濡れることが前提
冒険者の徴兵は全国的に禁忌とされている。それは暗黙の了解に近いもので、どこの国も破っていないと思っていた。あまり国というものを意識したことはなかったのだが、アレウスが過ごしている帝国が禁忌を犯していたと言われても、すぐには信じたくない気持ちが先を行く。
ハゥフルからの視線は依然として冷たく、ノックスが何度か耐え切れずに喧嘩を売りそうになっていたのをなだめつつ、リスティを追いかけてアレウスたちはコロール・ポートのギルドに到着する。迷わずリスティは中へと入っていく。彼女は円滑にこの街で一時滞在できるように手続きを済ませたいのだ。そのため、自身に与えられている密書の提出を終え、アレウスたちのギルドからも認めてもらうまでは気を休めるつもりはないのだろう。
「連合と王国はなにをしたんだろ」
アベリアの素朴な疑問はそのままアレウスの疑問である。恐らく、禁忌戦役と呼ばれるものは一切の記録に残っていない。そんな言葉は初めて耳にした。見聞きした者だけが知っていることで、未来へ語り継がれることでもない。だからアレウスよりも長命で長くギルドに身を置いているクラリエは知っている。クルタニカが知っているかどうかは、空で過ごしていた期間に起こったことか否かで決まってくる。
訊ねていいものなのかどうか、悩む。リスティがそのうちに話してくれると言っているのだからと自身に言い聞かせて好奇心を抑え込む。
「観光に来たわけではありませんが、羽を伸ばせる時間があるかも怪しいかもしれませんね、アレウス様」
「もう入国審査は通過したから演じる必要もなくなったんだけど」
入国審査で色々と聞かれることを考え、設定を練りに練った。だが、ギルド長の密書とエルヴァージュの渡航許可証で簡単に通過できてしまい、拍子抜けしてしまった。
「いえいえ、まだしばらくは演じさせてもらいますよ」
最大の山場は通り過ぎたが、アイシャは演技を続けようとしている。かなりの時間を費やして練りに練った設定を無駄にしたくないらしい。それ以上に彼女の従属的な性質が浮き彫りにもなっている。設定というのは建前で、誰かに従っていることで気持ちを落ち着かせたい。誰かに頼っている方が気楽なのであればそうしておいてもらって構わないが、行きすぎないかだけが心配である。
だが、アイシャに気を遣っている余裕はない。アレウスも海を渡って入国したのは初めてであり、帝国の街並みとは異なるハゥフルの生活感に度肝を抜いている。だから、頼られていることには気付けても、それ以上の言葉をかけることができない。そもそも、頼られるほど年齢的に離れてはいないし経験だってさほどの差はないと思っていることも含め、“窘める”ことができない。増長を招くかもしれないが、自身の心の安寧を得てからにしたい。
それを阻むのはアイシャの『無垢なる誘惑』の称号だ。なぜだか分からないが頼られたことに、意味もなく喜びを見出している。船の上でもそうだったが、アイシャの言動の全てがアレウスに一瞬の迷いを生じさせるのだ。
「アレウス……様、どうかしましたか?」
慣れない『様』付けをしてアベリアはどこか不服そうな眼差しをアレウスに向けてくる。この視線の意味を拡大解釈してしまえば、アレウスもまた増長してしまう。一度に二つの精神的な問題を向けられても解き方を知らない。だが、アベリアに声をかけられたことでアイシャの純真さが生み出す誘惑から逃れる。慣れてしまえば、と何度も思ったが、なぜだか慣れることができない。アベリアを意識し始めたことで、女性への耐性の薄さに気付いてしまったことが要因だろう。つまり、押されれば押されるほどアレウスは馬鹿になるマズい状態なのだ。
美少女と寝食を共にしてきたというのに、女性の可愛さや美しさや綺麗さに気付いてあたふたとするとは実に不思議な話だ。しかし、やはり不思議なことにそうなってしまったのだから、そこに理由や意味を求めても仕方がない。どうやって馬鹿にならずに乗り越えられるようになるかが重要である。
二人の話を可能な限り聞き流すような形でアレウスはギルドに入る。リスティが受付で話し込んでいるので、空いていた椅子に腰掛ける。
「……ビシャビシャになった」
席が濡れていた。霧がもたらす湿気は肌を濡らすだけでは飽き足らず、こういった提供されている物にも影響が出ているらしい。考えもせずに腰掛けたせいでズボンが一気に水気を吸い込んで濡れてしまった。あとに続いてきたアベリアたちには事情を説明して椅子には取り敢えず座らないように伝える。
女性陣は肌を濡らす以上に防寒対策が施された衣服が吸水したことでの体にかかる重みに苦しみ始めている。脱いでしまえば済むことだが、脱げばインナーまで濡れていた場合、透けて肌着や下着まで見えてしまいかねない。柔肌を他人に見られることはなんとしてでも阻止したいという気持ちだけで耐えている。アレウスだって目のやり場に困るため、なんとか耐えてもらうしかない。
海を渡り終えるまでは、なにかしらの戦闘があるとは考えていなかったため、防具を身に付けていない。それが唯一の幸いだろうか。
「帝国からいらっしゃった方々ですか?」
声をかけられて、アレウスは座ったまま瞬時に身構えてしまう。
「ああ、すいません。あちらで話をされている方のお連れだということでしたので、お声をかけさせていただきました」
ハゥフルの女性が頭を軽く下げる。
「コロール・ポートのギルドへようこそ」
「え……あ、はい」
「ご安心ください。ギルドの者は他国の者であっても冒険者を敵視したりなどしません。ここはそういった場ではありませんし、人々を守るためにと立ち上がった者たちの意志は国境を越えると信じています。ですが、コロール・ポートに所属する冒険者全員が他国の冒険者に対して偏見を持っていないわけではありません。なので、悪目立ちするような行為だけは控えていただけると幸いです。あ、少し本筋から逸れてしまいました。それでは、これよりあなた方がコロール・ポートで安全な活動を行うためのいくつかの案内をさせていただきます」
「分かりました。気を遣わせてしまってどうもすみません」
ギルドに務めているとはいえ、ハゥフルはハゥフルだ。帝国が犯した禁忌については知っているだろうし、外を歩いているだけでハゥフルに睨まれていたほどなのだから、彼女もあまり良い気はしていないはずだ。
「あまりコロール・ポートについて悪い感情を抱かないでください。私たちも忘れたいと思っても忘れられないのです。物事には後世にまで語り継がれる偉業があります。しかし、同時に後世にまで語り継がれてしまう悪行もあるのです。できることならば、私たちはどこに力も借りずひっそりと生きていたいのですが、連合から逃げるように連邦へと移っても、そこからの離脱は許されていません」
「……御免なさい」
「謝らせたかったわけではありません。むしろ帝国の方でまだ良かったと思ってしまう私の方が謝罪したいほどです。帝国はこの国に食指を伸ばさず傍観を貫いていらっしゃいます。それがただの戯れなのだとしても、直接的に手を伸ばそうとしている連合や王国に比べればまだ私たちは気持ちを抑え込めます。外を出歩いて、なにかしら嫌な思いをしていらっしゃったかもしれませんが、それはあなた方を帝国と知らずに嫌悪していただけに過ぎません。大多数は出身を知れば、睨みはしなくなるでしょう」
「そんな簡単に態度を変えられては困りまし……困りますね、アレウス様」
完全に素を見せようとしていたクルタニカだったが、ギルドに入った途端に使わずに済んでいた設定に身を投じる。それぐらい、シンギングリンのギルド以外を信じていないのだろう。
「今後はなにかしら施設を利用する際には身分証明書をお見せになるようにしてください。そして、それらは絶対に盗まれないようにしてください。要するに、いつでも取り出せるように肌身離さず持ち歩いてください。紛失された場合に起こる一切の出来事に関しては我々は責任を負いかねます。が、見捨てるわけではありませんので、紛失したと判明したならすぐにギルドへとお越しください。深夜であってもそれは変わりません。身に危険が迫る前にギルドへ来ていただき、私たちギルド関係者による保護を求めてください」
「なんだか大使館みたいですね」
「この国は連邦に所属する国以外との国交がありません。なので、連合や王国、帝国などからお越しくださった方々の保護は主にギルドに委ねられています。その割に政治に参加する権利がないのですから、少々、やり切れないところはありますけどね」
アイシャの言葉にハゥフルの女性は僅かな愚痴を覗かせる。仕草から見て、仕方なくの応対ではない。愚痴を零したのはアレウスたちに信用してもらうためだ。実情や愚痴、不平不満を口にすれば大抵は心を許してくれたと錯覚するものだ。
「あとは通貨が異なります。帝国ではビトンですが、連邦ではリプルとなります。為替のレートについてはその道の者にお訊ねください。ギルド側でも把握はしておりますが、為替に関わるような話をするのは禁じられています。中には悪徳業者がおりますので、複数の業者に声をかけて適正なレートをお確かめください」
「入国できても、すぐに休めそうにはないねぇ……」
「宿泊施設についてもこちらが提示するいくつかの施設からお選びください。利用料金はリプルでの案内になってしまうのですが、上から順にお高い料金となっていますのでご了承ください。こちらはあとで地図と合わせて紙に書いて渡しますので、とにもかくにも通貨を手に入れてから相談なさった方がよろしいかと」
国というのは庇護を受けられている内はありがたいと思うが、こうして外に出ると面倒な枠組みなのだなと思わされる。全国共通であれば、このハゥフルの女性もわざわざアレウスたちに説明する手間が省けるはずだ。
そんな風に考えたところで夢物語だ。現実的に考えて国境は必要であるし、幸いにも言語が全国でほぼ共通なことをありがたく思った方がいい。
「他に気を付けることはありますか?」
「一時的な滞在であれば通貨や宿泊施設などの説明で全てになるのですが……海を渡ってまでコロール・ポートに冒険者としていらしたということは、なにか事情があるようですね」
エルヴァージュの渡航許可証は見せていないため、ギルドではリスティが先に乗り込んだことで冒険者という肩書きが機能しているようだ。
「冒険者とはいえ、あまりそのような素振りは見せないように――身分を隠してください。また、コロール・ポートで犯罪を犯せばこちらの法律に則って裁かれます。帝国で適法でもこちらでは違法の場合があります。飲酒については帝国より緩いのですが、もしお飲みになられるとしても“以上”と“未満”の解釈を間違えないように。あとは」
ハゥフルの女性がアレウスたちを眺める。
「衣服は耐水性のある物に買い替えた方がよろしいでしょう。この国では濡れるのが当たり前ですので、他国のお召し物が傷んでしまいます。宿泊施設には耐水性、撥水性、また湿気を防ぐ措置も取られている部屋がございますので、着替えを済ませて以降は帝国にお戻りになられるまで部屋からお召し物を出さないようにしてください」
「濡れることが前提ですか」
「はい。私たちは濡れていなければ活動を大きく制限されてしまいますから。また、都市を巡る水流は海水を使っていますので、金属製品も錆び付いてしまいます。耐水加工の施された製品をお求めになられてください」
「……なんだろうな。物凄く、お金を使うことになりそうな気がする」
ぼったくり、などと考えてしまった。しかし、コロール・ポートについて下調べをしてこなかったアレウスたちが悪い。海を渡る必要のある国――それも連邦の小さな国ともなれば、国交がないのだからその手のことは調べ切れない。だが、ハゥフルの小国とまではリスティから聞いていたのだからある程度の予測は立てておくべきだった。
「水で濡れることが前提だと、どのような衣服がございまし……ございますか?」
クルタニカの口調にどうにも慣れない。だが、彼女の気兼ねなく相手に訊ねる能力は一部頼りにしていたところがある。アイシャは聞けはしても、深くを聞けるほど我が強くはないし、アベリアは人見知りでクラリエは自身の身分が明かされることを怖れているので発言が少ない。ノックスに至っては難しい話はハナから聞く気がないようで、つまらなさそうにギルドの外を眺めている。
「この国では外出時は下着代わりに水着が一般的です。その上に泳いでも重みを感じない薄手の服を着ます。ズボンやスカートの類はありますが、どれもこれも泳ぎの邪魔にならないよう短いものがほとんどですね。ですがご安心ください。たとえスカートが捲れても、その下は水着なのですから」
価値観の相違である。帝国の港町、軍港には訪れたことはあれど浜辺や海辺には近付いたことがない。なのでアレウスとアベリアはまず、その水着というものを知らない。知らないのであれば下着代わりに水着を着たところで、それは下着と同義なのである。なにも安心はできない。この点にはノックスとこの場から少し離れて話をしているリスティ以外の全員が驚くことになってしまった。
「防寒具のご利用は控えてください。溺れてしまった際に水を吸ってしまって救命が難しくなります。その代わり、この都市では偉大なるクニア・コロル様の魔法によって外気温よりも都市内は暖かくなっております。その点はもうお気付きになられているのではありませんか?」
「海に近付かなければ溺れる不安もないのでは?」
「コロール・ポートには海の下に都市――私たちは海底街と呼んでいますが、浜辺より泳ぎ出して足が付かなくなり、そこからもう少し泳いでグッと深くなったところにハゥフルの街があります。外部からの観光客や長期滞在者がハゥフルに引きずり込まれる事件が少数ですがありまして……海中での警備も年々強化されているので滅多なことでは起きませんが、一応の対策です。興味本位で泳ぎに行って、潮に流されることの方が多いですけどね」
軽い感じで言われるが、まったくもって軽くない。
この感覚の差異、環境や文化の違いがもたらす数々の驚きはまさに文化的衝撃としてアレウスたちを襲うのだった。




