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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第0章 -Prologue-】
2/705

1-1

――子供から少年になった。同時に、平穏の終わりが訪れた。


 赤ん坊が意識というものを得た時、何故、自分はこのような姿をしているのだろうと困惑し、大きく泣き叫んだ。母親でもない女性が唐突に上着を脱ぎ、乳房を出すと自身へとそれを近付けて来る。生物的欲求か、はたまた本能なのか。ワケの分からないままに赤ん坊は腹を満たすために口に含める。

 思考は未だ混乱を続けているが、赤ん坊という自らの体はやはり己の思い通りには行かず、母親でもない女性が唄う子守歌でゆっくりと眠りへと誘われる。

 しかし、その言葉は、その音色は、その音調はこれまで一度も耳にしたことのない言葉で満ち溢れていた。女性が口にする言葉に一体どのような意味が込められているのか、なにを伝えようとしているのか、どのように語り掛けて来ているのか、それは全く分からない。


 これは夢なのだろう。赤ん坊に宿る意思はそう思い、訪れる睡魔に自らを委ねた。夢ならばすぐに覚めるであろう。覚めなければ悪夢であるが、覚めたならば夢としては心地良いだけでなく、役得だったなと思える。そんな調子の良いことを考えながら――


 しかし、次に目を覚ましても己の体は赤ん坊のままだった。母親でもない女性がなにやら話し掛けて来ている。しかしその言葉が分からない。父親でもない男性が女性と声を交わし、そして笑顔を作っている。けれど、その笑顔は一体どのような会話で出来上がった物なのか、己には分からない。

 赤ん坊に宿った意思はここでようやく、言語が違うのではと思う。ならばどうして言語が違うのか。考えられる限りの、自身が知っている言語を脳内で並べ立てる。日本語は十全に理解している。英語は習った程度しか知らない。中国語は挨拶程度。フランス語、ロシア語、イタリア語。そのどれかなのか、それともどれでもない自身がまるで知らない発音の言語であるのか。


 分かる情報だけを掻き集める。揺りかごに入れられた赤ん坊の体は思い通りには動けない。首を少しばかり右に、左に振って室内を眺める。石造りの家、木材加工で作られたテーブル。陶器で間違い無い皿の数々。しかし、どこにも日本然としたものは見当たらない。言語がまず日本語でないのだから当然だ。しかし、僅かばかりの、ほんの一握りの、それこそ一縷の望みとして「日本であって欲しい」という気持ちが、そんな悠長な思考へと至らせた。


 赤ん坊に宿った意思は、海外を知らない。海外の有名な建築物であれば数えるほどに記憶に薄っすらとばかりあるのだが、その構造や建築過程、更には内部までしっかりとその目で焼き付けた経験は無いのだ。


 結論付けるならば、ここがどこであるかは分からなかった。そもそも考えることが非常に難しい。思考には常に靄が掛かったように邪魔が入る。思い出すことはさして難しくはないのだが、考えれば考えるほどに疲労が溜まって行くのを感じる。

 まさか本当に赤ん坊になったわけではないだろ。

 そう自身に問い掛けるも、正しい答えが心の奥から湧き上がって来るようなこともなく、再び訪れる睡魔に意識がさらわれて行く。


 次に目を覚ました時は、絶望だった。

 夜。眠りに就いている女性と男性。その横で目覚めた赤ん坊の意思には、なにやらチラチラと輝く軌跡や、鮮やかな光がパラパラと辺り一帯を包み込んでいて、おおよそこの世の物では無いなにかが見えていた。これが幽霊や怪現象と呼ばれる類なのだろうか。

 そう思い、恐怖したわけでもなく戦慄したわけではない。ただ思っただけだ。思っただけで、自身の冷静な思考とは真逆に、口からは声にもならない声が出て、目からは涙が零れ出す。又、泣いた。何故、泣いているのか分からないままに泣き叫んでいる。自分の体が自分の体では無いような、もうなにがなんだか分からなくなって来る。


 そんな己を、母親でもない女性は優しく包み込み、頭を撫でる。何故だか分からないが、その手の温もりには安心感があり、漠然とした安心感が与えられた。


 別にこれが初めてではない。これが最初ではない。体が、赤ん坊の体がそう自身に伝えて来る。これまでも――これ以前も己は泣いたことがあった、女性に抱かれ笑顔を見せたこともあれば、お腹が空いたこともある。そのどれもこれも、意思としては初めてに感じているのに体はしっかりと覚えている。


 だから、よけいに混乱する。ならばどうして、この女性を知らないのだと。この男性を知らないのだ、と。


 しかし、それよりもとにかく泣き止んだ己の体は眠りを求めている。泣くことに力を使い果たして、眠りに落ちるとは随分と贅沢な生き方だ。そんな風に思いつつ、意識は再び落ちた。


 異なる世界だろう。そのように思い始めたのは赤ん坊として生活し始めて一週間が経過してからだ。恐らくは己の両親――ただし己が知る両親とは似ても似つかないのだが、これまでの生活を思い返せば、己という意思を宿した、この赤ん坊の産みの親であることは明確だ。そして二人はよく分からない言語を用いる。世界中の言語を知っているわけではないのだが、異世界と決め付けてしまえば、それはそれで構わない。いずれ、それがどこの言語であるか分かる時が来る。だが、分からないままかも知れない。そういった時に心の平穏を維持するためには、ある程度の覚悟は必要になるに違いない。


 しかしながら、どうして己はこの産みの親とは別の両親の記憶があるのか。


 俗に言う生まれ変わりというものではないだろうか。推察に過ぎないのだが、どこかで赤ん坊の前の自分は死んだ。そして己という意思は別の生命へと移った。そう考えるのが一番、都合が良い。少なくとも、考え過ぎて頭がおかしくなりそうな自己を繋ぎ止める程度には、気が楽なのだ。


 都合が良いと言えば、生まれ変わりの概念についても赤ん坊に宿る意思は都合が良いように考えていた。死ねば、恐らくは死んだ瞬間からの、どこかとは限らずとも同じ時代のどこかの生命へと移るのだろうと思っていたのだ。実体験からして、どうやらその限りでは無いらしい。同じ時代どころか、世界すらも飛び越えてしまった。そう思うのは、この家での生活がどこか西洋風でありながら、現代西洋とは程遠いこと。不便性がありつつも、しかしその不便を不便と認識せず、そういうものなのだと信じて疑わない生活。便利な物は確かにあるが、どこか前時代的、場合によっては更に以前の時代的にしか見えない。あくまでも、赤ん坊として見える範囲に限られるのだが。


 ビニール袋は見えない。ならばそれに連なる諸々の店舗は存在しないはずだ。産みの親が購入して持ち帰って来る時に手にしているのは簡素な紙袋であるから、食べ物を売る店舗や、生活を送るのに必要最低限な店はあるのかも知れない。


 そうやって赤ん坊としての生活を送りながら、観察すること更に一ヶ月。赤ん坊としての生き方も板について来た。意識と体が統一を始めたのかも知れない。つまり、今までがあまりにも釣り合いが取れていなかった。だからこそ混乱は酷いものであったし、体もまた言うことを利いてはくれなかった。今では赤ん坊として動ける最大限を知り、赤ん坊として動けない最低限を知っているため、暮らす上ではなんの苦も無い。


 だが、記憶ばかりはその限りではない。赤ん坊として生きることに慣れてしまったが故に、記憶はより鮮明に頭の中を飛び交う。赤ん坊ではなかった自分、普通に暮らしていた自分、決して裕福とは言い切れないが、それでも平々凡々な家庭で育ち、環境に生きていた自分。それらは怒涛の如く押し寄せて、赤ん坊の自己を押し流そうとする。その度に泣き喚き、産みの親を困らせる。それが非常に申し訳なく思う。


 半年が経って、自己意識は達観した物となる。即ち、受け入れた。この赤ん坊としての自分を、そしてこの生活を、この世界を。


 そうなってしまえば月日が、歳月の経過は早い。赤ん坊から、歩ける子供になった。その頃には言語の特徴を掴み、更にはどういった時にどのようなフレーズの言葉が使われるのかを知り、その言葉にどのような意味が込められているのかを理解し、産みの親の模倣を始めた。そうして、気付けば話すことが出来るようになった頃、生まれ変わる前の記憶が色褪せて行く。死んだ時の年齢は定かではないが、あの世界では高校生ほどだった。そこに加えて、産みの親が語るにおよそ十歳。精神年齢としては二十歳後半に至るのかも知れないが、一から始まったせいなのかその精神年齢という言葉に深い疑問を感じずにはいられなくなる。


 赤ん坊の頃に抱いていた違和感。どうしようもない、“過去”の記憶。それらは全て、逆に“夢だったのではないか”。子供として生活をすればするほどに、そう思うようになって行く。死んだと思っていた自分自身は、ただの赤ん坊が見た“悪い夢”に過ぎなく、こちらが元々の自分自身だった。夜に眠る前に、記憶を整理するのだがやはりその可能性が高いように思えて来てしまう。だが、その割には頭がよく回る。周囲の子供に比べて、圧倒的にやれることも話すことも多い。逆に出来ないこともあった。産みの親に素直に甘えるということだ。分かってはいるのだが、どうしても記憶が混濁し、素直には抱き付くことが出来なかったし、素直に遊ぶことも出来はしなかった。


 それを後悔するようになったのは、十二歳になった頃だった。


 子供から少年になった。同時に、平穏の終わりが訪れた。

 産みの親が、この世界の母親が、父親が誰とも分からぬ何者かに拘束された。自分も大人の力に敵うわけもなく、捕まった。その後、両親から切り離されて三日ほどが経った。


 両親は裁判に掛けられ、有罪となった。罪状はなにかは分からない。なにせ少年ですら、両親が一体どのような悪いことをしたのか皆目見当も付かなかった。それは暴力的で攻撃的で、それでいて無茶苦茶だった。そんななにもかもが理不尽な裁判に少年も掛けられる。どのように弁明したかは憶えていない。とにかく少年もまた有罪となった。


 そしてまず、少年の刑が執行される。両親には死刑が言い渡されていたが、少年は違った。


 歪みの穴だ。さながら栓を抜いた水桶の如く渦巻いて、空気だけでなくあらゆる物を吸い込むような、そんな暗くて深い、どこに繋がるとも知れない穴の上に少年は立たされた。「両親が死ぬところを見ずに済むのはせめてもの温情だ」。そんな、少年の中に怒りと殺意が宿るような一言を発して、背中を突き飛ばされる。


 少年は堕ちた。二度と父母の温かみを知らないところへ。


 はるか彼方の、異界へ――

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