思わぬこと
応接室で椅子に座り、森を歩いてきた疲れを癒やす。気を緩ませるつもりはないのだが、それでもイェネオスたちが森へと入ることが許された安心感で心地良い睡魔が訪れる。
しばらくして扉をノックする音と共にエレスィが入ってきたため、ほぼ落ちかけていた意識を必死に持ち直す。
「父上は老い始める以前は交易商を営んでいました。だから外の者にもさほど拒否反応がありません。それは同胞であっても、ヒューマンやドワーフに対しても」
彼がテーブルに置いた木製のコップに注がれた液体からは甘い香りが漂う。
「蜂蜜の入った紅茶です……とは言ったものの、無警戒に飲んではくださらないでしょうね」
少なくともエレスィは中立の態度を取ってはいるが、だからと言って出された物全てを素直に受け入れられるほど純粋にアベリアもガラハも育っていない。一切、手を付けそうにない二人を見て、彼はそれも当然とばかりに呟き、敢えてアベリアの前に使いの者が置いたコップを手に取り、紅茶を飲む。
「並べたのは使いの者。用意したのも使いの者。だからこうしてあなたたちの前に差し出された内の一つを飲むことで、そこに毒物や薬品が入っていないことを証明してみせましたが……それでも駄目でしょうか?」
そこまで言われ、そこまでされてしまえばこのまま飲まない姿勢を取り続けるのは無礼に当たる。アベリアがエレスィの元に置かれているコップに手を伸ばしたが、先にガラハが掴み取り、口へと運んだ。毒味役を自ら選んだガラハは口内で紅茶を滑らせるように味わい、嚥下する。体に異変がないことを確かめたのち、彼は自身の元に置いてあったコップをアベリアへと譲った。
「口に合う合わないについてはご勘弁を。俺たちはこういった飲み方しか知りません」
アベリアは一口、紅茶を運ぶ。蜂蜜を使っているため、やはり甘さが先を行く。紅茶の美味しさがあとからやって来るものの、やはり入れられている蜂蜜の量が多く、掻き消されてしまう。
「交易商をやっていた、というのは?」
アベリアはエレスィに美味しいか否かを伝えないまま、気になったことをそのまま訊ねる。
「エリュトロン家は変わり者。そう同胞たちが言っていましたでしょう? 外の者と積極的に関わろうとするエルフを、同胞たちはこぞって『変わり者』や『偏屈』と呼ぶのです。そのせいで外貨の獲得に苦労しているというのに」
少しの愚痴が吐き出されたのち、エレスィは苦笑いを浮かべる。
「ただ、そう言った変わり者のエルフは意外と多いんです。『身代わりの人形』、『栞』も父上たち交易商が外の者たちとのやり取りで輸出されています。ただ、父上はそれらの作成工程を知りません。俺も、交易商を継ぐつもりではありますが、なにかと学ぶことが多く、なによりエリュトロン家を継ぐ準備もしなければなりません。ですので、未だ外に出ることが許されておりません。よって、エリュトロン家は今現在、交易を停止しています」
「どうやって作られているかは分からないが、どこから仕入れているかは分かるはずだ」
「ああ、その通りです。仕入れ記録を見れば、それはすぐに分かります。今、使いの者に調べさせている最中です」
なにやら思っていた以上に話が早い。
「後回しにされるのでは?」
「すぐに分かることならば、さほどの労力も掛かりません。むしろ、こんな簡単な作業を後回しにすることは、どのような仕事であれ許されることではありませんよ」
「ありがとう、ございます」
アベリアは蜂蜜入り紅茶を飲み干し、頭を少し下げる。
「……イェネオスから聞きました。黒騎士とは一体、何者なのでしょうか」
「オレたちに聞かれても、知っていることは全てイェネオスから聞いているのだろう?」
「ええ、父上に話しているところを俺も聞いていましたから」
コップをテーブルに置き、エレスィは一呼吸置く。
「黒い剣に黒い鎗、呪術と馬術。そもそもの狙いが違ったとはいえ、あのキトリノスさんが逃すとなれば……俺が敵う相手ではないのでしょう」
「なにか特定の種族や人物に恨まれるようなことは?」
「特に思い当たりはしませんが、俺たちエルフは他種族に恨まれやすいので、なんとも……生き方の違い、暮らし方の違い、そういったものを俺たちはなかなか理解できないせいもありますが」
「『俺たち』と言うのなら、お前もまた同様ということか」
ガラハが鋭く切り込んだ。
「……その通りです。俺はまだ、外を知らない。外を知らないからこそ、父上のようになりたいと思っても父上のように優しく接することに疑問を抱かざるを得ません。こうして面と向かって話をしていても、腹の底で俺は常に悩んでいますよ。これがエルフにとって有意義なことなのか、それともエルフにとっての凶兆になってしまうのか、と。不安で仕方がありません。キトリノスさんがイェネオスだけでなくあなた方まで森へと行くように言ったのであれば、あなた方の調査に協力的な姿勢を見せたということになります。ただ……たった一人のエルフの判断で、森の全てのエルフが不安視する現状はあまりよろしくはないのです」
本音を語るエレスィが床を向いて、深く息を吐き出した。
「ですが、俺個人としてはありがたいことではあるのです。父上しか知らない外の者を、こうして見て、聞いて、知ることができている。これはきっと交易商を目指すのであれば将来に向けて大きな財産になります。難しく考えず、あなた方の生き方や話し方、考え方を知ることで、俺自身が学ぶことも多いはずです。だから……俺は俺が目指す将来への気分の高まりと、同胞たちが抱えている現在の不安を天秤に掛けている状態なのです」
私的な判断を優先すべきか公的な判断を待つべきか。エレスィはそのどちらにするべきかで悩んでいるようだ。
「せめてダムレイだけであれば……」
自然災害に備えてイェネオスたちと一緒にアベリアたちが森を頼ってきていたならば、これほどに困ることはなかった。そう言いたいのだろう。
ダムレイもまた脅威だが、対策の立てようはいくらでもある。なにせこれまでの経験があるのだ。なにをどうすれば、危険の中で安全を確保できるか。先達者の知恵を借りればいい。しかし黒騎士ばかりは初めての脅威であり、いつ身近に迫るかも分からない死の予感に震えなければならない。
「あまり来客に泣き言を言うと、父上に怒られてしまうんですけどね」
「あなたの悩みは、当然のことです。私たちだけでなく、黒騎士という要因まで加わってしまえば、エルフに限らずどこも頭を悩ませる。あなた方の立場をヒューマンやドワーフに置き換えて考えてみても、受け入れることの方がリスクが大きい。それでも受け入れる選択を取ったエリュトロン家に私たちは感謝することしか、できない」
普段から話をアレウスに任せ切りなため、言葉選びに苦労する。なによりも緊張で言葉の一部が途切れてしまう自分自身に苛立ってしまう。
「エレスィ様、お話し中のところ申し訳ありませんが、よろしいでしょうか?
使いの者が開いたままの応接室の扉をノックしつつ了解を求める。
「ああ、別に構わない」
「仕入れ記録についてなのですが、こちらに記載されているはずなのですが」
「はずなのですが……?」
手渡された帳簿をエレスィが眺める。
「……誰の手でも触れられるところにあるわけではないが、家に住む者、働く者ならば帳簿の場所ぐらいは知っているはずだな?」
「はい」
「こうも都合の良いことが起こると思うか? 俺は思わない。だが、これについて責任の所在を求めたり、犯人探しをするつもりはない。以上だ」
「総出で、他の帳簿に記載がないかも調べておりますので」
「その働きに感謝する」
申し訳なさそうに使いの者がアベリアたちに頭を下げ、それから廊下を走って行った。
「あなたたちにとっては良くないことが起こった」
「帳簿になにかあったのか?」
ガラハが問うとエレスィがすぐに肯く。
「ええ、こちらをご覧ください」
「……見ても構わないもの?」
「一部を見せて納得させようにも、これについては信用を得られません」
しかし、エレスィは帳簿の見方を知らない。そして書かれている文字がエルフの用いる独自言語であるため、やはり読むことはできない。
「俺は嘘偽りなく、あなた方に全てをお伝えします。この項目が『身代わりの人形』と『栞』を表しているのですが」
指差しながら見せてきた部分をアベリアとガラハがジッと見つめる。
「この項目の縦軸には仕入れ値、売り値、販売数、売上……他にも項目はあるのですが、仕入先と納入先を記載している部分があります」
「空……白?」
エルフの文字が二つの項目の最後の二つの縦軸にのみ、なにも記されていない。
「これはあり得ないことです。現に他の項目には全て記載されているのに、『身代わりの人形』と『栞』だけ仕入先が不明なままなのです。こういった帳簿への記帳は何冊にも渡って行っていることですので、他の帳簿も探れば仕入先が分かるはずなのですが」
エレスィは帳簿をゆっくりとテーブルに置いて、項垂れる。
「他の帳簿で分かったとしても、俺はショックですよ。現行で用いているはずの帳簿に記載漏れがあるなんて……いや、これがもしも記載漏れなどではなく、なにかしらの力が働いているのだとすれば……他の帳簿にも無記載のままになっている可能性があります。いえ、この二つの項目について書かれている部分だけを正確に狙って、何者かが改竄した可能性もあります。この帳簿は紙を挟むもので、元から編まれているものではないので」
「父親に直接聞くことは?」
「できますが、父上は俺よりも使いの者には優しくありません。責任追及を行い、下手をすれば多くの使いの者を家から追い出すやもしれません。俺が幼い頃から世話になっている者たちばかりなのです。そんな目には、遭わせたくはない」
「産まれながらに、働き方が決まっている、みたいな?」
「知っての通り、長命ですから。俺たちは長年、積み重ねた信頼と経験で働きます。仕事を失うということは信頼と経験を喪失するのと同義です。同胞はどこも拾いません。ましてや、エリュトロン家から追い出されるとなれば相当のことをやらかしたのだと思われるに決まっていますから」
帳簿を閉じ、エレスィはテーブルの手元に届く位置へと滑らせる。
「もしかすると長引くかもしれません。変に期待させてしまって、申し訳ありません」
「一体、誰がそんなことをする?」
ガラハが呟く。
「それをして、なにか得るものがあるか? 場合によっては仕事を失うかもしれない。なのに、そうまでして帳簿の記載漏れを放置する。そのことに一体、なんの意味があるんだ?」
「それは……分かりません」
「分からないのなら、調査すべきだ。俺たちのことよりも先に、この家に住まう何者かの犯行か、それともどこかからの妨害か。それが分からない限り、誰もが疑心暗鬼になってしまう。疑いの心は、人を狂わせる。そうならない内に調べた方がいい」
その言葉を聞いてエレスィは「お時間を取らせることになりますが」と言いつつも、納得したように肯いた。
それからエレスィが応接室をあとにし、使いの者によってアベリアたちはエリュトロン家の領地にある内の一つのログハウスに案内される。
「同室になるかと思ったが、そうならないようで安心した」
ログハウスに部屋は二つあった。しかし、二つに分けたことで部屋自体はとても狭い。寝て起きて、着替えるだけのスペースしかないが、眠れるのなら文句はない。
「私は別に構わないのに」
「オレはアレウスに色々と詮索されるのが嫌だからな」
「……ああ、そういうこと」
「あいつにはオレの癖を語ったが、アベリアのことになると小うるさくなるのは目に見えている」
呆れるように言いつつ、ガラハは自身にあてがわれた部屋へと消える。
「……はぁ、早くアレウスと合流したいな…………」




