-僕たちはこのままが良かった-
――ありし日、穏やかに――
「人生で一番苦労するのが結婚と、常々にお父様は言っておったわ」
「また突然な話をしますね」
救われたわけではないが、手を差し伸べられ、その手を掴んでしまった。その後も王女という立場でありながら自身が療養していた宿屋に何度も何度も何度も何度も訪れてきた。
気に入られたのか、新しい玩具を見つけたのか。なんにせよ、王女がこれまでワガママを言ったことはなかったらしく、国王も女王も初めてのワガママを聞き入れてしまった。カプリース・カプリッチオ――自身をお側付きにしてほしいというワガママを。
とはいえ、カプリースは海中での生活はできない。だから海上における一週間に四度の交流という形に今は収まっている。国王が「今は見習いに過ぎず、やがてはあらゆる技術を叩き込み、お側付きとして城に来てもらう」と不意に漏らしていたが、そんな日は出来ることならば来てほしくはない。
その国王もハゥフルの地位を確立するために遠征している。奔走と言ってもいい。最近の国王は特に外交に力を入れている。そして女王はその留守を預かっており、王女を連れての外出は難しい。
国王がいない間、寂しさを紛らわせるためという名目で四度の交流は六度になり、そろそろ毎日になりかけている。
しかし、その幾度となく繰り返される交流によって王女とカプリースの間にあった、地位が異なるがゆえの距離感というものが薄らいだのも事実だ。そのため話す内容はいつからか無礼講になっている。さすがに艶話をする勇気はない。すれば恐らく、首が飛ぶ。
「わらわの場合は婿探しになるのかのう」
「婿とはいえ、王族に外部の者を迎え入れることは難しいのではないでしょうか。そんなことをしたら暴動も起きましょう。王女様は王女様で、そのまま戴冠し、そのまま女王として永遠に君臨するのが望ましいでしょう」
「もしもわらわが男で、嫁探しをしておった場合はどうなる?」
「誰もなにも言わないでしょうね。この世は男系を重視し、女系を軽視しています。女王よりも国王の統治が望ましいなどと言われ、王子よりも王女の地位は低く、政略結婚の材料にされてしまう。国と国の仲を保つための結婚というのは、大体が側室が産んだ娘か、或いは王女が選ばれます」
「王位継承権、か」
「その王位継承権も男系から順に連なっていくので、よほどのことがない限りは女王のみの国の統治などあり得ません。帝国は世継ぎに恵まれず、必然的にいつかは女帝が誕生するようですけど」
「この国もか?」
「……そうですね。現状、クニア様以外に世継ぎがおられないのであれば、いつかはクニア様が統治することになるでしょう」
やや重たい雰囲気が流れ、カプリースはクニアから視線を逸らす。
「身重だったお母様は、随分と精神を病んでおられた時期があったそうじゃ」
「そのせいで、クニア様以外の卵から生命力が失われていく形になったと聞いています」
ハゥフルは卵生で、産み付けた卵から幼子が孵るまで、巣から決して外に出ることはないらしい。カプリースは国王から聞いた話を知識として、そしてこの場の会話の材料として口にする。
事実を事実のまま話すのが正しいのかどうかは迷ったものの、王女はカプリースよりも幼いように見えて年上だ。ならばこの程度の話題は出してしまっても支障ないだろうと判断した。
「卵を抱えると攻撃性が高まり、被害妄想も強まって、お父様すらも敵とみなして傷付けることもあったそうじゃ。それを聞くたびに、わらわは絶対に結婚などしとうないと思って思って仕方がない」
ハゥフルは獣人と同様にミーディアムに近い性質を持っている。それでも、海棲生物の中でも卵生の部分を色濃く残しているためか、子孫繁栄は獣人のようにハーレムを作らずとも成立はする。だが、それでも最大で三人から四人と少ない。これが本当の意味での卵生の海棲生物であったなら数百から数万の卵を抱えるはずであり、王族であっても困ることはなかったはずだ。それがヒューマンやエルフ、ドワーフと同様ともなれば“少ない”と思ってしまうのは当然だろう。聞くところによればガルダもまた卵生ではあるものの、卵の段階で選定が行われるためにその数が必ずしも増加傾向にあるわけではないらしい。
だからハゥフルやガルダを知らない巷の村々では滅びゆく種族などと揶揄されるのだ。ガルダは生活圏に空を選んだようにハゥフルも海底を選ぶべきだったのかもしれないが、陸棲の者の意向も尊重しなければならず、海辺から離れることはできなかった。
「ならしなければいいじゃないですか」
「じゃが、愛し合うという言葉には惹かれるものがある」
「だったらすればいいじゃないですか」
「なんじゃ? 随分と雑な対応じゃのう。叫び声を上げてもよいか?」
「いいわけないじゃないですか。やめてください、死んでしまいます」
「そうじゃろうそうじゃろう。カプリならそう言うと思っとったわ」
「僕のことをカプリと呼ぶのはやめてください」
「なぜじゃ?」
「親しげにすればするだけ、僕はこの国での生活が苦しくなります。肩身が狭くなるんです」
ただでさえハゥフルの都市にヒューマンとして受け入れられている点でかなり肩身が狭いのだが、ここに王女との関係まで混ざってしまうと異端者狩りのように追い立てられても不思議ではない。
「そういうものかのう」
「そういうものです」
「じゃったら……いつになったら、お主はわらわのお側付きとして城に来るのじゃ?」
「僕は海底で暮らすことができませんから」
「ならば、わらわが陸地で生活すればよいだけではないか」
「自身の立場を弁えてください。陸地よりも海中の方が、あなたの命は守りやすいんです」
海中を自在に泳ぎ回れるのはハゥフルの特権だ。ハゥフルを越える遊泳方法を獲得している人種はいない。だからこそ海底に城があるのだ。陸地に構えられた城よりも圧倒的に攻め辛くなる。火矢、毒矢、投石といった方法での攻城ができないだけで、城の防衛能力は非常に高まるのだ。そして酸素を必要とする人種では海中での行動が限られる。たとえ酸素を得るための魔法を扱えても、そのために魔力を割くことになる。
「お主に守ってもらえば、よいのではないか? わらわは、お主は大成すると思っておる」
「その自信は一体どこからやって来るんですか」
カプリースはハゥフルの国で暮らすヒューマンの一人に過ぎない。そして未だ成人もしていない未熟者だ。今が十歳程度という記憶があるため、もし大成するとしてもあと二十年は見積もってもらっていないと困る。
そう、なにも大成する気がないわけではない。国王に期待されているという認識が正しいのであれば、それに応えられるだけの実力を身に付けるべきだ。さしあたって、水の魔法を学びたい。初歩中の初歩すら扱えないのでは、ハゥフルの国では生きていけそうもない。
「海が綺麗なのも、水が綺麗なのも、なにもかもが僕にとってはあり得ない世界なんです」
「夢の話かのう?」
「いえ、僕にとっては“実際にあった話”です。でも、この世界とは異なる世界の話なので気にしないでください」
「俗にいう異世界かのう?」
「僕にとってはこっちがクニア様の言っている異世界なんですけどね」
どちらから見ても世界は世界であり、そして理が異なればそれは異世界だ。
荒唐無稽な話だが、王女はいつだってカプリースの言う話を真剣に聞いてくれる。それだけでなぜか、冷たくなってしまっている心が癒されているような気になってしまう。
「その世界では海が腐っていて、水は穢れているんです。触れれば焼けただれ、飲むこともままなりませんし、海からはこの世界で言うところの魔物が現れ、人の住む場所を奪っていました。ただ、世界の理が変わったことによって人の中にも特異な力を有する者も現れ、その海から現れる魔物に対抗するようになったんです」
「冒険者みたいなものじゃな? そして、お主もその内の一人だったと」
「……最終戦争、みたいなものがあったんです。僕はそこに嫌々、参加しただけですよ。死に場所を戦場としたわけではありません。もっと長生きするつもりだったんですけど、そういうわけにもいかなくなったんです」
そして、この世界に産まれ直す前のカプリースは戦場で命を散らした。その世界の最後は人類が勝利したのかそれとも海の魔物に滅ぼされたのか。それを知るよしはない。産まれ直したカプリースにはどうでもいいことだが。
「また、生きなきゃならないのかと思いましたよ。だって僕は、無力な状態で産まれ直したんですから」
「本当にそうかのう?」
王女はカプリースを見つめる。
「わらわには、そなたの中に『強大な力』があるように思える。お主、わらわに拾われる前はどこでなにをしていた?」
「どこで……なにを、していた……? なにをしていたんだろう」
死ぬのだろうと命を投げ出していたカプリースにとって、過去は忌まわしき物であり捨て去った物だ。思い出せないのは脳が鍵を掛けているからだ。思い出せば、カプリースに強いストレスがかかり精神が安定しないと本能が判断したがゆえの処置に違いない。
「なにか見たことは?」
「キラキラした物を見たような気はしますよ。でも、そんなものはこの世界ではよく見るものでは?」
「そうじゃな。わらわも見たことがあるぞ? じゃが、お父様もお母様もそんな物は見ておらんと申しておった」
「は、ぁ?」
「つまりじゃ。わらわやお主にしか見えない物も確かにこの世には存在するということじゃ。きっと特別な力に違いないぞ」
「キラキラした物が見えるのが特別な力?」
言いながら、カプリースは冷ややかに笑う。
「そうですね。特別な力だったらいいですね」
「わらわの勘はよく当たるんじゃ」
「僕は当たったところを見たことがありません」
「ならば、知ることになるじゃろうな。わらわはそのキラキラした物を見たその日から、明らかに水の魔法の扱い方が上手くなったんじゃ」
「……それは別に勘ではなく、魔法のコツなのでは?」
そう言って、カプリースは王女の飲み干した紅茶の入れ物を片付けていく。
「お主とわらわは同じ物を見ておるとしたらどうする?」
「どうするもこうするも」
「この世には、二つ揃ってようやく互いの力を十全に発揮できる力が存在しておる。お父様からそう聞かされておる」
「たとえば?」
「そうじゃのう。これは絶対にわらわとお主との秘密じゃぞ?」
「そういったことは絶対に漏洩するので話さないでください」
「ぬぅ……じゃったら」
王女は立ち上がり、カプリースの耳に口元を近付ける。
「これならば、お主しか聞こえんじゃろ?」
そう耳打ちをされる。
この世に、こんなに恐るべき快楽があったのかと思うほどにカプリースは耳から背筋にかけてゾクゾクと震える。人魚の歌声――美声の持ち主である王女の声が直に伝わることがどういう意味か、それを思い知る。
「あの、そういうのは控えてほしいんですけど」
「ん~なんじゃなんじゃ? なにを嫌がっておるんじゃ? こうでもしないと聞いてくれんじゃろ~?」
「クニア様」
咎めても王女はカプリースに耳打ちするのをやめない。
「城の地下に『水瓶』が置いてあるんじゃが、あれは異界獣の欠片と言われておる」
復唱も返事もするべきではないので黙ったままだが、快感は全身を駆け巡っている。
「じゃが、『中身』は別じゃ。そしてその『中身』は、お父様がお主を救うためにもう使っておるとかいないとか」
「……だから僕は王様に」
「『清められし水圏』。お父様はそう言っておった。きっと、お主の力はわらわと合わされば十全に使える物になるに違いない。わらわはそう信じておる」
どこからの自信で、どこからの感情か。とにかく王女はとても機嫌が良かった。
「……その時が速く訪れるよう、努力します」
茶化すこともできず、更には王女に雑な対応をするわけにもいかず、カプリースは囁かれた側の耳を手で押さえながら取り繕うように言った。




