【プロローグ】
≠
誰がそこまでしろと言ったのか。
別にそこまでしろとは言っていない。
日頃から、彼はあまりにも優しすぎた。
誰にでも優しかった。だから、少女はそれが許せなかった。
「――は優しいんじゃないよね?」
そう言うと、少年は目をパチクリさせて「は?」と返してきた。
「優しいフリをして、優しくした対価を求めてる。優しさの裏側で、期待した顔をしてる。そんな甘い言葉に騙されたりしないから」
きっと誰かが言わなければならないことだった。だから少女が心を鬼にして言った。
だって優しさはあまりにも脆いから。優しすぎると、誰かに騙されたときに傷付くと思うから。
少女はなにも意地悪をしたかったわけではない。ひょっとすると少年に対し、少しばかりの友情以上のなにかを感じていたのかもしれない。特段、仲が良かったわけでもないのだがいつも目について離れることはなかった。
理不尽な世の中を生きていたわけじゃない。ただ自分の環境に不満を持っていただけだ。
なにかが得られるわけでもなく、なにかを得ようと思ったこともなく。
漠然とした数年先を見据えながら、無味乾燥に生きていた。
少女は少年の優しい言葉の裏に、“同じもの”を見た。この少年もきっと、自分と同じように生きていると。
だが、同じだからこそ同じになってほしくはなかったのだ。
言葉を投げかけることができたのは、少年が自分を嫌ってくれればなにか行動を起こし、優しさだけの強い武器を手に入れるだろうと思っていたからだ
でもだからって、
優しさを振り絞ってまで、誰かのために犠牲になって死ななくてもよかったじゃないのか。
あとを追ったわけではない。彼が死んで、無味乾燥な人生がより一層、なにも感じなくなった。それでもなにか感じられるようになるまでは生きていたいし、死にたくないとも思っていた。
運命は決して、生きていたい人を生かすわけじゃない。死にたい人を死なせるわけじゃない。生き続けたい人を死なせ、死にたい人を生かす。
少女はその不条理に巻き込まれただけに過ぎない。
≠
「リゾラは将来の夢とかあるの?」
「は? なに言ってんの? 夢とか見られる暇ある?」
「ないな」
「仮に夢があったとしても、街から外には出られるとは思ってないし」
「あたしたちはまだ良い方だよ。上客が付いているから、ヒドい目には遭わされない。稼ぎも少ない、仕事もしない、女を売りもしない奴は調教と称して変態どもの集会送りさ。あれにこの前、十人連れて行かれて帰ってきたのは何人だった?」
「たった二人で、しかも壊れていて使い物にならなくなっていたから、捨てられたでしょ。とてもじゃないけど人として生活を送れるような状態じゃなかったし」
「なのに、世の中の連中はその変態どもを捕まえることさえできちゃいねぇ」
「あたしたちがずっと発見されてないんだから、公的機関に頼っても無駄ってもんだよ。もはや助けは来ないんだと諦めておくとして、いつまでこの生活を維持できるかって問題だよ」
煙管を燻らせながら、同僚がああだこうだと愚痴を吐く。
「仮に上客が今後も上手い具合に付くとしても、あたしたちの商品価値なんて二十を過ぎたら終わりだよ。あいつら、年若い女を抱いていることに興奮している変態だからね。そっから先は娼館での扱いも格下げだろうし、貰える金も下がってくる。そこで病気持ちを当てちまったらもう目も当てられない。病気持ちじゃなくても体調を崩せば私たちはは仕事を休まざるを得ないし、そこから壊しでもしたら仕事はできなくなる。そこから先になにが待っているのか、考えたくもない」
「今はなにをしたって若さでどうにか乗り越えていられるけど、病気を貰ったり体調を崩せば、私たちは捨てられるのか殺されるのか分からない。もし捨てられるのだとしても、稼いだお金のいくらかが手元に残るとも限らない。もし残って放り出されても、そこから死ぬまで生きていけるかも分かんない」
「娼婦が道端で死にかけていようと、男どもは助けようともしないからねぇ。外で死にかけている娼婦なんて病気持ちだと思われて近寄りもしてくれない。そうやって死んでいった知り合いを何度も見たよ」
「娼館で気分で働いている奴らはまだマシだよ。借金やなんやらを背負っていなきゃ、あいつらは金を取られることもないし、辞めたいときに辞められるんだから。私たちは、“奴隷”だから健康である限り、契約が満了されるまで辞められない。辞めても、また別のところで働くことの繰り返しだけどな」
なにもどこも間違ってはいない。なのにリゾラベート・シンストウはここにいる。物心が付く前からなのか、それとも物心が付いてからなのか。そこすら曖昧になりかけているが恐らくは物心が付いてからのはずだ。当時はこんなところで働かされてはいなかった。どこぞの貴族の給仕係として働いていた。なぜなら、その頃はまだ女としての商品価値が足りていなかったから。
リゾラをさらった奴隷商人は言った。「お前には少女性愛者の輩に売る以上の価値がある」と。だがそれがいつまでも続くわけではなかった。
あるとき、銀髪の少女が新たに奴隷商人の手持ちに加わった。そこからの奴隷商人の彼女への入れ込み方は異常で、同時にリゾラの扱い方は明らかに下がった。そのときにリゾラは自分は商品であり、いつまでも高級品のようには扱われないことを知った。なによりもその銀髪の少女が奴隷と呼ぶにはあまりにも可愛すぎたせいもある。一体どのようにすればそんな子を誘拐できるのかとすら思った。
この子にはこの場所は不釣り合いすぎる。そう思ったから面倒見の良い性格でもないのに銀髪の少女に入れ込んだ。彼女は自身の今後の人生がどのように向かうのかすらも分かっていなかった様子で毎日のように泣き叫び、場合によってはリゾラまでも「泣いているのはお前のせいだ」と言われたことさえあったが、彼女のためならばと耐えることさえできていた。
次第に助けたいと思うようになった。悲惨な運命に抗うのは自分だけでいいと考えていたが、こんな年端もいかない少女を置いてけぼりにすれば夢見が悪い。だからリゾラは少女と共に逃げ出した。
なのに、途中で少女の行方は分からなくなり、リゾラだけが見つかって捕らえられた。その日の内にリゾラは顔や体に傷が残らないようにではあったが、女として守らなければならない大半のものを失った。
それでもリゾラが生きているのは、未だに自身には奴隷商人にとってお金を稼ぐための価値があるからだ。かと言って、もはや逃げる気力はなかった。銀髪の少女に裏切られたからなどという言い訳はしない。そもそも逃げること自体が無茶だったのだ。そこから少女が逃げられたことは不思議以外の何物でもないのだが、思えば逃げおおせた可能性は限りなく低い。ひょっとするとリゾラと共にいるとまた逃げ出されるかもしれないからと特別扱いではないが、自身が接触できないところに少女を置いているのではないだろうか。
そう思いながら歳月は過ぎた。リゾラは上客を取ってはいるが、奴隷の中でも格は一つ下になる。単純に逃走したという事実によるものだ。だが、その武勇伝のような過去の反抗が奴隷商人の下で過ごしていた者たちから一目置かれるようになり、陰湿な扱いを受けていないことだけは幸いだろうか。それで現状を受け入れられるかと言えば別になるが、なにもかもがどん底に沈むよりもマシだと考えるべきだ。
「奴隷ども、仕事の時間だ」
娼館の役員が扉を開け、急かしてくる。中には着替えを終えていない者もいたが奴隷は『者』ではなく『物』扱いであるため、なにを言っても無駄となる。むしろ抵抗を見せれば見せるほど腫れ物扱いを受けてしまう。館長にまで話が及べば最悪、仕事はなくなる。そうなればまた奴隷商人が次の契約を済ますまで見せ物小屋にも等しい檻の中で暮らすことになる。
奴隷たちは渋々の反応を見せながら、手狭な準備室で最後の支度を始めていく。
「リゾラベート・シンストウ? どこにいる?」
髪留めをし終えてからリゾラは呼びかけに応じて役員の前に出る。
「なにか?」
「今日の仕事は客引きだったな?」
「はい」
「お前を買いたいという客が入った。客引きの前にその客の相手をしろ」
客引きと館内での客の相手。それ以外にも係は日程で決められているが、場合によってはどれもこれも人権は無視される。どうせ今日も日程通りにはならないのだろうと踏んでいたが、リゾラの日程が変わるのは久し振りだった。なので役員に対し露骨に嫌な顔をしてしまう。
「なんだその態度は?」
「いえ、別に」
「服を脱げ」
「は?」
「これから仕事をするんだ。服は邪魔だろう? 脱げ」
リゾラは舌打ちをしながら自身を包んでいたドレスを脱ぐ。
「そのまま下着も脱げと言いたいが、謝ったら許してやろう」
だったらドレスを脱がす意味はどこにもないだろう。この役員の憂さ晴らしに付き合わされている。これでリゾラが恥ずかしいと思うかと言えば大間違いだ。逆に不満が溜まっていく。
「申し訳ありません」
「もっと大きな声で」
「申し訳ありませんでした!」
「よし、ならさっさと行け」
どうやらドレスを着させてくれる気はないらしい。なにやらニヤついているが、そんな視線を向けられたところでなんとも思わない。役員は奴隷だからとリゾラのことを見下しているようだが、その気になれば役員一人ぐらいなら道連れにすることはできる。
リゾラは下着姿のまま準備室を出て、廊下をしばし歩く。
「やってられないねぇ、リゾラ」
曲がり角で待っていた同僚にドレスを渡される。
「ま、気付かれないように持って行けるのは目立たない安物だったけど、許しておくれよ」
「ありがとう。あとでこの借りはお金か、煙草で返すわ」
安物であれ着飾ることができる。客の相手をするのは一回だ。そのあとの客引きに目立つようなドレスは必要ない。
「お、ありがたいねぇ。まぁあたしたちなんていつ死ぬか分かんない身の上だ。見えないところでぐらい、これからも協力していこうよ」
「役員や私たちを見下している娼婦にバレない程度にね」
「どうせなら格上の娼婦からドレスの一着でも盗みたいところだがね」
「真っ先に疑われるのは私たちだから、それはやめて」
「言ってみただけだよ」
もし、その手のドレスを着る機会が訪れたとしても奴隷のリゾラには似合わないだろう。本当の意味で着こなすことができるのは奴隷ではなく、自らの意思でこの世界に飛び込んで一番上を目指そうとしている娼婦だけだ。ただ、なんでこの界隈で一番になりたがっているのかリゾラには分からない。普段から奴隷だなんだと言ってくる娼婦の連中はひょっとするとリゾラよりも頭が悪いのだろうか。始めた以上はトップを取りたいという気持ちは分からなくもないが、こんな金持ちの男を当てるか当てないかみたいな運試しのようなところで一番になったところで、男に媚びる以外になにを活かすことができるのだろうか。
「どうしたんだい?」
「なんでもない」
同僚と別れ、ロビーのカウンターに置かれている帳簿で自分を買った男の名前と年齢、特徴を確かめる。
「名前……これ……」
「待っていたよ、リゾラベート・シンストウさん」
声のしたため、自然と後ろを振り返る。
「……あんた、私が奴隷だからって舐めてんの? 偽名で通る人は多いけど、この名前はあり得ない」
「あり得ない? どうしてあり得ないなんて言うんだい?」
「だって、この名前を使っていた人はもう死んでいるはずだもの」
少なくともリゾラの記憶では、二週間前に娼婦と一緒に娼館を抜け出して、捕まったのち殺されている。全ての男の名前を憶えているわけではないが、この娼館では娼婦との逃避行を企てて捕まり、殺された男の名前は特別な羊皮紙に刻まれる。それは誰の目にも見えるところに貼られ、永遠に晒され続ける。場合によっては年齢や家族構成、性癖までも記されるため、ごく最近のことであれば否応なしに頭に名前が残る。
「そうかい。なら、私に買われるのは嫌いかな?」
「……私を買った金額が相場の五倍、か」
虫唾が走るが逃がすには惜しい。良い具合にこれからも客として引っ張ることができれば、これからも相当な金額で買ってもらえるかもしれない。搾り取れるだけ搾り取って、スッカラカンになったところで事実を突き詰め、更に脅してしまえば契約が終わるまでは財布どころか家財の全てを手に入れることさえ不可能じゃない。
ならば、ここは黙るべきだ。ベッドでは骨抜きにして、リゾラ以外の女を買えないようにする。奴隷とはいえ、一時期大切にされていたのだから見てくれは悪い方じゃないと思っている。あとは実力がこの男に足りるかどうかの問題だ。
「取り乱してしまって申し訳ございません。そのお名前は、あそこに貼られている羊皮紙に書かれている名前と同一の物でしたので」
「私の前で取り繕う必要はないから。じゃぁ、行こうか」
面倒臭い。この男に対して最初に感じたことは反芻されて再び込み上げてきた。それをどうにか抑え込み、「こちらへどうぞ」と男の手を取り奥へと案内する。
男にしては柔らかい手だ。ゴツゴツとしておらず、肌にもきめ細やかさがある。身だしなみも気を付けているようで、汗の臭いにも嫌悪感はない。先ほどのやり取りでリゾラの指名を取り消さなかった点からみても、これは運が巡ってきたのかもしれない。
「嫌です!! 無理です! なんで、どうして?!」
「グダグダ言っていないで客の相手をしろ!!」
「でも帳簿には一人だけと書かれて! なんで部屋に五人もいるんですか?!」
「奴隷が口答えをするな!!」
「いやぁっ!! 嫌!!」
泣き叫ぶ奴隷と目が合う。
「リゾラベート様! 助けてください!!」
無視をする。奴隷はひたすらに泣き叫び、手をリゾラの方へと伸ばしていたが、やがて複数の役員によって部屋の中へと引きずり戻されていった。
「助けないでいいのかい?」
「そういうの、もう懲りているから。それに、言っちゃ悪いけどよくあることだから」
手を差し伸べて痛い目を見た。だったらもう助けない方がいい、手を差し伸べない方がいい。たとえ過去に何度か話したことのある女の子であっても、その方針は変えない。これが先ほど手助けしてくれた同僚だったなら考えたかもしれないが、そうじゃないなら関わりを断つ。
というよりも、リゾラが助けに入ったところで巻き込まれるだけだ。奴隷の自分に奴隷を助けられる権限はない。
どうせ世の中はクソで出来ている。そのことを早めに知って、早めに死ねるのならあの子にとっても本望だろう。
一室に男を招き入れ、リゾラは扉を静かに閉める。
「それで、どんなことがお望みなのかしら?」
「まぁまぁ、その前にちょっとだけ話をしても?」
「ちょっとだけなら」
話をするだけで時間が経ってしまったら勿体無い。女の魅力で引き止めておかなければ、次も買ってくれるとは限らない。別の娼婦になびかれては困る。
「魔法に興味はないかい?」
ツバ広の帽子を脱いで――男のフリをしていた女性は私にそう問いかけた。




