あの時と同じように笑えているか
少数と多数では道のりが異なる。そうエレスィは言って、アレウスたちは随分と悪路を進まされた。彼が言いたいのはアベリアとガラハ、イェネオスにそれに続く大勢のエルフを案内する際に使った道とは異なる道でアレウスたちを案内しているということだ。あれだけの人数にこんな悪路を進ませては途中で脱落者が出てしまう。そうならないためにも遠回りにはなってもなるべく平坦な道を使っていたはずだ。それに比べ、今は片手で数えられる人数しかいない。そうとくれば最短距離を突き進む方が手っ取り早い。事前にアベリアやガラハから冒険者であると伝えられているのなら、多少の悪路を強引に突き進んでも構わないと思ってのことだろう。悪路慣れも、急勾配にも慣れてはいないのだが、先に行くクラリエがアレウスとヴェインでも足を滑らさずに済む道を示してくれた。彼女の進んだ通りに進めば、豪雨のあとのぬかるみも、明らかに滑落死するような坂道も、体力こそ使いはしたが危険の範疇に過ぎなくとも安全に進むことができた。
「アレウス!」
無事にエリュトロン領に導かれ、アレウスたちはアベリアとガラハと合流する。
「その……本当に……本当に、申し訳ありません」
アレウスと無事を確かめ合うアベリアの後ろで、本当に心の底から申し訳なさそうにしているイェネオスとも再会する。こちらに向く視線は弱々しく、どこか怯えているようにも見える。
「アベリアは記憶の忘却以外はなにもされていないんだな?」
「はい……それは、お互いに全身を隈なく確かめ合いました。そこには嘘も偽りも、決してありません」
「……言いたいことは沢山あるけど、取り敢えず今はアベリアの体になにもされていないならそれでいい」
こんなことになっていないなら、もっとイェネオスを言葉で攻撃していてもおかしくないほどの怒りの感情があるのだが、キトリノスから先に謝罪を受けている。そこでアレウスはこの怒りを一旦は抑え込むと決めた。怒りをぶつけるべき相手は他にいると言いった手前、ここでイェネオスに怒りをぶつければ彼と交わした言葉を反故にしてしまう。
「怒らないで。私が気を抜きすぎた」
「いや、真に気を抜きすぎたのはオレだ。あのダムレイの中なら、襲撃者も動くことはないだろうと決め付けてしまった。それがオレの判断を鈍らせた……襲撃者はダムレイだからこそ、この領内に入ることができたのだろう」
ガラハもイェネオスほどではないが、落ち込み気味だ。
「あれだけの豪雨と雷の轟音だ。領内で外を出歩く者も少なく、見張りも退避している。雨音は足音を消し、暴風は気配を掻き乱した。加えてオレはアベリアの泊まっていたログハウスから離れ、屋敷でエレスィ・エリュトロンと帳簿について調べていた。これでは気付けるわけがなかった。そこのエルフだけに非があるのではない。オレの判断も間違っていた」
「ガラハがエルフを庇うなんて珍しいこともあるねぇ」
「庇うというよりも、同様に守ることを前提として動いていたが、どちらもヘマをしてしまって釈明の余地もないといったところだ」
「アレウス……」
アベリアが目で物を訴えてくる。
「だから」
訴えられたから気が変わったわけではない。
「元から僕は謝ってほしいわけじゃないし、怒るつもりだってない。全てはこの状況を打開してからだ。打開して落ち着いてから反省する。反省しないっていう態度ならもしかしたら怒ってしまっていたかもしれないけど、どうやらそんな気はなさそうだし、それだったらここでとやかく言っている暇はないんだ」
そもそも、ガラハはともかくイェネオスはどうしてアレウスに怒られると思ってこんなにも気落ちしているだけでなく怯えるのだろうか。
「イェネオス、君は一体なにに怯えているんだ?」
もはや敬語を使う使わないの余地もない。
「私は、テラー家の跡取りとして……相応しいのでしょうか」
そう気持ちを吐露する。
「こんなにも、多くのことで足を引っ張って……ここ数日のことだけではありません。父上と共にいても、私はいつも……いつも、父上を困らせてばかりで、これでは……テラー家を継ぐに、値しないのではないか……と」
「そんなことを僕の口から言わせようとするな」
聞きたくないからここで聞こうとしている。
「それは君の父親から聞くべきことだ。僕が言って気休めにしようなんて考えるな」
ここでアレウスが励ますことも、慰めることもイェネオスにとっては毒になる。重圧に苦しんでいるからと気を使ってもどうにもならない。決めるのはアレウスではなく、キトリノス・テラーなのだから。
「イェネオスさんは父親のところに行って」
微妙な雰囲気になっている中、アベリアがエレスィに進言する。
「足手纏いとか足を引っ張るからって理由じゃない。父親があなたの心配をしている。あなたのことを待っている」
「だったら俺も一緒に行きます」
「駄目。エレスィさんにはエリュトロン領に住まうエルフの避難を導く役割がある。イェネオスは森から外へ出る道をきっと憶えているだろうから、一人でも大丈夫なはず」
イェネオスに対してアベリアは厳しめな態度を取る。
「私は、」
「駄目だよ。ここでエレスィさんを頼ったら。自分のことは自分でなんとかする。私がどこかに連れ去られたのも、それは私自身がちゃんと危機管理意識を維持できていなかったから。だったら、イェネオスはちゃんと父親と自分の思っていることを話すべき」
アベリアは彼女の中にある鬱々とした感情を抱えたままにすることを良しとしない。そしてそれを払拭できるのはここにいる誰でもなく、彼女の父親だけだということも改めて伝える。
「……分かり、ました」
エレスィのことを名残り惜しそうに見てから、イェネオスは呟く。
「今生の別れじゃない。全てを片付けてからなら、いつだって会える」
アベリアは彼女にやはり厳しく言う。イェネオスは急かされるようにしてエリュトロン領をあとにした。
「なんであんなに厳しかったんだ?」
「だって、彼女に足りないのは自信だけだから。私はヒューマンとしての人生しか分からないけれど、百年とか二百年以上は平気で生きるエルフで、加えてずっとテラー家の跡取りっていう重圧を感じながらも、それでも逃げ出さずに父親の傍を離れていなかった彼女が、認められていないわけがないし、足手纏いになるわけもない。イェネオスの自信の無さは、アレウスと一緒」
「僕と?」
「どうしようもないことを自分のせいだと思って、ずっと自分の判断を肯定しない。反省ばかりで、良かったところを見過ごして、自己肯定感が薄いばっかり」
アベリアはアレウスを指差す。
「だから、彼女に言ったことの一部をちゃんと自分のことでもあるって受け止めて」
連れ去られて、彼女はその連れ去られた記憶を失うようにロジックを書き換えられたらしいが、ひょっとしたらもっと別のところも書き換えられているのではないかと思ってしまった。しかし、イェネオスの言うところの「隈なく」についてはロジックも含まれている。もしそうなら、イェネオスがアベリアのこれまでの生き様を知った以上、彼女からの言葉を無視することはできなかったのかもしれない。
「時間がありません、急ぎましょう」
エレスィもイェネオスが立ち去ったことで諸々の気持ちに整理がついたのか、アレウスたちを急かす。
「先ほど話された通り、俺はこのまま領内のエルフを避難させます。父上も足が良くはないので、俺が付き添わなければならないはずです。あなた方は、これからどこへ?」
「ガラハと一緒に調べていた帳簿について知りたい」
「ああ、それは分かりました。エリュトロン家が『身代わりの人形』を仕入れていた仕入れ先は」
手元の紙をアレウスに握らせる。口で説明することを憚ったのは、どこかでこの会話を盗み聞きしている者がいるかもしれないからだ。図らずもアベリアのイェネオスへの叱咤でエレスィも気が引き締まったのだろう。
「え……?」
アレウスと共に手元を覗き込んだクラリエが動揺の色を示す。
「こんなこと……あるの?」
そうは言っても、続いて覗いたガラハがアレウスを見て肯くのだ。エレスィと共に帳簿を調べていた彼が肯くのだから間違いない。
紙には『クローロン家』と記されている。これが示すことは、クラリエの付き人だったエウカリス・クローロンとエリュトロン家には繋がりがあったということ。そして薬師として様々な薬効成分を研究していたエウカリスが、実は『身代わりの人形』の製紙技術を
「エレスィさん、神域はどこにありますか?」
このアレウスの質問にエレスィはやはり口頭では伝えることをせず、鞄に詰め込んでいたのであろう紙を取り出し、そこに文字を書いて手渡してくる。
「聞いたということは、行かれるということでよろしいですか?」
「はい」
「……いえ、詮索したところでどうにもなりません。森が燃えている以上、時間もそうはありません。俺に与えられている役目は同胞を守ること。となれば、あなた方が向かう先には、俺とは異なる役割を持ったエルフに阻まれる可能性があります。その覚悟は……聞くまでもないようですね」
神域を目指せば、当然のことながらそこを守るハイエルフと交戦することは確実だ。『影踏』のような“裏”の仕事を生業とするエルフたちとも遭遇することになる。
エレスィはそれ以上、アレウスたちの行動を見張るような素振りはせず、一人で屋敷の方へと走って行った。
「この渡された紙に書かれている通りなら」
クラリエが自然とある方角を見る。
「あっちってことになるけど……あっちは」
「焦げ臭いな」
ガラハがクラリエの言いたかったことを簡潔に伝える。つまり、なにかが燃えているような臭いが漂っている先が神域なのだ。
「火の気配がする方に向かうのは、あんまり気乗りのしないことだよ」
ヴェインも少しばかり尻込みしている。森で火災が発生しているのなら、辺り一帯を炎に囲われてしまえば逃げ場がなくなってしまう。
「ダムレイのあとだ。それほど火が回っていないはず」
むしろ、どうしてダムレイのあとでこれほど燃えるような臭いが漂うほどの火災が起こるのか。原理として、水を吸った大木は燃えにくい。そこにクラリエの言っていたことも加えれば、更に燃えにくい。
なのにどうしてこんなに火の臭いが立ち消えてくれないのか。
「なにがあるかは分からないけれど、来た以上は無視しないよ。来る前にその覚悟は済ませているからね」
ヴェインは森に入る前から火災についてキトリノスから聞いていたはずだが、それでも付いて来てくれている。その時点で、尻込みはしていようとも彼は彼なりにパーティとして付いて来てくれていることになる。
「危険だと思ったら各自の判断で逃げてくれていい」
「森の中だから、その逃げた先でなにをされるかも分かんないから、できるだけ固まっての方がいいよ。だから、撤退するかどうかはアレウス君が決めて」
クラリエの言うことはもっともだ。
「分かった。でも、もしものときは各自の判断だ」
アレウスには、予感があった。そして、その予感が当たる確信もあった。だからこそ、事前に伝えておく。それが恐らく、最善だと思ったためだ。
パーティとしてアレウスたちは神域を目指す。それがどれほどの距離なのかは分からないが、悪路を進んだときよりは足元はしっかりとしている。草が編み込まれた道はもっと滑るものかと思ったが、案外滑りにくい。摩擦の掛かりやすい植物を選んで作られている。
神域を目指せば目指すほど、臭いも煙も酷くなる。
「エルフがここまで混乱するものなのかい?」
「あたしには、分からない。でも、これぐらいの混乱はすると思う。エルフは長生きなだけで万能じゃない。長生きだからってなんでも知っているわけでもないし、急な事態に即座に対応できるほどの経験を培っているわけでもない。もし、培っていても……誰だって緊急事態のときは、考えた通りに物事を進ませることなんてできないよ」
走りつつ、ヴェインの呟きにクラリエが答える。
「だから、何事にだって想定外のことは起こるものだと思う」
なんとも言えないことを言われて、アレウスたちは黙り込む。足音が強く、エルフたちの悲鳴や激励の声がさながら背景音のように聞こえる。
「見えてきたけど」
炎の熱も強く感じる。クラリエの言い方だと、神域はまだまだ先に行かなければならないようだ。
「久しく我も忘れていた。やはり長生きは良くないな。色を失った記憶の中では、心に強く残った記憶すらもつまらなくなってしまう。そう、こうして思い出すような出来事がなければ」
正面に何者かが現れたので、全員が足を止める。
「ああ、まったく久しい。久しいな……いや、それはヒューマンにとっての感覚であって我にとっての感覚では、さほど久しくもないのやもしれないが」
「男の子?」
クラリエが疑問の声を零したように、立っているのはエルフの少年だ。
「……名を騙り、偽りに生きてはいても、輝きばかりは捨て去れん。産まれとは、血統とは、難儀なものだとは思わないか? クラリェット・ナーツェ」
「あたしのことを知って、っ!」
瞬時にエルフの少年はクラリエの傍に寄って、彼女の首根っこを掴むと、おおよそ少年とは思えないほどの腕力でもって彼女を引きずるように走り出しアレウスたちから距離を取った。
「連れて行け」
そして使いの者らしきエルフにクラリエを渡し、再度、アレウスたちに向き直る。
動けなかった。その速さはまさに人外。人としての加速ではなかった上に、人としての動きでもなかった。クラリエが連れ去られたことも問題だが、それを阻止できなかったことがなによりも問題だ。
敵う相手なのか。見極めが困難になってしまった。こうなると、すぐに彼女の救援に行くのは難しくなる。
「いやなに、力を求めた先が、“そういった力を持つ者”だっただけのことだ。気にしないでよい。しかしそれも随分と前のこと。そうだな……そこのヒューマンと会う前だ」
そう言ってエルフの少年が指差したのはアレウスだった。
「僕……?」
「あのときはまだ子供だったな。我の方が少しばかり背が高かっただろうか?」
「なにを言っている?」
「忘れもしない。いや、実際には忘れていたわけだが、こうして再会したことでしっかりと思い出した。これを興奮と呼ぶのなら、やはり久しく忘れていた感情だ」
「アレウス、会ったことがあるの?」
「ない! 絶対に!」
「『どうか息子だけは!』」
途端、胸が苦しくなる。
「『私たちはなにもやっていない。神に誓って、私たちは無実だ!』」
この鼓動は、なんなのか。アレウスは記憶の中にある答えを探す。
「両親は泣き叫びながら死んでいったな? それに比べ、貴様はどうだ? 右目を潰しても、左耳を切り落としても、右腕をねじ切っても、泣き叫ぶばかりで死にもしない。困ったよ。さすがに子供をあそこまで痛め付けて死なないとなると、我々も扱いに困ってしまう。だから、堕とす以外なかった」
「お、前は!!」
「貴様に我はどう映っている? あの日、我を睨み付けながら異界に堕ちて行った貴様が見た時みたいに、我は邪悪な笑みを浮かべられているか? ああ、やっと貴様にこの顔を見せられるということだな。こんなに嬉しいこともない。これこそが、感動だ!!」
声にすらならない叫び――獣のごとき叫びを上げながらアレウスはエルフの少年へ短剣を抜き放ち、その首へと振りかぶる。
「感動の対面だが、我が貴様を相手にすることはない。いや、不思議なことではないぞ。なぜなら我は、貴様を見下す側であって貴様と対等なわけではない」
アレウスとエルフの少年の間の地面に、阻むように漆黒の剣が突き立つ。
「祭りを楽しめ、アレウリス・ノールード。まぁ、異端審問を受けたときほどの感動はないかもしれないが、それでも“楽しまなければ損”、だろう?」
「アレウス!」
アベリアがエルフの少年に肉薄しようとするアレウスの片腕を掴む。そうやって後ろに無理やり引き下げたことで、突き立っていた剣がひとりでに地面から空へ目掛けて切り上げられる剣戟から彼を救う。
「ほう? ナルシェの使いの者じゃないか。なんとも早々とした再会ではないか。だが残念だ。そのヒューマンの傍にいるのなら、我が見初めたのは間違いだった。あのとき、一旦措いたことが功を奏するとは思わなんだ」
「アレウスのことは私がなんとかするから、二人はクラリエを!」
その言葉で、立ち止まっていたヴェインとガラハが瘴気によって掻き消える景色の外へ逃れ出た。
『さながら獣だな。いや、ケダモノか? どちらでも一緒か』
ひとりでに動いた漆黒の剣――その柄を握り締めて、黒騎士が現れる。左手が指を鳴らし、景色のない黒の世界に僅かばかりの灯りが点いた。
『守りたい者も、そんな感情のままでは守れない。正気に戻る気がないのなら無論、私に勝ることもない』
「落ち着いて、アレウス! お願いだから!!」
まだアレウスの頭の中は沸騰しそうなほどの熱を帯び、怒りと憎悪と、悲嘆と復讐心によってグチャグチャになっている。
『勝ることが、真実に至る道のりだとも知らず……そうして、ケダモノのまま君は死にたいのか?』
剣を黒騎士が構える。
『であれば、介錯してやるのが運命か? 答えろ、“アレウス”』




