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――思った通り、このご老人のロジックは“書き換えられているわ”。
「五年前くらいかのう、教会から派遣された神官がやって来たのは」
今にも寝入りそうなほどに舟を漕いでいた老人が、不意に瞼を強く開いて問い掛けにそう答える。
「五年前、ですか」
「そうじゃ、五年前にこの街に来てのう。その時、一つの家族に悲劇が……いや、正当なる審判が下されたのじゃ」
老人は呟き、大きな欠伸をする。男性は顎に手を当て、しばし考えたフリをしたのち、仲間に目配せする。
「“開け”」
仲間は老人に近付き、人差し指を宙に滑らせる。老人から溢れ出す膨大な量の言葉が一つ一つ連なって行き、中空で文章を形成する。
「ヴェラルドの思った通り、このご老人のロジックは“書き換えられているわ”」
「予想としては当たって欲しくはなかった事実だな」
「『五年前、神官が訪れ、街は一時期混乱に陥った。そこで老人会の中で話し合いが行われ、一つの家族を犠牲にし、満足して帰ってもらおうと考えた。結果的にその思惑は成功し、異端者裁判は開かれ、両親は死刑に、一人息子は見せしめとして“穴”へと堕とされた。それを見て、ワシは 安堵した。あの家族は“街でも評判の悪者だった”』。手が加えられて消された空白、明らかな書き換えられた形跡。このテキスト以外にも、幾つか散見されるけど……どうする? 元に戻す?」
「そのままで構わない。良心の呵責に苛まれてしまっては酷だ」
「そうね、このままの方が良いのかも知れない。少なくとも、この街の全てのヒューマンにとっては」
仲間は文章を一つずつ丁寧に人差し指で動かし、一纏めにしてから両手で本を閉じるようにして文章を中空から消し去る。
「はて……? ワシはさっきまでなにを?」
「眠りに落ちていらっしゃいましたよ」
「おや、人と話しておったのにそのような恥ずかしいところをお見せしてしまってすまんのう」
「いえいえ、訊きたいことは話して下さいましたし、ありがとうございました」
老人に二人してお辞儀をし、その場をあとにする。
「読みたいことも、と付け足した方が良かったんじゃないかしら」
「ロジックを断りもなく開き、テキストを読んだとなればナルシェは所属する教会から追放される」
「今更? これまでも結構、好き勝手にロジックを開いて来たけれど。それもヴェラルドに命令されて」
「命令されてはよけいだろ」
「そうね。私の意思で開いたのよ」
冗談めいたやり取りを終えて、女性――ナルシェは声のトーンを落とす。
「五年前の死刑前提の神官裁判になんで拘るのかしら」
「拘っているんじゃない。たまたま見掛けて、気に掛かったからだ」
「気に掛かった、ねぇ……?」
そんなに気にする性格だったかしら、とでも言わんばかりの視線がヴェラルドに向けられる。
「神に祈りを捧げ、人種に奉仕することを誓う神官が唐突に家族を裁判に掛け、殺すか? しかも一人は“穴”に堕とされたと来た」
「そんな不届き者な連中と一緒にしないでよ。きっと、異端審問会絡みだから」
「だが、五年経った今は“穴”絡みだ。調べて損は無いだろう?」
「その通りと言えばその通りだけど、五年前まで遡るのはやり過ぎよ。“穴”はその内、見つかるだろうけど、それ以外にどうこう出来るものじゃないわよ?」
「堕とされた子供が気に掛かる」
「気に掛かるって……だから五年前のことよ? 普通の子供が、理不尽とは言え“穴”に堕ちたなら、三日も持たずに死ぬわよ。舐めているわけじゃないでしょ、“異界”を」
「これまで何度、“異界”を調査したと思っているんだ?」
「二十三回」
「少ないとは言わせないからな」
「当然よ。二十三回も潜って、生きてこの世界に戻って来ているだけ奇跡なのよ? 私たち冒険者は“異界”から出て来る魔物を退治するだけで良いのに、わざわざ“異界”に出向いて魔物退治をする。それが『異界渡り』だけど、私自身、生きているのが怖いくらい」
「だが、異界獣を討伐したことは一度も無い」
ナルシェは深い溜め息をつく。
「あのねぇ……もっと大勢のパーティで“異界”に潜るならともかく、あなたと私だけで異界獣を討伐なんて不可能も良いところよ」
「だが、やり遂げたいんだ。この手で、一つの“異界”を閉じたい。そうすれば魔物の被害は抑えられる」
「別の“異界”が生じてしまえば、元通りだけど」
「……なんかさっきから一言よけいなんだよなぁ」
ヴェラルドはいつもよりも突っ掛かって来るナルシェの言い分に、僅かな愚痴を零す。
「まぁ、気分の良い話ではないわよ。神官にだけ与えられた力を使って、好き放題なことをして年端も行かない少年を“異界”に堕とすなんて」
「異端審問会はそういう集まりだ。だから、昔馴染みのナルシェ以外の神官にこの話題は出せないんだ。冒険者は全員、教会の祝福を受けている」
「祝福を受けている者は、神官の手によりロジックを開けられてしまう」
「そしてフレーバーテキストを書き換えられてしまえば、俺は『異界渡り』も、異端審問会の横暴に対する被害の調査も出来てはいない」
「私を一度も疑わなかったことだけは褒めて上げる」
でも、とナルシェは付け足す。
「信じ切っては行けないわ。それこそ、教会に属していないような神官でも居ない限りは」
「怖いことを言う」
「忠告よ。言っておかないと、あなたはすぐに鼻の下を伸ばして、他の女神官に付いて行ってしまいそうだもの」
「そんなにか?」
「人妻を誘って、その夜の勢いで一緒に寝ようとしたこと、忘れてないわ」
「あれは酔っ払っていただけだ」
「責任転嫁も甚だしいわね。あれでどれだけの迷惑を私も被ることになったか」
そこから止め処なくヴェラルドへの愚痴だけではなく、不平不満を零し始めるナルシェの言葉を右耳から入れて左耳から外へと流しつつ、街の脇道一つ一つを覗いては戻り、また覗いては戻りを繰り返す。
「五年前は街の中にあった。でも、今も同じ場所にあるとは限らないのよ?」
「知っている。けれど、そう大きく動かないことも知っている」
たとえば、と呟きながら石畳に被せてある下水道の蓋を開ける。言葉では言い表せないような猛烈な悪臭が漂うが、その下にはポッカリと、下水道に続く穴ではない歪み、渦巻く穴が見えた。
「見間違いかも知れないわよ? もし、“穴”じゃなかったらあたしたち汚水に飛び込むことになるんだけど」
「いや、あれは“穴”だ。間違いない」
「そう言うなら、ヴェラルドから先に飛び込んで」
「んー、それは少し悩むなぁ」
「行きなさい。ロジックを開けて、命じられたいのかしら?」
「その脅しは酷いだろ」
「嫌なら、さっさと行け」
でなければ蹴飛ばすぞ、という構えを見せているナルシェの圧に押される。
「分かりました」
ヴェラルドはそんな彼女を宥めつつ、鼻を片手で摘まみつつ下水の“穴”へと飛び込んだ。その後、ナルシェは全てを理解し、鼻を摘まみ“穴”へと続け様に飛び込む。
外れていた蓋はガタガタと揺れながら動き、二人を閉じ込めるかの如く、下水への道を塞いだ。