ヴォーパルバニー
悪夢でも見ているのかと思う。夢ならば覚めてくれと願う。
そんな彼らの願いを魔物は踏みにじり、見習いの一人の首が確かに転がっている。
魔物にしては愛くるしく、可愛らしい。野兎に比べれば一回りどころか二回りほど大きいが、見た目からは怖れる要素などどこにもない。むしろ大きさは可愛さを増大させている。これが、“ただの兎であったなら”の話だが。
血飛沫を浴び、赤い目で見習いたちの動向を窺いながら、兎は首のない見習いの死体に近付き、血肉を喰らう。草食動物とは思えないあるまじき行動と、更には仲間の首を容易く刎ね飛ばした事実を、見習いたちはすぐに受け入れることができず呆然自失に陥っている。
それを隙と言わないならば、なにを隙と呼ぶのか。兎は止まったままの見習いたちを嘲笑うかのように耳を、口を、体を動かして、明らかな邪気を放ちながら自慢の両脚を使って勢いよく跳躍する。
「アベリア!!」
「『接続して』」
アベリアがクルタニカとの念話による緊急連絡を図り、アレウスが全速力で駆けて見習いに飛び掛かろうとした首刈り兎を蹴り飛ばす。思わぬ一撃を喰らって、首刈り兎は地面に転がるもすぐに起き上がり、赤い瞳がアレウスを捉える。
「なんでこんな……なんで」
「ただの兎だと思ったのに」
ただの兎が、魔物の跳梁跋扈する場所に生息しているわけがない。そんな当たり前の常識すらこの見習いたちは備えていないのか。
「ああクソ……クソ、どうしたらいい」
ヴェインが天に祈るように空を見上げながら呟いている。アレウスに続きはしたものの、彼の戦意が大きく喪失していることを感じ取る。
「私に、あれを殺せって言うの……御免、アレウス。あたしには、それを攻撃することはできない……かも」
クラリエまでもが弱音を吐いている。
「一体、なににそんなに怯えているんだ? ヴォーパルバニーだろ?」
「ヴォーパルバニーだからだよ!」
ヴェインが声を荒げる。
「そうか……君たちには見えていないのか。俺たちは魔の叡智に触れているから霊体が見えている。ヴォーパルバニーには、憑いているんだ」
「悪魔憑きと同様か?」
「そんな生易しいものじゃない!」
悪魔憑き――悪魔のことを生易しいと言い切る彼の言動は、明らかに乱れている。
「あたしも、呪いを受けた身だけど、恨み辛みを吐き捨てても魔力を残している以上は、祈りを捧げたことがある。祈った以上は、加護を受けたことだってあるから逆らうことはできやしない」
「お前たちはさっきからなにを言っている? スティンガーが一瞬で遠くへ飛び立ったこととなにか関係があるのか?」
「私だって神に祈りを捧げたことくらいあるわよ? でも、それところが一体なにに繋がるって言うのよ」
ニィナがヴォーパルバニーに牽制するように矢を放ち、ともかくも接近を阻止する。
「俺なんかは僧侶だし、敬虔なる信徒だ。神の教えを説く者でもある。それはきっと神官でも変わらない。魔力を持って神に祈ることと、魔力を持たずに神に祈ることの違いがこんなところで現れるなんてね」
「遠回しな表現はするな。分かりやすく言え」
ヴォーパルバニーは誰を狙おうかと品定めしているように見える。いつだって飛び掛かる余裕を持っている。あの跳躍と脚力であれば、間合いを詰めるのも一瞬で、同時に距離を取ることも難しくない。兎としての性質を持っているのであれば、とにかく後ろ脚には気を付けなければならない。
「アレウス、クルタニカが言っていたけどヴェインとクラリエは下がらせなきゃ駄目みたい。私は様子を窺いつつ、あまり手を出さない方が良いって」
念話を終えたアベリアがクルタニカからの指示を伝えてくる。
「あと、クルタニカがここに来るのは絶対に無理だし、中級以上の冒険者も神官や僧侶、少数のエルフの冒険者は近付けないし、ドワーフも妖精を連れることは難しいって」
「なんでそんな……?」
「神には逆らえない」
「……なんだって?」
「ヴォーパルバニーは、神憑きだ。悪魔憑きなら、祓魔で対抗することだって考えられるだろうけど、祓魔で神は祓えない」
「ふざけたこと言わないで。あんな魔物に、一体どんな神様が憑いているって言うのよ?!」
ニィナがヴェインに怒鳴る。
「死神」
クラリエが呟く。
「死を司る神……どんなに嫌われていようと、神様は神様なの……」
そして、ゆっくりと後退し、吐き気を催したのか口元を押さえた。
「クラリエさんは神威にあてられた。俺も、もう気分が優れない……」
「その神威ってのは、つまり……異常震域のことか?」
ヴェインが首を縦に振る。
悪魔憑きや異界獣が放つ気配を異常震域と呼ぶというのに、神が関わればあっと言う間に『神威』などという、大層な名称で呼ばれるらしい。なんにせよ、人の理の外にある気配という事実に変わりはない。
「死神ってのは、死をもたらすことができれば魔物にすら力を貸すんだな。随分と安直な思考をしているらしい」
アレウスは鼻で笑う。
「だったらここで根比べと行こう。僕の首が飛ぶのが先か、ヴォーパルバニーの命が尽きるのが先か」
「気を付けて、アレウス。ヴォーパルバニーは“神への強い信仰心を持つ者がいればいるほど強くなる”ってクルタニカが言ってた」
「それでクルタニカも援護に来れないわけか」
アベリアの説明通りであるならば神官のクルタニカがここに来てしまえば、ヴォーパルバニーはその信仰心を糧にして強くなってしまう。だから彼女がここに援護に来ることはできない。そして、他の中級以上の神官や僧侶のような信仰心の高い冒険者が援護に来ることができない理由にもなる。
「僕とガラハが前衛で、ニィナが後衛。ギリギリのところでアベリアが待機。ヴェインとクラリエは退避。あと見習いの後衛職もみんな下げてもらう。可能な限り、信仰心はあっても魔の叡智に触れている冒険者を減らす」
「すまない、アレウス」
「気にしないでいい。僕は神様なんて信じちゃいないし、信仰心なんて欠片も持ち合わせちゃいない」
信仰心によってヴォーパルバニーが強化されるというのなら、アレウスほどこの魔物を狩るのに打ってつけの冒険者はいない。
「聞いていただろう、見習い? とっとと下がれ」
ガラハがやや強めに見習いへ圧を掛け、彼らを後退させる。
「でも、俺たちは」
「あんな魔物がいるなんて聞いてない。テストの結果には響きませんよね?」
アレウスは虫唾が走る。この期に及んで、この見習いたちは保身に走ろうとしている。
「お前たちは、これから冒険者になって依頼を受けたときにも『依頼内容にない魔物が現れたために失敗しました』と、依頼主に語るのか?」
その胸倉を掴んで脅したくもなるが、そちらに意識を向ければヴォーパルバニーには間違いなく狙われてしまう。視線を外さず、見続けていなければ首が飛ぶ。見掛けに騙されてはならない。今、対峙している魔物はワイルドキャットをはるかに上回る強さを誇っている。
「『依頼にないから狩らないでおいた』で済ますのか? 僕たちは色んなところで想定外なことが起こった経験しかないから、残念だけどそんな選択肢はなかったよ。いつだって死ぬ気だ。いつだって、死ぬ覚悟で臨んでいる」
「それはあなたたちは『教会の祝福』があるからでしょ?!」
「僕は『祝福知らず』だ。常に命はこの体に一つ限り。言うなればお前たちと一緒だ。死に掛けて、苦しんで、立ち直れないかもしれないほどの絶望を味わって、それでも尚、この道を歩いている。お前たちが目指すのは、そういう生死の境に立ち続ける道だ」
『祝福知らず』を自信満々に語るのもどうかと思うが、この一言が見習いを黙らせるには丁度良かった。案の定、彼らは言葉をなくし、そして仲間を一人喪った悲しみに暮れながら、撤退を決めた。
「そういえば、なんで『身代わりの人形』が発動しなかったんだろう」
ニィナが次の矢をつがえながら、疑問を零す。
「持っていないってことはないはずだけど」
それが発動しなかった。そうなると、いつぞやに聞いたリゾラの話を思い出す。ギルドの方に確認を取ったが、エルフの魔力が弱まっている傾向は見られないと跳ね除けられてしまって、彼女に嘘をつかれたのだと思っていたのだが、こうなってくると彼女の言葉が信憑性を増してくる。
「ギルドに嘘をつかれたんじゃなく、ギルドが把握しているときはまだ『身代わりの人形』の効果があったんだろうな」
「嘘をつかれたってなに?」
「いや、今のは独り言だから。聞いてほしいのはここからで、『身代わりの人形』は効果を喪失している物としていない物でムラが起きている可能性がある」
ギルドが把握し切れていないのであれば、そういった品質上の問題もあるかもしれない。リゾラの言っていたことをそのまま信じるのはまだ早い。もう少し、一考の余地がある。
ヴォーパルバニーが口元を動かし、続いて両前脚を器用に動かしながら、どこかアレウスたちを小馬鹿にするような態度を取る。威嚇としてでしかニィナが矢を射掛けていないため、恐らくこちらが怯えて行動に移せていないと思っているのだろう。
「死神が憑いているってことは、霊体か」
「神霊体と呼ぶ方がいいんじゃない?」
「どっちにしろ僕たちには見えないんだが」
「そんなわけはない。神がオレたちの前に姿を現さなければ、信仰など得られるわけもないだろう」
ガラハがそう言い切り、同時に戦斧を前方に十字を切って振るい、飛刃を放つ。ヴォーパルバニーはその場で全く動かず、しかし、周囲一帯の草花を刈り取るような横薙ぎの一閃が飛刃を弾き飛ばした。
「今ので見えただろう?」
「ああ、ハッキリとは見えなかったけどな」
ヴォーパルバニーの背後から現れ出でたボロボロの法衣を纏った骨だけの存在、そしてその手が握り締めていた大鎌が振るうことで飛刃を弾いたのが見えた。一度、それを視認すると今まで見えていなかったのが嘘のように、薄っすらとだが確実にその存在を捉えることができる。
「神は人によって見え方が違う。どんなものが見えているのかは知らないが、侮るな。お前たちが思う最も死神に近い格好をしているだけだ。唯一の共通点は大鎌を握り締めているということだけだ」
「それが神様の象徴なの?」
「大抵の死神は草花を刈り、田畑を刈る大鎌を持ち、その大鎌で命を刈り取るという話が種族を問わず、出来上がっている。だから死神は自身を想像させる大鎌を象徴として選んでいる」
「詳しいな」
「お前たちに比べれば、オレは信仰心がある方だからな。とはいえ、ある瞬間からその信仰心の大半を失ったが」
それはガラハの里のドワーフに起こった悲劇によるものだろう。そこで神を恨むようになったのは明白だが、プラスの要因とは言い難い。あれさえなければ、ガラハはこんなところで死神と対峙することすらなかったのだから。
憑依している死神に集中していれば、ヴォーパルバニーの動きを取り零す。憑依対象は魔物であることに変わりない。げっ歯類らしく、その歯で噛み付かれれば骨まで達するか、それとも折られるか。そして、その歯からどのような細菌が体内に侵入するかも定かではない。ただの野兎ですら、噛まれればただでは済まないのだから。
「ニィナが矢を射掛けたタイミングで僕とガラハが左右から攻める」
「分かったわ」
ジリジリとヴォーパルバニーが間合いを詰めてくる。飛び掛かる距離を測っているのか、それとも死神の大鎌の範囲に僕たちを入れようとしているのか。いや、飛び掛かって一気に間合いを詰めて、そこから死神の大鎌が僕たちの首を刈るのか。あの状態はまさに一心同体だ。別々に考えていれば、移動や攻撃が組み合わさった一撃で死ぬ。
逆に言えば、大鎌の一撃と飛び掛かりも防げば、死神は大鎌を振り直す時間を、ヴォーパルバニーは体勢を立て直す時間を要する。魔物と死神、その両方に隙ができた瞬間が反撃に移るときだ。
となれば、待つのが正しい。下手に打って出るのはヴォーパルバニーとの戦いでは合っていない。アベリアにもギリギリの範囲まで下がってもらっているが、そんなところからの魔法は到達するまでの時間で避けることができてしまう。だからこそ、ヴォーパルバニーと死神の間合いに入らずとも攻撃が通る可能性のあるニィナに努力してもらわなければならない。
そして、こんなことは目の前で間合いを窺っている魔物もお見通しなのだ。ヴォーパルバニーはアレウスとガラハをどうやって押し退け、自身に遠距離から有効打を与えるだろうニィナの首を刈るか、思案している。
「別に焦ることじゃないし不安に思わなくていい」
魔物との知恵比べはこれが初めてではない。むしろ魔物との戦いはいつだって知恵比べだった。
特性を知り、生態を知り、弱点を知る。普段通り、魔物退治の初歩中の初歩をやるだけだ。そう思えば、目の前に見える死神の姿に怯えることもなくなった。
戦う相手は神そのものではない。神の憑いている魔物に過ぎない。今まで相対してきた魔物と変わらない。油断さえなくせば、『首刈り兎』は容易く狩れる。その最後の最後で必ずやってしまってきた油断も、終末個体のピジョン以降は一切無い。
負けるはずがない。アレウスは絶対の自信を胸に、短剣を握る手に力を込めた。




