『原初の劫火』
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ラブラの作戦には不測の事態など一つもありはしないはずだった。カーネリアンすらも思い通りに操れている中で、たとえ彼女よりも剣術で劣っていても下界の人種に二度も敗北するほどの弱さを己自身が有しているとはさすがに思わない。
それでも、念には念を入れた。カルメン家の騒動に紛れて、多くの物を奪い取ってきたが“異界化”の魔道具は闇に葬られなければならなかった代物で、使えば少なくとも空に浮かぶ島では生きられなくなる。場合によっては極刑も免れない。
しかし、『冷獄の氷』を手にすれば、なにもかもが覆る。誰もが己に組み従う。そうすれば、魔道具を持ち出した罰など与えられるわけがない。短絡的な思考ではあったが、どのような場所であっても力があれば全てが解決する。力こそが全てなのだと信じている。
だからこそ純粋な力を前にして、ラブラは動じる。全てが思い通りに運べていたわけではないが、多少のズレはあれ『冷獄の氷』を継承できるはずだった。なんと罵られようとも継承さえすれば向かってくる命知らずを黙らせることができたはずなのだ。
力の無い小娘。震えて、ワケも分からず杖を振るって返り討ちにあった馬鹿な小娘。そう決め付けていたはずの存在が、魔力の障壁で己を跳ね飛ばした。その数秒後には己の周囲に炎が吹き荒れていた。
許さないと叫んだ直後から生じる大量の炎が渦を成し、一斉にラブラへと襲いかかってくる。最悪なことに、ラブラは『桜幕』を習得こそしているが得意としていない。防御として張ったとしてもこの炎を完全に止められない。だからと言って直撃を受けたくもないのだが、防御したところでこの炎の勢いは止まらないと直感的に理解した。
「ぁあああ、ああああっ?! クソ!! そうか、そういうことか……っ!!」
刀を振るい、冷風を起こして身を焼く炎を消し飛ばす。
「まさかとは思ったがやはり、この小娘も!」
「わたくしが外に放出しようとした魔力が一気に鎮まって、また私の中に……同格の魔力を感じ取って防衛に魔力が移行したんですの……?」
カルメン家の娘が不穏なことを言っている。この荒れ狂う炎の波濤の中で、カルメン家の娘は炎に焼かれていない。『冷獄の氷』が継承者を守るために魔力を温存しているおかげとも取れるが、炎そのものが彼女を決して焼くことのないように制御されている点の方が大きい。
「あなたもわたくしと同じなんですの?」
「同じではないが同一だ! この小娘は貴様が継承している『冷獄の氷』と同格の代物を身に宿している!」
カルメン家の書斎にあった書物にはその名称もまた記されていた。
「『冷獄の氷』、『初人の土塊』、『二輪の梵天』……あとは、あとは!」
再び押し寄せる炎の波濤から逃れるように飛翔する。天井まで作ってしまったのが面倒なことこの上ないが、炎そのものを避ける程度には高さを取ることができる。それよりも必死に書物に記されていた名称を思い出す。
「そうだ……! 『原初の劫火』!! この小娘は、『原初の劫火』の継承者だ!!」
なぜ、ここにいる。
どうしてこんな小娘が宿している。
今、どうして顕現したのか。
顕現するまで、どうして気付けなかったのか。
様々な疑問に思考を巡らせるが、『原初の劫火』による荒ぶる炎が迫るため、ロクな答えを己の中から見つけ出すことができない。
床は氷で出来ている。しかし、辺り一面は火の海と化している。曲刀を振って冷風を起こしても、それらが消える様子はまるで見られない。
「『氷華水蘭』!!」
言霊を唱えて、周囲一帯に冷風を引き起こすが、逆に炎を煽ることになって勢いが更に増してしまう。
「俺の『悪酒』による言霊を、『原初の劫火』の魔法や言霊ですらない範囲の魔力が勝ると言うのか?!」
後ろで火花が散り、爆風のごとく渦巻いた炎が押し寄せ、飛び回るラブラを追尾して遂に追い付かれてしまい、背中を焼かれて落下する。
「っぉおおお!! ぐ、そ、がぁああああ!!」
尚も背中を焼こうとする炎を気力だけで引き起こした冷風で払い飛ばし、ラブラは立ち上がる。
「さっさと、力を寄越せぇええ!!」
ラブラは焦りを露わにして、カルメン家の娘へと走る。
「私の友達をこれ以上、傷付けさせない」
真後ろに極端なほどに強い熱気を感じ、生命としての本能が自然と働いて翻る。
身に付けていた衣服を燃やし尽くし、炎の衣を纏い、灼熱のように煌めく橙色の瞳がラブラを捉えて離さない。
そんな瞳の色をしていただろうか。
刹那的に思ったことはその程度で、咄嗟に刀による防御を取った。それに対して真正面から炎が生み出したような杖を叩き付けられ、間近に迫る炎があまりにも熱く、触れてもいないのに皮膚を焼こうとするために怯えて声すら発せられなくなる。
だが、ラブラは腕力で『原初の劫火』を押し飛ばす。
「どんなに強い魔力を秘めていても……筋力が上がるわけでもないようだなぁ!!」
苦し紛れに強がりを言い、己自身の恐怖心を消し去る。刀を握る手は先ほどまでは震えていたが、多少の抵抗が可能であることが分かったためか今は普通に握れている。
そう、焦らなければ小娘一人を鎮めることなど造作も無いことのはずだ。気配からしてカーネリアンもまだ死んでいない。炎の扱いに慣れている彼女が加勢してくれれば状況は一気に引っ繰り返せる。
目の前を覆い尽くした炎がラブラの刀の一振りで消え去り、小娘はどこへ行ったのかと目を凝らす。
「待て……」
ラブラは小娘を捉える。しかし、小娘は身に纏っている炎をそのままに、氷漬けにしたアレウリスの傍で座り、その手を握っている。
「なにをしている?」
強く炎が燃え盛り、一瞬だけラブラの視界が炎に覆われた。
「一度目は僕の負けだった、ラブラ・ド・ライト」
耳障りなヒューマンの声がする。それも小娘の“炎を身に纏いながら”、そのヒューマンは立ち上がって、どこぞに打ち飛ばしたはずの短剣を引き寄せて握り締め、こちらを橙色の瞳で睨み付けている。
「二回戦だ」
短剣に炎が宿り煌々と輝く。
「……なにが二回戦だ」
しかし、ラブラには余裕があった。アレウリスは炎を纏っているのではなく、炎に焼かれている。
「貴様はそのまま焼かれて灰となってしまえ」
肉の焼け焦げる臭いとともにアレウリスはバランスを崩しかけ、爛れた皮膚が剥げ落ちて骨も見え始めた。『原初の劫火』によって氷が溶けて奇跡的に助かったのだとしても、体は『原初の劫火』が放つ炎に耐え切れていないのだ。
「灰にはならない」
「負け犬の遠吠え程度には覚えておい、」
言い切る前に炎に焼かれているアレウリスが眼前に迫る。煌々と輝く炎の短剣を防ぐも、曲刀が放っている冷風を熱風が押し返し、ジワジワとラブラの体を焼いていく。
「さっさと死ね! 死ね、死ね、死ねぇええええ!!」
怨念のごとく浴びせている内に短剣に込められている力は徐々に弱まったため、ラブラは刀で押し返す。
そのまま仰向けに倒れたのも束の間、アレウリスはすぐに動き、そして飛び退いた。
「力が欲しい。守りたい人を守れる力が!」
骨まで見えていたはずの肉が、肌が、瞬く間に再生していく。
「守るためなら灰になったとしても、何度でも」
骨すらも灰になりかけていた左腕も、新たな骨と肉と肌を得て再生する。それどころか念のために折ったはずの右腕すらも既に再生を終えている。
「何度でも!」
燃やされていたのではない。焼かれていたのではない。
アレウリス・ノールードは体を『原初の劫火』に適合できるように作り変えていたのだ。
幼虫が蛹となって成虫になるように。変態を果たすために一度、最低限の器官を残して体を作り変える。それをこの場でやってのけている。それもただのヒューマンが。
「貴様みたいなヒューマンが、どうしてそんな力を!」
「僕だけの力じゃない。アベリアと僕の力だ」
訊ねるよりも黙らせることの方が先決だ。ラブラは迷わずアレウリスへと間合いを詰める。鞘から抜いてしまって瞬撃の速度は低下していても、戦闘中に追い付けていた様子は見られなかった。だからこの間合いから繰り出す斬撃をこのヒューマンが避ける方法はない。
そのはずだった。
右手に握っている炎に包まれた短剣で防がれている。
「な、ぜだ!」
叫び、ラブラは止まらずに曲刀と刀を振り乱す。足運びも立ち回りも全て加速させている。当初のお遊びではなく本気で殺しに行っている。なのに斬撃は防がれ、避けられ、かわされ、反撃を防ぎ、反撃が止まらず、熱波に押し返されている。
「なぜ貴様なんかに『冷獄の氷』と同格の力が!!」
不意に背後に気配を感じ、半身を下げる。威圧感そのものと一体となって突っ込んできた小娘の炎の杖を曲刀で防ぎ、迫るヒューマンの剣戟をもう一方の刀で凌ぐ。挟まれたことで炎は更に膨張し、広げていた翼に火が燃え移る。
「ぐ、ぁああああああ!!」
たまらず上空に逃げ、急角度で床に降りて冷風を放って翼の火を消し去る。体への負荷は凄まじく、ラブラは膝を折る。
「ふざけるな! こんな、こんなことがあってたまるか! 俺のように努力もしていない連中が! 俺よりも強い、だと……?!」
「誰もお前より努力していないなんて言っていない」
アレウリスは喋りながら近付いている。逃げなければならないが、逃げた先で小娘に捉えられれば炎を浴びる。しかし逃げなければアレウリスに炎を浴びせられる。
「お前より力を欲していなかったことだけは認めるけど」
「もっと俺に力を寄越せ」
歯軋りをしたのち、ラブラが叫ぶ。
「貴様たちは心臓だけとはいえ、悪魔だろう?! 足りないんだよ! もっと寄越せ! もっとこの体に貴様たちの悪魔の力を寄越せぇえええ!!」
曲刀と刀が砕け散る。
『今の言葉、まことか?』
『ならば我らの遊びもこれで仕舞いとしよう。今ここに、契約は成った』
ラブラの意識は一気に闇へと飲まれていった。




