夜の川辺にて
帰宅後、自室で過ごしている間に日は落ちて、ランタンに火を点けて明かりを得る。廊下の壁の取っ手に掛けているランタンにも火を灯しつつ、リビングに行き、夕食の支度を始める。途中でヴェインが手伝いに来て、ガラハが帰ってくる頃に大体の調理を済ませてテーブルに並べる。玄関で靴の土を落としているガラハに今日のことを話し、部屋の掃除は意識して行うように促した。
「私たちはさっき沐浴を済ませてきたから、アレウス君たちも時間を作って行って来ていいよ」
アベリアとクラリエ、そしてリスティが沐浴を済ませ、夕食の前に各々の自室に行く。髪を整えたり、拭いたりと色々とやることがあるのだろう。
「アレウス、俺たちは先に食べておくから」
「分かった」
風呂釜は使えるのだが、まだ薪が足りていない。燃料は無限にあるわけではなく、少しずつ備蓄しなければならない上に調理でも使ってしまう。一日の入浴のために蓄えていた薪を全て消費するにはまだ早い。そして気も早いのかもしれないが、今年の寒冷期に備えるのだ。さすがに寒冷期にそう何度も森林や山場へと足を踏み入れずに、薪割りという作業だけで大体が解決する状況にしておきたい。そうなると、川に入れる時期なのだから、そこで汗を流してしまった方が節約になる。
アレウスは自室で沐浴の支度を済ませて、リビングで食事を始めているヴェインとガラハに再度の確認を取ってから家を出た。
「今日は色々とあったな……」
呟きつつ、借家時代に使っていた川とは別の方角の川を目指す。日も落ちているのでランタンの灯りを点けているが、これだけ暗ければ沐浴の最中に他人に肌を見られることも、そして他人の肌を見ることもないだろう。
大勢と沐浴をするというのは、どうにもアレウスは受け入れられないでいる。それに比べてアベリアはクラリエやリスティと一緒だったので、適応できているようだ。
「僕よりアベリアの方が独り立ちできそうだな」
それもこれもアレウスが同性に対しても心の距離を詰めようとしていないからだが。精神面ではアベリアの方が先に進んでいる。しかし、彼女のように無理に追い付こうとすれば、周囲から気味悪がられるのは自明の理だ。
木陰で服を脱ぎ、川に入る。流れは緩やかではあるが、深みに足を踏み入れないように注意する。どれだけ緩やかな川であろうとも、気を抜いた行動一つで溺れてしまう。シンギングリンは川が複数ヶ所にあり、井戸もあるため水には困らないが、同時に子供の水難事故は頻発しやすい傾向にある。それを考えると、エイラが備え付けの蒸し風呂や屋敷の中の風呂釜を利用しているのは、彼女の両親なりの気遣いなのではないだろうか。
「それにしたって坑道に入ったときは愕然としただろうな。僕じゃなくても、あの人が助けていたかもしれないけど」
エルヴァージュの助けがなければ、彼女はひょっとしたら死んでいたかもしれない。
「エイラやジュリアンみたいな子供に振り回された日々だったな」
冒険者らしいことをしているかと言えば、していない。異界の調査だって出来ていない。コロール・ポートに行く前はまだもう少し、冒険者らしかった。そう思いながら、アレウスは空に輝く月と星を眺める。
赤い月にも振り回されたくはない。アレウスは悪魔憑き、そしてガルダと二人の命を自分の判断で奪った。今日、忠告を受けたように徐々に人を殺すことへの抵抗感は抱き続けるべきなのだろうか。
「いや、そもそも僕は……それに、エウカリスに教わったせいもあるのか? いや、人のせいにしちゃ駄目だけど」
異界での生活の時点で、アレウスは色んな命に干渉してしまっている。そして、ヴァルゴの異界でアレウスが学んだことは“亜人を殺すこと”だった。人の姿をした魔物を殺すと決めたときに、もう箍は外れつつあったのかもしれない。
川の水を手ですくい上げるようにして肩に掛け、それから顔を水に浸けて、髪の毛を水で濡らす。両手で揉むように頭皮を擦り、息継ぎのために顔を上げる。
考え過ぎると、自分のやってきたことを悪いことのように捉えてしまう。それがアレウスの悪い癖だ。悪魔憑きは誰かが殺さなければ被害が甚大化していた。ヴァルゴの異界ではエウカリスの言い付け通りにクラリエを守らなければならなかった。ガルダと戦ったときには、シンギングリンを守るだけでなくアベリアと、なにより自分自身の詰めの甘さに決着をつけなければならなかった。
なにも悪くないとは言わないが、そうしなければならない理由があった。それでもまだ罪悪感に悩まされるような日々が続くようなら、アレウスはクルタニカの働いている教会の懺悔室で話を聞いてもらった方がいいだろう。
「おや、奇遇ですね。アレウリスさん」
「……奇遇なわけあるか。ずっと尾行していただろう」
木陰から現れ、アレウスの近くに座ったジュリアンを嫌うようにしてアレウスは距離を開く。
「バレていましたか」
「君のことだからバレることも考慮の上で話し掛けてきたんだろ」
「まぁそうですけど」
「沐浴に合わせるなんて、なんの用だ?」
「聞きたかったんですよね。なんで僕のことを女だと思わなかったのか」
そう言いながらジュリアンは立ち上がり、アレウスに生まれたままの姿を晒す。
このように素肌を晒されたことはクルタニカのときにもあったが、ジュリアンを前にして動揺も興奮もない。男だと分かっているのだから、混乱もしない。ただただ、男に向かって裸を見せてくる怪しい性癖の持ち主なのではという気色悪さを感じずにはいられない。
「僕は、色んな人から女っぽいと言われるんですよ。どれだけ主張したって、こうして裸を見せなきゃ大抵の輩は信じてはくれない。でも、だからってどこの誰とも知らない輩に裸を見せるわけにもいかない。厄介ですよ、女っぽいというのは」
「つまり、男らしさに憧れると?」
「そういうわけでもないんですけどね。ただ、男なのに女と間違われるのは、やっぱり苛立つものです。なので、最初から僕のことを男だと思っていたアレウリスさんは、どういう風にして僕を男と見抜いたのか聞きたいんですよ」
「……高尚な話でもなんでもない。あと、さっさと体を隠してくれ」
人の裸をまじまじと見たいとは思わない。
いや、とアレウスは頭の中で僅かだが否定する。これでジュリアンが正真正銘の女であったなら、まじまじと見ていただろう。クルタニカの裸を見たときのような、言いようのない様々な感情に頭が混乱したときとは違って、ただ欲望のままに眺め続けていたに違いない。あのときとアレウスの性衝動は変わってしまっている。自身の中にある性的好奇心と興奮を抑えられるか、もはや分からない。
「それで、どうして分かったんですか?」
体を隠すために川の水に浸かり、ジュリアンが訊ねる。
「僕だけかもしれないけど、いわゆる男の本能」
「本能?」
「僕は女性に会ったときに、顔を見ていても一瞬、本当に自然と目が胸に行ってしまう。後ろからなら背中を見てから臀部を見てしまう。君と初めて話をしたとき、僕はそんな風に目線が動かなかった」
「胸のない女性も世の中にはいらっしゃいますよ?」
「それでも、なにか女性の発している気配とか雰囲気とか、あとは香りに反応しているのかもしれないけど僕は顔を見て胸を見てしまう」
「へぇ、自身の性衝動で男性と女性を判別しているんですか」
「いや、別に僕だけってわけじゃないだろ。君だって、男女を判別するときには分かりやすい部位を見るんじゃないのか?」
「でも僕は顔を見てから自然に胸を見たりはしませんね。ああでも、アレウリスさんの判別方法を否定しているわけじゃありませんよ? むしろ世の中の男性なんて、大半がそうやって判別しているんじゃないでしょうか。とはいえ小綺麗な見た目をしているだけで女性と判別するような厄介な輩もいて、僕のように別の意味で身の危険を感じるわけですが」
「男に狙われるのか?」
にわかには信じがたいが、ジュリアンの場合はあり得そうな話である。
「そうですよ、やってられませんよ。僕は……まぁ、もう人を好きになるとかそういうのは、どうだって良いんですけど」
「十二歳でなにを言っているんだ」
「ヴォーパルバニーと戦った冒険者を見たことがあると言ったじゃないですか?」
「ああ」
「その前に、僕のことを本当に大切にしてくれていた親戚のお姉さんがヴォーパルバニーに首を刎ねられたんですよ」
「……よくある話だ」
「ええ、本当に。よくある話ではありますけど、僕の恋心はそこで一緒に刎ね飛ばされました。冒険者を見たっていうのは、いわゆる仇討ちの気持ちがあったからです。なんとしてでも、僕の手であの魔物を殺してやるんだ……そう意気込んではみたものの、僕は結局、冒険者が戦っているところを隠れて見ていることしかできませんでした。情けない話です……情けないからこそ、人に対して無感情になりました。いや、ちょっと違いますね。恋するとか、愛するとか、そういう異性に感じるような当たり前のものを抱くことをやめました」
「やめられるものなのか?」
「僕には異性を魅力的に見るとか見ないとか、興奮するとかしないとか、そういうのはまだまだ早いことだとは思っていますけど、アレウリスさんが抱くような一般的な男性の思考回路が壊れているっぽいんです。可愛い同い年の女の子を見ても、頑張って興味を持ってもらおうとか、なんかカッコつけてやろうとか、全く思いません。可愛いなー、綺麗だなーって思って、そこで完結するんです」
「それは別に、やめたとか完結したとかではなく、年齢的な問題じゃないか?」
十二歳が性別に対し悟っているわけがない。ジュリアンはただ過去のトラウマからそういった一切を拒んでいるだけだ。それも時と共に薄れていき、性欲が上回るときが来る。彼には未だ思春期すら訪れていないのだ。
アレウスですら『性欲』を消した異界から生還してから、徐々に回復しつつある性欲に悩まされている。
「きっといつかはそうなるんでしょうけど、今のところは全然ですね。こんなこと言うことでもありませんけど、その親戚のお姉さんを僕は物凄く好きだったんですよ。もう六年……ひょっとしたら七年も前のことなのに、まだ僕はその人が生きているんじゃないかと妄想してしまいますよ。あり得ないのに、もう会えないのに、信じられないほどに僕は想像してしまう。夢にまで出て来る。時折、目を覚ましたことを後悔するほどに」
「重症だな」
「子供ながらに、僕もそう思います。なんで僕は、あのお姉さんのことをこんなにも忘れられないで、今も生きているんだと妄想するのか。ひょっとしたら僕は精神を患っているのかもしれません。けれど、患っている割には現実の僕は元気なんですよ。だったら、なにもしないよりはなにかをしている方がマシなんです。なにもしていなかったら、唐突に置いてきたはずの妄想が僕を追い掛けて来る。振り払っても振り払っても、何度も何度も……」
だからジュリアンは生き急いでいる。年齢を偽ってまで冒険者になりたかったのも、妄想を振り払って走り続けるためだ。
ただし、そのために必要な手順を素っ飛ばすのは間違っている。
「ジュリアンを不合格にするように進言したのは僕だ」
「知っていますよ」
「でも、来年にでもなんとかテストを受けられるよう進言もした」
「それは初耳ですね。僕って人の神経を逆撫でするというか、自分でも分かるくらい性格が悪いので、きっとそういうのは無いだろうなと思っていたんですけど」
「性格が悪いのと冒険者に不適格かは別の話だからな。性格が捻くれていても冒険者はやれるものだし」
「アレウリスさんのように? いやぁ、僕はアレウリスさんのように我慢できる人間じゃありませんよ。気付けば周りを敵にしてしまう感じなんで」
ジュリアンは川の中に一度、全身を沈ませて、数秒してから浮上する。
「でも、敵を作ると分かっていても敵を作る発言をしてしまうのが僕なんです。言って、アレウリスさんにはかなり注意を払って喋っているので、かなり抑えられていると思っていますけど」
「分かっていたって自我を貫き通すのは必要なことだ。迎合したって息苦しかったら意味がない」
「そうやって言ってくれれば、ちょっとは気も休まりますよ。テストの時は、どうやって僕をパーティに引き込んだ連中を出し抜こうか考えたばかりでなく、どうにかしてガルムやハウンドと戦って死んでくれないかと考えたりもしたくらいですから。実行はしていませんよ? でも、考えてしまうのが僕なんです。実行してしまいそうな危うさを持っているのも僕なんです。そして、きっと僕は実行して怒られても、それを後悔しない。いつかその瞬間が訪れるのではと、考えるたびに怖くなる」
「考えている内は訪れないだろ。そういうのは、考えていないときにやって来る」
随分と話し込んでしまったが、これ以上、川の中にいては体を冷やし過ぎる。寒さだけなら温かくすれば済むが、内臓まで冷やすとお腹を壊してしまう。
アレウスは川べりに向かうため、立ち上がる。
「……アレウリスさんって」
「なんだ?」
「いや、見掛けによらず相当だな、と。僕なんかじゃ歯が立ちませんよ」
「なっに、を! 比べた?!」
「そりゃ、男性の象徴を」
「……これだから」
これだから、人と一緒の沐浴は嫌なのだ。そう思いながら、アレウスは川から上がり、布で水気を拭ってから衣服を着て、その場をあとにした。
「六、七年前……か」
また、その歳月を耳にした。その年は、アレウスが異界に堕ちた年なのだ。
「まさか『異端審問会』が関わっているのか……?」
彼が慕っていた女性を襲った悲劇。そこにもし『異端審問会』が関わっているとなると、ジュリアンに自由にさせているのは危険かもしれない。




