もう二度と
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産まれたときからではない。物心ついたときからクニアは思っていた。自身の人生は、一生、自分の手には渡ることはないのだと。一生、誰かの物として渡り歩くことになるのだと。
それが王女として産まれたことの使命であり、全うすることが正しいことなのだと言い聞かせてきた。
せめて男として産まれていたら。
そのように考えたこともある。王女ではなく王子であったなら、誰かに人生を握られるような未来は訪れることもなかったのではないだろうか。姫君という立場が、王女という立場が、国の礎を考えるならば外交手段の一つとして使われる。どこかの国の、知らない誰かと結婚する。そうすることでハゥフルの未来が――国が保たれるのであれば、致し方のないことなのかもしれない。
そうやって納得しようと努力した。
少年と出会ったとき、運命だと思った。王女として、多くの男性を見てきた。ハゥフルに限らず、獣人とガルダを除いた大半の人種の男と言葉を交わしたこともある。だが、ただの一度も心に響いたことはない。心が動いたことはない。こうやって、心の動かないままにどこかの国へと嫁ぐのか。そのような、現実の厳しさに打ちひしがれ、恋い焦がれることもなく、好きでもない誰かと結婚し、身を委ね、子を宿すのか。もしかしたら、そのような夫婦の営みすらないかもしれない。
ハゥフルの王女を抱く男など、一体どこにいると言うのだろうか。ハゥフル同士でなければ、子を宿せるかどうかさえ分からない。子孫繁栄を願うのであれば、恐らくは嫁いだとしても側室止まり。それも玩具のように弄ばれる。
他人種と違うことによる劣等感。ハゥフルであることが、個性がなによりも煩わしかった。将来など期待すれば損をする。ハゥフルはハゥフルと結婚するべきだと、きっとそのように話は進む。王子ではなく王女である時点で、クニアの将来など誰にとってもどうでもいいものに変わっていく。
だから、少年を見たときの胸の高鳴りが心地良かった。自暴自棄になりかけた頃に出会った少年に、クニアは驚くほどに心が踊った。それもハゥフルではない、ヒューマンの少年にである。
自分には人を好きになるという感情が、なによりもハゥフル以外の人種を好きになれる感情があったのだと知ることができた。
とはいえ、身分を弁えなければならない。どれだけの月日が経とうと、王女と少年の地位が平等になることはない。ならば、この死にそうになっている少年のことなどすぐに見捨ててしまうべきだ。
けれど、クニアは少年に手を差し伸べた。未来がどうなろうと知ったことではない。今、この瞬間に感じた全てを思えば、将来の悩みよりもこの少年を見捨てることの方が将来ずっと苦しみ続ける。
構わない。どうなろうと構わない。身分がクニアと少年を分かつのであれば、それもまた運命なのだ。だとしても、抗うことぐらいはできる。
生涯で初めて、両親にワガママを言った。少年をお側付きにしたい、と。そんなこと、難しいと言われたって知るものか。クニアはもう夢見ると決めたのだ。
少年と共に過ごす未来を。
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「わらわは……?」
「気付いた?」
突如、見覚えのない顔が目の前に飛び込んできてクニアは悲鳴を上げそうになる。
「アベリアちゃん、『水瓶』は剥がれたけどさ……逃げるように海に落ちちゃったよ。あれじゃきっと、クラゲを一ヶ所に集めちゃう」
「うん、でもそれよりも先に王女様が」
薄ぼんやりとしていた意識が少しずつ少しずつハッキリとしていく。
「王女様が先にカプリースのところに辿り着けば」
「カプリース……!」
目を見開き、クニアはアベリアの腕を押し退け、足に力を入れて立ち上がる。
「良いことを聞いた」
「あんた……まだなにかをする気?」
「なにをする気もなにも、ワシはこの国を奪う。そのためにアクエリアスの復活を目論んだ。ならば、その復活に手を貸すのは当然だと思わんか?」
肌を魔力が駆け抜ける。
「ワシが『服従の紋章』だけしかロジックに焼き付けられない魔導士だと思うてか? 貴様たちを行かせなければ、カプリースの元に『水瓶』が先に辿り着くというわけだ」
「マズい」
「止めるよ、アベリアちゃん」
クニアの体を縛り付けていた魔力が、いつの間にか外にある。中にあるから排除しようと悪戦苦闘していたはずなのに、体は思った以上に軽くなっている。だが、足は動かすたびに激痛が走る。
「わらわの足を……」
あの男が逃げられないように足を切り刻んだのだ。そこまでは憶えている。そこから先は曖昧である。カプリースが自ら命を絶ったときのことは思い出せるというのに、それ以外は記憶に靄がかかっていて仕方がない。
「“癒やして”」
アベリアの回復魔法がクニアの足に付けられていた傷を縫合していく。
「行って、王女様!」
クラリエに叱咤されるが、クニアは具体的にどうすればいいのかが分からない。
「わらわは……カプリースの元に行ってなにをすればよいのだ?」
「分からないの?」
魔法の火球が迫るが、それらをアベリアが発する炎が壁となって受け止め、消し去る。
「あなたがいつもやっていたことだよ」
それを聞いて、信じられないほどにクニアの心の中にあった靄が晴れる。記憶は曖昧なのに、感情が一気に溢れ出て、足が勝手に走り出す。
「させん!」
「それはこっちの台詞だよ」
「早く行って」
どんな速度で追い付いているのか定かではないが、男は中空で魔法を唱えて火球を複数、クニアに向かって降らせてくるがどれもこれもアベリアが阻止し、そしてクラリエが男に組み付いて、蹴り飛ばす。
ひたむきに、ひたすらに、目もくれず、走る。
国の有り様に目を瞑りたくなる。これが、なにもしてこなかったせいならば、その責任は全てクニアにある。国が滅びかけているのは、クニアのせいだ。謝っても謝っても、国民は決して許してはくれないだろう。
分かっていた。知っていた。もう父母はこの世にいないことを。なのにその事実から目を逸らして、目を背けて、分からないフリをして困らせた。困らせ、任せ、放り出し、投げ出して、そうして至った結末がこれなのだ。
なにも言い訳できない。
「カプリース……カプリース……」
それでも、もう一度会えるのなら。
「カプリ……カプリカプリカプリカプリ!」
どんな罪も、どんな苦しみも、いとわない。
「カプリース!!」
目の前を灼熱が駆け抜け、遠くで水流が迸る。
「クソッ!」
彼方より迫る水の鎗を炎で蒸発させ、突っ込んでくるカプリース諸共の鎗をアレウスが炎を帯びた短剣で受け止める。
「カプリ!」
声に反応してアレウスが後ろを見た刹那にカプリースは水の鎗で彼を蹴り飛ばす。続いてアレウスの全方位に水の鎗が展開し、一斉に奔る。炎の爆発を起こして弾き飛ばしたアレウスが足裏の爆発を加速に用いてクニアの傍に寄る。
「多くを話している暇はありません、王女様」
「でもカプリが!」
「あの男と、共に死ぬ覚悟はおありですか?」
「手を差し伸べた頃から決めておる!!」
「話が早い。嫌いじゃないですよ、そういう人は」
「お主……怪我をしておるではないか」
アレウスが全身の傷を炎で焼くようにして癒し、再び短剣に炎を灯す。
「これぐらいはまだどうにかなります。アベリアの炎で癒やせる範疇みたいです。ただ、腕が飛んだり、足がもげたり、首を刎ねられればどうしようもありません。心臓も貫かれればただでは済まないでしょう」
当たり前のように言ってはいるが、アレウスからは疲労の色が見える。
「この場所で馬鹿みたいに戦い続けて、僕の方は限界です。カプリースは継承者なので、まだまだでしょうか。無尽蔵ではないにせよ、いずれは僕が押し負けます。このままだと僕が先に死にます」
「ならん! わらわのせいで、帝国の者が死んだとなれば……!」
「国のことはあとからどうとでもなることです。正直、どうだっていい。今はとにかく、国を考える前に感情を優先してください。国を背負って立つあなた様にかなり無茶な要求をしておりますが……あなたは死ぬ覚悟ができているようですから、僕が死ぬ前にカプリースに接触してください。接触すれば、カプリースの中にある魔力があなたへと流れ込む。それが継承者と『超越者』です。魔力があなたに流れれば、恐らくは暴走も止まります……きっと。もし止まらなければ」
「そのときはわらわがカプリースを殺す。わらわが、止める」
「……それはなりません。感情を優先したのち、あなた様は国のために立たなければならないのですから。大丈夫、僕は奇跡なんて信じちゃいませんが……人と人との繋がりは最近、奇跡を凌駕すると思い始めているところですから」
炎が弾けて、アレウスがカプリースと激突する。炎の短剣と水の鎗。炎の飛刃と水の飛刃。どちらも激しくぶつかり、対消滅し、再び同時に噴き上がる。
短時間に、どれほどの激突を繰り返したのだろうか。この場はありとあらゆる物が焦げ付き、砕け、裂け、地面にすらも戦いの凄まじさを物語る形跡がある。一体、どれほどの想いを燃やして、カプリースを止めてくれていたのか。そしてその想いは、一体なんのためにクニアたちに向けられていたのか。
「簡単な話です。信念を捻じ曲げてでも、守りたい人を守る。僕とあの男は、そういう風にできているだけです」
あとはお願いします。そう言い残し、再び炎が走る。
止まってはいられない。クニアは二人が死闘を繰り広げる中を駆けていく。
カプリースがこれほどの手練れになっているとは思わなかった。彼に鎗術を最初に覚えさせたのはクニアだ。自らを守る術を身に付けさせることこそが、必要だと思った。そこから兵士長に鍛錬を続けさせたが、もはやクニアの鎗術をカプリースは越えている。
どれほどの想いで、その技術を身に付けたのか。魔法ですらも、無詠唱でありながらアレウスを捉えている。間際でかわしているが、彼がカプリースにやられるのは時間の問題だ。むしろこれまでよく持ちこたえた方だ。
技能、魔法、体術。どれを取ってもカプリースが頭一つ抜きん出ている。そんな相手を真正面から、真っ向から挑み、まだアレウスは戦い続けている。
「なぜそうまでして、わらわたちを止めようとする?!」
「それが僕が通さなければならない信念だから」
地面に弾き飛ばされたアレウスが答えながら力を溜めている。水の鎗を引き抜き、カプリースも構える。
「あの構えは」
見覚えがある。
「ヒューマンでありながら、ハゥフルの絶技を放つと申すか……!」
であれば、近付く方法はある。クニアは手を動かし、無詠唱で水の魔法を全身に纏う。
「“火天の牙”!!」
「っ!」
クニアは息を呑む。アレウスから放たれた気力を持った炎の刃が形を変え、獅子の下顎となる。それに対しカプリースの気力を伴った鎗刃は水流が捻じ曲いて、蛇を模して突き進む。
「よくぞここまで技を高めたものじゃ。だが、その技は周囲の水を引き寄せて威力を増す」
予め、魔法で全身を水で濡らしていたクニアはカプリースの技に引き寄せられる。
だが、それを待っていたかのように海中から『水瓶』が飛び出す。
「させるか!!」
炎の下顎は軌道が修正され、『水瓶』を呑みながら海中へと沈む。水の蛇を妨げるものはない。炎で壁を張っているが、正面からカプリースの技をアレウスは受ける。
「カプリ……わらわと手を繋いではくれないか?」
鎗を握る彼の手の上にそっと自身の手を乗せ、囁く。
水の蛇が勢いを弱め、直撃したアレウスがほの見えてくるが、なんとかその場に立っている。
「アレウス!!」
倒れていたアレウスにアベリアが駆け寄る。そして、彼と手を繋ぐ。
「そういうことか」
そこでアレウスの言っていたことを理解する。
「お主と共に、死の先まで行こう。覚悟は決めておるぞ? でなければあのとき、手を差し伸べることなぞ、せんかったからな」
カプリースが放出する魔力が鎮まっていく。
「ああ、カプリ。本当に……本当に……お主ばかりに負担をかけて……最低の、王女じゃな」
「泣かないでください」
「……カプリ?」
「あなたがもう二度と泣かないように強くなろうと……決めたのですから」
少年は大人になった。変わったのはそれだけだ。彼は今も変わらず、クニアの傍にいる。
これほど嬉しいことはない。クニアは流れ込むカプリースの魔力を感じながら、精一杯の笑顔を彼に見せるのだった。




