血の匂いを纏った女
「奴隷として連れて来られた方たちはギルドで保護してもらうよう話を進めます。この事実を知らなかった娼館関係者にも既に協力を得ています。あとは、ここに違法に奴隷を監禁した奴隷商人の確保に動くだけです」
「それはノックスにやってもらっています」
「奴隷の人数からして奴隷商人は単独で行動しているとは思えません。小規模ながら二、三人による犯行としか思えません。でなければ海を渡ることさえ困難なはず」
屋根裏から降りて、リスティはアレウスと話しながら奴隷だった女性たちの容態を見ている。
「栄養失調……とまでは言い切れませんが、しばらくは療養させなければなりません。食事もまずは消化の良い物からでないと胃が受け付けないでしょう」
「その人たちのことは任せてしまっていいですか?」
「はい。娼館の協力を得られたのであれば、ギルドまで運ぶことはそう難しいことではありませんから」
これで、この場の問題は解決したと考えていいだろう。あとはノックスが奴隷商人を見つけ出して、妹を救出するだけだ。
「僕たちは……アベリア?」
「あ…………ぁ、あ」
床に座り込み、頭を両手で押さえて体を震えさせている。
「大丈夫だ。あの人たちは助けることができた」
「ぁ…………違う、違うの。違う……違う」
「どうした?」
「トラウマを刺激されて、『衰弱』の影響が再び出ているのかもしれません。アベリアさんの復帰は当初より信じられないほど早いのです」
「でしたら、わたくしがアベリアを病院に連れて行きますわ」
「そうじゃ……ない。そうじゃ、ない」
アベリアは首を横に振り、呟く。
「なんで、なんで……なんでなんでなんでなんで」
「一体どうし、っ!」
娼館全体に敷かれていたはずの魔法陣が解けたことを、アレウスは感知の技能が働き始めたことで知る。
どうしてこのタイミングで魔法陣が解けるのか。別に娼館に被害を及ぼすような決定的な攻撃は行っていない。クルタニカが壊したのは天井だけだ。
「まさか……魔法陣は下から上に働いていたのではなく……天井裏から下に、働いていた……?」
理解した途端に、禍々しい気配にアレウスが動けなくなる。正確には信じられないほどに込み上げる吐き気を抑えることに専念し過ぎて思考が行動にまで伝わらなくなっている。
「エビを追って小魚が群がることはよくあるが」
気配が近付いてくる。アレウスは咄嗟にアベリアの着ている服のフードで髪を隠すように被せる。
「大魚まではやって来ないようじゃ。ままならんな」
「下がるんでしてよ、アレウス!」
クルタニカがアベリアを隠そうとしているアレウスの前に立つ。
「全国のあらゆるギルドで指名手配を受けている人物ですわ!」
「どれだけの餌を撒いたところでギルドを知っている冒険者を釣ったところで、商品にすることもできない。ワシが望んだのは、もっと極上の価値を持った女子供のはずじゃったが……こんな辺境の小国のしがらみ如きで進むことも戻ることもできん娼婦など手駒にしようと思っても使えんようじゃ」
フードを被った老人口調の男の頭はアレウスたちが取り押さえた娼婦に向き、どうやら睨まれたらしくその娼婦は恐怖の怯え切って震え上がる。
「まぁ元より娼館での調教など考えてはおらんかった。ここに隠匿しようと思ったのも、むしろ見つけてもらうこと前提でしかない。追っ手が掛かることぐらいは老いた頭でも分かる。いかにしてその追っ手を引き止め、肝心なことを遂行するかが鍵となる」
「肝心なこと……それが獣人の姫君を奴隷に紛れ込ませて運ぶことなのでしたら、失敗ですわよ! もうあなたの息が掛かった商人の荷馬車はどれもこれもあばかれるのですから!」
「要らん」
「な……?」
「ワシは当初から獣人の姫君など要らん。あれは商品にもならん上に価値も付けられん。ならばどうしてわざと運び、わざとこの国で、そしてわざと動かしているか分かるかのう?」
「誘った……のか?」
アレウスは呟くように言う。
「ワシが欲しているのは一時の財ではない。追っ手は獣人の姫君を探して、肝心なことにも気付けん。もう少し頭の回る追っ手が掛かることも考え、二の矢も三の矢もこしらえていたが、こうも容易く掛かられてはそれを出すまでもない」
男はアレウスの発言に少しばかりの評価を見せるような、そんな僅かばかりの笑いの混じった言葉を零しながら翻る。
「逃がしませんわ!」
「ワシは逃げんよ。逃げはせんが、歯向かってはならんと思うがな」
どこから出てきたかも分からない。
男とクルタニカの合間に風が吹き荒れ、いつの間にか別の男が立っている。感知の技能は働いているはずなのに、全くその気配はなかった。『影踏』やクラリエと同様に、この人物も気配を完全に消し去ることのできる技能を持っているのだろう。
「追っ手を足止めしろ、殺せとまでは言わん」
「確かに……殺すには少しばかり面倒な者たちばかりだ」
手には剣が握られ、娼館の五階全てをクルタニカが発した風ではない極めて“悪魔的”な風が満たしている。
「なぜここにいるんですの? 『鬼哭』!」
『鬼哭』。それは聞いたことがある。確か、ルーファスが『至高』に辿り着くのを待っている冒険者だ。自身が先に『至高』に到達してからは胡坐を掻き、一切の仕事のほとんどを『掃除屋』として遂行しているはずだ。
「元より帝国にいたのは気分でしかない。俺の元々の位置は、こちら側だ」
「……っていたのに」
「なんだ? 『異端』のアリス」
「ジェーンとアイリーンはあなたを信用に足る冒険者と呼んでいたのに!」
「……まさか本気で信じたのか? 他人の評価を、自身がくだした評価に結び付けるとは愚かだな。『魔剣』に師事しているとは思えないほどの愚かさだ」
老人が階段を降りようとする。しかしアレウスが感じ取っている気配は未だに遠ざからない。ならばこの『掃除屋』にして『鬼哭』の男が、気配の正体だったのだろうか。しかし、この男は現れるまで気配がなかったのだ。
だからもう一人いる。アレウスが感じ取った、吐き気を催すほどの気配を携えた者が。そしてその気配は、段々と濃度が強くなる。強くなりすぎて、アレウスはもはや『鬼哭』になにも言うことができず、アベリアの傍で震えていることしかできない。
「たとえ帝国に忠を尽くしていないとしても、犯罪者の片棒を担ぐなど」
「貴様がそれを言うのか? 『影踏』の片腕を奪った貴様が」
「知って、いるんですの?」
「当たり前だ。帝国に忠を尽くしてはいないが、相応に仕事はやっていた。ドワーフが鍛冶屋に注文していた武器を送り届けたのも、その後の悪魔に変わろうとした機械人形を仕留めたのも俺だ」
「そこまでしてなぜ、そこの男に味方するんですの?!」
「貴様たちに胸中を明かしてなんになる? 感情的にならずに直情的に殺しに来い。でないと、」
にじり寄ろうとした『鬼哭』は足を止め、吹き荒れていた風を鎮めさせる。
呼吸音しか聞こえない数秒の沈黙。
そこに、“絶対なる強者の気配”が入り込む。
「『エビで鯛を釣る』って言葉がこの世界にあるかは知らないけれど、まさかあんたみたいなゲスの塊と同様のことを考えていたなんて反吐が出そうよ」
圧倒的な“血の匂い”と“殺意”を漂わせているが、気立ての良さを取って付けたような笑みを浮かべながら、女性は五階の曲がり角から靴音を高らかに鳴らしながらやって来る。
「腐っていても人間は人間。商品になる前であっても、なにかが起これば必ず姿を現して一応の確認は取ると思っていたのよ。それも冒険者のせいでちょっと予定が狂ってしまったんだけど」
皆が動けない中、その女性だけが動けている。停止した時間の中で唯一無二の彼女だけが動けているかのような感覚。動かなければ恐らくは死ぬのではないかと思うほどの膨大なる殺意に目が回りそうになる。
「久し振りね、563番目」
今まさに階段を降りようとしていた男の足は止まり、僅かに後ろを向いた。
「ワシを名前ではなく番号で呼ぶとはのう」
「その顔じゃ憶えていないの? 老衰かしら? どれだけ化け物めいた噂が飛び交っていても、老いには勝てないのかしら」
「……殺せ」
『鬼哭』にそう命じて男は階段を降りて行った。それを阻止しようと女性が動こうとするが、一瞬で距離を詰めた『鬼哭』が首元に剣を当てる。
「なにかされる前に死んでもらう」
「もうなにかをしていたとしたら?」
女性が目を見開き、アベリアにも似た莫大な量の魔力を放出して『鬼哭』を弾き飛ばす。しかし、魔力だけで弾き飛ばしたのではない。女性は、自分自身の“中”から溢れ出た魔物の腕で弾き飛ばしたのだ。
「ひょっとしたら勘違いをしているかもしれないけど、563番目が敷いた魔法陣は私が先に来てから消して、別の魔法陣を敷き直した。でも私は魔法陣にそこまで詳しくはないから、消した魔法陣に感知の技能が働かなくなるように付け足しただけだったけど」
「どうしてそんな無駄足を」
『鬼哭』が呟くと、女性は不気味な笑みを浮かべる。
「どうしてって……私の気配を感じ取ったら、あなたたちがここに現れることは絶対になかったじゃない。船に忍び込むのも大変だったけど、この娼館に潜伏するのも楽じゃなかったわ」
体内から溢れる魔力を喰らうようにして、やはり女性の“中”から魔物の腕は伸び、そして次々と姿形を現し、咆哮を上げる。
「そこを退いて?」
「無駄だ。もう既に“奴”はここにはいない」
「それが本当か嘘か確かめる手段がないから……仕方がないな……全部、壊すかな。全部、食べていいわ。喰い尽くしなさい。でも、563番目だけは殺さずに持って来てくれると嬉しいわ」
女性は自身を取り巻く魔物たちを撫でながら指示を出している。
「『異端』のアリス、忠告だ。貴様たちはありとあらゆる者を引き連れ、ここから出て行け。こいつはここを俺ごと壊す気だ」
「あっははははははっ! なに言ってんの?! 私は必要に迫られればこんなクソみたい建物どころか、街や国だって壊すつもりだって言うのにさぁ!!」
マズい。
アレウスはクルタニカに頬を叩かれてようやく動けるようになる。アベリアの手を掴んで走り、クルタニカはリスティを連れて逆方向の階段へと駆け出す。助けられるはずだった奴隷たちの手を引く余裕も猶予もアレウスたちには与えられていなかった。
「間に合いませんわ!」
三階まで降りたところで崩落を知らせる轟音が響く。娼婦や娼館関係者が揃って出口へと向かうのを見届けてから、クルタニカが前方の壁を空気の刃で切り裂いて穴を空ける。彼女を信じて飛び込み、風を身に受けてアレウスたちは地面にゆっくりと落下しながら着地する。
「これじゃ……」
アレウスはそこから先の言葉を呑み込む。
「……ちょっと待て」
崩落が始まった娼館から離れるように走り出したところで、アレウスは娼館に入る前とあとで変わった景色の変化に気付く。
霧が晴れている。
そして、土煙を上げながら城門の方角からは謎の集団が、水平線の向こうには船団がこの国へと攻め寄せようとしていた。




