上
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「コロール・ポートを包む霧が一体どれだけの命を救っているか、そなたはご存知か?」
城内の地下へと続く階段を降りながら男は訊ねる。
「霧のおかげでこの国は襲われずに済んでいる」
「そうだ。海中と異なり、陸上ではハゥフルの活動も制限される。それら全ての問題を解決するだけでなく、霧によって外部からの侵入を防ぎ、尚且つ霧の影響を受けた外部の敵を闇へと葬り去ることができる。しかし、この霧の根源について多くは語られない」
「語れば悪用しようとする者が出てくる」
「国を、そして王女様を守る意味でも我らが定期的に破損がないかどうかを調べなければならない」
男は立ち止まり、壁の一部に手を当てて、強く押し込んだ。階段と、そして男たちが立っている場所全体に海水が注ぎ込まれていく。
「この城は常に空気の層で守られているが、“あれ”は我らも水に守られていなければならない」
「だからこうして海水を流し込む装置があるわけか」
「元よりこの装置も、“あれ”を安置するために用意されていたかのようだ。いや、城が造られ始めた頃から考慮されていたのだろう」
海水に満たされた中、平然と呼吸と会話を続けながらハゥフルの男の一人が鍵を用いて扉を開ける。
「見よ。“あれ”こそが、この国に平和をもたらす“この世の理から外れた物”だ。我らはこれから何度も見ることになる」
男が指差した先にあるのは地下に整えられた荘厳な祭壇。そしてその中心に安置されている“水瓶”だった。
「これが……」
「触れてはならない。目で見て調べるんだ。それぐらいしか我らにはできることはないが、これが安置されていなければ我らも気が気ではないのでな。特にここのところ、不穏な雰囲気が国全体に満ちている。他国からの渡航者も含め、これからは警備の数も増やさねばなるまい」
「その必要はない」
「なん、」
男が言い終える前に、もう一人の男がその胸に刃物を突き立てる。
「そなた……ま、さか……」
「これが、コロール・ポートの時代を遅らせている旧時代の遺物……これを壊せば、我らは世界に開く国を作ることができる」
「や、めろ……! 触れては、いけない!」
刺された腹を押さえている男が必死に止めようとするが、男は構わず水瓶に触れる。
「……ふははははっ! なにも起こらないじゃないか! そうやって怯えさせれば私が考えを改めるとでも思ったのか?!」
男は水瓶を持ち上げ、状態を確かめる。その底の縁は欠けており、僅かに穴が空いている。
刹那、水瓶から気泡が噴き出し、空いた穴から生じた膨大な気泡が繋ぎ合わさって触手のように伸び、男の頬を撫でる。しばらく様子を窺うように男の体を触手が撫で続けるが、やがて男を無視して城の地下から地上階に向かって伸びていく。
「……ビビらせやがって」
そう呟いた男の手から水瓶がさながら『意識』を持っているかのように蠢いて、気泡の触手が大量に注ぎ口から這い出る。凄まじい勢いで膨張と成長を続け、その一本が男の鼻腔を貫いた。男がもがいていることすら無視して体内を駆け抜け、その触手は真っ赤に染まる。気泡――空気の層を維持しながら、触手は男の血という血を水瓶の内部へと吸い上げ、干物のように干からびた“ハゥフルだったもの”を放り出し、複数の触手を使って水中を泳ぎ出す。
「だから、言ったというのに……もはや、王女様でもどうにもならん……ああ、国王陛下がいらっしゃればこんなことには……」
刺された男は無念を感じながら息絶える。その死体を水瓶は見逃すこともなく、触手を口腔内に奔らせて血液を吸いながら蠢き、進む。
*
「アレウスさんの説明通りなのだとしても、なんだか騒々しいですね」
リスティは周囲を見渡しながら呟く。霧の中でもギリギリ見える範囲にいるハゥフルたちはあちらこちらを走り回っている。
クルタニカ、ノックス、そしてリスティと合流後にカプリースと話した内容を明かし、悪い状況に事態が向かっていることを伝えた。だが、それでもハゥフルの動きが物々しい。まだ物事は水面下で進んでいる段階で、国民が知る段階にはないはずだ。
「国内情勢に関わってはなりませんわ。わたくしたちは娼館に向かいますわよ」
恐らくだがクルタニカも気になっている。だが冒険者の立ち位置を知っているからこそ、それらを我慢して優先事項を整理したのだろう。このあと、この国で争いが起きるのであれば、その混乱を利用されたくはない。
この街で一番煌びやかで大きな建物に着く。入り口付近から建物の敷地外にまで女性が立っており、その服はどれもこれも扇情的である。とはいえこの街は透けた衣服を着る文化であるため、そこまでアレウスの心は揺さぶられない。数日ではあれ、女性と生活したことによって僅かだが耐性が付いたのかもしれない。
実を言うと、アベリアのこと以上にアレウスは自分自身を心配している。娼館がどういったものかは知っているが、実際に目の当たりにしたら心を奪われてしまうのではないか。アレウスのように性欲を嫌悪していても、快楽を知れば元には戻れない。逆に通い詰めるような客にまで成り下がる。そうならないためにここに限らず、シンギングリンでも娼館には昼夜を問わず絶対に足を向かわせることはなかった。だが、ここまで来ればもう引き返せない。娼館に入ることに大義名分を得てしまったのは尾を引いてしまいそうだが、それを口に出すことはせずに黙々と娼館の開かれた扉を潜った。
館内では女性の柔らかで落ち着いた、とにかく慈愛に満ちた声が聞こえる。まだロビーであるため、嬌声を耳にすることはないにせよ、指が背筋を滑ったようなゾクゾクとした快感をアレウスは感じずにはいられない。
「普段からああいう声を発しているわけではありませんよ? あくまで男性からお金を取るために、物腰が柔らかく落ち着いた雰囲気の声を発しているだけに過ぎません。高飛車な女性が好みの男性もいらっしゃることは承知ですが、そういった女性は男性からの指名があるまでは部屋で待っていることの方が多いでしょう」
リスティに諭されたのは『鼻の下を伸ばすな』という警告に違いないのだが、館内に入ってから甘い香りが鼻をくすぐって仕方ない。女性陣は平然としているため、普段かお香や香水を使わないアレウスだけに影響が出ているらしい。
「本日はどのようなご用件でしょうか? 当館では部屋の貸し出しもしておりますが……お一人でその人数をお相手に?」
「いえ、ここには……」
言葉が出てこない。なにをしに来たのかを正直に話すわけにはいかない。
「すいません、ここを利用するのは初めてで……」
女性を連れての利用というのが存在するのかは不明だが、とにかく初めて利用することを主張さえすれば相手の対応はより柔和なものになる、とアレウスは思った。
「ああ、それでしたらこちらの方に座ってお待ちください」
案内されたソファに腰掛けるも、気が落ち着かない。
「アレウス?」
「……感知の技能が働かない。娼館全体に魔法陣が敷かれている」
「シンギングリンのギルドにあったものと同じですわね?」
「ワタシもサッパリだ。なんにも分からねぇ」
「そこまでして、冒険者の技能を封じたい理由があるんですの?」
「冒険者が娼婦を傷付けないようにと、あとは……」
アレウスは不意に上げた視線の先に、一人の娼婦が映る。目が合ったわけではないが、アレウスを見たその女性の挙動に乱れが生じる。
優雅な佇まいや物腰の柔らかさを主張していた雰囲気を一転させて、良くない者がやって来たかのような極度な変調を見てアレウスは即座にソファから立ち上がる。それを見て娼婦が走り出す。
やましいことや、アレウスに対して思うことがないのなら走り出しはしないだろう。客の一人がソファから突然立ち上がった程度で自身の纏っていた雰囲気を揺らいでしまっては仕事も務まらないはずだ。
アレウスが娼婦を追い掛けるとともに、アベリアたちも各々が一斉に走り出す。
「待て!」
逃げている娼婦に声をかけるが、足を止める様子はない。感知の技能は働かないが、身体能力まで封じられているわけではない。加速に次ぐ加速を行って娼婦を一気に追い詰める。
さながら狙っていたかのように娼婦は廊下を右に曲がる。このままだとアレウスは足を止めても壁に激突してしまう。が、アレウスは跳躍して壁を一時的に足場のようにして数回駆けたあと、重力によって肉体が床へと落ちていくタイミングで一際強く壁を蹴ることで二度目の跳躍を行い、床に足から自然と着地する。失速はなく、曲がり角で身を潜めようとしていた娼婦の腕を取り、一気に引き寄せながら急停止する。抱き止めるのではなく自身を軸にして反対側へと遠心力で投げ飛ばし、後方で構えていたノックスが娼婦を捕まえ、羽交い絞めにして床に這いつくばらせた。
「なんで逃げた?」
肩で息をする娼婦に対し、汗一つ掻かずにアレウスは訊ねる。しかし、答える気がないらしい。
「アレウスさん、このままなにも聞き出すことができなければ娼館から追い出されます」
娼館に務める娼婦を不当に追い掛けて押し倒し、羽交い絞めにした。その事実だけが残り、正当性が失われる。だが、目が合ったときの挙動が不審だったからという理由だけで追い掛けたアレウスには決め手がない。勘だけで動いただけだ。
「ねぇ」
アベリアが娼婦の横に座り込み、声をかける。
「なにがそんなに怖かったの? なにをまだ、そんなに怖がっているの?」
娼婦はなにも言わない。
「私たちや、アレウスに追い掛けられたことに怯えているんじゃ……ないよね?」
その問いに娼婦はやはり答えない。だが、目が一瞬だが上を向き、再び正面を捉え直した。
「上」
アベリアが指差す。
「この娼館は何階建てだ?」
「外から見た窓の数で言えば五階建てですわよ」
「リスティさんはノックスに代わってその人を押さえておいてください」
「分かりました」
リスティにあとは任せ、アレウスたちは再び走り出し、階段を駆け上がる。
五階に来て、廊下を見回す。部屋数はそれほど多くないのか扉の数が少ない。恐らくは最上階ということで部屋の間取りが特別客のために広めに設けられているのだろう。
「僕とアベリアは左から、ノックスとクルタニカは右から」
「分かった」
ノックスが肯き、クルタニカよりも先に駆け出した。
二手に分かれて廊下を駆け抜ける。どの部屋も鍵は掛けられているが、まだ日中であるためかどの部屋も使われている形跡はない。技能の諸々が封じられているため直に扉に聞き耳を立てたり、扉を複数回、乱暴に叩くなどして人の気配がないことも確認が取れた。そのまま成果を得られずに分かれた二人と合流する。
「なにもありませんでしたわ」
「こっちもだ」
「あなた方がなにをお探しであるのかは分かりませんが、館内をこのように走り回られては困ります!」
五階にやって来た女性がアレウスたちに怒声を飛ばす。
「娼婦を不当に追い掛け、傷付け……それ相応の覚悟はありますか?」
違う。ただの勘違いではない。アレウスは女性にそう説明しようとも思ったのだが、表情からしてまず話を聞く姿勢にない。ならばなにもかもが本当にアレウスの思い違いだったのだろうか。
上、とアベリアは呟き指差した。上というのは、どこまでを指す言葉だろうか。もしも、あの娼婦にとっての『上』が『最上階』を意味するものではなかったのならば――。
アレウスは硬貨を手にして天井に投げ付ける。
天井から訴え掛けるように大きな音が響く。
「随分と大きなネズミを飼っているんですね」
アレウスは女性に挑発的に言う。
「屋根裏を調べさせてもらってもよろしいですか?」
その一言を受け、先ほどまで攻勢だった女性が翻る。ノックスが風の如く走り抜けて女性を後ろから突き飛ばし、先ほどの娼婦と同様に床に組み敷いた。
「隠し階段がどこにあるかを吐いてもらうまでもありませんわ」
クルタニカが風を纏って浮き上がる。天井付近で、杖で空気を切る。生じた風の刃が天井を切り裂いて、落ちてきた木材を踏み台にしてアレウスが真っ先に屋根裏に上がる。
「“灯れ”」
アベリアの唱えた魔法の光球が屋根裏を照らし出す。
両手両腕を縛られた複数人の奴隷。性別は全て女性。薄汚れた衣服と、近くには汚れた料理皿と排便用のバケツ。どう見ても清潔感はなく、また人間としての扱いを受けていない。
クルタニカが屋根裏に上がってから風を解き、両手足を縛られている女の子の体を検める。
「『服従の紋章』を確認しましてよ。これは奴隷商人が商品として扱う奴隷に付ける物ですわ。中にはかなりタチの悪い呪いみたいな効果を及ぼすものもあったりしますが、この子たちに付けられているのは異なるようですわね。間違いなく、不法に連れて来られた奴隷たちですわ」
「ノックスの妹はいるか?」
「……いえ、どこにも。獣人の姿はありませんわ」
「クソ……」
「尻尾の生えたお姉さんのこと?」
女の子の一人がボソリと呟いた。
「知ってい……僕が聞くよりアベリアが聞いた方がいいか」
奴隷商人に連れ去られ、こんなところに閉じ込められていたのなら男性恐怖症になっているかもしれない。アベリアが屋根裏に上がるのを手伝い、彼女に質問は委ねさせた。
「獣の耳と、尻尾の生えたお姉さんを知っているの?」
アベリアが優しく問い掛ける。
「うん……私たちよりも、厳重に縛られていて……食べ物も、そんなに多くは」
「弱らせるためだって」
「環境変化へのストレスと、食欲に狂わせる、って」
「食べ物を食べさせないことで身体的に弱らせて、精神的にも参らせる方法と言っていました」
「私たちも、あんまり食べさせてもらえていなかった」
「お腹を空いている私たちの前で、美味しそうに料理を食べるの」
「何人かは食べさせてほしいって言って、なんでもするって言って、ここから出してもらっていたけど」
「尻尾の生えたお姉ちゃんはずっと抵抗していて、口を縛っている物を外されたときも、絶対に従おうとはしなかったんだよ」
「私もその姿を見て、死ぬまで抗い続けようと決めたんです。どうせもう死んだも同然なのだから、服従して苦しみを味わい続けるよりもずっとマシだと……」
「その人はここにはいないの? 誰かに連れて行かれた?」
「うん、お姉ちゃんたちが来るちょっと前……ここじゃ時間が分かんないから……あんまり自信ないけど」
「これから大きな事が起こるから、その混乱に乗じて城門を突破するって」
「ノックス!!」
アレウスは叫ぶ。
「城門だ! 僕たちのことはいいから城門に向かえ!! 全ての荷馬車を荒らして回れ!!」
「そんなことしていいのか?」
「物さえ盗らなきゃお前の正当性が通る! 僕が最後まで主張してやる、絶対に!!」
アレウスが降りてノックスと女性を押さえ込むのを交代する。
ノックスは五階の窓ガラスをぶち破り、一瞬にして目の前から消え去った。
「もう、おしまいよ」
「おしまいだと?」
「この国はもう終わるのよ。だから、こうして悪いことがバレたってなんにも怖くない」
「どうだっていい」
アレウスは悲観的な女性の言葉を跳ね除ける。
「国が終わるとか終わらないとか以前に、あんたは人として終わっていたってだけだろ。」
悪に手を染めて、バレたから自暴自棄になった。そこにはなに一つとして同情する余地はない。そんな人の妄言に耳を貸すほど、アレウスは優しくない。




