彼女のため
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霧の魔法が解かれたことで、当たり前のように宙で螺旋を描いていた水流も喪失している。霧が解けたこと、合わせて水流が崩れることでの放水が都市を水浸しにした原因であるのなら、あのクラゲ化が起こる水そのものは霧の魔法からではなく、海水から引き起こされていたとも考えられる。だが、どちらも合わせて王女の血を捧げることで発生していた魔法であるのなら、そんな考察はいらない。
ただ一つ言えることは、この事態が収束したのち、果たして以前のようにハゥフルたちが陸地で生活するのは難しいだろうということだけだ。とはいえ、そもそもの事態の収束が終わっていないのに先々のことを考えていたって終わりがない。なによりも、それを考えるのはアレウスたちではなくハゥフルたちのやることだ。
アレウスとアベリアは岩壁にあった祭壇しか知らないが、そこまでは辛うじてアイシャの大詠唱の範囲内だった。ただし、カプリースの魔法による偽装が行われておらず、入り口は誰にでも視認できる状態にだった。もう既にカプリースが死んでいるか、それとも魔力切れを起こしているかのどちらかなのだが迷っている暇はない。アレウスが手早く祭壇の一部を解体すると、洞穴が剥き出しになる。海水に満ちているが、見立てであればこの祭壇から城内、もしくは海底街のどこかへと繋がっているはずだ。潜る手段はハゥフルから与えられたお守り――護符頼りとなり、本当に効力があるのかどうかも確かめていないのだが、考えている余地はやはりない。ハゥフルの言っていた空気の層と呼ばれる地点まで辿り着きさえすればいい。
「さすがに怖いね」
「さすがにな」
アベリアが洞穴に飛び込むことを渋っているので、同調すると共にアレウスも不安を吐露する。
「城内で起こっていることの大半に目を瞑るんだよね?」
「そうだよ。僕たちが関われるのはクラゲと、あとカプリース。カプリースは冒険者だからな、そこは問題ない。でも、王女様と話ができるかどうかまでは分からない」
彼女の手を握る。握り返されることで体温を強く感じ、不安は溶解する。
いつも通り、変わらない。アレウスとアベリアはどんな窮地もこうやって、手を繋いで乗り越えた。今回も同じだ。なにも怖れることはない。
穴は二人一緒に入るには幅が狭いので、手を離してアレウスが先に飛び込む。
波が起これば、洞穴も当然ながら押し戻す力を引き戻す力が交互に起こる。その強弱が一定であれば、場合によっては飛び込んでも碌に奥には進めない。しかし、飛び込んだ直後からアレウスは物凄い水流の力を受ける。圧倒的に引き込む力が強く、押し戻される力が弱い。そもそも血を捧げていたのであれば、それが効率的に捧げていた物へと到達するような流れがあると想定するものだ。想定できなかったのは、陸上から洞穴の水面を見ただけではそんな水流は掴めなかった。
渦潮に呑まれるがごとく体は激しく回転を続け、アレウスは人工的に作られた石畳に放り出される。続け様に来たアベリアを抱き止めるも、目が回っていて受け身もままならなかったために押し倒されるような形になってしまった。しかしそこに他意はなく、むしろ三半規管が引き起こす強烈な嘔吐感を引っ込めることに意識が向いた。
「大丈夫か?」
「なんとか…………うん、なんとか」
吐き気が治まり、アレウスはアベリアに声をかける。アベリアの返事は弱々しいが、起き上がったので動けるようではあった。アレウスも立ち上がり、数秒のフラつきに戸惑うもなんとか足に力を入れて、踏みとどまる。
呼吸はできている。だが、空気の層にいるのではない。それでも間違いなくここは海底だ。なにせ動きの一つ一つに水の抵抗を感じる。護符のおかげで酸素に困っていないが、それもいつまで続くのかは分からない。ただ、アベリアを抱き止められたのは海中であったためだ。あの速度を地上で再現されたならアレウスは抱き止めても重傷を負っている。その点だけについてはありがたいことだったのかもしれない。
「綺麗……これってサンゴ?」
「サンゴだけど」
海底街のどこに放り出されたのかは定かではないが、確かにそこには地上とは構造上の違いはあってもハゥフルが生活することのできる街並みが広がっている。地上と違って木造の建築物はなく、そのほとんどは海藻やサンゴに覆われた土の住居である。中には岩をくり抜いて作られたものもある。
「白化している」
海水の透明度によって描かれている世界は地上よりも幻想的ではあるのだが、色鮮やかとは程遠い。
「枯れちゃっているの?」
「長引くとこのまま全滅、だったはず」
「じゃ、まだ枯れていないの? 死んでないってこと?」
「えっと……どうだろう。危ないってことなんだけど、生きているのか死んでいるのかまでの知識は……」
この状態を死んでいると表現することもできるし、まだ生きていると表現することもできる。アレウスの知識の上では、白化の中でも死滅している場合とどうにかまだ持ちこたえている場合がある。だが、学者でもないのに白くなったサンゴを見て生きているか死んでいるかまでは分からない。
「海藻も枯れているし……思ったより、白黒だね」
「そう……だな」
白いサンゴと黒い土や岩で作られた街。海藻が枯れているともなれば、この街の大半は白と黒に満ちている。一瞬、アレウスの目だけが色を感じ取れなくなったのではないかと思ったがアベリアの言葉で、どうやらこれは現実に起きている事態なのだと判断できる。
「なにか魔力の流れは感じないか?」
「なんで?」
「この街にあるサンゴや海藻みたいな生気を吸収して魔力を生み出している、みたいな」
「…………どうだろ。ちょっとだけ感じ取れるけど、海の中だとあんまり……阻害を掛けられているみたいな」
「異界の海とどっちが掴み取りにくい?」
「どっちも同じ。でも、こっちはまだ感じ取れる。特にカプリース……の魔力は一度見ているから、掴み取れる」
「ならそっちに、」
言い切る前にアレウスはアベリアの手を引いて岩と岩の隙間に隠れる。ハゥフルたちが辺りを泳ぎ、なにやら大声を発しながらあちらこちらへと散開する。
「見つかると厄介だ」
「うん」
クラゲの視界に比べればハゥフルの視界はまだ分かりやすい。感知能力は冒険者を越えていないと踏んで、少しばかり強引な移動を繰り返す。ハゥフルたちに見つかればすぐに追い付かれてしまうので、見つからないようなるべく慎重に水を掻く。異界の海で経験したことが活きる場面などあっては欲しくないと思ったが、やはり経験とはいつにおいても無駄にならないことが自然の摂理らしい。
城は海底街においてはあまりにも大きな建造物のためすぐに分かる。一直線に行こうにも、あちらこちらでハゥフル同士でのいざこざや争いが起こっているため、かなりの遠回りをさせられる。同時に武器を持った者たちの戦いすら勃発しているようで、場合によっては魔法の行使によって巻き込まれてしまいかねないため、やはり迂回も行わなければならなかった。
海中で息ができるというのは、それだけで有利なのだ。アレウスたちは護符がいつ効果を失うかどうかで気が気ではないが、彼らは呼吸を続けることができるためにそこに意識が向くことはない。対峙するようなことがあれば、まず勝ち目がない。改めてヴェインの魔法は画期的であり、水中における有利不利を消し去る代物だったことを知る。
城は警備が厳重になっているかと思いきや、その多くが出払っている。なんとも不思議な話だ。逆に警戒したいところだが、入れる内に入ってしまいたい。正面の門は明らかに危険なので、別口から侵入する。こういったとき、巨大過ぎる建造物は守る箇所が増える。要所に絞ればどうということはないが、海底街だけに留まらないこの国を揺るがすほどの混乱が、要所の警護すらも乱している。だから安易に入れてしまった。
「あそこだ」
アレウスは呟き、バタ足を強めて突き抜ける。突如、海中から放り出されたかのように全身に重力を感じて床に叩き付けられた。それを見たアベリアは床を這うようにして泳いで突き抜け、アレウスの二の舞になるのを防ぐ。
「水圧がなかったのも護符のおかげかな?」
「だろうな。こんな深いところに一気に来たら普通は肺も潰れる。骨だって怪しい」
護符の効果は呼吸の確保。そうなると必然的に肺を保護することになる。なので、アレウスたちは水圧を感じることなくここまで来ることができた。
「ここまで上手く行くと、全てトントン拍子に……とは行かないか」
全部が全部、良い具合に物事が進んでくれるのではとアベリアに話そうとしたが撤回する。
カプリースが立っている。
「あれは魔法で作った分身」
「なら、戦う意思はないのか……?」
『過去の記憶を持ったまま別の世界に産まれ直したときに感じることはなんだと思う?』
カプリースの分身が語り掛けてくる。
「声を再生されているだけか?」
「多分。だからどう答えても意味はないと思う」
『新しい人生への喜びか? 新たな世界への渇望か? 今度こそ満ち足りた日々を送ってみせるという強い決意か? ははっ、確かに産まれ直す前は考えたさ。どれもこれも、全て上手く行くって考えた。記憶を保持したまま産まれ直すんだから、幼さを盾にして下品なことも沢山してやろうとも思ったさ。でも、そんなのは“妄想”なんだよ。妄想だからよかったんだ』
「産まれ直し?」
「カプリースは僕と同じで、産まれ直している……はずだ」
「そっか」
『本当の本当に産まれ直した時、僕は絶望した。終わったはずなのに、また生きなきゃならないのか。また、何十年と生きなければならないのか。それも、僕の生きてきた世界よりもずっと文明が退化している世界で、生きなければならないのか。なにをするにしても手間のかかる世界で、生にしがみ付かなければならないのか。あまりにも、あまりにもむごいだろう? 僕は一瞬思ったよ。これが、地獄か……って。これが地獄の世界なんだ、と』
水の分身が崩れ落ちて、次に左側に新たな分身が生じる。
『なぜ産まれ直して喜べる? やっと自分の人生を終わらせることができたのに。別に無念でもなく、全うしたのになんで“また生きなければならない”? それも、何十年も生きなければならない。だからといって自分で自分を殺すのは怖い。なんでって、一度でも死を体験したのなら分かるだろうけど、死は心地良くなどなく、どうしようもなく無意味だったはずの人生を、無味乾燥だった人生を……まだ生きていたかったと思いながら死ぬからだ。なんでなんだろうね。人生が終わって清々しく思っていたはずなのに、抜け落ちる意識の果てで凄まじいほどの命の咆哮を起こす。体の痛みなど抜けていく。でも心の痛みは、痛烈に魂に刻まれるらしい』
「アレウスも?」
「いや、僕はぼんやりとしか憶えていないんだ。自分がなにが原因で死んだのかも思い出せない」
『けれど、世界は僕を見捨ててはいなかった。僕は僕の人生を終わらせる必要もなく、世界が僕を拒んでくれた。だから戦禍に呑まれた。戦争孤児になって、いつ死んでもおかしくないくらいに痩せ細った頃に、僕は以前よりも早く死ぬことができたなと思いながら、やっぱり“生きていたかった”と思いながら死にそうになった』
水が崩れる。そして新たな水の分身が生じる。
『そこで僕は出会った、出会ってしまった。僕に手を差し伸べる、か弱い細腕の女の子に。彼女は自身に課せられた重責に苦しみ、彼女をそこまで追いやった過去に毎晩毎晩、泣き叫んでいた。ハゥフルの声は海の生物にも届く。いわゆる歌声みたいなものさ。彼ら彼女らの歌声は変に人の心を奮わせる。けれど、そんなのは歌声に限ったことじゃなかったんだ。彼女の泣き声は、生命からエネルギーを奪い、徐々に徐々に街並みから色を失わせていった』
「ハゥフルの歌、か」
「別名は人魚の歌だよね? 聞き惚れたら、海に引きずり込まれるって」
「それは僕たちヒューマンを怖がらせるための作り話だと思っていたけど」
『色のない城内から僕は不意に外へと出してあげようと思った。その頃には付き人として一応ながらに認められていたからね。そうなるのにも随分と時間が掛かったんだけど、彼女のためなら仕方がない。陸上と海底街を行き来して、あとは水中でも呼吸のできる護符なんかを作ったり、あと沢山の水の魔法でのやり取りを考えた。水の分身もその一つだよ。この魔法は僕にとっての彼女への伝書鳩なんだ。徐々にこれの範囲を広げることで、情報収集にも使えることを知った。そこからは、色んな国々で調べものをした』
『僕自身も国から離れて、沢山の街を回った。その街の女を口説いたり抱いたりするのは、それが一番手っ取り早い情報収集方法だったから。娼婦は意外とお喋りだからね。客の前では話していなくても待機室や待合室、宿舎なんかでは当然のように秘密が暴露されている。そのためには娼婦と接触して水魔法を忍び込ませる必要があった』
「回りくどい言い訳をしているな」
「回りくどいの?」
「いや……あとでバレたら怒られるから、必死に言い訳を考えたことを僕たちにも言っているように感じただけだ」
『そんなこんなで僕は多大な貢献をして、彼女を城の外へ――陸上に向かわせる話も通った。でもね、なんとかして陸上に立たせたら……僕は彼女の心が壊れていることを知った。彼女は、街並みを見てコラール・ポートと言ったんだ。コラール・ポートは以前のハゥフルの国の都市名だ。でもここはコロール・ポート。何度言っても認めてはくれなかったし、なにより彼女の目は色を認識できていなかった。今の海底街と同じ、白と黒しか分からないんだ。それが王女から女王への戴冠式をやらない理由でもある。彼女はね、言うんだよ。もうすぐお父様とお母様が遠征からいつか帰って来ると。そんな日は、永遠に訪れないというのに』
「王女は女王と国王が生きていると思っている」
「それなら、戴冠式をする必要はないの?」
「まだ両親の統治が続いていると思っているからな」
『でも、心が壊れている割には意外と頭は良い。女王と国王のためにと言えば、大概のことには努力を欠かさない。獣人の姫君がさらわれ、この国に運ばれたという情報を得るためにも一芝居を打ったし、なんとしてもこの問題を解決すればお父様とお母様に認めてもらえると言っていた。その解決に伴う獣人の利用については、悪いけど僕が一番最初に吹き込んだ』
『最低最悪な提案をして、それを拒否してもらって折衷案を彼女に出してもらった。そうすることで彼女の権力は強いものだと周囲に思わせることができたし。その前のシンギングリンへの恩売りも否定的だったけど僕が最低最悪な提案をして、譲歩案を彼女が出すことで国が一丸となった。どんなに壊れていてもね、やっぱり国は彼女で保たれているんだよ。その血を利用していることへの後ろめたさもあったんだろうけど、国の雰囲気を作るのはいつだって国で一番偉い奴だ。そういう風に、国々を見てきた僕は思った。でも、穏健派と強硬派が居続ける以上、それはただ僕がそう思いたいってだけだったんだろう』
水が崩れて、新たな水がカプリースを形作る。
ただし、この分身は他と違う。アレウスはゆっくりと腰に差している剣を抜く。
『でもね、彼女も彼女で僕に枷を掛けていた。要は逃げないようにするための手段だったんだろうね。『海より出でる悪魔』は、僕のアーティファクトなんだけど、それは彼女のロジックから僕に一部書き写された物なんだ。つまり、彼女の中にある強力な魔力を千切って僕のロジックに植え付けているってこと。だから僕は尋常じゃないほどの魔力で水を操れたし、常人では到達できないほどの距離の水に魔力を与えて動かすこともできた。それは彼女の中にあった力の悪い部分。穢れた水になってしまうのも、そのせいだ』
『でも、それを僕が持ち続けている限りは彼女の力は悪い影響を与えない。僕が持ち続けることが絶対に良い。幸い、僕のロジックは彼女にしか開けない。開けないからこそ、『魔眼収集家』みたいな常軌を逸した奴に目を付けられなければロジックからアーティファクトを奪われることもない。あと、奴は『眼』が好きだから、『眼』とは異なるアーティファクトには手を出さないから、その点は気を付けながらもどこか安心していた』
水の鎗を作り出し、分身が動く。
『まさか、僕に手を差し伸べる前に彼女に、『服従の紋章』が刻まれているなんて思わなかった。そいつは突然やって来た。彼女は止めもしなかった。いや、止められなかったんだ。その紋章がある限り、逆らうことは絶対にできない。彼女が受け入れるのなら、誰も疑いなどしない。僕一人を、除いては……最終的に、その男の登場によってあらゆることが堰を切るように起こってしまった』
鎗の穂先を剣で受け止め、弾く。
『だから、どうか止めてくれ。アレウリス・ノールード』
分身だと思っていたのは分身ではなく、全身に水を纏っていただけのカプリースだった。
『これは今の僕が発しているのではなく、もうどうしようもないと悟った過去の僕の言葉だ。多分だけど、君に襲い掛かる僕は僕じゃなくなっている。そして、願わくは……クニア・コロルを、救ってくれ』
「そんな願いを口にしながら襲ってくるな」
その言葉がたとえ、今のカプリースから発せられているものではないのだとしても。
「殺せなくなる」
穂先が炸裂して、水の衝撃を受けてアレウスは吹き飛ぶ。だが、その勢いは強くはなく体勢を崩されるほどではない。
「アベリア!」
「でも!」
「王女を助けに行け! カプリースの言い方だと、この先で穏健派と強硬派の争いは起きていない」
「それでも内政干渉に」
「どうだっていい!」
続くカプリースの断続的な鎗の攻撃を凌ぎながら叫ぶ。
「願われた以上、冒険者は可能な限り叶えなきゃならない」
「……うん」
アベリアが城の奥へと走っていく。それをカプリースが阻止しようと動いたが、アレウスが全力で先回りして剣を振って下がらせた。




