-僕たちは積み重ねられなかった-
―ありし日、変容―
「今は朝か? それとも昼か? もう夜か?」
「夜です」
「そうか……知らぬ間に、時が過ぎるのが早くなったのう」
「年寄りみたいなことを仰らないでください」
「時の流れは残酷じゃな。しかし、いつになったらお父様もお母様も帰ってくるのかのう」
寝床でクニアは、もう永遠に起こり得ないことを夢見ながら呟いた。
「目のことですが」
「もうよいのじゃ。わらわはこのまま目が見えなくなる」
「色を失っても白と黒の区別は付いていらっしゃるのでしょう? それで見えなくなるとは思えませんが」
「いいや、きっとそうなる。わらわの勘はよく当たるのじゃ。目が見えなくなる前にお母様とお父様が帰ってきてくださるとよいのじゃが」
悲劇は乗り越えるものではないし、忘れ去ることのできるものでもない。人生を道と喩えるのなら、悲劇は付いて回る景色だ。どれだけがむらしゃらに前を向いたって、その先の景色にいつもあって否応なしに目に飛び込んでくる。
もしもそれを見ないようにできるとすれば、それはもう心や精神を壊す以外にない。王女はまさに心を壊して現実から逃避した。
なのに、役目は捨てていない。精神状態にはムラがある。安定しているときはカプリースも驚くほどに王女らしく振る舞うが、不安定なときには赤子以上に手がかかる。王女がカプリースを諫めるときはまさに精神が安定しているときだ。
自身が傍にいるときほど、王女の精神状態は安定している。これは家臣たちも把握していることで、同時にカプリースをお側付きとして城に招き入れる要因にもなった。当初は守衛に常に見張られていたが、歳月に伴い、寝床であっても二人切りになることが多くなった。
かと言って、王女に手出しができるわけではない。その点については認められていない上に、認められるわけもない。
何度か誘われたことがある。何度となく誘ったこともある。けれどそれは二人にとってはただのやり取りだ。そういった冗談も言い合える仲であるだけだ。王女はいつも口を酸っぱくして「他の女に惚れるでないぞ」と言ってくるが、それだけはヤケに語気が強いことだけを除けば。
「こうして瞼を閉じるたびに怖くなる。もう、水中で爆発は起きんじゃろうな?」
「ええ。常に警戒をしています。あんな物が海に投げ込まれる隙など与えやしません」
機雷。カプリースが産まれ直す前の世界ではそう呼ばれていた。海から攻め寄せる魔物に、少しでも有効打を与えるためにと使われたこともあったがほとんどが役立たずだった。しかし、この世界ではそれがあまりにも有効だった。
投げ込まれた機雷がなにかも分からず、ハゥフルは近付き、そして爆発に呑まれて死んでいった。
まさかこの世界に機雷を作る技術力があるとは思わなかった。連合国のエネルギー革命によって発明された数々は、魔法しか知らないこの世界では暴力が過ぎる。無知ゆえに対処を知らず、虐殺され、国は滅びかけた。
それをどうにか持ち直したのも、もう十年以上前のことになる。場所を移して国の規模を小さくしてどうにか体裁は保てているが、もう一度攻められるようなことがあればこの国は滅亡するだろう。
だが、王族はまだ生きている。王女さえ生きていれば国は統治できる。悲劇の女王として戴冠すれば、隣国も同情して力を貸してくれるかもしれない。
ただし、王女に戴冠する気がなければ――王女の精神がまともでなければ、これは成り立たない。
「わらわの傍を離れるでないぞ?」
「離れませんよ」
「わざわざ、お主が住まえるように空気の層も作ってもらったんじゃからな」
「そんなことをしなくても、以前のように水の魔法を用いるだけですよ」
「わらわは、お主本人が傍にいないと不安なのじゃ」
以前までは陸と海でのやり取りができていた。水の分身――魔法で生み出した分身を海中に送り込ませて、そこに込めていた“音痕”を再生させることで連絡を取った。少しばかり手間がかかる伝書鳩や手紙のやり取りだ。日にちを跨ぐこともあったが、ここまで王女がワガママを言うことはなかった。
それも全てが狂ってしまった。王女はカプリースが離れることを嫌がり、城にはハゥフルの魔法によって構成された空気の層が作り上げられた。そこに自身は招かれ、生活することを命じられた。でなければ王女が一体なにをしでかすか分からないため、文句の一つも言うことはできなかった。
この頃から、カプリースは水の魔法を応用し始めた。連絡用に用いていた分身を一つ一つ自在に操り、自身の思考に近い行動を取らせることさえ可能になった。また、水の魔法で目玉や耳を作ることで遠方の景色を覗き見たり、盗聴することもできるようになった。
悲劇が起きる前にこの魔法の応用を会得できていたのなら、と思わずにはいられない。そうすればきっと連合の動きを事前に察知することができ、王女だけでなく国王や女王も逃がすことができたはずなのだ。そして、多くの国民も犠牲になることはなかった。悲しみや苦しみを境にして自身の力が目覚ましく向上するなど、そんなのは手遅れ以外のなにものでもない。そのときに目覚めたかった。そのときに、そのときに……そのときに。
「わらわが眠るまでの間、傍にいてくれるかのう?」
「眠るまでと言わず、寝ている間も傍にいますよ」
「離れるでないぞ?」
「離れませんよ」
修練にも手を抜くことはない。ハゥフルに認められるためにはハゥフルを越えるだけの強さがなければならない。鎗の技術はハゥフルが銛の応用で高めていることが多く、兵士どころか国民ですら鎗の扱いに長けている。まずは兵士長を越える。次に水魔法の長を越えなければならない。そうすれば、誰もがカプリースを認めてくれるだろう。誰もが王女のお側付きとして認めてくれるだろう。
それまでの辛抱だ。それまでの辛酸はいくらでも舐められる。王女のためならば、どんな苦痛にも耐えられる。
過去に一度――産まれ直す前の世界での話だが、妻子を持った男の台詞を鼻で笑ったことがある。『妻と子供のためならば死ねる』。そう言って酒を飲んでいた男に、カプリースは『死ぬときぐらいは自分のことを考えて死にたい』と言いはしなかったが心の中でぶつけた。
それがどうだろうか。今のカプリースは、『王女のためならば死ねる』と思っている。いや『愛する女のためならば死ねる』に、その気持ちは置き換わっている。
「ですが王女様、僕も色々と忙しい身です。常に水魔法を使っては世界中の情報を収集しているのですが、時折は離れなければなりません」
「嫌じゃ」
「そのときは分身を置いておきますし」
「嫌じゃ。そうやってカプリースは外の景色を見に行くのじゃろ?」
王女が見た外の景色は、カプリースとの交流会に使われた建物とその道のり。それ以外を彼女は知らない。そして今や、色すらも分からなくなった。だからこそ、王女は自身の知らないところに行くことに異様なまでの嫉妬心を抱いていた。
都市を守る魔法を維持するための祭壇が陸地にはあるが、別に使わずとも城内で済ませてしまえばいいことだ。それでも、彼女に外を見せられるのならと城の者たちに頭を下げて連れて行ったことも、二人でお忍びで陸地を出歩いたこともある。足したってそれぐらいしかない。都市より外は知らないだろう。
だが、色が白と黒しか分からなくなった彼女にとって外の景色など今や海底で見る景色と差異はないのだ。明度や体に感じる圧力に違いがあるかもしれないが、ハゥフルは海底でも陸地と変わらない明るさで景色を見ることのできる目を持ち、水圧に耐えられる体を持っている。彼女も例外ではないだろう。
「王女様? だったら一つ、僕と秘密の合図を作りませんか?」
「秘密の?」
「こう……人差し指と中指だけを立てて……これを僕が生きていた世界ではピースサインとか、Vサインって呼んでいたんですけど」
「ピース?」
「このピースを見せたときは、僕がいなくても大丈夫だっていう合図にしませんか? 先ほども言いましたが、僕もずっと王女様を見ていたい。見守っていたい。けれど、いつまでも見守っていられるわけじゃありません。僕にもお側付きとして相応しい実力を得るための鍛錬や、あとは見習いとしての仕事もあります。そのたびに、僕にそれを見せてくれたら、僕は安心して仕事や鍛錬に打ち込めるというわけです」
「外に出掛けるときもか?」
「はい。まぁ、絶対に駄目だと言われれば僕も外に出ることは控えますが……王様や女王様の外交を手助けすることができるかもしれません」
そうやって嘘をつく。だが、国のことを思っていることは本当だ。現状、王女の傍に居続けていては国の未来はない。未来を掴むために、王女の統治する未来のために、今はカプリースが身を粉にして働くときだ。
既に土台はできている。帝国では『中堅』の冒険者になった。もうすぐ『上級』になれるとすら言われている。ただのカプリースに限りなく近い分身を置いておくだけで、冒険者ギルドからありとあらゆる情報が入ってくるのはありがたい。特に帝国は冒険者の強さが異常だ。その辺りの秘密も探っていきたいのだ。
ただ、ハゥフルの国では下から数えた方が早いカプリ―スの鎗術が帝国の冒険者ギルドでは上から数えた方が早い、というのは少々拍子抜けではあったが。鎗術を学ぶならば王国の方が良かったかもしれないとすら思った。『天使が付いている』と噂の反旗を翻した王女は類稀なる鎗の使い手と聞いているからだ。しかし、『天使』に看破されてしまえば、カプリースのせいでこの国が攻め滅ぼされるやもしれない。そこは慎重に事を進める必要がある。もし鎗の技術を盗めないのだとしても、この国の現状を知ってもらって、もしものときには助け舟を出してもらえるようにしておきたい。頭ならいくらでも下げられる。大好きな王女と、その国の未来のためだ。戯れに靴を舐めろと言われたら舐めよう。泥を啜れと言うのなら啜ろう。猛獣と争えと言われれば猛獣のように争おう。動物のように振る舞えと言われれば、それすらも苦とは思わない。なぜなら、『愛する人のためならば死ねる』のだから。
「ピース……ピースか。よい言葉だの」
「どういう意味かご存知ですか?」
「いや、知らぬ。じゃが、決して悪い意味ではないと思っておる」
「ええ、その通りです」
生きていた世界では古来では挑発のサイン。転じて、『平和』を意味するようになった。
「わらわがこれを見せたとき、わらわは大丈夫だとお主は思うのだな?」
「はい。安心して他のところに意識を向けることができます」
「それでお主は、少しは気を抜けると」
「気を抜くと言っても、ちょっとだけ休憩できるぐらいの差しかありませんが」
「お主が少しでも休めるのなら……わらわも、少しは頑張ってみようかの」
「ええ、少しだけで構いません。王女様の思う“少し”を、ちょっとずつ積み重ねればよいのです。まぁ、積み重ねないでもいいんですけどね」
「最後のはイヤミか?」
「期待していますよ、少しは」
「ぬぅ~」
寝床に王女は顔をうずませて、やがて穏やかな寝息がカプリースの耳に届く。
「本当に、愛しくて愛らしい御方だ」
呟き、カプリースは寝床の傍でジッと時が過ぎるのを待ち続けた。
―混迷―
ピースサインを見てカプリースは警戒網を緩ませた。
クーデターも、地下へ続く階段も、なにもかもが気付いたときには遅かった。王女の元に向かったとき、ようやくカプリースは知る。
奴隷商人に操られ、王女はピースサインを見せたのだと。
カプリースと王女が積み重ねた日々など、悲劇から先には最初からなかったのだ。
積み重ねられなかった。全ては幻想で、泡沫に過ぎなかった。
あの日に決めた秘密の合図が、何百回目かを過ぎたとき、ただ悪意に利用されたのだから。




