているようだ。
夢の中で戦いを経験し続けてはいたが、基本的に収容施設ではロクな食事を摂ることもできなかった。筋肉を維持するための運動も禁じられていたため、自分の中にある断ち切れるイメージと、現実の骨すら断ち切れない腕力に一種の乖離がある。ここをすり合わせなければならない。
だからと言って、危機感があるわけではない。ガルムは突然の反撃に驚いているが、未だアレウスをただの獲物と認識している。窮地に陥っている獲物が最後の悪足掻きとばかりに一太刀入れてきた。その程度の思考だとするなら、まだ攻められる。
先ほど狙ったガルムとは別の個体を狙い、短剣を振り続けながら隙を見つけ、ただ避けるだけで獲物が疲労するのを待とうとしているガルムに一歩、深く強く踏み込んで、短剣を胸部へと突き立てる。
「まだ精度はあるか……」
確かに心臓を捉えた感触があり、即座に短剣を引き抜く。骨を断ち切れずとも、骨と骨の隙間を狙った刺突はできる。喉元目掛けて首の骨を避けた刺突もこの調子なら問題なくできるだろう。ただし、その刺突に関してはゴブリンのような二足歩行の魔物に向いている。ガルムでも狙うことはできるが、噛み付かれかねない。
なんなら胸部を狙うのもやめるべきだ。もっとも安全なのはガルムの足を切り、転ばして腹を向けたところを一気に引き裂くこと。亀のように甲羅を持っているならまだしも、四足歩行で腹部まで固い肉質を持っている動物は少ない。
一匹のガルムが絶命したことで、魔物たちの怒りを一斉に買う。けたたましいほどの雄叫びを上げ、先ほどとは打って変わって激情的な襲撃が始まる。それこそ我先にアレウスを爪や牙で引き裂いてやろうという意思があり、それらは断続的で絶え間ない。だからこそアレウスは止まらずに動き続け、確実に気配を読み取っての回避に努める。
爪も牙も凶悪的なまでに研ぎ澄まされているが、そもそも当たらなければ怖いものではない。それどころかこんな魔物の爪など、夢で戦い続けた女の『不死人』の爪には到底及ばない。
「こいつらも着実に魔力を喰って成長はしているけど、根本的な部分は変わらないな」
低い姿勢を取りつつの移動を繰り返し、ガルムの足を切りながらすぐに離脱し、再生が終わる前に再び傷を負わせたガルムに接近して腹を裂く。図体が大きくなろうとも、ガルムはガルムだ。ワイルドキャットのような悪辣さは持ち合わせていない。群れを成していても、結局は狼や猫型の魔物の中でも最下位の魔物。対処の仕方は変わらない。逆に大きくなったことで的が狙いやすくなっているとも言える。
ただし、この油断は死を招く。現に半歩引いた直後に繰り出された爪撃はアレウスの足元の地面を抉った。この半歩引くという判断をもっと早くしていれば反撃に移れたが、ギリギリ過ぎて攻めあぐねてしまった。ガルムを油断させておきながら、自身を優勢と感じた直後から油断した。
「こういうのが行けない。こういうのが悪い。安定感に欠ける」
呟きながら迫るガルムを一匹、また一匹と倒していく。
「でも、ちょっとは自信になるよ。これだけの数を一人で相手取れているんだから」
一匹に対しての命の奪い合い。数をこなしても、どうしてもいつも不安があった。だが今はそれがない。油断があったとしても、そこで起きた不安定さを回収できるほどに自身の攻勢は安定感がある。
草むらなのは動きにくさに関わるかと思ったがそうでもなかった。むしろガルムが動くたびに草が揺れ、音を奏でるために位置を掴みやすい。勿論、気配で位置は掴み切っているが視覚と聴覚でも分かればもっと正確さを増す。
屈めば避けられるのか、動かなければ避けられないのか。短剣を振る場合はどんな姿勢が一番良いのか、ガルムを絶命させるための一撃のタイミングはいつが良いのか。どれもこれもが考えるより先に体が動いてくれることで正解を導き出している。
およそ十分の戦い。その戦いでアレウスを囲み込んでいたガルムの半数以上を仕留めた。
「ようやく動いたな」
この森で一番大きな気配が動き出した。ガルムは劣勢を感じて仲間を連れて逃げていく。追撃を仕掛けたいが、まだ小型の魔物――ゴブリンやコボルト、中型のオークといった気配が残っている。そしてオークに関してはもう既に木々を圧し折りながらアレウスの前に現れている。
「どいつもこいつも肥え太っているな」
やはり大型化している。信じられないほどの酷い臭いを放ちつつ、オークは鼻息荒くアレウスへと突進してくる。どれだけ自信があってもこれは避けるしかない。真っ向から剣戟を浴びせてもオークは絶対に止まらない。だからすれ違い様の一撃に留めた。切られたことにオークは気付いてもおらず振り返り、棍棒を振り乱しながら突っ込んでくる。
嗅覚だけでなくあらゆる神経が通っている鼻さえ切り裂けばオークは弱体化する。オークは腹部も胸部も脂肪に覆われていて致命傷を与えられない。首元まで太く、刺突が届かない。そうなると複数の深い裂傷による失血死させるのが安全であり有効となる。
縦に振るわれる棍棒。一撃はあまりにも重く、受ければ一撃で潰れて死ぬ。その分、動きには甘えがある。人間はこの動きのあとは怯えて動けないだろうという甘えがあるからこそ、そこに付け入ることができる。
「やっぱりオークも変わらないな」
変わっていないからこそ、過去の経験が活き、そして通用する。鼻を裂くのは難しくなく、たった一撃でオークは戦意を喪失して棍棒を落とし、鼻を両手で押さえてのたうち回る。ただ暴れているだけなら怖くない。暴れる中に思考がないのなら、近付いたところで腕も拳も当たらない。腹部を裂き、胸部に短剣を突き立て、段々と血を流して弱っていくオークは、やがてアレウスを諦めたかのように逃げて行く。
「ここまでは良い、ここまでは」
ただし、逃げるオークを許さない魔物が存在する。オークの頭を手で掴み、握り潰し、その死体を乱雑にアレウスへと投げ付けてくる。この握力、この腕力、そしてオークすらも容易く絶命させる絶対的強者が雄叫びを上げてアレウスを睨む。
「あのときは駄目だったけど、今はどうかな?」
魔物に問い掛ける。
「さすがにもう手伝っていいよね?」
その登場を待っていたかのようにアベリアがアレウスの後ろから声を掛けた。
「二本角……か」
角の数を見てアベリアも呟く。
「あの頃は……一本角にも精一杯だったね?」
「だから、ここで僕たちが通用するのかどうか」
「確かめるには丁度良い」
石の棍棒を抱え、オーガは地鳴りにも似た雄叫びを上げ、アレウスたちを蹂躙すべく動き出す。




