敵には回せない
---
この世界には敵に回してはいけない人がいる。王族、血統、貴族、権力、権威も敵に回してはならないが、それらは人に付随するものであって本人を指すものではない。
リスティが最も怖れるのは、付加価値や概念を取り払った先にある人間そのものである。
味方であれば頼もしくとも、敵に回せば人間としての死を味わわされる。生きていても死んでいるような、あらゆる意味での黙殺も可能とする。権威や地位に拘る者だけがそのような力を行使しているわけではない。
世の中には、決して表には出ない裏が存在する。想像や妄想の中でしか表現のできない裏側には、ひょっとしたら想像や妄想を越える世界はないかもしれない。しかし、同時にその時、想像や妄想を越える世界が実在する可能性もある。そこばかりは全容をつまびらかにしなければ、末端を見たところで理解することはできないだろう。
「最後の夢は見れたか? 街長」
今、リスティは敵に回してはならない存在を目の前にし、肌で感じ取っている。
二十分前、リスティはヘイロンとシエラと共に、不本意ながら男性を惹き付けるための肌の露出が多めのドレスを身に纏って街長の私邸を訪れた。リスティ自身は精一杯の露出だったのだがシエラやヘイロンはそれ以上に扇情的なドレスだった。リスティのドレスを見てヘイロンは鼻で笑っていたが、彼女のように胸が今にも零れ出してしまいそうで、服のスリットから大腿部より上まで見えてしまいそうなドレスを着ることなど絶対にできない。そもそも、そのようなドレスは自分自身に似合わないと思っている。ヘイロンは見事に着こなしているが、自身が同じようなドレスを着ても同じだけの魅力を出せるとはとてもではないが思えなかった。
シエラが邸宅のノックし、使用人が扉を開いて中に招かれた。使用人や秘書との会話は全てシエラとヘイロンに任せた。まず、自身に向けられている視線が気になって会話を理解しながら決して秘匿しなければならないことを秘匿したまま話すことは困難だと、訪れる前から二人に告げていたためだ。
だと言うのに、リスティはシエラやヘイロンよりも前を歩くことになり、一番最初に街長の部屋に足を踏み入れることになった。順に入っただけに過ぎないが、街長は恐らくリスティの姿を真っ先に確かめたかったのだろう。
部屋には怪しげな香が焚いてあった。好きな香りではない。なにより成分が分からない代物は基本的に吸い込まないようにすると決めている。呼吸はしなければならないため、深い呼吸をせずに浅い呼吸を鼻からではなく口から行う。これで匂いで惑わされることはないが、どちらにせよ体内に香りを取り込むことには変わりないため、一定量で体に異変が起こり始めたならば即座に部屋から飛び出すか、換気を行わなければならなかった。
街長は――中肉中背の男は下卑た笑みを浮かべていた。部屋には大きなベッドが一つあり、必然的にそういうことを彷彿とさせられてしまったが、なによりもリスティの全身に寒気を与えたのは、街長がタオルローブ一枚でソファに座っていたことだ。
元より、ヘイロンは“そのこと”を意識させてきたが、こうして体感させられるとさすがに悲鳴の一つでも上げたくなった。だが、そんなリスティとは裏腹にヘイロンは変わらず蠱惑的な瞳で街長を見つめ、シエラもいつも通りの笑顔を覗かせている。ヘイロンはともかく、シエラのやることをリスティは一度も疑ったことはないが、香りにあてられて、思考が乱れてしまっているのではないかという不安はあった。
ヘイロンは街長の前で躊躇わず、どこで学んだのか体をクネらせながらドレスを脱いでいき、恥ずかし気もなく下着姿を晒す。むしろ見せつけている。長年、ヘイロンがギルドで担当者を続けていることはリスティも知っていることだが、年齢までは分からない。そして、衰えも年齢も感じさせない――艶やかで魅力的な肢体で街長を誘惑する。
街長は「これはお前たちが誘ってきたことだ」と理由付けをしていたが、もはや頭の中は“そういうこと”で一杯のようだった。ヘイロンはシエラとリスティにも脱衣を促してきた。ここに来る前にヘイロンが伝えてきた算段である。シエラはヘイロンほど見せつけるようにではなく、至って普通に。そしてリスティは恥ずかしがるようにして脱ぐようにと念を押された。これは街長の興味を常にこちらに惹きつけるためであり、“そういうこと”の強要ではないと言われていたため、戸惑いは薄かった。
アレウスに見せたことで自身の中に一定の基準ができていたのか、街長に下着姿を晒したところで本当の意味での羞恥心は薄かった。むしろアレウスに見せたときの方が緊張感は大きく、心臓の鼓動も凄まじいものがあった。
三人に魅せられてか、街長はもう辛抱たまらないものがあったらしく、まずリスティの腕を取った。冒険者の経験から、反射的に拒絶して投げ飛ばしてしまいそうになったところを堪えて、その手を引き寄せ、自ら求めているかのような動作でもってベッドに押し倒された。
色々な言葉が飛び交った。なにを言われているかは考えないようにした。しかし、きっと公共の場では口にすることのできない発言ばかりであっただろう。
街長の手がリスティの胸に伸びる。
触れるか触れないかの寸前に、街長は真横から蹴飛ばされた。
蹴ったのはシエラで、その暴力に街長は怒り狂いながら罵詈雑言を彼女に飛ばした。リスティが聞かされた作戦にはシエラが蹴飛ばす予定はなかった。そのため、どこまでが段取り通りに物事が進んでいるのか、ある種の混乱を覚えた。
だが、更に混乱することがリスティの目の前で起こった。
シエラだと思っていた気配はいつの間にか別人の物に切り替わり、自身が見ていたシエラという存在は消えていき、さながら彼女の内部から肉を切り裂いて現れ出でたかのようにしてギルド長が現れた。『影踏』や『影宵』が見せる気配消しの応用にしては肉体の消失の仕方があまりにも生々しかったために、リスティはえずいてしまった。どれほど気味の悪い魔物を見ても耐えてきた脳が、ギルド長の登場だけは受け付けていなかった。
そのようなギルド長の登場を終えて、現在に至る。
「家宅侵入だぞ!」
ギルド長は自身の体に残っている“シエラの気配の欠片”を払い落しながら、街長の怒号を無視する。
「聞いているのか?! 貴様のやっていることは犯罪だ!」
「そんな恰好で言われたところで、なんのことやらとしか言えませんな、街長」
ヘイロンはリスティにドレスを投げた。彼女は自分自身のドレスをもう着始めており、リスティもベッドから降りてドレスを纏う。
「謝罪のために担当者は送らせたものの、このようなことまで私は容認していないんですよ。まさか昼間の世迷い言を本気になされましたか? あんな、持ち上げるためだけの嘘を聞いて、気分良く帰られたので……いやはや、実に滑稽だったのですが、まさか手を出すとまでは思いませんでしたよ」
「手を出す? 私は手を出してなどおらんぞ」
「では、なぜ彼女はベッドに押し倒されていたのでしょうか?」
「気分が悪いと言ったために私が介抱していただけに過ぎない」
「……はぁ、なるほど? なるほどなるほど」
リスティは本能的に瞼を閉じた。ギルド長が放っている気配は大きく、殺気めいたものまで混じっている。殺す気がなくとも、殺す気があるように周囲の者に思わせる。そんな気配の持ち主はリスティの知る中では“たった一人だけ”だったのだが、訂正しなければならないらしい。
「“音痕”って知っていますか、街長? なんならあなたが今ここで発したことを再生してみましょうか? これは明日の朝にでも議会に提出するために協力してもらっているこの街で二番目に偉い神官様に、わざわざ高価な巻物に保存してもらったものなんですが」
手に出して見せた巻物を街長が素早い動きで奪い取る。しかし、それはその手の中で形を失って溶けていく。
「本物をここに忍ばせるわけがないでしょう? 私自身がここで“音痕”の基礎となって、耳にしたこと全てを別所で巻物に残す。そういう手筈なんでね」
ギルド長は小馬鹿にするように言い放ち、同時に背後に迫っていた二人の使用人に反応し、振り返る。
そして、間にある僅かな空間を手の甲で叩いた。使用人は懐から取り出した短剣を握り締めたまま硬直し、人形のように動かなくなる。
「使用人に刃物を持たせているのは危機管理がなっていないですね。反感を買えばこの刃が切り裂くのはあなたかもしれませんし」
短剣を二本回収し、一本を捨てるようにして床に突き立て、もう一本は手に持ったまま街長に迫る。
「一体、どのようにして私のこの部屋に入ったというのだ?」
「この状況で訊くことがそれですか? 単純な話ですよ。私は、最初からこの三人の後ろにいただけです。別に引っついていたわけではありませんよ? 気配を消して、誰にも気付かれないように三人を招き入れたタイミングで私も入りました。そして、あなたが三人を順番にではなくまとめて部屋に引き入れてくれたおかげで、私も扉が閉まる前に入り込むことができました。いやぁ、性豪で羨ましい。羨ましいが、おかげさまで入るのに苦労はしませんでした」
腰を抜かしている街長を短剣で脅しつつ、やがてギルド長は「もう敬わなくてもいいか」と呟き、普段の口調に戻る。
「シエラ先輩はどこに……?」
「ああ、それは位置の転換を行った。私の気配消しは魔法を絡めていて、基点を定める。身の危険が迫った時、その基点に戻る。偵察用に仕上げたものだが、位置の転換を行わない限り、その場に留まり続けられない。だからシエラに触れて位置の転換を行った」
そのような気配の消し方も魔法の使い方もリスティは見たことも聞いたこともない。ならばギルド長の言っていることは嘘が混じっているようにも思えるが、しかし見たことを全て否定するには難しいものがある。
「そんな面倒な技能じゃなく、普通に気配を消すだけでもバレなかったのでは?」
「この街長は入り口の門番に金で篭絡した元冒険者を雇っている。私の通常の気配消しの技能ではバレる可能性があった」
バレるはずがない。この言葉には確実に嘘が混ざっている。
「というのは建前で、“音痕”の巻物を安全かつ迅速に現場から動かさなければならない。まかり間違って盗られでもしたら全ての算段が水の泡だ。だから、私自身が気配を消したまま録音機の役割を果たし、証拠を掴んだ瞬間に担当者の一人と巻物と合わせて位置の転換を行うことで、外に運び出した」
信じるならばシエラはギルド長と基点で入れ替わったということになる。あんな生々しい登場の仕方をしたために素直に無事だと思えず、確証を得るまで不安は残っている。怯えるリスティに比べ、ヘイロンは分かっていたかのように笑みを浮かべながら、部屋に焚かれていた香とその入れ物を窓を開き、外へと投げ飛ばした。
「この香りは、思考を鈍らせて感覚を昂ぶらせる代物だよ。あいにく、私らは担当者という立場上、常に全ての物に警戒をしているんだよ。そこのリスティですら、お前の香りは届いちゃいないんだから金の無駄遣いってやつだねぇ。どこで買った? 媚薬の香は倦怠期の夫婦のために市場でも出回るがこれは配合量が狂っている。どう考えても正規品じゃないねぇ。そんな物を持っているんなら……お前、奴隷商人と関わっているねぇ?」
「ち、違う。私はそんなことは、」
「馬鹿を言うんじゃないよ!! 正規品かどうかは商人に見せれば分かる。ほぅら、お前たちみたいな輩がこういった物を隠す場所はいつだって決まっている」
ヘイロンは机を調べ、すぐに袋に包まれている未使用の香を見つける。
「さて、街長? こっちは担当者三人の甘美なストリップを見せてやったんだ。もう充分だろう? 十二分にその地位を楽しんだよなぁ?」
小者の悲鳴を上げて、街長は「なにを突っ立っている!」と使用人に助けを求めている。
「無駄だ。俺はロジックを開けないが、あの使用人のロジックには“ノック”した。家にいる時、来客があれば扉は叩かれる。客が来訪した食堂やレストランならベルを鳴らされる。ノックされれば誰だって意識を向けないわけにはいかないだろう? 俺はそんな風にロジックに干渉したんだ。あと五分は俺のノックを気にして動けない。ノックを気にした前後のおよそ十分間は忘れる」
ギルド長が持っている短剣は街長の顔のすぐ横に鋭く突き立てられる。
「あとすることと言えば、お前を脅してこのまま退散するだけだ」
「こ、こんなことが許されると思うな!」
「許す許されないの問題じゃないんだ。言っただろ、前後の十分間はロジックは止まり、記憶は吹き飛ぶって。俺はしっかりと時間を把握している。今、あと五分以内にノックすればお前のロジックには俺の記憶は残らない。それでも体はされたことを憶えているだろうから俺を見れば恐怖を抱かずにはいられないだろうな。でも、喜べよ。目覚めたお前が最初に思い出すのは、担当者三人との甘い一時だ。実際は、これっぽっちも甘くはなかったわけだが。あとな、街長? お前を残さない方法だって俺は選べるってことを忘れていないか?」
「へ?」
「お前を抱えてここを出ることぐらい難しくない。次に意識を戻したとき、一体お前はどこにいると思う? 世の中にはヤバい連中がいる。臓器売買、人身売買……お前みたいな年齢層の男を求める奴隷商人もいる。場合によっては男娼にしても良い値段で仕事をすることになる。貴族連中の遊びで、性犯罪者に重犯罪者で捕まったお前ぐらいの年齢の男たちを集めての去勢大会なんていう凄まじいものも俺は目にしてきた。どうだ? どの結末がいい?」
凄まじく人の尊厳を否定するようなことばかりを並べ立てて、街長は完全に参ってしまっている。
「お前、これが初犯じゃないよな? 俺の手元に集まっている証拠には、お前が去勢されても誰も文句を言わないようなものまであったりするんだが……やっぱり、死ぬか?」
「わ、私は……この街のために、選ばれた」
現実逃避だろう。残っている権力に僅かでも縋ろうとしている。
「なぁ、街長さんよぉ? 選挙を実力で勝利できたとでも?」
冷酷に、ギルド長がその残された権力すら奪い取る。
「お前が勝つように仕組んだんだよ。デマ、噂、デモ、スピーチ、賄賂……選挙に関わるあらゆる情報を利用した。さすがに女を利用すりゃお前と同程度まで落ちちまうから娼館では金を払ってお前の評判やお前の痴態について調べる程度にしてやったがな。それにしたって娼館に限らず、お前の評価はどこもかしこも低くてなぁ、票の解釈という切り札まで使わなきゃならなかった」
「票の解釈?」
「どんな名前や、間違った名前を書いていてもそこのおっさんの票になるよう操作することだよ。たとえば『こんにちは』って書いてあってもそこのおっさんの票ってことだ」
ヘイロンが言ったことが真実なら、裏からシンギングリンの全てをギルド長は握っていることになる。
「お前を選んだのは、使えない有能より使える無能を必要としたからだ。有能な奴らは隙がなく、どいつもこいつも取り入ることすらできやしない。だがお前みたいな無能がいれば、幾分か制御が利く。隙だらけのおかげで綻びも証拠も手中に収めて、従っているフリをすれば良い気になって帰ってくれる。こんな便利な無能は、大切に使い切って捨てるんだよ」
「許して……許し、て」
「許してください、だろう?」
「許してください!」
瞬間、ギルド長の裏拳が街長との間にあった空間を叩いた。街長は口を開けたまま、一言も発さず固まって動かなくなった。
「帰るか」
ギルド長はヘイロンが開けた窓へと向かう。
「ああ、そうだ。今日の出来事は口外するな。ロジックの干渉の仕方については教えてもいいが、間違ってもここで服を脱いだなんて言うなよ」
「なんだい? ギルド長にも怖れるものがあるっていうのかい?」
「冒険者連中にバレたら総出で首を取られるだろう。担当者はそれほど信頼され、大事にされているものだからな。特にリスティーナについては厄介だ。『異端』もだが、なによりお前の友人である『緑角』のエルヴァージュの耳に届いたらさすがにマズい。軍隊を動かされちゃたまったものではないからな」
「確かにその二人は要注意だけどねぇ、私はお前以上の男を他に知らないのさ。だから、お前のやることに付き合うのはやめられない」
語ったことは真実なのだろうか。街長に語った技能や選挙の裏で行われた活動。そのどれもこれもが真実であったなら、ギルド長はいつだって誰かを切り捨てられる立場にある。逆らえば死ぬ。敵に回せば、やはり命も人間としての尊厳も失われる。
「どこまで信じたかしらないが、俺に本当にそこまでの力があると思うか?」
思い悩むリスティを見て、ギルド長はポツリと言い残し、窓の外へと飛び降りた。
語ったことを嘘かどうか見抜けない。どんな人間も幼少期から真っ当に育てば、まず最初に人の言うことを信じるようになる。そこから嘘や裏切りを経て、上辺だけなのか本心なのかを見極める力を付けていく。人の言うことや判断を怪しむようになるのは何事も経験がなければ起こらない。
だからリスティには見破れない。何故なら、幼少期から真っ当に育ってきたから。身に付けた経験だけではギルド長の話がどこまで事実でどこまでが嘘かの基準を得られない。
もしもそれを見破れる者がいるとするならば、それは幼少期から嘘と裏切りに遭い、そして自身も嘘と裏切りを繰り返すことでしか生きられなかった期間を経た者だけである。




