いつだって始まりは
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氷の床は滑りはするが、雪の対策を施した靴ならしっかりと噛んでくれる。間合いの詰め方で足元が狂い、つまらないことで死ぬような事態はきっとない。
それでも一向に足が動いてくれないのはガルダに恐れをなしているからだ。強大な敵と戦うことにこれまで恐怖心がなかったわけではない。しかし、その度に克服して生き残ってきた。しかし、今回はどういうわけかなかなか気持ちが固まらず、及び腰のままだ。
アレウスは幾つもの戦略を練る。どの道筋を辿ってガルダに攻撃を入れるか。それとも迫り、相手を威圧するか。そういった全てを頭の中で想像し、想定するのだが、考えうる最善策の全てに光明が見えない。ガルダの発する気配はあまりにも強く、アレウスの描く未来はどれもこれも死に直結している。
この場合、攻めるべきではない。自ら間合いに入れば死が見えている。だからこそ、相手の出方を窺う。場合によっては相手から動いてもらうのが正しい処理となる。
無論、恐怖に打ち勝って怒涛の勢いでガルダを倒すことができればそれが一番良いのではあるが。
「……出方を窺う、といったところか。待ちの間合いには入ってこないというわけだな。気配を読むだけの技能はあるようだ」
ガルダは鞘に納めていたままの刀の柄から手を離す。
「その齢で、蛮勇を秘めてはいないのはあっぱれだ」
「お前に認められるつもりはないと言った」
「しかしだ。ガルダには決闘をする相手をそれなりに讃えるならわしがある。俺にとってはただの楔やしがらみでしかないそれも、今だけは分かった気になれる」
「機械人形を出していないな? どこに隠している? 奇襲をさせるつもりか?」
悪魔の心臓を打ち込んでいようと、機械人形はあくまで物体だ。もしも気配があるのだとしても、霊的な物を感知できないアレウスには隠れられていたら見つけられない。感知するには足音や物音を立ててもらう必要があるのだが、耳にそれらしい音は入ってこない。
「おいおい、笑わせるな。貴様のような子供に機械人形を見せるまでもないからに決まっているだろう? 怯えて、こちらに踏み入ることさえできない貴様をそれらしく讃えはしたが、本気に取られると困るぞ」
怯えは見破られている。正面に見据えているのだから、それぐらいは当然だ。それでもあえて口にするのは、まだアレウスに飛び掛からせようとしているからだろう。「待ちの間合い」と言っていたからには、一定の間合いに入れば想像を絶する斬撃が来るに違いない。
「ラブラ……だったか?」
「ラブラ・ド・ライト。貴様は?」
「アレウリス・ノールード」
「無粋ではあるが、名乗りはするのだな。まぁ良い。それで、どうした?」
「カルメン家の『蝋冠』に、お前が望む力が眠っているとして」
「仮定ではない、確定の話だ」
「それで、なんでクルタニカさんを追い詰める必要がある? 『蝋冠』だけじゃ駄目なのか?」
「『蝋冠』の中に眠っていた力は、既に忌み子の中に移ってしまっている」
「それは嘘ですわ!」
「嘘と思うのなら、貴様はなぜ三度も意識を失った中で取り押さえられているんだ?」
「ガルダの特性がわたくしの体に合っていませんのよ」
「そもそもガルダの特性による治癒は生物における死の間際、一命を取り留める最後の手段として殻に閉じこもる。それは年単位で行われるが、貴様は数ヶ月程度で回復を終える。ミーディアムにも関わらず、ガルダ以上の回復力を要している。これはあり得ない。では、あり得ないことが起きているとすればそれはもう『蝋冠』に眠っていた力以外には考えられない。貴様も呼ばれて知っているだろう? 『冷獄の氷』を貴様は『蝋冠』から継承している」
「根拠はあるんでして?」
「二度の重傷を負いながら回復し、その後、無意識のままに暴走しているのは『冷獄の氷』と呼ばれる力が自己防衛として働いているためだ。風魔法を得意とする貴様が、一体どうして氷の精霊の寵愛を受けているのかおかしいと思わなかったか? そもそもの起こりは貴様が空の上――『蝋冠』に初めて触れたときだ。その一度目こそ、俺が『冷獄の氷』に心奪われた瞬間でもある」
「……確かに触れた前後の記憶が曖昧なまま今まで生きてはきましたけれど」
「あの時、貴様は『冷獄の氷』の力で暴れ回り、カルメン家のガルダ総出で止めたのだ。目を覚ましたときに言われただろう? 『蝋冠』に選ばれたと。それはつまり、『冷獄の氷』を継承したことを指している」
念話で飛んできたニィナと戦っているガルダが喋っていたことと重複しているが、決して嘘を語っているようには見えない。逆に真実であるからこそ別のガルダが話すことと重複する部分があるとも言える。
「だったらわたくしの心を折るよりもわたくしを殺せばいいだけの話ではなくて?!」
「だから何度も言わせるな。『冷獄の氷』に選ばれた貴様を殺そうとすれば、自己防衛として『冷獄の氷』が貴様の体を乗っ取って暴れ回る。もし殺せたとしても、『冷獄の氷』は次の継承者を求めて、どこかへと去ってしまう。カルメン家の『蝋冠』はそもそも初代が抱えていた代物をその命もろとも封じ込めた遺品に過ぎない。封印から解き放たれた『冷獄の氷』が再び『蝋冠』に戻ることはないだろう」
ラブラが柄に手をかけた。その数秒後、クルタニカの右肩に切り傷が生まれる。
どこからともなく切り傷ができるわけがない。アレウスの目は一瞬であれどラブラから外れはしなかった。だからこそ彼のしたことが素直には受け入れがたい。
瞬撃。鞘から刀を抜き放ち、飛刃をクルタニカの右肩へと命中させたのち、再び刀を鞘に納めた。体の向きはクルタニカを斬るために多少の調整はあれど、柄に手をかけてからの全ての動作は閃光のように速く、体感では二秒かあるいは一秒。ひょっとすればそれ以上かもしれない。刀身の閃きが見えたこと自体、アレウスは驚いている。自身にこれおほどまで加速した抜刀術を見抜ける目が備わっているとは思ってもいなかった。
活路が見出せなかった理由はこの瞬撃で理由がつく。どんなに速く、どんなに気配を消したところで瞬撃の間合いに入ってしまえば体が真っ二つにされてしまう。自身の死に対する強い直感に感謝しかない。
「こういった余興は嫌いかな?」
だが状況は好転していない。むしろ悪化している。ラブラは遠距離からクルタニカを飛刃で傷付けるつもりなのだ。それも死なない程度にいたぶる。そうすることでアレウスから冷静な判断力を奪おうとしている。無理を承知で助けに来たのだ。救出対象を傷付けられれば、そう何度も精神的に耐えられることではない。
「ガルダの誇りはないのか?」
「あるようで無い。誇りについては都合の良いときしか語らない」
ラブラは言い切って、次に鼻で笑う。
「大体、この忌み子は俺が作った氷の椅子で拘束されてはいるが、なぜここから脱出しようと一度も考えないと思う? 忌み子の膨大な魔力は俺だって目にしている。杖がなくとも、そして杖を奪われていたとしても忌み子は常に魔力を纏わせて、魔法を放てる状況にあるではないか。なのに、拘束されてから一切の詠唱をせず、魔法を行使する姿勢すら見られない。ここから推測すれば、貴様だって分かるだろう? クルタニカ・カルメンは帰還を望んでいない。このままここで死ぬか、空の上へと連行されたがっている。そこで生じる弊害には目を背けている。たとえ近しい人が死のうとも、忌み子は自分から拘束を解かない。街一つが異界に沈もうと構いやしないってことだ」
「言っていいことと悪いことがある」
「だったらこの状況をどう説明する? 貴様たちは何事に対しても絆、仲間、友情などと口にするがこの忌み子の取った行動はどれもこれも貴様たちにとって良いことだったか? どれもこれもが身勝手な決め付けと、自分勝手な悲劇の渦中であるかのように振る舞う。自らの行いが全てを引き起こしているのに、忌み子はこの展開に酔っている。忌み子は――この女は昔からそういう女だ。自分が求められていることに悦に入っている」
ラブラが一歩、アレウスへと近付く。
「昔から注目を浴びたがる性格だ」
一歩、また近付く。
「ミーディアムである後ろめたさ、ガルダの社会で剣の才が劣っていることも合わせた強い劣等感」
「逃げるように求めた魔の叡智」
「他人から『凄い』、『素晴らしい』と初めて口にされたことで得る高揚感と快感」
「悦に入りすぎて夢中となり、遂には周りからそれがこの女にとっての普通なのだと思われ出して、興味本位で手を伸ばした『蝋冠』」
「再び周囲から寄せられる特別な視線」
一言一言を発するたびにラブラは一歩、また一歩とアレウスへと近付いていく。
「しかし黒翼が全てを台無しにした。黒翼が生えたことで、こいつに向けられていた視線は全て奇異と特異な物を見るものへと変わった」
「だからこいつは両親の、」
「やめて!!」
「両親のロジックを書き換えて、黒翼をもがせた」
「は……?」
アレウスは口を開け、理解が及ばないがゆえの一つの声を零す。
「違う……違う違う違う!! あれはあの時、あなたが!」
「『俺にはロジックを書き換える力がある』。そう言っただけだが? 下界に降りてから使えるようになったその御業も、空の上では使えなかっただろう? だから俺は言われるがままに書き換えた。次期当主の言葉だ。逆らうワケがあるか? 断れば仕事先のカルメン家から追い出されるかもしれないんだ。喰い繋ぐためには従うしかないだろう?」
「違う!」
「下界に降りてなにをやっているのかと思えば、お得意の魔法でヒューマンたちを助けて回っている」
「違う!」
「羨望と期待の眼差しにまたこの女は独りよがりに酔っていた」
「違う!」
「ロジックを書き換える力すら発現させて、注目を浴びて悦んでいた」
「違う!」
「毎晩毎晩、それを思い返しては悦に入り、快感を求めて自身を慰めていた」
「違うったら違う!」
「注目を浴びるためなら柔肌を見せることさえ、いとわない」
「違う……の……」
「俺は、俺たちはただそれを正そうとしているだけだ。どうだ? 俺の言っていることには理屈が通っていると思わないか? 貴様とこの女の関係は一つも知らないが、貴様の中に思い当たるところはないか?」
「それが、なんなんだ?」
ラブラがアレウスから発せられる凄まじいまでの殺気に仰け反り、続いて短剣による剣戟を寸前で避けて距離を取った。
「話を聞いていたか?」
「それらが全て事実だとして、なにか問題があるか?」
「大ありだろう。現にこんな問題を起こしている」
「違う!!」
アレウスは短剣の切っ先を確かにラブラへと向け、強く断言する。
「誰にだって劣等感があって、誰にだって見せたくない顔がある。だけど! 僕の知るクルタニカ・カルメンは一度だって人を傷付け、苦しませたことはない!!」
「なにを言っている。この女は両親を利用したんだぞ?」
「全ての始まりはお前じゃないか。彼女の隠し事も秘め事も全て晒して得意げに語ってはいるが、お前がロジックを書き換える力を悪用して彼女とその家族を巻き込んだだけじゃないか!」
「俺は言われて嫌々ながらにやるしかなかった」
「だったらお前は意志の弱いガルダだったんだな。僕は逆らってでも断る。それで仕事を失おうと、拷問を受けようと、飢餓に苦しみ死ぬんだとしても! 絶対に断る!」
短剣を握る手に力を込める。
「だって人が人の生き様を思い通りにすることが許されていいわけがないだろう?! 人が正しく人であるためにロジックは使われるべきだ! 魔物に抗うために使われる力だ! 意思を、思考を書き換えてまでやりたいことが、この世にあるとでも言うのか?!」
心が叫ぶ。
「意味もなく注目を浴びているんじゃない。本当に強く気高く、誇りを持っているから人から目を向けられている。人の死を悼み、魂を輪廻へと還すことに心血を注いでいる。街を守るために重傷を負おうとも大詠唱を放った。これで信頼されないわけがない。逆に問うが、お前は今、秘密を暴露したときに快感を得ていたんじゃないのか? 彼女の心が傷付くところを見て激しく高揚したんじゃないのか? お前はそうやって自分は違うと思っていてもやっていることは彼女と同列だ。それを悪いと言うのなら、お前も当然悪い」
「俺の囁きを拒絶する意思があれば、そもそもの悲劇が起こらなかったとは考えないのか?」
「考えない。始まりは『ロジックを書き換える側の悪意』だ。だから、お前の囁きから全てが始まっている」
「こうしてこの場から動こうともしていないのは?」
「本当に動ける状況にないんだと思っている」
「自己満足で身勝手な解釈だな。都合の良いことしか捉えておらず、歪みを見ようともしていない」
「だったら笑える話だ。歪みしか見ていないお前だって都合の良いときにしか誇りを語らないんだろう?」
数秒の沈黙のあと、ラブラが鞘から刀を抜いた。
「未だに俺は愚かだった。下界の人種と真っ当に話をしようとしたこと自体が間違いだった。アレウリス・ノールード、貴様は殺す。なにがあったって殺す。誰がどう思おうとも俺の誇りが、そう決めた」
「神官だからじゃない。僕が本当に恨むべきは、“ロジックを書き換える力を悪用する者”とその“悪意”だった。クルタニカさんがいたからそれを知ることができたし、お前を見て正しく恨む対象を見据えることができた。変わらず神官を好きになるのは難しいけど、お前のことは神官以上に大嫌いだよ」




