なんのための強さだ
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オニキスはカルメン家に拾われたミディアムガルーダである。自身の出自についてはなにも知らず、なにも教えられておらず、当初は会話こそできたが字の読み書きをすることはできなかった。オニキスという名前は辛うじて彼が憶えている唯一のものであったが、やはり家系については誰もが突き止めることができなかった。
使用人として扱われはしたが、雑に扱われるということはなく、まだまだ子供ということもあって甘やかされることも多々あり、オニキス自身は強い幸福感を抱いて育った。クルタニカがそうであったため、真似るように勉学に勤しみ、剣術の才は彼女を越えるほどのものであった。歳もまだ近い方であったため、クォーツも交えての剣術の練習も付き合ったことがある。そんな折、クルタニカが『蝋冠』に触れてしまい、目を覚ますまで隔離されることとなった。次期当主についての言い争いをオニキスは何度か耳にしていたが、自身が仕えるべき相手は誰であっても構わないと思っていたし、地位としては高くもないために関わったところでなにかを得られるものでもなかった。
クルタニカよりも一時間遅く『羽生えの儀』を終わらせたのち、カルメン家に帰るとなにやら揉め事があったようで、当主を交えての大激論が繰り広げられていた。関わるべきではないと判断し、オニキスは外へと出た。
その外出がオニキスにとっての岐路となる。
見たかったわけでも好奇心があったわけでもないのだがオニキスは深夜過ぎに出歩いた先で、男が買った情婦とのまぐわいを目撃してしまう。その激しくも淫らで、甘美な光景を目の当たりにした瞬間から彼の頭は狂い始める。寝ても覚めてもその情事を思い出して仕方がない。
オニキスは通常、ミディアムガルーダであれガルダであれ、どちらにせよ十五を過ぎてから訪れるはずの発情期を十歳で迎えてしまうことになる。カルメン家の騒動によってクルタニカが出奔と言う名の行方不明になり、更にはカルメン家におけるミディアムガルーダの地位低下に伴って起きた精神不安によって彼の肉体的成長は怖ろしく滞る。
ガルダにとっての発情期は『機械人形』による精神修行を終えている時期でもあるために充分に御せる範囲内である。二週間もすれば発情期も過ぎる。しかし、まだ精神修行を始めていなかった彼には性欲を止める手立てがなく、この日から彼は終わらぬ欲情を味わい続けることになる。特にミーディアムであったことが彼の体を蝕む要因となった。元来、特定の一人しか愛さず、愛せないはずなのだが、愛する個人も見当たらないままに御し切れない発情期によって、暴走を始めたのだ。
激しく続く欲情と発散の連続。とてもではないが誰にも相談できるわけでもなく、誰か頼れる相手がいるわけでもなかった。自身の終息しない発情期に嫌気が刺し、精神不安は加速して狂い始める。
それでも人前では真っ当さを見せ、十四歳となると『機械人形』を与えられ、精神修行が始まる。しかし、彼は悪魔の囁きに乗ってしまう。悪魔の囁きに乗ることはガルダの間では珍しいことではない。誰もが一度は乗ってしまうものとされ、『機械人形』を与える七歳と十四歳の少年少女は常々に監視される状態にある。取り押さえられ、不屈の精神で悪魔を屈服させる修業が継続するものの、遂にオニキスは深夜過ぎに歩いていた情婦を襲ってしまう。そしてその日の内にそれを五度繰り返す。決まって襲うのは十歳の頃に目撃した職業が性風俗に関わる女性であり、必ず襲ったあとには殺す。そんな非人道的な行いをしたことでオニキスは当然のことながら死刑が下されるのだが、ラブラがオニキスを殺したことにして手元に置いた。
ラブラがオニキスに情を抱いていたわけではない。五度、悪魔の囁きに乗っても精神も肉体も奪われない。その異常性を評価しただけのことだった。しかし、オニキスは命を拾われたことで彼だけは裏切らないことを固く誓った。そこだけはどれだけ悪魔に囁かれ続けても、頑なに守り通した。他に守らなければならない規律があったはずだというのに――
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「アイシャちゃんは休んでて。マジックポーションも持ってきたから、ほら」
クラリエはオニキスから視線を逸らさず、鞄から小瓶を取り出してアイシャの方へと投げる。
「あたしが作ったマジックポーションだから、魔力の回復量はたかが知れているけど、飲まないよりはマシだと思うから」
魔力の回復には自身の魔力を混ぜたポーションが最も吸収効率も回復量も優れる。他人の作ったマジックポーションでは半分以上も効果は低下するが、魔力切れ間際のアイシャには効果が薄くとも飲むだけの価値がある。
「君が彼女を守れるとでも?」
「守るもなにも、あなたにとってアイシャちゃんは最後のお楽しみなんでしょ? だったら、その前に付き合ってよ。それともあたしとじゃイヤ?」
優先順位の確認を行う。オニキスにとって先に尊厳を踏み躙りたい相手はアイシャなのかそれともクラリエなのか。これまでの発言の限りではアイシャは後回しにされるはずだが、気分が変わったならばその限りではない。こういった性欲に偏ってしまった人物の思考は読み取りにくい。犯罪者の心理を読み解くのが難しいのと同義である。
「じゃぁ、まずは君で満たされようかな。でも、君とヤったあとでもまだ残っているといいけど」
おおっぴらに寒気のするようなことを言われるが、クラリエに彼の興味が向いた。これでアイシャを狙われて戦い辛くはなりにくい。あくまで言葉での誘惑に過ぎず、途中でクラリエとの戦いに飽きるようなら、彼女を痛め付ける方向に気持ちを変えてしまうかもしれない。そんな危うさではあるが、一時的な身の安全を得ることができればアイシャも戦線に復帰できるに違いない。
「“金属の刃”」
魔法の短刀を指の間に複数本挟んで持ち、その場からオニキスまでの距離を算出する。
『金配剛爪』は地面に干渉する範囲魔法に近い。そこには間違いなく彼の魔力が巡っている。呪術による足止めは地面に線引きして発揮されるため、クラリエの魔力が押し勝たなければならない。そもそも呪術に強く拘る必要があるだろうか。走ることを封じても彼には翼がある上に、線引きによる呪術は踏み越えることで最大の効果となる。なにかは分からないがオニキスは“普通”に地面に足を着けているわけではない。そうなると効果は薄まり、場合によっては捕らえられない。ならば囲う形式が望ましくなるが、それでもやはり発動が地面からになるため広範囲に及んでいるオニキスの魔力と押し合いになる。絶対的に効果が及ぶのであれば無理してでも押し勝ちに行くが、それでアテが外れてしまえば魔力も精神も消耗してしまう。
難しいことは考えないようにする。アレウスにも言ってきたことを自分自身ができていないのでは示しがつかない。
クラリエはパーティリーダーのように連携や陣形を考えなくていいし、策士のように頭を使うのは向いていない。特に今回はアイシャを守ることは大前提とするが、他はなにをするのも自由だ。ならば培ってきた感性と感覚だけで戦えばいい。
息を整え、自分の中でのオニキスを殺すまでの道のりを想像する。呼吸は徐々に深くしつつも、吐くは少しずつ、更に音すらも静かなものへと変えて気配をゆっくりと消していく。ただし、オニキスには強力な気配消しは通用しない。この結界内に異物として存在しているのはアイシャとクラリエだと知られている。どれだけ気配を消すことに努めようと、位置ばかりは消し去れない。だが、位置は掴まれてもどのような体勢で迫っているかまでは見破れないはずだ。
走り出す。
「『金配剛爪』!」
地面から無数の針が、クラリエが走り抜けたあとで遅れて突出する。オニキスの感知にクラリエの気配消しが追い付いていないことを表すが、遅れてはいるものの位置は掴まれている。だとしても自身が思い描いた導線は崩さない。
『首刈り』は不意を打ってはみたものの、防がれた。だとしたら正攻法では不可能となる。そして間違いなく、振り抜こうとしている短刀も防がれるはずだ。
視線と視線が交錯する。気配をここまで消してもクラリエの居場所に喰らい付いてきた。振った短刀は刀で止められ、もう一方の腕で握っている刀がクラリエの首に向かう。すぐさま体勢を変えて横振りをかわし、振った短刀を引いて自身ももう一方の腕に握る短刀で刺突を繰り出す。
後退されて、クラリエの刺突はギリギリ届かない。もう一歩の踏み込みを狙うが、引き戻された刀が向かってくる。踏み込みは諦め、後ろに引く。すぐに跳躍し、地面から突出する無数の針をかわす。
「秘剣」
着地も早々に、オニキスが構えに入った。
「“松鶴”!」
縦一文字に振られた刀から発せられる衝撃波が鶴のように縦に伸びる。進行と合わせて縦への延伸が強まるため、クラリエは早めにこれを避ける。感知している範囲ではこの剣技はアイシャには当たらない。
「“柳燕”」
もう一方の刀が横一文字に振られ、燕が翼を広げるように衝撃波が横へと延伸していく。これはアイシャに当たってしまうため、クラリエは手に握っていた幾本かの短刀を衝撃波の中央へと集中して投擲する。
ただの短刀であれば弾かれるだけだが、魔法の短刀ならば対抗できる。ただし、完全に消し去ることはできない。だが、“柳燕”は左右に断たれ、あらぬ方向へと飛んでいく。
「“金属の刃”」
クラリエが短刀を二本だけ補充して移動した直後、オニキスが懐まで入り込んでいた。
「秘剣」
気配を消してもここまで位置を掴まれるのは、クリュプトン・ロゼと『影踏』、そしてエウカリス以来だ。
しかし、その例外を知っているからこそ移動先を読み切られてしまっても対処ができる。
「“菖蒲、っ!」
踏み込みに対し、クラリエもまた深くに踏み込む。極めて近い距離でオニキスは振り上げた刀を止めている。どんな武器にも適切な距離がある。そこを乱せば――今回は伸ばした腕が振るうにそぐわないところまで接近することで乱した。これを無理に振るうにはオニキスは伸ばした腕を引き戻さなければならず、構えが崩れて剣技を放てない。そしてこの距離は短刀を扱うクラリエには、まだその刃が通用する距離である。
剣技は止めたが、左手が握る刀が接近したクラリエを蹴散らすように振るわれ、刺突もままならずに跳躍して逃れる。人のことを言えた立場ではないが、片手にそれぞれ武器を握られると一方を止めたところでもう一方を止める必要がある。そちらを防御に回されれば近付けなくなり、攻撃に回されれば痛み分けになる。刀と短刀では与える痛みに差があり、分が悪すぎるために下がった。
「手を貸しましょうか?」
「うるさい。お前は黙っていろ!」
カモミールが蠢いてクラリエの邪魔をしようとしているが、それよりも速く走ることで逃れ切って、前方に現れたオニキスが振るった斬撃を短刀で受け止める。込められている力が強い。受け止めはしたが、流し切れない。短刀が弾かれる。
「“金属の、」
「遅い!!」
補充が間に合わない。刀による瞬撃を一度、二度とかわして後退する。
「かわされた?!」
「目線でそれぐらい見抜けるから」
それでも冷や汗が流れる。正直に言えば、斬撃は見えなかった。全てを寸断する斬撃にして、振るった瞬間すら見えない閃光の一撃。呼吸のように「秘剣」と口にする剣技よりも厄介極まりない。
跳ねて、跳ねて、跳ねて。『金配剛爪』の針から逃れ、オニキスの斬撃から逃れながら機を窺う。気配は依然として消しているつもりだが、どうにもオニキスが慣れてきている。先回りされることが増え、斬撃も紙一重でかわすことが多くなってきた。手数では勝れる自信があるのだが、やはり見えない斬撃には手数重視だけでは立ち向かえない。
「呼吸が乱れてきたね、ダークエルフ!」
「どうかなぁ? “金属の刃”」
隙があったため魔法の短刀を補充する。
「強がりを言っても僕には分かる。そのまま息を荒げさせ、やがて走れなくなって君は立ち止まる。そこを僕が斬れば、君の体は僕の物だ」
「どうかなぁ?」
「君の位置も掴めてきている。次はドンピシャで君の体を斬ってみせるよ!」
翼を広げて、オニキスが前のめりに走りながら羽ばたく。翼の加速でクラリエの走りに追い付いてくる。居場所まで掴まれているのだとすれば、回り込まれるのも時間の問題だ。
悩む理由はない。
命の危機と尊厳の危機だ。エウカリスは許すだろう。
「捉えた!!」
立ち塞がるオニキスは斬撃を繰り出す最終段階に移っている。
クラリエが歯を喰い縛り、同時にその体から“緑の衣”が炎のように噴き出す。纏い切る前に急加速し、オニキスの瞬撃は空を切る。
「生き様を燃やし、『緑衣』を纏う」
オニキスの頭上高くまで跳躍したクラリエは瞳の色を翡翠に染めて、『緑衣』を纏い終えている。補充した短刀を全て手の内から解放し、それらが翡翠の魔力を帯びて矢のごとくオニキスを撃ち抜く。
「浅い……でも、エウカリス……もう少しだけ力を貸して」
『緑衣』の加速を借りつつ着地後、すぐに走り出しながら呟く。
「エルフが『衣』を纏うのは聞いたことがある。でも、ダークエルフが『衣』を纏う?」
首を傾げながらオニキスはクラリエを怪しんでいる。
「四大血統の『衣』の色でないなら、気にしなくていいか? ただ速くなっただけなら、いつか僕なら捉えられる」
「そんな自信が、」
「あるよ。僕ならできる」
自信を削がせようとしたが、逆に高めさせてしまった。敵対していて、且つ人道的に許せない相手がこのような性質まで持ち合わせている。歪な精神力の持ち主に、かける言葉が見つからない。
これでまだ、戦うに値するほどの強者や武人であったなら、どれだけよかったことか。後世に語ることだってできた。だが、これ以上の被害者を出さないためにも彼はクラリエの生き様の中で永遠に語られない存在にしなければならない。
「あなた、歪んでいるよ」
「だいぶ前から知っている」
「そう」
『緑衣』がクラリエの残っている短刀に翡翠の魔力を加える。
「だったらあたしがその首を刈ってあげる」




