海上にて
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目を覚まし、いつもと違う床の感触に慣れないままに服を着替え、身だしなみを整えようと洗面台に立ったところで手を止める。飲み水は有限であり、煮沸も濾過もされていない水では歯磨きもできない。だからタルに蓄えられている水は髪を梳くことにだけ用いる。仕方がないので塩をまぶした指で歯を磨いて誤魔化し、持ち込んだ飲み水で口の中をすすぐと同時に飲み込み、喉を潤す。全てを一口の水で済ますのは清潔感が皆無なことを除いては効率的ではある。しかし、こんな生活に慣れてしまいたくはないとも思ってしまう。
部屋を出て、手狭な廊下を歩いて甲板に出る。寒冷期がもたらす全ての冷気をここに集めたのではないかと思うほどの凍える風に一瞬、足を止めたものの自身を奮い立たせて進み、手すりの近くから水平線を眺める。
海を渡るのは即断即決だったわけではない。ギルドに呼び出され、ようやくリスティと話をできる場が設けられたところで提案したことだ。その提案以前に、エルヴァージュの言った通り、リスティを含めたアレウスたちはシンギングリンから離れるようギルド長から通達があったことも大きい。
日程の調整などを行おうと試みたが、ヴェインとガラハの帰郷を終えてからのシンギングリンからの離脱は難しく、今回は仕方無く二人をパーティから外さざるを得なかった。クラリエはどういうわけか最後まで海を渡ることを拒み続けていたがアベリアが黙らせた。
三人だけで他国に渡るのはあまりにも不安が大きく、また常識を知らないために他国に迷惑をかけ得るということでクルタニカが一時的に加わった。これにはアレウスやアベリアと同じで獣人の姫君問題に関わってしまったがゆえの彼女自身の選択だった。結果的に巻き込んでしまったことになるのか、それとも彼女から巻き込まれに行ったのか。どちらにせよ、目立ちたがり屋な部分をなんとか抑え込むことができればアレウスたちよりも常識人な彼女は頼りになる。
だが、クルタニカはシンギングリンで若干ながら素行の悪さが目立っていた。それを上回るほどの働きによって街の人々には隠せていても、地上での年齢として形式的に与えられた十八歳でありながら飲酒を試みようとしたり、賭け事に興じてスッカラカンになりかけるといった神官らしからぬ一面をギルドが把握していたからこそ、リスティは不安を拭い去れなかった。そのため、彼女自身も渡航計画に加わった。元から担当者と合わせてシンギングリンから分散することがギルドからの指令となっているため、彼女の判断は正しい。なのでアレウスはなにも言うことができなかった。
「これどうなるんだろ……渡った先で、どう説明したらいいんだか……」
頭を悩ませているのは、女所帯にほぼほぼなってしまったことだ。気を許して話のできるヴェインも、アレウスから語りかければそれなりに話をしてくれるようになった心強いガラハもいない。船の中ではなんとか部屋を分けることができたが、渡った先でしばらく生活をするとなるとさすがに人数分の部屋を借りる余裕はない。クルタニカやリスティに金銭面での支援を求めれば済むが、金の貸し借りは信頼関係を壊しやすい。あくまで最終手段として、他に手はないかと探らなければならない。
「だからあたしは泳げないんだって……うぇ……!」
すぐ近くでクラリエが海に向かって嘔吐していた。見ていれば吐き気は移る上に彼女としても見られて気持ちの良いものでもないはずなので目線は逸らし、水平線の彼方をただただ見つめる。
「あたしは山というより森育ちだから、腰に浸かる高さぐらいの河川にしか入ったことがないんだから……」
「大雨で増水するだろ?」
「そういうときは大木に備え付けた家に避難するから。それに、占星術師が大雨を予測してくれるし」
「河口で泳いだりは?」
「溺れたら大変ってことで入らせてくれない。でも、あたしが泳げないだけで神域の外の子たちは泳げていたのかも」
船の上は予想以上に揺れる。そのせいでクラリエは船酔いが未だ抜けていない。だが、船に乗った当日に比べれば顔色はマシだ。それでも悪いことは悪いのだが。
「海を渡るのに反対していたのは泳げないからか?」
「そうよ。落ちたら絶対に助かりっこないのに、ましてや船だなんて……港町までなら大丈夫なのに……揺れる~揺れる~足元が~覚束ないぃ~」
よく分からない嘆き方をしながらクラリエは船内へとフラフラと戻っていく。それとは逆に、同じように顔色は悪いのだがクラリエほどではないアイシャが甲板に顔を出した。
ニィナは反対したが、アイシャたってのお願いということでアレウスは彼女を今回のパーティに加えた。ニィナもパーティに入るかと思ったが、シエラには冒険者稼業を控えるように言われたことで家の手伝いのために本来の活動拠点である村に帰った。そうなるとアイシャの判断や扱いについてシエラがなにか言ってくるかと思ったが、その点はリスティにだけ伝えるだけに留まっていた。
「船酔いはどうだ?」
「はい……昨日よりはかなりマシになりました。お腹も空いているので、お昼ご飯は食べたいですが朝食はちょっと」
「食べなきゃ死ぬとは言うけど、食べても吐いていたら逆に死にやすいからな」
「食べた物と一緒に水分も抜けていきますからね。それなら白湯を飲んでいた方が水分補給ができていい」
「人は一日や二日程度は水分さえ取っていれば生きていられるからな。水気のある果物を食べれば、より長く生きられる」
「言っても数時間ぐらいの差しかありませんよ。結局、栄養の豊富な物を食べられなければ流行り病や栄養失調で死んでしまいますから」
もう少し上品な話ができてもおかしくない景色が広がっているのだが、なぜか船の上で死について語り合っている。アレウスが歯の浮くような台詞を思い付かず、アイシャは口説かれることを拒んでいるせいだろうか。
「冒険者は、辞めるのか?」
「単刀直入ですね」
「遠回しに言ったって、結局はそこに行き着く。なら早めに聞いた方が聞かれる側も気楽なはずだ」
「気楽かどうかは分かりませんが……そうですね、ちょっと無力感がまだ残っていて……眠るたびにあの時のことを思い出して、パニックになりかけると言いますか……なりかけるだけで治まっているだけマシなんですけど、私は……毎晩、この恐怖に苛まれ続けるのかと思って……苦しいです」
「僕は神官に向かってどうこう言える立場じゃないし、君の思うような答えを持っているわけじゃない。でも、君の判断について誰も否定することはないし受け入れることだってする。そこには裏なんてなにもなくて、君の選択を尊重しようという気持ちがあるから」
「ニィナさんも仰っていました」
「そうか……」
「正直、辞めたい気持ちが七割くらいあるんですけど、まだ諦めたくない気持ちが三割あります。知っていますか、私の出身? 田舎と街の中間ぐらいの物凄い中途半端な村なんです」
「自分で故郷をそう言うのか」
「変化が激しくて、古い家が壊されて新しい家が建つこともあったり、道の整備なんか毎日のようにあります。正直、古きを捨てて新しさだけを求め続けている故郷が私は嫌いでした。でも、代々継がれてきた神官の仕事に真っ直ぐ打ち込む父母のことは大好きなんです。そのせいで世間知らずな面が多くて、村を出てから苦労ばかりというか周りに助けてもらってばかりだったんですけど」
アイシャは手すりに手を置き、遠くを見つめる。
「変わり映えのしない景色が続くわけでもなく、そこに居続ければ私は村から街に発展するところを見届けることができる。それってとても素晴らしいことだとは思いませんか? でも、同時に思ったんです。このままだと変わり続ける村を見続けて、一生、村の外を見ることはできないんじゃないかって」
「それは」
「被害妄想ですよ? けれど、村にいるだけで景色が変わって、いつも新鮮な景色を見続けることができる状況ってあんまり良いって思わなかったんです。完全に個人的な意見になってしまうんですけど、世界から孤立するような不安感がありました。外を知らず内だけの変化ばかりに目を向けていても、外のことなんてなんにも分からないままです。私は一度も外を見ないまま、神官として生きて神官として死ぬのかなって」
「それも一つの生き様だ」
「そう、私が嫌だっただけです。だから、無理やり外に出た。物凄く反対されても、冒険者になる決めた。私は冒険者になれば教会で仕事を続ける以上に救える命だってあるはずだと信じていました」
「『いました』じゃなくて『いる』だろ?」
「……目の前で、救えるはずだったのに救えなかった。私の魔力を利用して、味方が死んだとき……凄まじいまでの罪の意識に心を蹂躙されて動けなくなりました。私が魔法を放たなければあの人は死ななかったんじゃ、と。それを考えて、答えが出ないクセに答えを出そうとして……体は完全に竦んで、現実逃避すら始めていたんです。私……村に居た方が良かったんでしょうか……お役に立てるならばと、一意専心してきましたけど……選択を間違えてしまったんでしょうか」
かける言葉なんてあるわけがない。どうにもこうにも、アレウスは便利屋にでも思われているのではないだろうか。どうしてこうも人の大事な岐路を聞くことが多いのか。そして判断を仰がれてしまう。
「僕には人の生き様を決める権利なんてない。そう前置きをしながら言うけど、アイシャは人とは違う感性を持っていると思う」
「と言いますと?」
「だって、普通は変わり映えしない景色とは違う景色を見たくて外に出るはずだから。アイシャは移り行く景色を見ているのに、それで満足することなく外へと出た。それって凄いことだと思う。人は裕福になる変化や便利になる変化なら耐えられるけど、自分の生活水準を下げるような変化には耐えられない。アイシャは教会での安定した生活よりも不安定で命をかける冒険者の道を選んだ。人と違うことを意識的にではなくて無意識に選べた。それも、誰かの役に立ちたいという真摯な思いを抱いて。僕はそういう選び方はできないよ」
「……アレウスさんはどうして冒険者に?」
「誰かの役に立ちたいとか、誰かを助けたいとかそういうんじゃないんだ。僕は結局、自分自身のためだけに冒険者の道を選んだ。パーティだってアベリア以外とは組みたくないとだって思っていた。でも、この道は思っていた以上に過酷で、思っていた以上に僕とアベリアだけの力じゃ歯が立たないことばかりだった。ヴェインをパーティに加えたのだって最初は仕方無くだった」
「ヴェインさんが居たら怒られますよ?」
「あいつは薄々、感じていただろうから怒らないよ。そう……怒らない。あいつは本当に本当に、僕がどうしようもなく駄目な状態になったときに怒る。臆病と言っていたけど、人を先導することのできる強さを持っている。それに、魔物退治は世のため人のためと信じて疑っていない。ヴェインが冒険者を志した理由はほとんどアイシャと同じだよ。人の役に立つことに、理由を持たない。それで人が助かるのなら当然だとばかりに身を投じた。一回、挫折しかけたみたいだけど再起を図った。それがたまたま、僕たちとのクエストだった。だから、誰も心が折れないわけじゃないし、誰も挫けないわけじゃない。そして、誰も公明正大な理由を掲げてなにかになることを選択しているわけじゃない。アイシャも始まりを大事にして、今は取り敢えず心を立たせることに力を尽くしたらいいと思う。僕たちの渡航に付いてきたのも、このままじゃ駄目だと思ったからだろ?」
「上手いこと言いますね……口説いています?」
「違う」
即答する。
「ですが、アレウスさんはなにかと相手を勘違いさせることを言いますし、正義感ぶらずに人を助けるのでその姿に憧れてしまう人も多いんじゃないでしょうか」
「勘違いさせやすいのか……」
これは勉強になった。自身の言動を改める必要がありそうだ。そうすればアイシャから一々、口説いているかなどと聞かれることもなくなる。
男の大声がしたのでアレウスとアイシャは話を切り上げて船内へ戻る。船は三層構造で最下層は動力源、二層は船員が利用するところ、一層は一部が船室と食堂となっている。航海においてトラブルはほとんどない。動力源は魔力を利用したエンジンが備えられ、滅多なことでは壊れない。聞けば、エンジンの大半はドワーフによって作られているらしい。なので彼らの蒸気機関を応用しており、商船などと比べれば頑丈かつ圧倒的な速力を持っているそうだ。
大声が上がったのはそういった動力源におけるトラブルではなく、むしろ一層での船室。見ればクルタニカと船員が言い争いを繰り広げている。
これは昨晩にも起きた問題だ。
船に乗るのは男の仕事。船を待つのは女の仕事。どこの誰が言ったわけでも、始めたわけでもなくこの世界ではそういう風にできている。なので一種の閉鎖空間とも呼べるところに女性を六人も乗せれば船員たちが色めき立つ。緑角は元冒険者で構成されている軍なのだが、船乗り全員がそこに属しているわけではない。恐らくだが陸と海で軍隊の総括者が異なっている。なので元冒険者が持ち合わせているような男女平等の感覚が全体的に薄い。
言ってしまえば、女性に乱暴を働くような者たちはいないが、どうにかして女性を口説こうとする者がいる。なんなら自分たちの船室に連れ込んで性欲を発散したいと思っている連中までいる。昨晩は酒を飲んだ二人の船員がリスティを囲んで、どうにかして二層へと連れ込もうとしていた。彼女は上手くかわしたのだが、それに腹を立てた一人が強引に腕を引っ張った。それが問題となって一人が現在、二層の船室から出ることを禁じられている。
クルタニカと船員のやり取りは昨晩と似ている。ただし、男の方は怒鳴っている。大声で彼女を委縮させて従わせようという魂胆なのだろう。
アレウスは彼女の内面を知っているため、どんなことがあったってそのような手で彼女を手籠めにしようなどとは思わない。下手をすれば風の魔法で吹き飛ばされるか、最悪の場合は氷漬けだ。だが、そういった一切を知らないからこそ、あのように強気に出られるのもまた事実だ。
「僕の連れがなにかしましたか?」
クルタニカはたまに相手の神経を逆撫でする。アレウスも似通った言動を取ることがあるのだが、だったら彼女に暴力が振るわれる前にアレウスに矛先を変えてもらった方がいい。なぜなら、船全体を氷漬けにされたら海のど真ん中で立ち往生することになってしまうから。
「チッ……一人ぐらいいいだろ」
そう言い残して男は甲板へと立ち去った。
アレウスの渡航許可証にはエルヴァージュの名前が刻まれているため、その威光が働いているらしい。なのでこちらの気に障るようなことを言い残されるだけで済んでいる。どうやら、この船は緑角が利用してはいるが船員自体は緑角をよく思っていないようだ。それでも乗せて目的地まで無事に辿り着かせるまでが彼らの仕事だ。その最中でこういった問題が起こるのは、どうにも軍人らしくない。ひょっとしたら軍所属の船員はいないのかもしれない。明らかに肉体と精神の鍛錬が足りていないからこそ問題行動が目に付いてしまう。
「着けば終わりってわけでもないからな」
先々のことを考えると、アレウスたちは再びこの船となるかは分からないが、とにかく緑角が利用する船で帝国に帰ることになる。帰りの船までこのような雰囲気にならないか、今から不安である。
「分からなくはないけど……」
気持ちは分からなくもない。むしろ痛いほど分かる。
女性を六人連れた男が軍人の許可証を持って乗り込んできたら、それだけで目立つ。目立つだけでなく鼻につく。嫉妬を通り越して腹が立つ。しかし、そういった男心に向けるのは同情だけだ。
なぜなら、アレウスもこんな男たちを苛立たせる立場になりたくてなったわけではないのだから。
【鉄の船】
エネルギー革命をどの国より早くに起こした連合国が保有する武力の一つ。それを先の戦争において鹵獲した二隻を改修し、その内の一隻を緑角が使用している。ただし、エネルギー部分においては解明ができなかったため、エンジンの動力源は魔力となっており、マジックポーションの最上位である魔力結晶を燃料として動く。
連合国はこのエネルギー革命によって他にも鉄の車、鉄の弾丸を持っているとされるが、のちに起こった出来事において全国より批判を受けたため、これらは首都防衛にのみ使われることとなった。しかし、この出来事の前後で帝国と王国も戦争の禁忌に触れており、どちらも連合国のように行きすぎた武力を引っ込めることとなった。




