緑角
【杖】
魔法を扱う者が手にする武器。詠唱中の魔力の蓄積をサポートするだけでなく、行き場のない魔力をどこに向けて放つかの指針でもある。杖を向けた先に狙いを定めることができるため、魔法が暴発することを防ぐことができる。しかしながら、高いところまで登りつめた魔法職は目測で放つ位置、座標を示せるため、必須というわけではない。
各々が連想する魔法のイメージを具現化しやすいようにするため材質と形状が変わる。
アベリアは憧憬の人物と同様の一般的な木製の杖。
ヴェインは前衛に出ても攻撃に転じられることと、空気の振動を求めるため、地面を打つ鉄棍。
クルタニカは風を切る動作を入れるため、先端は鋭く、そして小さな金属製の刃が付いている。
アニマートは杖で打ち砕くことも含め、先端は戦鎚状になり、合わせて持ち手は細い。
アイシャは祈りの水によって清められた純白の布を巻き付けた木製の杖。
結局、クラリエの「身をもって知った」相手を探ることはできず、逆にこちらの感情を探られてしまった。彼女の問い掛けに対して自分自身がどのような表情をしたのかは分からない。見ていたクラリエも教えてはくれなかった。教えてくれなかった理由でさえも語ってはくれなかった。
意地悪をされている、と思ってしまいそうになったが、恐らくはアレウスが自覚してはならないことだからこそ口にしなかったのだろう。だからこそ、それより前の意地悪と断言できること――「スケベ」だのなんだのと言ってきた一連の会話ばかりが頭に残る。
「ヴェインもクラリエも、僕をからかいすぎなんだよ」
「だって、からかいやすいから。あたしは当然だけど、ヴェイン君も年上だから思わずからかっちゃうのかもねぇ」
「だからってからかう内容が下品なのはどうなんだろうか」
「大人になると愚痴と誰かの悪口と下品な話がほとんどになるから覚悟しておいて」
「覚悟できないんですけど」
嫌なことを聞いてしまった。彼女の言うことが正しければ、アレウスは今後もこの手の話で笑いものにされるのだ。それはさすがに看過できない。いっそのこと、自身の妙に潔癖なところを捨て去って、俗にまみれてしまった方が楽なのかもしれない。
「ちょっとちょっと、純情すぎだって。こっちは深く悩まれると逆に困るんだから。あくまでからかっているだけで、本気でそう思っているわけじゃないから」
「そういうものなのか?」
「大抵のことがそうだけど、境界線を越えたら面白くもなんともないじゃん? だから、深く考えないでほしい」
「……じゃぁ、深く考えかけていることを気にかけてくれ」
「あ……あー、そっか。なるほど、そっか……そうだよねぇ」
納得できるなにかを感じ取ったらしい。
究極的に言ってしまえば、からかいの上限は嫌がっていることに気付けるか気付けないか。過度に達すればそれはからかいではなく、ただ単に言葉で相手を傷付けているだけになる。ただし、一般的な教養が無ければ気付きもない。
「ならヴェイン君にも今度会ったら釘を刺しておこうかな」
「助かる」
クラリエに教養があれば、ヴェインにだって当然だがある。そして気付いてくれればアレウスへの妙なからかいはなくなる。その気付きを手伝ってくれるのならありがたいことこの上ない。
「随分と歩かせちゃったね。大丈夫だった?」
歩かせるもなにも、クラリエに付いて行ったのはアレウス自身の意思であるため、そのように不安がられる筋合いはない。
「今日はまぁ……実質、休日みたいなものだから」
だが唐突に昨日のことをふと思い出し、言いようのない悪寒と吐き気が首をもたげる。現実は、妄想との間に境界があるように言われやすい。しかし実際は、現実と現実の間に境界がある。苦しいことのあとに楽しみがあるように、逆に楽しみのあとに苦しみがあるように。仕事、趣味、余暇、その他諸々の区切りがまさにそれだ。クラリエとの話が一区切りしたからこそ、どうにか維持していた境界線を、目を背けていた別の現実に押し潰そうとしているのだ。特に楽しいことを終えたあとにやって来るものは、思った以上に心へ強く負荷を掛けてくる。
「人を殺すことの重みって、伝わらないんだよね。だって、そもそも人を殺すことなんて人生で一度だって起こらないんだから」
「気を遣われても困る」
「ううん、気を遣っているんじゃないよ。あたしも、トドメを刺した一人だし……アレウス君だけが殺人の重みを抱えているんじゃないことを知ってほしいかなって」
背負ったのはアレウスだけではない。にも関わらず、さながら一人で全てをやり、一人で無神経に落ち込んでいる様を見て、クラリエは態度ではなく言葉で示された。
「完全に忘れてた……御免」
「やっぱり」
気を回す余裕がなかったのもあるが、それにしても最後の最後で手を貸してくれたクラリエの心労を考えられないのはアレウスらしくない。
「一人で全部やった気でいて、一人で勝手に泣いて、一人で勝手に背負った気でいた」
「あたしもエルフにしてはまだまだ幼いけど、ヒューマンにしては長生きしている中で、人を殺すことは本当に……これで二度目なんだから」
「一度はあったんだ?」
「生きるために仕方なく殺さなきゃならなかった。食糧云々じゃなくて、あたしの人権そのものを脅かすようなことがあったから」
ハーエルフの時点で彼女のアイデンティティの大半は脅かされる事態になったのだから、そこに付け入って悪さをしようとした人がいたのなら、相応の報いを受けて当然だろう。
「正しい殺意の使い方だと僕は思うよ。悔い改めることがなかったのなら問題だっただろうけど、その言い方だと懺悔は済ませているんだろうし」
「懺悔は済ませても、法律においては罪が許されるわけじゃないからね。あたしが殺めてしまった人の血縁者に見つかったら、あたしは捕まるし、裁判にだってかけられる」
「そのリスクを承知の上で、それでも自分自身を守らなきゃならなかったんだろ?」
「そうしていなきゃ、きっとあたしはここにはいないからね」
先ほどもだが、クラリエはあまり自身の辛さを表に出さない。異界では溜め込んでいたものが爆発しただけで、彼女は元々、辛いことや悲しいことは蓄えてしまうタイプなのだろう。そこに甘えていいものなのかとも思うが、彼女自身から更に強いなにかが吐き出されることがない限りは詮索するのは気が引けてしまう。
「暗い話はこれくらいにしよっか」
やはり詮索を嫌ってか、クラリエは話題を切った。
「さっきの話の通りだと、アベリアちゃんは今日も水汲み?」
「いや、多分だけど浄化作業に行ってる」
「アレウス君に黙って?」
「言わなくても僕なら、どこに行ったか分かると思われてる」
予測で物を言い、その結果、アテが外れたことで大慌てになりながら探し回るところまでは経験している。それでもアベリアは素直に家で待機はしてくれない。束縛するつもりはないが、せめて書き置きぐらいは残してもらいたい。そう進言しても、彼女が今までそれを残したことがないため、今日もきっと家にはそんなものは置いてくれていないだろう。
アベリアはアレウスに心配してもらって探しに来てもらいたいのだ。そんな根幹部分での心境の変化がない限り、彼女は平穏な日常の中ではアレウスをヤキモキさせてくるに違いない。それが冒険者稼業にまで影響しないか気が気ではない。それでも現状、痕跡を残すことや痕跡から行き先を探ることは徹底しているようなので、口を酸っぱくして言うこともできない。
「信頼されているのは良いことだよ。あたしだって、アレウス君の言うことには疑問がないときは従っておけって思うし」
「心配させることで信頼を確かめられても困るんだよ」
「まぁ……それは、なんとなく分からなくもない」
若干ながら、同情されてしまった。
ともれ、アレウスもクラリエも吐き出したいことは吐き出し切ったので、行くアテもない街中の散歩は終わりにし、帰宅の途のついた。
「浄化が終われば、しばらくお休みだっけ?」
「クラリエも担当者から聞いた?」
「うん。アレウス君ほどじゃないけどあたしも根を詰めすぎていたところがあるから、パーティ全体で休暇が入るならあたしもしっかり休むべきだってさ」
「これまでも何度か休暇はあったのか?」
「あったにはあったけど、ギルド側から諭される感じで言われたのは初めてかな。一人で活動していた頃は、自分が休みだと思えば休みで許されるけど、パーティだとそういうの無理な感じになるでしょ?」
ヴェインは月に何回かは実家に帰っているのだが、それはアレウスが認めたから成立している条件だ。戦士から僧侶になったのは臆病者だからと言っていたが、ひょっとしたら固定のパーティと組む段階でその条件がネックになってしまったところはあったのかもしれない。
「休めればいいけどな」
「ホントにね。あたしは責任感とか義務感とか、そういうの薄いはずだったのに……なんか最近は、入れ込みすぎているところがある気がする」
「そうやって客観的に自分を見つめられるのは羨ましい。僕はずっと、休めそうにない感じだから」
どこで休みのスイッチが入るのかが分からない。
「休む間があったら鍛錬に励め。それが冒険者として最低限やるべきことだ」
投げかけられた言葉に対し、声の主へと振り向いたまでは良かったが反射的にアレウスは睨み付けてしまう。
「上から目線で、」
「駄目」
売り言葉に買い言葉で行こうと思ったアレウスをクラリエが止める。
「よく見て。帝国騎士に緑角の記章。絶対に関わっちゃ駄目な相手」
帝国騎士団は動物の角の記章を付けることで有名なのだが、『緑』は特別な意味を持つ。それはエルフが色に持つ『意味』と同様に、帝国内では当然のようにまかり通っている常識だ。
冒険者から軍人になった者。その中でも騎士の位を与えられた者が、緑角を記章を身に付けることが許される。
「なら、あんたがエルヴァージュ・セルストーか」
噂では聞いている名を、アレウスは男に向けて言葉にした。




