退避
認識阻害の魔法がある限り、アレウスたちはイェネオスのあとに続かなければ集落に入ることができない。地点を記憶できていればまだ良いのだが、集落へは馬車で運ばれてしまっているため地図での把握すらできていない。
彼らが視界から消えたとき、それ即ち集落へ入った瞬間であるため、それほどの障害になることはなかったが、彼らより先に集落の状況を知ることができない。
それこそが一番、危惧していることだった。なぜなら、そこでなにが起きているか分からないどころか、被害がどれほどのものかも掴めない中では当事者たるエルフたちが目にしてはいけないものを目にしてしまう可能性があるからだ。もしもアレウスたちに先に入る方法があったなら、エルフにとって衝撃的な光景を見させないようにすることだってできたはずなのだ。
集落では、なにも起こっていない――はずもなく、あちこちの家屋に倒壊が見える。死人がいるかどうかはまだ分からない。だが、黒騎士の気配がないということは既に彼の者はこの場でやることをやったということになる。
黒く変色した地面、僅かに残る黒い霧は燻った火の臭いを鼻に残す。これはアレウスがついさっき経験したことに過ぎないが、こんな微かでしかない瘴気であれば吸ったところで体に影響はない。吸い続ければ死に至る点は致死量も含めて毒と同様だが、微量であれば吸ったところで体外に排出される点もまた同様なのだろう。しかし、吸わないで済むなら吸わない方がいい。
絶望、惨状、悲劇。そういったものがもっと大きくアレウスたちの視界に飛び込むと思っていたが、これはこれで拍子抜けである。確かに家屋は倒壊している。あちらこちらで悲鳴も聞こえる。だが、想定した惨状よりも圧倒的に軽度である。
それとも、アレウスの思う悲劇や惨劇が現実よりもずっとずっと重すぎるのだろうか。なにせイェネオスは言葉を失い、何人かのエルフはその場に崩れ落ちている。
「長年の平穏が私たちを甘くした」
キトリノスは眉間にシワを寄せ、激怒を全身で表現しながらイェネオスの元へと歩く。
「いや、私という存在を弱くした」
握り拳は固く作りすぎ、爪が手の平に喰い込んで血が流れ出ている。
「父上……母上は?」
「無事だ。しかし、黒騎士はこの私の前に確かに現れた……イェネオス? お前は一体、どこでなにをしていた?」
「私は『森の声』からの連絡を受け、外で黒騎士の痕跡を調査していました」
疑惑の眼が向けられる。
「まさか、私を疑いで?!」
「僕たちは黒騎士と接敵しました。イェネオスさんの言っていることは真実です」
キトリノスがアレウスの真正面に立つ。凄まじい威圧感だが、一歩も引かない。
「目撃者は多数います。一人一人に聞いても、同じように言います。イェネオスさんは嘘偽りなく、僕たちと黒騎士の痕跡を調査し、黒騎士と接敵し、逃げられました」
「……ならば逃げた黒騎士が私たちの元に現れ、このように集落を襲ったとのか?」
「瘴気――黒い霧のようなもので行方をくらまし、奴は移動したんだと思います。それもゲートのように瞬時に場所を移動するものです。黒い地面は、黒騎士のゲートの基点なんです。基点としている場所なら、瘴気を伝って瞬間的な移動を可能にしている……どれほどの距離でそれが可能なのかは不明です」
「接敵しただけで、ゲートと判断できるその感覚を貴様はどう説明する?」
「僕が知っている中で、似た移動をする者がいます。同時に、僕たち冒険者はゲートの利用が最近になってそう難しくならなくなりました。そういったものを見ているからこそ、黒騎士の消え方について自分で納得できる答えを導き出すと、それしか考えられません」
セレナの“闇を渡る”ことも、ひょっとしたらこれに近しいものなのかもしれないが、あれには一応ながらの数秒の時間と縦の移動は難しいという制限がある。黒騎士の瘴気を渡る移動が無制限だとはとてもではないが思えない。
「ただ、ゲートで移動したとはいえ、これほどの短時間で集落に被害を及ぼすことは……とてもじゃありませんが、できないとも思います」
移動して、集落をすぐに攻め立てたのだとしてもあまりにも手際が良すぎる。それどころかキトリノスが黒騎士と戦ったのであれば、その間にアレウスたちは戻って来られるぐらいの時間は経つはずだ。
「これは僕の仮説に過ぎないのですが」
「黒騎士は二人いる。そう言いたいのだろう?」
「……はい」
「でなければ説明が付かない。どれほどの速度で移動が可能だとしても、これほどの短時間ではなにもかもが間に合わない。しかし、幸いにも誰も死んではいない。だが……」
キトリノスは空を見る。
「見て分かるように、ダムレイに備えて建物の補強や備蓄を行っていたのだが、そういった一切が駄目になってしまった。黒騎士の狙いはそれだけだった。そうすることで私たちが泣き付くところがどこかを、よく知っている」
「……ダムレイに耐える補強はすぐにでも行えますが、備蓄ばかりは……私たちは森に避難する以外の手立てがありません」
「そうだ。イェネオスの言うように、私たちは森へ退避しなければならない。ただし、ダムレイについての備えを十全にしていなかったと言えば森へ入ることは許されるかもしれないが、黒騎士による攻撃を受けたと伝えてしまえば……許してはもらえないだろう」
「危険と隣り合わせの集団は切り離す、と?」
「ヒューマンにおいても同じだろう? 危険を連れてくるような集団を匿う理由などないのだ。これはエルフだから、ではない。どんな種族も、私たちのような存在との縁は切るものだ」
「同胞と手を組み、危機に立ち向かえませんか?」
「それが出来るのなら、私たちは森の外で暮らしていないし、追放される者もいない」
イェネオスの頭をキトリノスが撫でる。
「疑って悪かった、イェネオス。私はどうも気が立っているようだ。私の後継はお前しかいない。立派に、この集落の者たちを束ねられるようになってほしいと思って、無理なことだけでなく語気を強めてしまう」
その反省の言葉にイェネオスは肯くように小さく首を縦に振る。
「私が至らぬせいで、父上に心配ばかりさせてしまっているせいです。父上が悪いわけではありません。それより、母上は?」
「先ほども言ったが、案ずる必要はない。奴の目的は命を奪うことではなかったのだから」
甚大な被害は出なかったが、それはあくまでも黒騎士がそうしなかっただけに過ぎない。彼の者には絶対的な自信があるということだ。
「そこまで母親のことを心配するのかな」
ヴェインが極めて小さな声で呟く。
「キトリノスさんの奥さんなら、気骨のあるというか、相応の人だろうと俺は……いや、だって戦闘民族ではないから決して、戦いに向いていないエルフもきっといるとは思うんだけど」
無粋なことを言ってしまったと理解しつつも、ヴェインは口について出た疑問を最後まで出し切る。
「病床に臥せっているの」
アベリアが疑問を解消するべく答える。
「ちゃんとは教えてもらっていないけど、ベッドから起き上がることができないんだって」
「それは……事情も知らずに呟いてしまったことを神に懺悔しなければならないな。教えてくれてありがとう。これで俺は、大事な場面でキトリノスさんたちを傷付けずに済む」
「事情を知らない上での失言など気にするに値しないだろう。知っていて失言したわけでもないのだから」
ガラハが自戒しているヴェインを慰めるように言う。
「イェネオスは森へ行き、退避できないかどうか交渉してくれないか?」
「……父上の方が相応しいのでは?」
「私はここに留まる」
「母上のため、ですか?」
「彼女は動けない……動かすことも、負担になるだろう。ならばここで静養させるのが一番だ。しかし、一人切りになどさせるわけにはいかないだろう? それに、私は無断で森から出て行った。今更、森に帰ったところで話など聞いてはくれないだろう。だが、お前は別だ。テラー家であっても、キトリノスの一存で森を出るしかなかったと言えば、耳を傾けてくれるはずだ」
「それでは父上を悪者にしてしまいます」
「皆を守るためなら、悪者にだってなろう。元より嫌われ者ばかりが集っているのだから、その中でも森一番の嫌われ者が悪者になるのが森の奴らには都合がいい」
キトリノスはガラハとアベリアを指差す。
「そこの二人を連れて行け。片方は妖精に、もう片方は精霊に愛されている。ドワーフやヒューマンであっても、そういった存在には一応ながらエルフは森へ通してくれはするだろう。貴様たちも、森の中で調べたいことがあるのならこの提案を飲まない理由がないはずだが?」
意外にもキトリノスはアレウスたちの要望を知っていた。イェネオス経由で知る機会があったのかもしれない。
「あたしとアレウス君、ヴェイン君はお留守番かぁ」
「俺は信仰心はあれど、神樹への畏敬の念を抱けるかどうか怪しいから仕方がないさ。付いて行ったとしても、ヒューマンは多神教であってもエルフは神樹信仰なんだから、唯一無二の信仰以外を信仰する者なんて認めてくれない気がするよ」
「僕はそもそも、この右腕が許されない。ドワーフの里に向かう際に妖精の魔法で右腕を封印されたこともあったが」
チラリとガラハを見る。
「アーティファクトの封印など、複数の妖精が集まってできることだ。スティンガーだけに期待するな」
傍を飛ぶスティンガーもやれやれと言った具合で首を横に振って見せた。
「人のこと言えないんだけどね、あたしも。呪われているし、エルフの森にとっては大罪人だし」
エウカリスを名乗り続ける限り、クラリエも森には入れない。しかし、たとえクラリェット・ナーツェと名乗ってもダークエルフになった彼女を森に住まうエルフがすぐに彼女と断定できるかどうかも不明なままだ。そんな微妙な状態で足を踏み入れて、『偉大なる賢者の娘の名を騙るな』と言われて酷い目に遭いかねない。
キトリノスから鈴を受け取ったイェネオスがそれを鳴らし、一部のエルフたちが同じように鈴の音を鳴らしながら襲撃されながらも無事だった建物へと向かって行った。
テラー家だけで全てが決められることはない。集落に住む家主のエルフたちとの話し合いの場で二人の提案は論じられる。通るか通らないかはエルフたちが決めることだ。
「森の中に入れないんじゃ、僕の短剣については調べようがなさそうだな……」
「『身代わりの人形』についてはちゃんと調べるから」
横でアベリアが意気込んでいる。
「頼むよ」
「最近、あんまり一緒にいられない……」
同時に不満も口にする。
「こればっかりは文句を言ったところでどうすることもできないよ」
「分かってるけど……毎晩、落ち着かなくて。知らない内に、アレウスがいなくなっていたら……どうしよう、って」
それは普段からアレウスが抱えている悩みでもある。
「僕も、気付いたらアベリアが離れてしまうんじゃないかと震えることがあるよ」
「そんなの絶対にない」
「だろ? だったら僕だって絶対にいなくならない」
「……うん」
くすぐったい気持ちを必死に抑えつつ、アベリアの不満を鎮ませる。
「ま、アレウス君がどっか行ったとしてもあたしが地の果てまで探し続けてやるから安心してよ」
「安心できないくらいには恐怖があったんだが」
「それぐらいの執念は燃やす気でいるってことだねぇ。馬鹿なことができないって覚悟しておきなよ」
そのようにおちゃらけているが、この場で一番不安を感じているのはクラリエかもしれない。彼女にとっての故郷がすぐ近くにあり、しかしながらその故郷に帰ることが許されない。それどころかもし帰ったとしても、以前のように迎え入れられる可能性も低い。
ダークエルフであってもエルフはエルフだ。なのに同胞に分かってもらえず、手を取ることさえしてもらえない。アレウスと違ってクラリエは人懐っこいが、決して一人切りの時間が短かったわけではない。
むしろ一人切りの時間が長かったからこそ、人と接する機会を得てから一気に人懐っこくなったのだろう。そして、今はアレウスたちから離れたくないと思っている。そうなると彼女はもう孤独には耐えられないだろう。
「黒騎士の特徴について話したい。二人以上という場合も考えられる」
キトリノスが提案する。
「私が見た黒騎士は漆黒の鎧を纏った騎馬を連れていた」
「僕たちが接敵した黒騎士は馬を連れてはいませんでした。瘴気を纏った剣を手にして、呪術を唱えることができます。篭手で攻撃を防ぐだけでなく、魔法にも僅かですが耐性があるようにも見えました」
「では、瘴気の鎗を持っていたわけではないのか……こちらに来た黒騎士は魔法や呪術の類は使うことができないようだったが、認識阻害の魔法を外側から切った。あの瘴気の鎗にはエルフが鋳造した魔法の力が込められているに違いない」
「それは、霊的な存在にも攻撃が可能な?」
「エルフの間ではさほど珍しいものではない。ヒューマンに限らず、冒険者の間では武器として並ぶこともあるはずだ」
「……となると、それで正体を確定することはできませんね」
一人……アレウスの記憶にその鎗を持つ者がいるのだが、その者はルーファスやアニマートと帝都で活動していると聞いている。そして、その者は黒騎士とは程遠い存在でもある。
鎗が珍しく、手に入れることが難しくとも流通さえされているのであれば黒騎士も手にすることもある。
「剣と鎗、呪術と馬。こうも異なるとなれば、やはり二人か。この特徴以外の者が黒騎士と現れた場合は三人、四人と増えていくことになるな。これらは『森の声』で集落のエルフに通達させておく。それと、先ほど『森の声』による連絡があったが、エルフを庇って黒騎士と戦うことになったらしいな? 感謝しておこう。貴様たちの無謀な手助けにより、同胞の命が救われた。ありがとう」
余計なものを付けつつ、キトリノスは感謝の意を示す。テラー家当主としてはヒューマンに助けられたことを真っ直ぐには感謝できないのだろう。この辺りが、自身の種族以外を見下しているという他の種族間における一般的なエルフの常識に繋がる。もし、そこに語弊や齟齬があるのならエルフはある意味で損な性格と生き方をしていることになる。しかし、指摘したところで言うことを聞くわけもなく、憂いたところでアレウスにエルフの存在意義を変えるといったような強い信念はないため、胸の内に思い留めておく。
一陣の風が駆け抜ける。確かなダムレイの気配を感じつつ、一同は一刻も早い事態の解決を願う。




