人間らしさ
特別なことはなにもしていない。アレウスはただ導線に従っただけだ。問題となったのは、人を殺すこと――子供を殺すことの覚悟を持てたかどうかが重要な点となるが、そこさえ乗り越えればクラリエのように追撃すら容易い。それほどまでに充分なお膳立てをしてもらった。だからこそ、自分自身に求められていた仕事はしっかりとやり遂げたはずだ。
この手応えをアレウスは野生動物を殺す際によく知っている。魔物を倒すのとはわけが違う。命を奪うとはどれほど図々しく、禍々しいものか。そして同時に、命の尊さや気高さを知る。相手は魔人ではあったが、伝わってくる手応えはそれとほとんど変わらない。ただし、胸の中に込み上げてくるのは野生動物の命を奪うよりもずっとドロドロとした気持ちの悪さや強烈な罪悪感、そして吐き気である。
殺人は狂気の沙汰である。人間性を持っていてできる者は存在しない。だからこそ、狂気に身を任せていた分だけ理性が戻れば戻るほどに感情が戸惑いを起こす。喜怒哀楽の境が曖昧になり、アレウス自身ですらも感情のコントロールができなくなる。自分は今、どんな風に感情を表に出しているのかさえ分からない。笑っているのか悲しんでいるのか、表情を司る筋肉から送られてくるものはどれもこれもハッキリとしない。
『まさか、カールとさほど変わらない人間の子供に殺されるとは……冒険者とはかくも怖ろしき、人外か』
「……まだ生きているのか」
『当たり前だ。人間モドキと悪魔だぞ? “共振”していない人間モドキに俺の命が取れるわけがない。最後の喉元への刃はいささか、俺にも痛みを伴うものがあったが、俺を消し去るほどの力ではない』
「……はっ、だから“永遠足り得ぬ風の守護”か。異常震域によって放たれる風圧が守るのはお前自身であって、僕が心臓を刺した肉体ではない。どれほどの風圧で守ろうとも“共振”していない者には乗っ取った肉体への接近を許してしまう」
足り得ぬとは、足り得ることもあれば足り得ないこともある。悪魔は自らを守るために異常震域に特異的な力を纏わせていたが、それらは全て自衛であって奪い取った肉体を守るものではない。カールの肉体を狙ってアベリアたちが魔法や攻撃を仕掛けた際に、どれもこれも風圧が弾いていたが、それは悪魔が自分にも影響を及ぼす攻撃を阻止していただけだ。祓魔の術が悪魔に有効であるのなら、同様の理屈で魔法やそれに近しい攻撃は通用する。眷族の二人が“共振”しての打撃格闘術を喰らわせていたが、それらが通常の人間であれば気絶や重傷に至るものばかりでありながら、フラつくだけ、たじろぐだけで留まっていたのは打撃の全てを“永遠足り得ぬ風の守護”という名の風圧で返していたためだろう。
よって、アレウスは単純に人間の心臓を貫いただけだ。クラリエの短刀は魔法で作り出したものであったため、多少のダメージを通すことにはなったようだが、悪魔自体を仕留めることはできていない。
しかしそれらは“共振”していないからこそできたことだ。悪魔の異常震域と“共振”していれば“永遠足り得ぬ風の守護”でアレウスの一撃は心臓に届かず、風圧によって突き返されていただろう。
『ただ人間の子供を殺しただけで俺を討った気になるなど、人間はつくづく傲慢だな。だからこそ囁きが通るわけだが、時折、その様はあまりにも醜い』
「なに、浮かれているんだよ? 勝った気でいるのはお前の方じゃないか」
アレウスは重量軽減の魔法が解けたことによる負荷によって足がガクついて、泥沼に体の半分が沈む。
「僕には見えていないけど、僕じゃない人にお前は見えているんだぞ?」
「「“審判の制約”」」
どこからともなく降ってきた光の鎗が中空でなにかに接触後、泥沼の縁の地面に突き立つ。続いて地面から幾本もの光の鎗が突き出し、対象をその場に束縛する。
『まさかっ……!! 俺を追い出すためだけに殺したというのか?!』
口にすることすら面倒になったアレウスは、自身と同じく泥沼に沈んでいってしまいそうなカールの死体を支えつつ、心の中だけで言うだけに留め、悪魔には言葉を投げかけはしなかった。
「記憶違いでも起こしているのかもしれないが」
「我らが殺せなかったのは貴様が人の身に宿っていたから」
「魔人ではなく貴様だけになったのであれば」
「「討たない理由はない」」
二人が互いの手を重ね、魔力を束ねる。天より降り注ぐ光の柱は、光の鎗によって束縛された悪魔を白日の下に晒す。
穢れに満ち、緑ではなくどんよりとした風を纏い、黒く染まった翼を必死に動かそうとしている大きなカラスのような、しかしながら三つ目という明らかに生物として則していない一面を持つ悪魔は悲鳴にもにた鳴き声を放つ。
「「“罪滅星”」」
二人の視線のやや前方から生まれ出た光球は、一度目に比べれば非常にゆっくりとした速度で悪魔へと向かっていく。それは悪魔への最終通告にして最期の審判である。一瞬にして消し去るのではなく、悪行の数々を省みる猶予を与え、だが決して罰が下されないわけではなく、着実に迫る存在の抹消に悪魔がどのように足掻くかを見るための時間にすら思えた。
人は生き様を抱えている。人生を歩く。そして、平等ではないがその先に待っているのは死である。産まれた瞬間から、または生きていると実感したその時から、人は死へと向かって歩くのだ。悪魔は概念のような存在であって、決して死に向かうことはない。不老にも不死にも遠い存在であるために、人の手によってでしか滅ぼせず、消し去れない。
人は死を怖れることもでき、尊ぶこともできる。己の存在が消えることに怯え、だから生きることの大切さを理解する。悪魔は間近にあるようでない死を感じながら生きる人種ではない。
ならば、悪魔は今ほどに死を感じることもないのだろう。一度も感じたことのない死への恐怖をその身で味わうとすれば、それは人が必死に耐え忍ぶこと以上の強い強い精神的負荷となる。よって、悪魔が発するのは嘲笑ではなく死という絶望に対する絶叫である。それはもはや獣の叫びにも近い。絶対的な死を前にして口から出てくるのは、どのような存在であれ変わらないのだと再認識させられる。だが、悪魔がやったことを考えれば、同情はできない。絶叫はもはや耳障りにすら思えた。
光球は苛烈に弾け、夜空で輝く星々ように閃光を迸らせ、連続的に続くそれらの発光が終わる頃には悪魔の声は聞こえなくなっていた。
黒いカラスにも似た悪魔は祓魔の光を浴び続けて石化し、彫刻のように微動だにしない。眷族の一人がそこに鉄拳を打ち込み、伝わる衝撃によって砕け、砂のように散り散りになった。
「アレウス君」
力の入らない体をクラリエに起こしてもらい、更に肩を貸してもらってアレウスは彼女と共に泥沼から抜け出る。
「この“沼”ってずっとこのままなの?」
「アベリアが魔力を切ったあと、半日ぐらいで普通に歩けるようになる。さすがに草木まで元通りってわけにはいかないけど」
「へー、それなら良かった。折角、あく――あれを退治したのに沼が残っちゃったら人の往来の邪魔しちゃうかもだし」
まだ『悪魔』と口に出すのを避けている。眷族の二人が確かに祓ったようには見えたが念には念を入れてのことだろう。これで祓魔の術を受けたのがまた分身だったなんて展開にならないとは言い切れない。
「魔力の流れについてだが」
「ああ、そういやスティンガーに頼んでいたな」
ガラハが妖精を連れてやってくる。
「今更だが、分身とヒューマンの肉体には確かに魔力の流れがあった」
その繋がりがあったからこそ、分身とカールの肉体に宿っていた悪魔は感覚の共有ができており、更には同時性を保てていたのだ。
「確かに今更だな」
「だが、もう一つ流れがあったらしい」
「どういうことだ?」
「あれには別の誰かと、まだ繋がっていた。スティンガーが言うには、もうその魔力の繋がりも流れも見えないらしいんだが、気掛かりだろう?」
「あれと契約していた悪魔憑きがまだいたのか、それともあれを使役していた誰かがいたのか。祓われると分かって、繋がりを断ったのか?」
「そういうことだ」
では、悪魔がこの街を襲うように仕向けた何者かがいるのでは、ということになる。
「悪魔は確かに我らが祓った」
眷族の一人が『悪魔』という言葉を用いる。しかし、風刃が彼女の首を刈り取ることはない。どうやら、本当の本当にあの悪魔は祓われたらしい。
「別の誰かと繋がっていた可能性があるみたいなんですが」
「そちらの心配は無用でしょう」
「そういった後始末は我らの仕事の外となる」
「……だから見逃せと?」
それでは、悪魔の犠牲になったかもしれない人、或いは悪魔を仕向けた人を見逃す形となる。
「違う」
「専門外のことにまで手を出せば、足手まといになる」
「それについては、シンギングリンには専門の掃除屋がいる」
「胡坐を掻いてはいるが、悪魔となればしっかり動く」
「逆に言えば、悪魔以外で動かなくなってしまったがゆえに手を焼いている」
「「それでも『鬼哭』は信用に足る『至高』の冒険者だ」」
「『至高』……」
ルーファスから何度か「『至高』で胡坐を掻いている者」については聞いていたが、その冒険者について二人が口にするとは思わなかった。
「殺人の汚名を被るのは正道ではない」
「だが、あなたが――『異端』がいなければ我らは朝日が昇るまで戦い続けていたのも事実」
「殺人についてロジックに刻まれようとも悪魔を祓うために刃を振るったその蛮勇を」
「たとえ、それが正道ではなくとも認めなければならない」
「「今宵は『異端』のおかげで街は救われたと」」
「…………僕がやらなければ、別の誰かがやっていただけです」
こんなことで特別に褒められても嬉しくはない。アレウスでなければ、というものではなかったのだから。
「それでも、一番最初にやろうとしなければ誰もあとには続かない」
「続きたくないからこそ、一番最初に動いた者に誰もが託し、背負わせる」
「それを期待、或いは人任せと呼ぶ」
「期待に胸を膨らませ、人に任せ切りでどうにかなると思っている者が少なからずいるのも、また事実」
「『異端』は期待も人を頼ることもせず、自らの手で切り拓こうとした」
「であれば、多少はその蛮勇に評価を与えなければならない」
「「そして我らはもう一度、あなたの秤を見つめ直さなければならない」」
そう言い残して眷族の二人が街の方へと歩き去っていく。
「凄いよね……いや、なにがってさ。悪魔を祓うために仕方なくやったのに、誰からも評価されずに人殺しって思われるところが、さ」
眷族の二人は理解を示してはくれたが、他の冒険者の目は冷ややかなものだった。中にはアレウスの決断に一定の評価を持った眼差しを向けてくれる者もいたが、大半は声の一つもかけずに、彼らは仕事を全うしたかのように街へと戻っていく。
「褒められたくて冒険者になったわけじゃない」
再びアレウスは自身に言い聞かせる。
「そんなことが聞きたいんじゃない」
駆け寄ってきたアベリアがアレウスに言う。ヴェインとアイシャもなにやらアレウスに求めているような視線を送ってくる。
「言いたいことはそうじゃないでしょ? 私には分かるから」
そう言って、アベリアは両手を広げてみせる。しばしその行動がなにを意味するものか分からず、アレウスは呆然としていた。だが、次第に感情の波が戻ってきて、体がガタガタと震えて止まらなくなり、泥まみれの手で顔を覆えば、その手は涙で濡れる。
表情はクシャクシャになり、何度かえずいて、やがて口から嗚咽が漏れ始め、言葉にならない大声で泣く。それを押し込めるようにアレウスはアベリアの胸に抱き止められるように飛び付いて、ただひたすらに泣いた。
人が確かに持っている人間性をアレウスがやっと見せてくれたと、ヴェインは胸を撫で下ろし、アイシャはアレウスの涙に影響を受けて目を潤ませる。クラリエはアレウスとアベリアの関係性にいつかの自分とエウカリスを重ねて懐かしみ、ガラハはスティンガーと共に赤い月が昇っている夜空を眺めていた。




