拳
その言葉の真意は分からないが、目の前の黒騎士はイェネオスを殺す気で鎗を構えている。死線を掻い潜った経験はないが、父から武術については学んでいる。
だからこそ、構え方で力量を推し測ることができてしまい、そして己自身には決して届かないところに黒騎士が立っていることも分かる。
だが、それがなんだと言うのだ。恐怖を払い除けるために、イェネオスは自身を鼓舞する。
父を踏み付けたこの黒騎士から怖いという理由で逃げ出すつもりはない。
死ぬかもしれない。だが、逃げ出して父を見殺しにすることは死ぬこと以上の恥だ。そもそも、逃げ切れる保障もない。ならば戦って、父の前で死にたい。父と共に、この世を去りたい。
「参ります!」
掛け声などいらない。分かってはいたが、不安の払拭のためにいつも通りを貫こうとしたら自然と発声していた。
弓に矢をつがえ、放つ。鎗で弾かれるが構わず二本、三本と続けて射掛ける。鎗で全て捌いたのち、黒騎士が地面を蹴って間合いを詰めてくる。父から短剣術を学んでいたイェネオスは腰元に据えていた予備の短剣を引き抜き、果敢に黒騎士へと立ち向かう。
間合いを詰め切らず、黒騎士は鎗の優位を崩さない絶対の距離を維持しながら刺突、振り回し、縦振り、薙ぎ払いを巧みに使い分けながらイェネオスを押して押して押し続ける。短剣で受けてはいるが、どの一撃も恐るべき重さを持っている。父は手心を加えていたのだろう。だからこそ、この本気で殺しにくる重みに動揺してしまう。
鼻で笑われた気がした。兜を被っている以上、顔を見ることはできないが、少なくともイェネオスの立ち回りを黒騎士は苦とも思っていない。それどころか、笑う余裕すらある。
避けて、避けて、避けて、短剣を片手に据えたまま矢を連射する。一方向から来る矢であっても断続的であれば防ぎ切るのは至難の業となる。だから黒騎士はイェネオスの矢を鎗で弾くのではなく、横に跳んで避けた。回避されてしまうのなら、先読みして矢を射掛けていくだけだ。鎗の範囲にさえ入らなければ、弓矢を使うことのできるイェネオスの方が圧倒的に有利。逆に入りそうになったなら、短剣の間合いまで詰め切ってしまえばいい。そうすれば黒騎士は鎗を振るえない。
『その顔だ。その、自分はまず負けないと信じているその目だ。俺はそういう顔を、目をしている女を見ると無性に殺したくなる』
黒騎士は走りながら自身が弾いた矢を拾い、イェネオスに向けて投擲してきた。
元々、投擲術に長けているのだろう。恐らく、鎗も投げ鎗を得意としている。そう思わずにはいられないほどに投擲された矢は精確無比で、避ける心理すら読み解いた完全なる偏差の投擲でもって、イェネオスの左大腿部を突き刺さった。
脳内でなにかが炸裂するような感覚と同時に激痛が走る。足が止まり、それどころか空回って、盛大に転ぶ。
長い間、こんな激痛を味わったことはない。だからこそ痛烈で、強すぎる。矢が突き刺さっただけで、たったそれだけで戦意を喪失したくなるほど、痛みに苦しむ。鼻水が零れ、涙が溢れる。
なんでこんな痛いことに立ち向かわなきゃならないのか。鼓舞していた自分を馬鹿馬鹿しく思うほどに、果敢に挑んだことさえ後悔し始める。
自分は父のようにはなりたかったが、父のように才能に満ち溢れてはいないのだ。結局のところ、真似ようと思ったって真似できない。真似は結局、真似でしかない。父を越えることは絶対にないし、父ほどの存在になることだって絶対にない。
『ただ一度の傷で、もう諦めたのか? 他愛ないな』
辛い、苦しい、痛い。どうすればこの痛みから逃れられるのか。ただそればかりを考える。
「私がお前に教えたことは、戦うことだけじゃなかったはずだ」
倒れていたキトリノスが立ち上がろうとしながら、痛みに震えているキトリノスに訴える。
「父上……私は、なにをやっても、上手く行かなくて」
「弱音を吐いたところで、現状が良くなることはないんだぞ」
黒騎士がキトリノスの前まで素早く接近し、鎗を振り下ろす。ククリナイフで鎗を受け止め、精一杯の力で弾き飛ばす。
「現状に甘えが許されないなら、腹を括って前を向け。お前には力がある」
「でも、私には覚悟が」
「お前に足りないのは覚悟じゃない」
黒騎士と何度かのククリナイフと鎗による競り合う。だが負傷している体では限界が早く訪れ、黒騎士の左の拳がキトリノスのみぞおちに沈む。
『長き平穏に侵食された精神じゃ、年季が入っていようと俺の敵じゃない』
「そうだ……私は、貴様には敵わないだろう」
キトリノスが黒騎士の腕を掴む。
「久しく争いを忘れていた私では、貴様に到底及ぶことはない。もし、そうなのだとしても」
『もしではなく、事実だ。俺は事実を言っている』
鬱陶しいと言わんばかりにキトリノスは黒騎士に蹴飛ばされるも、掴んだ腕は離さない。
「私たちエルフ全てが、平穏に染まっているわけではない」
劣勢であり、まさに命の危機に瀕していてもキトリノスの瞳から戦意は消え去らない。黒騎士はその態度が気に喰わなかったのか、何度も何度もキトリノスに蹴りを加える。
《イェネオス》
息も絶え絶えの中、キトリノスが『森の声』経由でイェネオスへの想いを伝える。
《人を信じろ。なによりも、自分を信じろ。生き方を信じろ。歩み続けた道のりに、多少の汚れがあったとしても気にせず、前を見続けろ。自分の生き方は間違っていないのだと、己は生き方では誰にも劣らないと……肯定し、信じ、志を信じろ。正しさはなによりも正しい。たとえ悪意に霞むことがあろうとも、正しいと思ったことこそが、お前にとって胸の張れる生き方だ》
「私には、テラー家の跡取りとして生きることなんて」
《やってみなくちゃ分からない。やる前から怖れるな。私たちの人生は長い。その中で何度も挑戦し、やがて私たちは肩書きに相応しき者に成るのだ。お前だってそれは変わらない。そうさ、お前以外に誰が相応しい者に成れると言うのだ?》
キトリノスが腕を放したことで黒騎士は間合いを取るように下がる。束の間、フラついているキトリノスを正面に構えた鎗で一突きにした。
《世界は、お前が前に進むのを、待っている。イェネオス、私の、最愛の、娘……》
途切れると同時にキトリノスが仰向けに倒れ、黒騎士は鎗を引き抜く。
「ぁ…………あ、ああ…………」
『強気な娘の前で父を殺す。たまらないな。この身を正しさから脱してからは、欲望ばかりが溢れてくる。いや、これが俺の正しい生き方だったのかもしれない』
「許さない」
イェネオスは痛みに怯えながらも矢を引き抜き、ポーションの入った小瓶を飲み、立ち上がる。
「許さない!!」
『誰も許してくれとは言ってねぇだろ。俺は殺人を犯すときに許してほしいと思ったことは一度だってねぇよ。そしてこれからも、無い』
黒騎士が間際に迫る。
見開いた瞳は黄色に染まり、爆ぜる魔力はイェネオスを包み、『衣』と化す。同時に半自動的に黒騎士の突き出した鎗を拒むように『衣』の一切れが蠢き、速度を持ち鋭い質量のある一撃が正面から激突して、衝撃を全て黒騎士へと流し込んで打ち飛ばす。
『娘にも『衣』が継承されていたか』
打ち飛ばされてもなんのことはなく、黒騎士はすぐに体勢を整える。
『だが、血の重みに娘が耐えられるとは思えねぇな』
イェネオスは全身に錘がズシリと圧し掛かったかのような感覚に囚われる。さながら重力が自身にだけ強く働きかけられているかのように、腕を上げる動作一つに多大なる力を要する。一秒、二秒、三秒と、秒単位で重みは強くなっていく。
だが、膝は折らない。崩れ落ちることもない。地面に突っ伏すこともない。強い強い血の重みの中で、イェネオスは立ち続ける。
「こんなのが血の重み? 笑わせないで……テラー家の重みがこの程度だと言うのなら」
持ち上がらなかった腕は、力任せにではなく自身の魔力との融和を行うことで軽くなっていく。
「私がいつも感じていた重圧ほどもない!!」
地面を蹴る動作に『衣』が補佐を加えて、イェネオスでも信じられないほどの跳躍と速度で黒騎士へ詰める。
『目覚めてすぐに使いこなせるわけが、』
そう、この突如目覚めた『衣』の使い方をイェネオスは知らない。魔法のように扱えばいいのか、矢に込めればいいのか、短剣に宿せばいいのか。全く分からない。
ならばもう、己が体に込めるのが手っ取り早い。難しいことを考えれば黒騎士に出し抜かれる。そうなる前に、叩き込む。手元に武器はなくとも、この黒騎士を殴るための拳ならある。
振りかざした拳に魔力が乗り、『衣』が篭手のように巻き付き強化され、『黄色』の輝きにチリチリと深く濃い色の輝きも織り交ぜて、強化された拳に黒騎士も息を飲み、鎗での防御姿勢を取る。
「ぁあああああああああああ!!」
拳が激突した瞬間、鎗はひしゃげ、黒騎士の全身を拳に乗った黄色の魔力が打ち抜いた。
打ち抜かれた黒騎士が飛ぶ。音速にも近い亜音速。直線軌道で、ただひたすらに真っ直ぐに打ち飛んだ。
「……はぁ、はぁ……はぁ……」
全身で息をして、溢れる魔力が暴走しないよう抑え込む。両手で拳を握り、『衣』が再び彼女の拳を包み込んで強化を施す。
『エルフの手による特注品だってのに、エルフに壊されるってのは皮肉だな』
黒騎士は陽炎のように発した瘴気の中から舞い戻ってきて、黒い鎗を瘴気の中から引き抜いた。
『つっても、今のでテメェも出し切り……って、いない、だとぉ?』
イェネオスは黒騎士が舞い戻ってから、全身を包んでいた魔力に発破をかけた。黄色は徐々に深く濃い色に塗り替えられ、拳に宿る魔力もまたその色に染まる。
「今ので終わりだと思ったか?」
金属を通り越すほどの硬度を持つ強化が施された拳を携え、黄色から濃く、赤みが混じった色――橙色に染まり直した瞳で黒騎士を見据え、もはや一切の慈悲もなく、戻ってきたばかりの黒騎士に再び目一杯の拳を叩き付けた。
空気、音、遂には時間すらも止まったような錯覚に陥るほどに酷く間延びした時間は、橙色の魔力が爆ぜると同時に一斉に動き出し、黒騎士は先ほどよりも更に果ての果てにまで打ち飛んでいた。その一撃は、もはや黒騎士自身も喰らったことに気が付けていないのではないか。遥か彼方に黒騎士の気配は消え去ったが、イェネオスは気を抜かないままにキトリノスの元へ向かう。
「父上」
仰向けに倒れた父からの返事はない。
「私は、あなたの娘で良かった……」
涙が再び溢れる。痛みではなく、悲しみに暮れる涙が。
「でも……もっと早くに、言いたかった……」
これからの人生にどれだけの後悔が待っているとしても、今日この日の後悔をイェネオスは永劫に忘れない。
それこそ、死を遂げるまでは。




