尽きる
全てを失い、異界に堕ちた絶望に比べれば、この世で起こる全ての事象に絶望することはない。少なくとも、アベリアが死んだときまではそう思っていた。
片割れを失った。そんな一言で済むものではないほど心が大きく抉れた。生き返ると分かっているのに体中から気力が失われていった。
そのときにアレウスは、未だ自分は真の絶望というものを目の当たりにしていないのだと思い知ったのだ。
だからこそ、この絶望もまた真の絶望には程遠い。だとしても、絶望であることには変わりない。
防寒対策をしているにも関わらず凍えるほどの寒さが全身を襲い、露出している肌は焼けるような痛みを訴えてくる。足先と指先の感覚は十数秒で失われ、唇は震えて言葉を紡ぎ出すことすら困難になる。
「『氷』の『華』のごとき『水』の『蘭』よ!」
言霊によってラブラの一方の刀が機械人形のパーツを加えて変形し、曲刀に変わった。機械人形がどこにいたのかなどは不明なままだ。ラブラはそれを利用して、アレウスを出し抜いた。そもそも、機械人形が姿を現してから言霊による範囲の攻撃が来ると思い込んでいたのが間違いだった。
その範囲の攻撃にしても、ラブラの言霊は一線を画している。地面への干渉もさることながら曲刀の一振りが巻き起こした冷風を浴びただけで体温のほとんどを奪われたのだ。冷風自体は飛刃や剣圧、気力の刃に乗せられたもので、永続的に辺りを満たしているわけではないが、難しいとされる空間への干渉に近しい事象を限定的ではあれ引き起こしている。
「全てのガルダは機械人形を信じてはいないし、戦力にも数えない。悪魔の囁きを常々に耳にしなければならない中で、戦いの要という場面で機械人形に頼るなど絶対にない。だから、貴様に対しても機械人形を見せず、戦わせる気もない」
「……ミディアムガルーダの地位向上を口にしても、それより下の扱いを受けている機械人形の地位向上を訴えないのは、筋違いも良いところだな」
「機械人形は物体だ。地位などありはしない」
「もしも機械人形に人格があって、更には自立する能力があるのだとしたら……権利の主張ぐらいはさせたらどうだ?」
「そうして、ガルダは悪魔の囁きに呑まれていく」
「また言い訳か。お前は自分のやりたいことをやっているだけで、果たしたいことなんて目標なんてありはしないんだ」
「凍えて動けなくなっているというのに、どこまでも神経を逆撫でする」
足先の感覚がないということは、走れば必ずバランスを崩し、歩行すらも危うい状態にある。指先の感覚がないということは、握力の低下を意味しており、どれだけの筋力で振り切っても短剣は手からすっぽ抜けてしまう。
「『雪』の『華』のごとく、『烈』しく『撃』ち抜け!!」
右腕に氷のつぶてがぶつかり、手から短剣を落としてしまう。なのに激痛が訪れない。体が訴えてくるのは相変わらずの寒さと、鈍痛である。つまり、指先どころか腕まで凍えて感覚の大半が失われ、受けた全ての痛みを脳に送り切れていない。アレウスでさえ、見ただけで分かる。今の一撃で右腕の骨は折れた。それで鈍い痛みだけなのは明らかにおかしい。
「その右腕は奇妙だ。先に使えなくしておいた方が、抵抗も弱くなるだろう。左右で剣戟の重みが違ったからな」
『オーガの右腕』は既に気取られていた。いずれはバレるものと思っていたがラブラはこの十分にも満たない時間の中で見破ってきた。それもドワーフやエルフのように臭いではなく、刀と剣の激突時に生じる感触のみで掴まれてしまった。
抗う力すらも奪われた。
「無駄死に……と言いたいところだが、貴様が俺と戦ったことに確かな意味はあった。気力も使い、『悪酒』も使った。ひょっとすれば、貴様に続く者によって俺は殺されるかもしれない。だが」
ラブラはクルタニカを見る。
「『冷獄の氷』そのものと、『蝋冠』という『冷獄の氷』が形骸化した物が俺の手に渡るのも時間の問題。カルメン家は没落したも同然だが、俺が正当な後継者であることを示すためには必要だ。俺をミーディアムとすら見抜けないガルダの連中も、忌まわしき娘よりも俺が持った方がマシだと思うだろう」
「…………ガルダだと装っていたんではなくて? あなたの語る言葉には、どうにも整合性が取れないものが多すぎる……」
「ミディアムガルーダであることを自称していたのはカルメン家に拾われるまでだ。だが、その事実が俺と戦場に行ったガルダに語られては困る。だから奴らのロジックも書き換えている。どうにもガルダは肉体鍛錬、精神修行をする割にはロジックの抵抗力までは高めることができないらしい」
「全て、自分のためだけにその力を使ったというのでして?」
「当然だ。なにせこれは、俺の力だ。俺が俺自身の力をどのように使ったって、誰が咎める?」
言い分はノックスに似ているが、彼女のようにロジックを使う相手を選んではいない。どうしても書き換えなければならない。そんな非常事態においてのみ、ノックスはロジックを開こうとするはずだ。
なぜ、そう思うのだろうか? ラブラとノックスで、一体なにが違うと言うのだろうか?
自分自身の中にある力の使い方の境界を、アレウスは混濁する意識で探る。体から力が抜けて、膝を折った。その状態のまま、立ち上がることができない。
「……まさか、諦めているんじゃなくて?!」
「助けてもらえないと分かった途端に声を張り上げる。やはり貴様は、ただの目立ちたがり屋のようだ」
「……あなたの仰ったことの大半は真実ですわ。わたくしはあなたの囁きに乗って両親を利用しました。ですが……! それでもわたくしは、そのあやまちに気付き……地上では、罪を洗い流すために全てを尽くしてきました」
「それで目立てると分かったからだ」
「違います」
「貴様はその力で、周りから注目され、期待され、特別視されると察した。だからその役割を果たしているだけに過ぎない」
「だったらあなたは! わたくしのように体を張って魔物の前に立ったことがありまして?! 生き返ると分かっていても仲間を目の前で喪ったことがありまして?! その後、絶望に呑まれながら死んだことがありまして?! 人々に罵詈雑言を浴びせられながらも、それでも黙って冒険者としての使命を果たし続けたことがありまして?! 矢面に立たされながらも、決してその人々たちを見捨てなかったことがありまして?!」
クルタニカの体に魔力が満ちる。
「欲に溺れて、欲を求めていたことは認めます。でも、わたくしは地上に降りてから更に多くのことを学びました。多くの友を得ました。決して理解者と呼べる者たちではなかったかもしれませんが、だとしてもわたくしが守りたいと思った者たちであることに変わりはありません」
「だが、巻き込んだことに後悔などしていないんだろう?」
「……後悔していなければ! ここで、ずっと! あなたに捕まったままでいられるわけがありませんでしてよ!!」
彼女の魔力が波状となって駆け抜け、ラブラの前で氷塊となって具現化し、静まる。
「わたくしの魔力は今、どのように編んだり結わえたりしようとしても暴走してしまう。わたくしは、わたくしの思わぬ形で友人の片腕を使い物にならなくしてしまったんですのよ?! であれば魔法を使うことを控えるのも当然なことです」
「俺を殺せればそれで良いじゃないか」
「あなたを殺して本当に“異界化”は解けるんでして?! 解けるんだとしても、シンギングリンは無事で済むとは思えない。あなたは絶対に、不測の事態においてもわたくしたちをどん底へ突き落とす用意をしているに違いありませんもの!」
その言葉を聞いて、ラブラが大きく笑う。
「ああ、なんと賢しい小娘だ! まったく、その通りだよ!」
ひとしきり笑ったのち、ラブラは邪悪な表情を浮き上がらせる。
「俺が死んだら、この『氷の間』は地上に落ちる。貴様たちがシンギングリンと呼んでいる街のど真ん中になぁ」
「浮いている……とでも言うんですの?」
「ああ、浮いている。それこそがカルメン家が上層部より預かり、秘匿し続けた“異界化”の魔道具の正体だ。氷で作り上げられているのは、俺の刀がどちらも氷を冠するものだからだ。俺が死ねば、魔道具は主人を失い“異界化”は解ける。だが、この氷は解けずに落ちる。そして、俺が『冷獄の氷』を継承した暁には、まず“異界化”を解き、この『氷の間』を落とそうと思っている。それこそがガルダへの宣戦布告だ。ガルダの襲撃に遭ったと分かれば、下界の種族も次々とガルダを危険視し、排除する動きを取るはずだ。空に浮かぶ島は混乱と混沌と、災禍に包まれる。その中で全てを簒奪するのがこの俺というわけだ」
「アレウリス・ノールード!! 立ち上がりなさい! あなたが立つのであれば、わたくしも全力で魔法を放ちます! あなたがその身を犠牲にするというのなら、わたくしも全てを犠牲にしてこの者を討ちます!! 落ちる『氷の間』も、わたくしの全てでもって、地上に落ちる前に砕くと誓いましょう!」
「もう無駄だ。そいつの耳には聞こえていない」
「嘘ですわ! この者は数度の異界を経験しながらも、パーティメンバーを誰一人として犠牲にしなかった!」
「こいつはヒューマンの中でも強さを持っている。それは認めよう。だが、欲が足りない。力を欲していない。仲間を信じるがあまり、仲間と共に成長することで物事を解決し続けてしまった。向上心もあり、学びを続け、鍛錬も続けることで新たな技術を得たこともあるだろう。しかし、こいつは死に至るまでに気付かなかった。“そんなことはどんな奴らもしていることだ”、と。誰もがやっていることをさも自分だけがやっていると思い込むのは致命的だ。伸びる苗の中から成長株だけが選別される世の中で、他とは違うと強く思い、力を強く求め、力があればと強く願わないことでは伸び上がることは永遠にない」
「ち……か、ら?」
「驚いたな、まだ意識があったか」
ラブラが曲刀を振り上げる。
「『魔剣』も『異界渡り』も、力を貪欲に求め続けていた。だからこそ俺の冷気は奴らを凍らせるに至らず、俺の氷塊は奴らを捉え切れなかった。そして秘剣すらも、奴らには届かなかった。『魔剣』だけならばまだしも『異界渡り』は俺の秘剣がどうにも全て噛み合わなかった。だが、貴様は年齢を重ねても奴らと同じ境地には至らない。貴様には足りない物が多すぎた」
「アレウリス!! あなたがここで死んだら、アベリアはどうなるんでして?! お願いですから、お願いですから……!」
「あ……べ、り……あ」
「『氷華水』」
ラブラが曲刀を振り、アレウスの体を冷風が突き抜ける。装備もなにもかも、露出していた肌も全てが凍て付き、アレウスは氷像のように動かなくなる。
それでも尚、意識はあった。そして、凍え死ぬに違いないのに体は不思議と暖かさを感じていた。それだけでなく脳が著しく混乱したことで起こる幻覚、幻聴の類も生じている。頭の中は驚くほど真っ白で、さながら悟りを得たかのようで妙な心地良さすらあった。
死に向かっているはずなのに、その死が怖くない。むしろ両の手で抱き締めてくれるかのような、不気味なぬくもりに身を委ねてしまいそうになる。
ほんの僅かに残っている自我だけで、どうにか生を繋ぎ止める。
「さぁ、次に来るのは誰だ? その何者かは、アレウリス・ノールードほど俺に殺したいと思わせてくれるのか?」
「……もはや魔力を抑える必要もありません」
「立ち上がれば、その身を犠牲にするのではなかったのか?」
「仇討ちこそ、最後の罪滅ぼし」
「面白い。やれるものならやって、」
「アレウス!!」
ラブラが今にも魔法を放とうとしているクルタニカと向き合い、身構えたところで後方から見知らぬ声を聞き、振り返る。そして、クルタニカは突如として現れたその人物に目を見開き、暴れかけていた魔力が鎮まっていく。
「……なにかと思えば、今度は小娘か。それも、恐怖に震え上がって、歩くことがやっとじゃないか」
「アベリア……どうやってこの場所に……いえ、そもそも、どうして……一人ずつ? あなたとアレウリスは、一心同体だったのではなかったのでして?」
「わた、私……は、」
本当にアベリアがこの場にやって来たのだろうか。きっと幻聴だろうと、アレウスは落ちる意識を最後の最後で束の間、戻す。
「虚しい死だな。尖兵として役目を果たしたと思えば、次に続く者がこんな……役立たずとは。なんとも浮かばれない話だ」
「死?」
アベリアが凍て付き、ピクリとも動かないアレウスを捉える。
「う……そ」
「なにもかもが手遅れで、なにもかもが無駄になった。貴様たちには僅かだが同情してしまったな。だが、手を抜くことはない。小娘もここで共に死んでいけ。なに、怖れることはない。早いか遅いかの違いはあれど、死は誰にも平等に訪れる」
戻した意識に限界が訪れる。アレウスの意識は、ラブラの言葉を最後にして完全に尽きた。




