泥に溺れる
「灯台……? いや、そんなわけない。幻覚……でも、ない?」
ガラハの脳裏に宿る『大灯台』をクォーツは彼の背後に見る。その戸惑いを逃さずにガラハは走る。
握り締めている三日月斧を十全に使うにはレベル――正確に言えば筋力が足りていない。それをまかなっているのは神官が唄う合唱である。地母神、地の神、更には土地神を崇め奉る歌声は、それらを強く信奉、信仰している者の能力を飛躍的に高める。場合によっては尽きた魔力の回復速度さえも上げる。ガラハから疲労感が抜け落ちたのもこの合唱のおかげである。唄い終わりまでがどれほどの長さなのかが分からないため、長期戦を考える余地はない。三日月斧を振ることができなくなれば敗北が確定する。
しかし、ガラハには一つの憂いもない。アーティファクト発動時には膝を折ってしまいそうなほど気持ちが沈んだが、自身の周りを優雅に飛び回る妖精がいるだけで、先ほどまでの鬱屈した気分が嘘のように晴れやかだ。またたく光が、身体の疲労ではなく精神の摩耗を抑えてくれている。おかげでクォーツの大太刀に怯えずに走ることさえできてしまう。
体を一回転させながらガラハが三日月斧を振るう。クォーツは大太刀で防ぐが、同時に起こる小さな爆発を受けて再び吹き飛ぶ。
「なにが起きている?」
吹き飛んだクォーツを追撃するように走り寄ってきているガラハにたまらずクォーツは空へと逃げる。
「ラベンダー!」
泥沼の中で爆発を浴び、同様に吹き飛んでから姿を見せていなかったラベンダーを呼び、ガラハにけしかける。
ガラハは光源を一つ二つ三つと追いかける。たったそれだけでラベンダーの襲撃も、そこから生じる二度、三度の追撃も逃れる。
「まさか……」
クォーツが空中で飛刃を撃つ。光源を踏み締め、ガラハは振り返るようにして三日月斧を振る。十字に切らずに発生したガラハの飛刃とクォーツの飛刃が衝突し、爆発を起こす。
「やっぱり」
翼で加速させ、クォーツが一直線にガラハへと急襲する。三日月斧と大太刀での激しい攻防が行われ、その果てに小さな爆発が生じる。爆風にやられる前に翼を大きく広げて留まったところを、ガラハが土煙の中から飛び出して真裏を取る。ラベンダーがすかさず合間へと入り、三日月斧を受けると共に爆発が再び起こる。今度は留まらずに爆風で吹き飛び距離を置こうとしたクォーツを、一切の防御を捨てたかのようにガラハが追撃する。
「秘剣」
技の構えを取っているが、ガラハは突撃を止めない。
「“萩猪”!」
高速の刺突から繰り出される剣圧は猪を模して直線的に奔る。
ガラハに迷いはない。辿るべきは光源であり、見るべきは妖精の光である。その合間に起こる様々な事象にまで思考を巡らせるつもりはない。なぜなら、“その道を辿れば必ず生還できる”と信じているからだ。自身のアーティファクトが異界で出口を指し示す道しるべになるのは、生還を第一とした特性を持っているからだ。今、それを戦闘のために展開している。戦って勝利する以外での生存の道がないのならば、アーティファクトが生還のために指し示す道しるべはどれもクォーツを討つための道程となる。そして、その際に生じるあらゆる攻撃は光源を辿ることさえできるのなら死ぬことはない。“萩猪”の発生前に体を横へと逸らしたのも、発生後に避けてから『回避するためだった』と思考が追いつく。
光源を辿って、一体どのような結果になるのか。そこまでの判断は下せないが、少なくともクォーツを追い詰めることはできるであろうと。この場でガラハはそれ以上を求めることはない。だから迷いも惑いもない。
「なんで、」
肉薄する。
「らぁああああああっ!!」
脇に構えた三日月斧に力を込め、凄まじい速度で振り下ろす。クォーツは一瞬、出遅れた。それが致命的な遅れとなり、避けることはできても片方の翼が大きく断ち切られる。
空中でバランスを取れず、クォーツは苦しげな表情を見せながら着地する。
「『泥濘鈍地』!」
それでもクォーツは痛みに思考を引っ張られることなく、冷静に言霊を唱える。ガラハの両足はぬかるみに沈むが、一度の言霊程度で足を取られることはない。そのことを分かっていても唱えた。
足は取られはしないが、走る速度に影響は出る。ガラハ自身は泥をなんとも思っていなくとも、重みは必ず付き纏う。
「逃げの一手だな」
ガラハはそう言って、後退していくクォーツを煽る。今まで、どれだけ近付こうともクォーツは逃げようとはしなかった。それはガラハの速度を脅威と思っていなかったためだ。それが今は逃げている。片翼の大半を喪った状態では空に羽ばたくこともままならない。たったその一点が、彼女にとっては安全策の喪失と繋がった。ぬかるみに落とし、少しでもガラハの移動速度を下げるのは、喪った安全策の代替案なのだ。
そして同時に、言霊によってガラハは捕捉されている。ここから逃げられ続ければガラハは再び泥に沈む。
「『泥濘鈍地』」
考えている内に再び言霊を唱えられ、足が深く沈む。三日月斧の重みにもそろそろ体が気付き始めている。神官の合唱による身体的な強化が切れかかっていることも確かなのだが、なによりも目を背け続けていた体力の限界が近付いているのだ。
体力がゼロになれば、どれだけの強化を施されても動けない。心臓が脈打ちはしても、身動きは取れなくなる。それが迫っていることを実感しつつも、ガラハはひたすらに光源を辿る。さながら獣のように猛進する姿にクォーツは言いようのない恐怖を感じているのか、もはや一切の接近を行おうとはしていない。秘剣を撃つ気配もない。距離を置いて、安全に泥へと沈める。それを確実に狙っている。
「さっきまで勝ち誇っていたじゃないか」
「事情が変わった。その斧と、この歌声が明らかにあなたを強くしている」
「そうか。ならこの斧の秘密を教えてやろうか?」
クォーツが興味を持った。時間稼ぎではなく、次の光源にはもう到着している。
「さっきまでこの斧の先端にはスティンガーが潜んでいた。妖精の粉――フェアリーパウダーは魔力が奔れば爆発する。三日月斧を振れば、中に蓄えている粉が刃にまぶされる。ついさっき味わったように爆発はとても小さなものだがな」
「ドワーフに魔の叡智はない」
「だから、妖精が手助けをしてくれる」
着火を全てスティンガーに委ねている。フェアリーパウダー自体は火薬でもなんでもない。外的に魔力を込められても反応はするが爆発はしない。爆発するとすれば、そこには妖精の意思が介入する。妖精が残した粉なのだから、妖精が一番それをどう作用させるかをよく知っている。
「自分自身の力じゃなく、別のなにかに頼るなんて」
「ああ、頼っている。頼らなきゃオレは立っていられない」
「弱い証拠」
「弱いからこそ、一人で強くなるのではなく大勢で強くなる道を選んだ」
「……個より全が大切だと言ったところで、もうあなたは私には届かない。最後にその斧の秘密を知れて良かった。絶対に近付かない方が良いって分かったから。『泥濘鈍地』!」
腰まで沈む。しかしガラハの見ている光源はここで終わっている。もうほぼ動かなくていいとアーティファクトが伝えている。
「さっきの妖精だってもうあなたの傍にいない。もう負けるって分かったから離れたんでしょ?」
「妖精は好奇心が旺盛だからな。興味のある物には手を伸ばしてしまうぐらいだ。イタズラが大好きなせいで、数が増えると手を焼かす」
「ふぅん……で? だから? それがなんなの? まったく分からない。『泥濘鈍地』」
肩まで沈んでいるが、足は未だぬかるみの底に触れていない。
「子供のやり方に付き合ってやったつもりなんだがな」
「どういう、っ!」
クォーツは反射的に自身の鞘に手を伸ばす。
「好きなんだろう? 勝ち誇ったとき、相手に手の内を晒すのが」
鞘からスティンガーが顔を覗かせ、ほのかに笑いながらガラハの元へと飛んで行き、指先が踊る。
クォーツの鞘が爆ぜた。威力はほぼ無いが、内側から爆散した鞘の残骸を見つめ、次に彼女は足元を見る。途端、その足はぬかるみに沈む。慌てて翼を広げるが、片翼だけでは逃れられず、むしろ暴れることでその体は泥に捕まり、更に深く沈み込んでいく。
「接地の剣技……! 鞘にあるって見破っていた?!」
「知らないな。妖精は魔力を帯びている物には敏感だからな」
「くっ……! なんで、なんでなんでなんで!!」
自らが発生させたぬかるみから抜け出せずにクォーツはパニックを起こす。
「助かりたいなら解けばいい」
「なんでそんな風にしていられる? あなただっていずれ沈み切るのに!」
「オレはドワーフだ。まだ耐える方法を知っている。確実にオレより先に貴様が沈み、息絶える。そのあとならこのぬかるみも消え失せるだろう?」
「く、そ……ぅううぅううううう!!」
「それだけ翼が汚れていたら、たとえ片翼で飛べていたとしても無理だな」
「誰のせいで!」
泥の雨を降らしたのは助かるためだったが、ガラハはクォーツがやたらとその泥を避けていたところを見ている。どの鳥でも、撥水性が高い羽根を備えているものだが、どうやら彼女はまだそれが備え切れていない。年齢をヒューマンで数えるならば十代前半、或いはその中間ほどの容姿の通り、翼も未だ成長途中なのだろう。
「駄々をこねていないで、さっさと解けばいいだろう」
「うるさい……うるさい、うるさい!」
暴れるクォーツはガラハよりも先にぬかるみに頭まで浸かる。その僅か数秒後にガラハも全身がぬかるみに消える。
「分かった、分かったから。まだ二度目でしょ? だから解いて……ラベンダー!」
数分経って、クォーツが必死に顔を出し、もがきながら叫び、二人を呑み込もうとしていたぬかるみが消え去った。すり鉢状の穴のみが地面を抉ったまま残り、その中で泥に塗れたままガラハはクォーツにゆっくりと迫る。口から泥を吐き、刀さえ握れていない彼女は明らかに弱っている。
「さっきのは嘘だ」
「え?」
「底無し沼から出る方法はオレでも知らない」
浮くか沈むかは密度が関係する。小さければ浮き、大きければ沈む。
ガルダは空を飛べるのだから軽く、密度は小さいだろう。それに比べてドワーフのガラハは密度が大きい。装備の重量も合わさって、沈むのは明白だ。布のような衣装を纏っている彼女よりも長く沈まず耐え忍ぶことなどできるわけがない。
もがいてもクォーツは顔を出せた。ガラハは出せなかった。つまり、もがき続けていればクォーツは一応ながら、底無し沼の水面に顔を出して息を続けていられたのだ。
だからガラハは嘘をついた。
「そんな」
水鳥のように泥の上を歩く。その接地技術を奪われて、幼いがゆえに彼女は泥の恐怖に耐えることができなかった。だから嘘を信じてしまった。
「常世の果てで、次は真っ当に産まれ直してくれ」
クォーツがなにかを言おうとしたしていたが、ガラハは構わず三日月斧の刃をその胸部に力強く叩き付けた。




